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記事一覧

DETCH-AGE

長年、世話になっている友人が BLOG で mixi について触れ、珍しくマトモなことを書いているなと感心した。「だったらトラックバックせんかい!ゴララァ」「ブログの意味ネエだろう!」と思われる方も多いだろうが、トラックバックはしない。コメントもしない。その友人はインターネットを通した友人ではないので、必要があれば直接話せば良く、どうしてもネットを使えというのならメールでも話せる。我々のやりとりをデメリット覚悟でわざわざ世界中に BLOG で公開する必要などないのだ。私もパソコン通信を始めた頃は「ネットワークは人間社会を変える」と思い込み、その限りない可能性をいったんは信じたものだが、ほどなくそれは幻想であることを思い知らされた。ニフティ・サーブには、「プログレ隔離室」というプログレッシブ・ロックを語る会議室があったのだが、そこには多くの有意義な発言があった一方で、誹謗中傷など読んでいて淋しくなるような発言もかなり多かった。ネットワークに理想郷などはなく、結局はドロドロとした人間社会があることをいきなり思い知らされた。その後、インターネットの時代となり、1997年には私も DECTH-UP SUQARE なる WebSite を公開した。キャッチフレーズは「高度情報化社会をでっちあげよう」。実はもうその時点でネットワークになんざたいした期待をしていなかった。私が持っていて整理できてる情報の中で、タダで人にあげても良い情報を選んで「でっちあげた」から、 DECTH-UP SQUARE 。・・・ところが、インターネットや個人ホームページがまだ珍しかったためか、真面目にコンタクトを求める方が現れ、いい加減なことをしている私の方が恐縮してしまうようなこともあった。実名で書き込みしてきた方が現れた時は本当に慌てた。そういう方には真摯に応対したつもりだが、もともと動機がテキトーなので、やがてそういう方も訪れなくなった。それで良いのだ。このブログも同じ、自分の考えを自分のためにまとめているだけ。トラックバックやコメントを禁止していないのは、良心的な書き込みならば、ボランティアの範囲で応対しても良いから。私がタダで出した情報をアカの他人が利用してもらう分には一向に構わないのだ。ギブ&テイクの原則はパソコン通信の時代から言われていたことだが、私自身インターネットの個人サイトから多くの情報を得て、それを利用したり楽しんでいる。それに対する感謝の気持ちを込めて、自分の出せる情報を「でっちあげて」いるに過ぎない。だから、昔から私にとって本当にオイシイ情報は公開していなかったりもする。(笑) ・・・そんなところに人間関係は生まれるだろうか? 云うまでもなく答えは「否」だ。そんなことで人間関係が築けたら人生に苦労はない。それはそれほど重要でない情報のギブ&テイクだから成立してるだけの関係。そこを勘違いしてはならない。mixi は会員制により、責任を伴うやりとりと可能とするネットワークと聞く。ま、匿名よりは安全度は高いとは思うが、匿名であろうが実名であろうが、画面の向こうにいるのは「生身の人間」。欲もあれば感情もある。それを忘れないことが肝要だ。ネットに書かれていることなんざ「でっちあげ」くらいに思っていた方がちょうど良い。

