またひとり60年代のスターが逝った。溢れる才能で馬鹿なことをする。密かに憧れの人だった。20年ほど前、とある機会に直接お会いしたことがあるが、放送作家で俳優、歌も唄って、参議院議員で直木賞作家・・・。その輝かしい経歴とは裏腹にとても腰の低い方だった。世の常識を引っ繰り返し、芸能に政治に文学に派手なパフォーマンスを繰り返していても、青島幸男さんご本人は心優しい常識人だったのではないか。それを最も感じたのは都知事になった顛末だ。多くの人は期待外れと評価しているのかも知れない。実際、公約通り都市博を中止して以降は都官僚の言いなりとなり、迫力のかけらもない任期を過ごしてしまった。都知事の権限の強さは尋常ではない。700人以上もいる国会議員ならばひとりやふたり変わり者がいても支障はないが、総理大臣以上に権限が集中する都知事はたったひとりだ。「♪都の知事は気楽な家業と来たもんだ~」とばかり云いたいことを云いたい放題でやってるわけにはとてもいかない。そこに、就任してまもなく都知事宛の郵便物が爆発し、職員の指が吹き飛ぶ事件が発生する。以降、いわゆる青島節が一切聞かれなくなってしまった。昨今、職責となるとロボットのように血も涙もなく行動するする人が多い。業務遂行のためなら部下の指の一本や二本吹き飛んでも仕方が無いと考えている自動車メーカーも現実にあるそうだが、世間の風潮もそのまんまなのは戴けない。青島さんが最も輝いていた60年代も無理な経済成長に起因した数え切れないほどの労働災害があったと聞くし、意外に思う人もいるかも知れないが、実は青少年犯罪も60年代の方が現在よりずっと数は多かった。それでも世間やメディアは(少なくともタテマエだけは)常に地方から出てきた貧しい人々の立場に立って考え行動していたように思う。過激なパフォーマンスをしていても心に伝わる優しさを感じるところは、大島渚さんや野坂昭如さんなど、青島さんと同世代の文化人に共通しているものだ。(現東京都知事には例外的にそれをあまり感じないけれど) それこそが昭和の暖かさだと私は思うのだが、きっと現代の人々はそれを甘さとか弱さと捉えるんだろうね。それじゃグローバル化する社会で生き残れないんだとかさ・・・。本当にそうなんだろうか? ここ10数年の世の中を見ていると、貧困や労働災害の本当の悲惨さを知らない連中が、「世の中はキビシイんだ」「働かざる者は食うべからず」とばかりに人間を機械のように扱い、命令した当人も見たことのない悲惨を生み出しているように思えてならない。子供の頃、虫も殺したこともない奴が思春期に面白半分でカッターナイフで同級生を刺してしまいましたみたいな感覚の延長で、職場で部下にノルマを強要する。問題が発生して初めて現実感を得るみたいなヴァーチャル職場が実に多い。西の方の鉄道会社とかさ・・・。最近、いわゆる昭和ヒトケタ世代が続々と鬼籍に入っている。失われるのが人材だけならばそれは寿命として止むを得ないにしても、彼らを失うことで始まる恐ろしい「何か」に私は戦々恐々としてしまう。病気や事故で死なない限り、私はまだ何十年も生きなければならないのだ。怖い怖い。
最近のヘヴィローテーション。「吉松隆 交響曲第5番・アトムハーツクラブ組曲第2番・鳥たちの視察への前奏曲 藤岡幸夫指揮BBCフィルハーモニック CHANDOS 10070 (2003)」 時々想い付いたようにクラシックのCDを買って聴く習性が昔からある。かつて「ぷろぐれ歌謡盤」でも紹介したことのある70年代ロック風アンサンブル曲「アトムハーツクラブクァルテット」のオーケストラ版「アトムハーツクラブ組曲第1番」の続編と思しき「アトムハーツクラブ組曲第2番」ってのが聴くのを目的に在京した際に購入、帰りの新幹線の中で聴いてぶっ飛んだ。アトムハーツではなく、「交響曲第5番」の方に・・・。これ「シンフォニックロック」じゃん。(笑) 第1楽章と第4楽章がビートミュージック、第2楽章がジャズ、第3楽章はバラードだよコレ。どこが8ビートでどこが4ビートやねんと怒る人がいるかも知れないが、まあその辺りはフィーリングがロックやジャズだってことで理解してもらいたい。要するにビートが効いた交響曲だってこと。近年の吹奏楽曲にはパーカッションが炸裂するものが珍しくないので、クラシックしか聴かない人々はこの交響曲を吹奏楽的と評するのかも知れないし、19世紀や20世紀初頭の大作曲家に心酔する人々は「無駄な繰り返しが多い」とか「木管が聴こえない」などとその完成度にきっとイチャモンを付けることだろう。