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体育真理教の破綻

syoko私は若い頃に運動部に属した経験がほとんどない。体を動かすことが嫌いだったのと、いわゆる体育会系の先輩後輩の人間関係に恐怖を感じたから。お陰で社会に出てから苦労した。就職先に若干の体育会系の香りがあったのだ。ネクラとかオタクを云われ私は同年代の社員からは仲間外れにされがちだった。齢がバレるが、夏はテニス、冬はスキーをやらないと若者ではない、彼女も出来ないと思われていた時代だ。日曜日に私を連れ出してテニスを一から教えようとしてくれた優しい先輩には今では感謝の気持ちを持っているが、当時の私にとってはそれがかなり苦痛で、云い様のない違和感を持ったものだ。幸いそうしたことが職場の全てではなかったのと、平成になると秋葉原文化に象徴されるインドア派の若者の居場所が、社会に確保される時代となり、いつの間にかそうしたことを気にぜず生活できるようになった。もちろんスポーツをしてなくても彼女は出来た。そんな人間が運動部の体罰を語るのはお門違いか。でも今はそれを語るべきときだと思われる。新聞を賑わせているのは高校のバスケット部の体罰問題だけではない。中学校のバレー部の体罰から、なんとロンドン五輪に出場した柔道のトップアスリートまで。数年前はプロスポーツである大相撲やプロ野球でも体罰問題で大騒ぎになった。運動音痴の私が何故と思うかも知れないが、実は運動部の体罰の現場を目撃したことは幾度となくある。それは殴る蹴るとかではなく、首尾よく練習が出来ないとバケツで水をぶっかけるとか、四方八方から同時にボールをぶつけるみたいなものだった。千本ノックならともかく、ボールの嵐や、水のぶっかけに、どんな科学的根拠があるのか? 素人目には体罰にしか見えなかった。それでも選手は文句も言わず黙々とボールに立ち向かっていた。その運動部は後年見事に全国優勝を果たしている。そこにあるものは何なのだろう。私なりに思ったのは「体罰は宗教だ。」ということだ。そんなこと書くと今度は真面目な宗教者から叱られそうだから、もっと正確にに云えば「体罰は邪教だ。」と云うことにしておこう。監督の指導を信じ黙々と練習に励む選手たち、その様子を無責任な立場で眺めさせてもらうと、それは正に宗教そのもの。信じる者は救われ信じない者は脱落すると信じての行動原理だ。有難い宗教であれば禅の道場のように心身の鍛錬ともなるが、邪教に嵌れば暴行やら暴行致死やら強姦やら、まるでオウム真理教と同じではないか。いまスポーツ界に求められているのは近代的なアスリートが先頭に立ってそうした邪教を廃し、科学的にスポーツに取り組むことだと思われる。