NO MUSIC, NO LIFE

36f0eb59.jpg米国タワーレコードで働いていた人や東芝EMIの社員であった人々には申し訳ないが、昨今は無料で聴きたい音楽が楽しめる良い時代になった。こんなことを書くと「通報」されるかな?(笑) 断っておくが、私は基本的にパッケージメディアを購入する人間だ。レコードは文化だと思っているし、再販価格制度にも賛成。古今東西、食うに困らない文化というのは為政者による手厚い保護がないと花開かないものであって、一定の保護はあってしかるべきだと考えている。自宅には今まで購入した2000枚を超えるCDやレコードが鎮座ましましてもいる。しかし、この10年、国内盤CDを購入する機会が極端に減った。最大の理由は「購入したいCDが売られていない」から。無いものは買えない。いや、この世に無くは無いのだが、日本のレコード会社がCDにしてくれない。マジで欲しいものは海外通販までして購入しているが、手数料が高すぎて限界がある。いまでも日本盤CDがあれば当然そちらを選んでいる。しかし、無いものは買えないのだ。15年ほど前から、日本のレコード会社は私のような良心的な客を軽視するようになった。マニアが好む音楽はたくさんは売れないが確実に販売数が読める。こういうものは再販価格制度が維持できていれば、一応は商売になるはず。ところがレコード会社がバブル期にやったことは、カラオケで歌いやすい歌を作曲家に作らせ、音楽マニアでない一般の人々を対象に大量のCDを買わせてミリオンヒットを連発し利益を増やす戦略。レコード会社みずからが流行音楽は使い捨て消費財、文化ではないと宣言し、再販価格制度が不要な方向に突っ走ってしまったのだ。自由経済は厳しい。音楽マニアでない普通の人々は気まぐれ、流行が変わればCDなど買わなくなる。以前に購入したCDは中古CD店に売り二束三文の金に換える。携帯で同じ音がダウンロードできる時代になれば当然そちらで済ましてしまう。そういう人々にとって音楽とはもともとその程度のものなのだ。近年、慌てたレコード会社は私のような者を対象に、豪華ブックレット付きボックスセットのようなモノを売りつけるようになった。そんなものはいらない。私が欲しいのは、日本のレコード会社が販売権を持っている海外レーベルの全カタログなのだ。その中から必要なものをアルバム単位でCD-Rに焼いて売ってくれたほうが百倍嬉しい。30年ほど前に、なぜレコード文化が隆盛を極めたか? それは流行音楽でしかないはずのジャズやロックがカタログとして聴かれ、それが文化のようになっていたからではないのか。日本の場合、特にそれが顕著で「レンタルレコード」という独自の商売を生んだ。レンタルは有料図書館、正に文化なのだ。ロックやジャズに興味を持つ若者は実は今でも存在する。そういう人々を少しでも増やすべきなのに、レコード会社の対応は「商売にならない」「あいつらは放っておいても買うからOK」というような馬鹿にした対応ばかり。レコード会社社内でもマーケティングのプロのみが重用され、大昔のように音楽好きのプロデューサーが発売作品を検討するような風土は無くなっていると聞く。ここまで来るとレコード会社は音楽愛好家を敵に廻したようなもの。「そんなことはない」とは言わせない。レコード輸入権騒動の際にあなた方のとった態度がすべてを物語っていたと思う。さて、話は変わるが、これだけ流行音楽が好きだと、一切の違法行為なく音楽を聴くことは難しい。好きな音楽がネットに転がっていればついついダウンロードして聴いてしまうのもまたマニア。社会的立場もあるので違法真っ黒なことはしないが、海外のレコード会社がバイラルマーケティングの観点から黙認しているようなもの、ネットラジオや音楽ブログはこれからも積極的に利用いくつもり。そうでなければ、聴きたい音楽を聴く手段が無くなってしまう。 "NO MUSIC, NO LIFE" だあね。(笑)

筋肉脳

テレビ番組制作スタッフによる市民への恫喝事件がネットで話題になっている。この事件、普通に捉え方としては「テレビ何様?」みたいな話なんだと思う。つまり、メディア関係者の特権意識みたいなものに対する批判ってことして話題になっているのだと思うが、原因は案外別なところにあるように私は思う。だいたいメディア関係者の特権意識なんてのは今に始まったことではない。時代を遡れば遡るほど、花形職業ゆえの特権意識も強かった。それが原因ならば過去にはもっと酷い事例が多数あってしかるべきなのだ。ところがそういう話はとんと聞かない。今回の事件の原因、私はつまるところ当該スタッフの社会性の無さとそれを生み出す組織の問題にあると思う。原因はズバリ、テレビ業界の末端に蝕んでいる体育会系的な画一的な組織運営だ。・・・体育関係者に喧嘩を売る気はない。「健全な体には健全な精神が宿る」真摯にスポーツに取り組んだ人々は、いわゆる文武両道、人間として立派な人が多い。体育が悪いわけではもちろんない。しかし、中途半端にスポーツをやった人の中には日本の学生体育が持つ負の体質ばかりを習得してしまった人々が山のように存在する。試合よりもコンパの方が盛り上がるような運動部、運動技能よりも先輩後輩間の盲目的な従属関係が重視されてしまうような体育部・・・から生み出される人材にはロクな奴がいない。日本では昔から人材採用にあたって「厳しい練習と集団生活を経験したスポーツ経験者」を優先する企業が少なくないが、テレビ業界もその例外ではない。スポーツエリートが引退後にテレビの解説者になったり、スポーツで良い成績を残した学生がアナウンサーとして採用されるケースも多いが、まあそうした先端の目立つ部分では優秀な人材も多く問題も少ない。ヤバイのは末端だ。つまり番組制作現場の末端のこと。番組制作の下請け業者。そこでの労働というのはそれこそ体育馬鹿でないと務まらない実態がある。安い給料、尋常でない労働時間、イジメ、恫喝、カツアゲ、軍隊のような集団生活。そこは「高校時代放送部でした」みたいな根性のない文化系ヲタクが馴染めるような職場ではない。昨今そういう人はだいたい就職後すぐに挫折し辞めてしまう。残るのはとりあえず根性のある人材。そこは会社も当然評価する。それは経営者にとってはニートさんあたりよりも百倍マシな人材なのだ。ただ、残った人材が形成するコミュニティがどういうものになるかは想像せぬとも判るだろう。当然、体育会的なナニだ。かつてテレビそのものが発展途上にあり、アイディアは面白ければ何でもあり、視聴者の眼も肥えていない時代には、多様な人材を受け入れる余裕もあるにはあったのだが、テレビの成長が止まり、番組制作手法が定型化してしまった現在では、特に末端の現場では新しいアイディアをもって斬新な番組を創造するかなんてことよりも、低予算と限られた制作時間の中で、如何にテレビ番組的な状況を発生再現させるかが勝負になる。そこに勝負を賭けている?スタッフは、如何にもって状況を作り出せれば決められたパターンに沿って最新のデジタル機材で如何にもっていう形に作ってハイ出来上がりって程度のものを「創造」と勘違いしてしまう。当人達は「創造」してると信じているが、業界的には擦り切れる程にやり尽くされたパターンのひとつでしかないのだ。そんな中で問われるのは悪条件の中で如何に定型的なプロジェクトをやり遂げるかっていう忍耐と根性。こうなるとやはり競技スポーツ経験者は有利だ。(笑) しかし、個性や多様性を語る余裕などない殺伐とした職場から生み出される番組なんてのは、形だけは見事に完成していても、中身のない薄っぺらなものばかり。マトモな大人が真剣に見るようなモノは少ない。それどころか、うわべだけチャリティーや人類愛を謳ったプログラムを作っても、作っている側の殺伐とした状況が、取り繕う手段が難しい生放送ではモロに出てしまう始末。このスタッフ、声がよく出ていたのだ。なるほど競技者としての基本はしっかりしている。(笑)

スターレス高嶋おおいに語る

2a00d4ca.jpg「大人のロック推進計画」を標榜するテレビ東京の音楽エンターテイメント番組「ROCK FUJIYAMA」は、一部で根強い人気があるらしい。ネットを検索するとかなり多くの個人ブログが引っ掛かる。80年代の深夜テレビ番組を彷彿とさせる番組創り手法はやや古臭いが、それが逆に中年オヤジを安心させてくれる。またこの番組には親日家と知られ、日本に住み着き日本語もペラペラになってしまったメガデスの技巧派ギタリスト、マーティ・フリードマンがレギュラー出演している。個人的にはヘヴィメタはあまり好きとは云えないのだが、日本を愛してくれるこのギタリストが気に入り、実はこの番組を時々録画しては見ている。毎回ではなく「時々」というのには理由がある。それは出演するゲストによってはかなり番組がプログレ化するから。(笑) これまでにも大槻ケンジ氏や宇都宮隆氏が出演した際には、クリムゾンやらELPのビデオが流れ、マーティ・フリードマンによるイエスのラウンドアバウトなんぞも聴けたりもした。そして先日8月7日の放送では、ぬわんとあの高嶋兄貴が御出演。高嶋政宏氏といえば拙作WebPageでは9年も前から氏のプログレヲタクぶりを紹介しているが、今回この番組でもプログレヲタクパワーが大炸裂。さすが新桃太郎侍。プログレを語る前に、まずはKISSの72年モノの未開封レア人形メンバー全員分を披瀝、これで同じくKISSの大ファンでグッズ集めにも奔走しているマーティ・フリードマンを完全にックアウト、マーティが涎れを垂らしそうな顔でグッズを見ている姿が笑えるほどに印象的だった。このあたりは芸能一家でお金持ち、育ちの良さも出ているが、大昔も近年も色々とご苦労もあったお宅だから僻むこともないだろう。番組では触れていないが、ROCK FUJIYAMA Web によると、高嶋兄貴は渋谷のNHKでマーティに偶然会った時、「いつもROCK FUJIYAMAを見ています」とロックファンのふりをして握手をしてもらったことも暴露。ただのヲタクではない。これではマーティもかなわない。もう高嶋兄貴の独壇場。番組では緊急特別企画「スターレス高嶋のプログレを語らナイト」なる特別コーナーまで登場。「スターレス高嶋」ってのも凄いが「プログレの条件、1.バ・カ・テ・ク、2.変拍子につぐ変拍子、3.苦痛の中の美メロ」とのフリップを出し、UKやクリムゾンの曲を実際に流しての解説は実に的確。テレビを見ている私にも思わず笑みがこぼれるが、兄貴も終始ニコニコ、もう楽しくってしょうがないってな感じで出演しており実に結構。大人のロックとはこういうものだ。裏話もイロイロ、あのスターレスのシングルは「ドラマの主題歌のB面に無理やりネジ込んだ」とか「最近もシークレットライブでスターレスを演奏した」とか「クリムゾンのラメントをライブでやった」などなど。近年、俳優業の方が本格化し、舞台や映画やドラマで立派な仕事をしているのでロックから離れていたのかと思っていたのだが、どうもその心配はいらなかったようだ。URLは記さないがこの兄貴出演分の ROCK FUJIYAMA は YouTube にも転がっている・・・らしい。また、スターレスを唄っている兄貴のCDシングル「こわれるくらい抱きしめたい」は結構出回っており、BOOK OFF あたりで丹念に探せば100円程度で入手可能。スターレス(冒頭アレンジ違い)の入ったフルCD「ZERO」はややレア。他に2枚CDを出しているがいずれも廃盤。いずれもブリティッシュロック魂に満ちており、彼のロック好きがホンモノであることがよく判る作品。忙しそうなので無理っぽいが、またCDを出して欲しい。今度はぜひUKを。もちろんエディ・ジョブソン役は従兄妹の高嶋ちさ子さん? こりゃスゲエぞお~。(^_^;

ULTRASONIC BATH 1970

c4385463.jpgYouTube でとんでもない映像を見つけた。Karina のプロモフィルム、El baul de los recuerdos " 。Karina のプロモがアップされていること自体驚愕なのだが、その内容が凄い。これ大阪万博じゃねえか? karina は1970年に来日していた。歳がバレてしまうが私は子供の頃、記憶はほとんどないが大阪万博を見ている。このフィルムで karina が入っているのは紛れも無くサンヨー館の人間洗濯機(ウルトラソニックバス)だ。そのデモンストレーションのエロさは、当時の少年達の心に、アメリカ館の月の石、日本館のリニアモーターカー模型とはまた異なった強烈な印象を残したものだった。だから私もよく覚えている。(笑) 最初に映像を見た時は、フィルムの中に外観など万国博会場の外景が一切登場しないこともあって、輸出された人間洗濯機が置かれたどこかの既存の施設でも利用して撮影したのだろうと思っていた。ところが、同じフィルムの中に日本民話「猿カニ合戦」のジオラマも登場する。気になって調べてみればそれは住友童話館の展示ではないかいな。空中を行進する鼓笛隊も、空気が入ると膨らむ巨大な人形も、シンデレラのロポットも童話館の展示物。記憶は定かではないが、私も入場したはずのパビリオンなのだ。Karina は何のために来日したのだろうか。実は愛知万博では印象的な外観で人気を博したスペインは、大阪万博には参加しておらずパビリオンは無かった。期間中、万博ホールや大阪周辺のホールでは各国のミュージシャンによるコンサートが行われていて、メリー・ホプキンやジリオラ・チンクエッティなども来日はしていたのだが、彼女達と比べればカリーナは日本ではまったくの無名(?)。公式に訪れていたとは考え難い。9月の万博終了直後11月に行われた第1回の世界歌謡祭とも関係はなさそうだし、おそらくは、日本のレコード会社でのプロモーションを兼ねた撮影旅行なのかもしれない。80年代に一度引退状態になった頃は、バリ島にいたらしいし、意外な足跡のある人だ。

裸の王様、城を去る

鳴り止まぬ目覚まし時計が止まった。元銀行頭取は元々彼を担ぎ出した立役者だ。すべてを知る氏は98年までの清算を行わなければ破滅することも知っており、民主主義の目覚まし時計をセットした。ところが目覚まし時計は壊れていたのだ。遠くで聞いている分には心地よい響きも耳元で鳴り続ければヤカマシイ。何より目覚まし時計は起床し活動するために使うものであって聞き続けるものではない。スイッチが壊れて修理不能な目覚まし時計は当然お取り替え。彼の功績を称えるならばそれは田舎の既得権益に群がる利益共同体を完膚なきまでに破壊したこと。これは時代の要請であり、彼が改革の先駆者とされた理由でもあったが、彼が居なくとも遠からずその変化は訪れていたと思う。バブル崩壊以降に顕在化した制度疲労は国はもちろんどこの県にもあり、五輪とそれに伴う過大な公共投資が財政を圧迫していた長野県ではそれがいち早く2000年に革命的な変化として表れただけのことなのだ。2002年には国でも小泉内閣が発足し、賎民資本主義者による流血改革が始まったし、今年2006年、最後まで土建屋知事が居座った岐阜県あたりでも目覚まし時計が鳴り始めている。ところが先駆のはずの長野県ではこの6年間目覚まし時計がやかましく鳴り続けているだけで、ロクなリコンストラクトが行われていない。目玉の大きい元国会議員よろしく「小さなこともこつこつと」やっていると云えば聞こえも良いが、実態はNPOがやるようなことを県が直接行い話題を集めているような事業ばかり。全国で唯一、借金を減らした県などと大宣伝も打ってきたが、内実は嘘八百。特別会計分までもを算術式に加えて弾き出したイカサマデータを堂々と出してしまった。借金も減らしたが貯金も大幅に減らしてしまい、差し引きでは逆に借金が増えている有様。メディア操作の腕前だけは超一流なのだ。そんなこともあって遠くで見守る人々は「改革の方向性やよし」と未だに褒め続けているが、身近にいる人間はたまらない。特にヒステリックな目覚まし音を近くで聞かされ続けた県職員が健康を害する者が続出する始末。何故なのか。その内実を最も知っているからだ。何も知らない人々は怠け者の県職員と既得権益に固執する県議会という抵抗勢力が改革を阻止しているからとステレオタイプに信じ込んでいるらしく、彼が負けた今回の選挙結果によって改革が後退するだの利権政治が復活するだのと叫んでいるが、旧体制を担った連中や県民もそこまで馬鹿ではない。そんなものは6年前の政治状況なのだ。いまどき無駄な公共事業で食えると思っている土建業者などいない。業態転換までして必死に生き残ろうとしている業者も少なくない。時代は変わり、誰もが変わった時代の中で如何に生きていくかと考えている。革命家は用が済めば惨殺されるか失脚するのが歴史の常。破壊と創造を同時に成功させた政治家は少ない。自分が変えた状況に自分自身がついて行けなくなってしまうからだ。有能なブレーンとけんか別れを繰り返し、裸の王様になってしまうような人にこれ以上の期待するのには無理がある。成功事例とされる3セクしなの鉄道の黒字化でさえ、結局はHIS社長とけんか別れをしてしまった。3セクエムウェーブを黒字化した反改革派?市長の方が波風立てずに粛々と仕事をしているではないか。(笑) 現松本市長もサリンの報道被害者氏もみんな怒って去っていってしまった。そのあたりがすべて。外面は改革派のヒーロー、内実は知事の地位という最も古典的な「既得権益」に拘った改革貴族。私にはずっとそのようにしか見えなかった。今度は棺桶に半分足を突っ込んだような方が知事になった。失礼な書き方をしてしまったが、既に地位も名誉も獲得した御老人。ここで長野県を財政再建団体にする道筋を付けてしまったら、今までの地位や名誉も水の泡。昔から実直誠実で知られる方なので、歴史を戻し晩節を汚すようなことはしないだろうと信じたい。

頑張れ!JA*RAC

BM98、WAREZ、P2P。コンピュータネットワークの歴史は著作権無視の歴史だ。誰もが簡単に違法行為が出来る。しかし、刑事事件にされたり、裁判になってしまっては、普通に暮らす人々はその社会的立場がもたない。逮捕されて所属する会社を解雇されたサラリーマンや、裁判で5000万円も請求された大学生なども、この国には実際に存在する。法治国家である以上、それは止むを得ない。その一方で、ご丁寧にWAREZ、P2Pに関連するソフトの使い方を解説した雑誌やムックが、全国の普通の書店やコンピニに現在でも常備されてる。要するに自由な国で生きるためには誘惑に負けない強い意志が必要だってこと。ただ、法の運用というのはその時の社会情勢によって微妙に変化する。権利者が激しく利益を主張し、それが社会的に支持されるような雰囲気なら、法も厳格に運用される。逆に権利者が弱腰で実態を放置すれば、さほど権利は侵害されていないと判断され、見逃されること「も」ある。日本の場合、権利者も役所も市民も比較的律儀なので、法の条文を国語的に解釈しそれで法に触れていると感じれば皆がそれで違法と納得してしまうケースが多いが、欧米の場合は対応が柔軟で面白い。それが象徴的に表れている事例として最近注目されているのが、御存知「YouTube」だ。サイトを検索してみれば著作権無視のファイルばかり、それも尋常な量ではない。そんなモノがあたりまえになっている。JA*RAC の皆さんも夜毎うなされることだろう。(笑) ところがこのサイト、一向に閉鎖される様子がない。全世界からの膨大なアクセスを受けて莫大な回線管理料を支払っているはずなのに未だ元気。それどころか、「YouTube」をビジネスモデルに他の事業者が同様のサイトを開設する動きが止まらない。理由は、「YouTube」が「バイラルマーティング」の触媒として有望と思われているから。つまり、高い宣伝効果により多大な利益が得られ、新たなビジネスモデルが作れそうなら、とりあえず多少の著作権侵害は見逃したふりをしてやるってこと。MP3も同じ経緯を辿った。レコード会社や著作権管理団体と裁判を繰り広げたWinAMP(NullSoft)も今じゃ合法的に存在する。大きかったのはインターネットラジオの著作権問題が一定の解決をしてしまったこと。その詳細はともかく、一般市民はASCAPやRIAAの管理する楽曲をネットラジオを通して自由に聴けるようになった。洋楽ファンにとっては正にパラダイス。ASCAPやRIAAの権利も守られた。こういうのが自由主義社会の発想。・・・で、ここまで堅苦しく面白くない話を読んでくれた洋楽ファンのあなたにさらなるパラダイスの存在を教えよう。いままでのは全部前置き。(笑) 必ずヒットするとは限らないが、Googleで「洋楽ミュージシャン名+mp3+blog」で丁寧に検索してごらん。欧米で当たり前になっている "MP3 BLOG" "MUSIC BLOG" "AUDIO BLOG" が見つかるはず。これも現時点では欧米のレコード会社が前述の「見逃し理論?」で見てみぬふりをしているであろうサイト。危なっかしいP2Pソフトなんぞ使わずとも、MP3ファイルがBLOGからダウンロードが出来る。ここまで大っぴらに公開されていると、楽曲をアップしている人々はともかくダウンロードしている人々を取り締まるのは難しい。あえてサイト紹介はしないが、私が検索した範囲では、例えば70年代のハードロックや80年代のヘヴィメタル、あるいは70年代の王道プログレやネオ・プログレあたりは、ジャケット写真や解説記事を含めてなんと「アルバム単位」で堂々とアップロードされている。P2Pのように検索すればいつでも目的の曲がダウンロードできるようなオン・デマンドではないが、ショップに並んでいるCDの中から気にいったCDを選んで持っていく感覚、量も尋常ではない。ひとつのサイトに10や20のアルバムが登録されているのは当たり前、100以上登録されているサイトもある。サイト運営者と趣味があえば、もう(^_^)(^_^)。あまり盛んになると規制がかかりそうなので、説明はここまで・・・。

諦めは罪なのか?

人は向上心を持って努力する姿が好きらしい。プロジェクトXやらにんげんドキュメントなど、NHKが制作する真面目なテレビ番組だけではなく、最近では民放が制作する教養バラエティ番組なんぞでも、一般の人々やら芸能人が何らかの目標に向かって努力する姿を描いては、スタジオに並ぶ出演者にしたり顔で感想を述べさせていることが多い。とりあげられる人の対象は日本の科学技術を世界レヴェルにまで押し上げた偉人やメダル獲得を目指すオリンピック選手、災害や経済的な逆境を乗り越えようとする市民、ダイエットや隠し芸に挑戦する芸能人、はたまた「おつかい」に挑戦する小学校入学前の子供やチンバンジーまで・・・。そうした番組からは「向上心を持って努力することは善だ」という制作者の揺ぎ無い確信を沸々と感じられる。見ている人に感想を求めればおそらくは「元気付けられた」とか「自分も頑張らねばと思った」などと殊勝なことをきっと云うんだろうな。それがタテマエというものだ。しかし、実際には単に番組を見たことにより自分も成功したかのような疑似体験をして気持ちがよくなっているだけって人が案外多いのではないか。WBCで日本が優勝すれば自分が世界一になったかのような錯覚をし、サッカーのW杯で日本が敗退すれば自分を含めた日本人はダメだと落胆する。現実はそんな単純ではないハズなのだが、それらがこの手の番組の人気の理由であろうことは想像に難くない。まあ、見ている側はそれでも良いような気もしないではない。気分が良くなることは悪いことではないし、しょせんは他人事なのだ。しかし、私が気になるのは前述したように番組制作者側が「向上心を持って努力することは善だ」と盲目的に信じてしまってような気配があるところ。これは怖い。「努力した人は報われるべし」という実力主義社会を求める世相があったり、「失敗したらやり直せばいいではないか」と簡単に云ってのける首相もいたりするが、制作者側がそこまでステレオタイプだったりなんかしたら何とも恥ずかしい。おそらく制作者自身も競争社会の中で窮々としているハズなのに、落伍者の目線でモノを考えることをしない。それどころか学歴社会である程度の実績を収めた自分の過去の成功体験を根拠に上からモノを見るような視点で他人の努力を評価するようなイヤ~な奴もチラホラと見受けられる。もろろん、自分に対して甘いなんてのはあまり感心できないが、他者に対してはもっと優しい目線で物事を考えていても良いような気が私はする。また、物事を達成するには単に努力するだけでなく冷徹な自己評価も必要だったりする。それが無いまま無鉄砲に頑張るのは努力ではなく虚勢と変わらない。稀に無知が功を奏して大成功を収める場合もあるが、それは確率的にはとても低く、多くの場合周囲に迷惑をかけるだけで終わることが多い。まあまだそうやって奮闘している人間はいい。久しく何か固定した価値観が蔓延し、マスメディアが頑張る人ばかりを紹介している中、現実には行き場の無い人が激増しているように思えてならない。経済的敗者はもちろん生殖的敗者(意味わかるかな?)も。かつてはそうした人々の立場で作られたテレビ番組や大衆芸能が多かった。昨今は「悲しい酒」を飲んだらその時点で負けらしい。いずれコップ酒の酒が溢れるだろう。人はタテマエだけでは生きられない。

マニュアル人生の果て

子供が関係した悲惨なニュースが相次いで報道されている。個々の事件について詳細に触れるつもりはないが、その数の多さには驚く。子供が殺されたり猟奇的な事件そのものは昔からあったが、その背景は時代によって異なる。かつては貧困やら狭い社会の中で起こる地縁血縁のトラブルのようなものや身代金目当てのものが多かった。連続ピストル射殺(警察庁広域重要指定108号)事件や吉展ちゃん事件あたりがその代表例だ。それが20年ほど前からチラホラと変な事件が増えてきた。おそらくその最初の重要事件は東京都八王子市在住の27歳(当時)の青年が起こした『連続幼女誘拐殺人(警察庁広域重要指定117号)事件』だろう。ビデオテープで溢れる部屋がテレビに映し出されたのはかなり象徴的だった。その後、いわゆるいじめによる虐待殺人事件が多くなり犯人の低年齢化が進む。少年による犯罪といえばゲームのような犯行声明文がマスコミを賑わせた「神戸連続児童殺傷(酒鬼薔薇)事件もあった。殺人ではないが犯行当時28歳の青年が小学校4年生の少女を9年2ヶ月も監禁し続けた新潟少女監禁事件なんてのも私はかなり気になる事件だ。そして最近増えているのは子を持つ親がいとも簡単に自分の子や他人の子を殺してしまう事件。もはや世も末か? 事件が起きるとマスメディアは必ず「テレビが~」とか「アニメが~」とか「ゲームが~」とか「インターネットが~」などと背景を語ろうとする。むろんそれは背景の一部だが原因ではない。きっとそれは虚構と現実の境目が希薄になっていると云いたいのだろうし、確かにこうした事件に共通するのは「生きているという現実の希薄さ」のようなものだ。現代社会では、かつてのような地縁血縁による結びつきが減り、その代わりにヴァーチャルでかつ強烈な情報が溢れている。子供や若者だけでなく子供を育てるべき親や教師までもが、何をするにもマニュアルを求め、そのとおりに生きていたりもする。とりあえずそれも自己実現ではあるが、かなり安直なものだ。毎日がハンバーガーショップの売り子のような生活や会話ばかりではいくらきちんと応対が出来ていても、やはり生きてる現実感は薄くなる。また、たまにコダワリを持って生きる人がいたかと思えば、マニュアルを遵守することが信念だと勘違いしてたりして実に辟易する。もっと困るのは変なマニュアルに深く洗脳されてしまっているがために、モノを買った先やら職場やら地域やらPTAなどアチラコチラでクレームを付けては興奮し、自分に酔い、それを生きがいにしているような人だ。もちろん、世の中そんな輩ばかりではない。しかし、狂った現実に追いまくられ気が付いた時には自分が狂ってしまっていたってのが現代社会の異常さなのだ。のんびりと自分と自分をとりまく社会を見つめなおし、焦ることなく生きていればそういうことにはならないのだが、そんなことをしていたらとりあえず生存競争に負けてしまう(らしい)。これを読んでいるあなたや書いている私も既に狂ったルートの途中に立っているのかも知れませんね。

Senn (Margret Eir) 2004

Magaret"Senn"とはきっと"Soon"のこと。何故ならこの曲は、Yes の The Gates Of Delirium のエンディングに Jon Anderson が感動的に歌い上げる"Soon"のカヴァーだから。ドラマティックかつ緻密に構成された組曲の最終章を飾る名曲を、女性ヴォーカリストが歌うとこれまた味わい深い。これはなかなかよく出来たカヴァーだ。タイトルの"Senn"。これはきっとアイスランド語。Margret Eirはアイスランド人なのだ。歌そのものもアイスランド語で歌われてると思われる。プロフィールによると Margret Eirって人は1972年生まれ、子供の頃からレイキャビク・ミュージック・アカデミーに通い、その後、ニューヨークに留学して音楽を学び、1990年頃からプロ活動を始め Eurovision Song Contest にもチャレンジしたという。90年代の彼女の活動はアイスランドのテレビに出たりライブで歌ったりと、いわゆる普通の女性歌手然としたものだったが、Margrt Eir名義で2000年以降に4枚リリースされているアルバムの中にはこの"senn"以外にも、"Heiðin há"(Wuthering Heights-Kate Bush)、I naturhumi(Moonlight Shadow-Mike Oldfield) というような気になるカヴァーが存在する。どうやらこのオバサンはプログレが好きだったらしい。アイスランドといえばビョーク(Bjork)、こちらは世界的な名声を博している今やアイスランドを代表する歌手だ。こんな風に書くとアイスランドの音楽シーンが如何に優れているかってことになるのだが、その前にアイスランドの基本情報を確認する必要がある。何故なら、アイスランドの人口はたったの28万人だから。28万人っていったら日本の地方都市に等しい。ビョークの幻のファーストアルバムはかつてアイスランドで大ヒットしたそうだが、その数は7千枚だという。そして話は大胆に逸れる。これは如何にローカリズムが文化を育むかの見本なのだ。28万人でも大統領がいて近代議会の元祖と云われる議会があって、テレビもラジオもあって、ブロードバンドの普及率は世界一、火山と温泉に恵まれ、漁業が盛ん。かつて米ソ首脳会談まで行われたのだ。日本と国力を比較しても意味はないと思うだろう。しかし、その差が1億人vs28万人の差と云えるほど大きいものなのかな?と考えると淋しくなりはしまいか。今日本は効率化を旗印に文化的に意味不明な線引きで道州制を画策している。権限を移譲し地方の力を高めるためなどとも云われているが、グローバル化の進展で金太郎飴のようになりつつある現在の日本の国土を道州単位で区切るのは危険だ。効率は良くなるが中身はない。つまり「不毛」なのだ。文化の無いところに経済は育たない。競争力を高めるための効率化と引き換えに、多様性が失われたらお終い。さて、Margret Eir はニューヨークにいた頃、Jesus Christ Superstar の Mary を演じたとプロフィールに書かれていたが、やぱあれは女性歌手の基本だよな~と思いつつ Yvonne Elliman や Sarah Brightman に "Soon" を歌ったらどんなに素晴らしいだろうかとも期待してしまった。Sarah Brightman なら Kansas や Peter Gabriel の曲を歌っているくらいだからやってくれそうな気もするが・・・。

Senn(MargrétEir) Sample