不幸な人々だ。そんなこと云っていたら音楽が「音が苦」になるだけ。イントロの「ジャジャジャジャ-ン」でワカランのかいな。つべこべ言わずにビートを楽しめばいい。それがクダラナイと思うのなら聴かなければいい。この交響曲には従来の器楽法を超えた気持ち良さがあるよ。それはズバリ「ロック」。だったらロックを聴けばいいじゃないかとなる訳だが、まあそれはとりあえず正しい反論だとは思う。(笑) でもまあそれをクラシックのフィールドでやってみましたってってのがこの交響曲の面白さだ。100年後、20世紀を代表する音楽とは何かと問われた時、それがシェーンベルグやケージあたりになるのか、あるいはビートルズになるのかは後世の人々に聞いてみないと判らないが、すでに21世紀となり、時が経るにつれそれはやっぱり後者、やっぱり「ビートルズ」じゃなかったのかなあ~と思えるような気分が増してきている。芸術的に優れた音楽、作曲や演奏技術の究極を目指した音楽だけが人類を代表する音楽ではないっていうことか。音楽の周辺で起きたメディアや電子技術の進歩によって、音楽そのものが大衆化し、旧来のサロン的な価値感だけではそのすべてを推し量るわけにはいかなくなっている。無論、18世紀や19世紀の音楽を忠実かつそれ以上に再現するために演奏技術を磨いたり楽曲の研究に勤しむことも大いに価値のあることだとは思うが、それだけに固執してしてしまったら、もはやクラシックの行き先は30年程前に流行した現代音楽(無調音楽)のようなものに行き着いて終了ってことにしかならない。絵画の世界が究極の写実主義の後に抽象画に向かいその後また多様な表現が許されるようになったように、仮にすべてが振り出しに戻ったって別にかまわないではないか。ジャズや南米音楽を取り入れた高名なクラシックの作曲家もかつては存在した。この時代に世界を制覇したロックをクラシックを導入しない手はないのだ。プログレッシブロックなどロックからクラシック音楽にアプローチした例はこの40年枚挙に暇がないが、その逆は少ない。この交響曲の価値はそのあたりにある。第4楽章の最後はビートルズ和音の繰り返しだぞ~。これはザマーミロと思う位に痛快で気持ちがいい。こんなこと書いてもどうせクラシックファンには馬鹿にされるだろうから、この交響曲をトランスアトランティックの「SMPTE」やフラワーキングスの「スペースリボルヴァー」など軽快でポップなシンフォニックロックが好きなプログレファンに勧めたい。同志である君達になら判る。騙されたと思って聴いてごらん。
動画共有サイトは底なし沼か。こんな映像があったのかってな映像が続々とUPされてくる。邦楽関係は JA*RAC の御活躍でかなり削除されているものの洋楽に関しては何でもありの状態が続いている。その中から私が注目しているのは、ビデオパッケージとして発売される可能性が薄く、いまダウンロードしておかないと二度と見る機会が無くなってしまうような映像だ。画像のうち上の3枚はこれまでもこのBLOGで紹介したことのあるKarina 。日本ではCDも発売されておらずほとんど知られていないスペインの40年前の女性歌手のこのような動画など、かつては新たに話題にならない限り一生見ることが出来なかった。それが検索次第でお目にかかれてしまうのがインターネットの凄さだ。Karina に関しては、これまで1971年のユーロビジョンソングコンテストの映像が見られる程度だったが、ここにきて先日紹介した「El baul de los recuerdos」のプロモフィルムが登場し、狂喜乱舞したのも束の間、今度は「En Un Mundo Nuevo」のモノクロプロモフィルムや映画「En Un Mundo Nuevo」のメドレーシーンまでもがアップされいてびっくり。プロモの内容は karina がヒッチハイクをするがなかなか乗せてもらえない設定。クルマに始まり、馬車や船、終いには旅客機に向かって karina がヒッチハイクサインをおくるやや馬鹿馬鹿しい内容。プロモがこういう映像で良かった時代がのどかで懐かしい。映画の方は今年の1月にスカパーのスペイン語チャンネルで放映されたのだが、私はそのチャンネルを契約しておらず、録画できずに悔しい思いをしたももの。そのほんの一部のみを見ることが出来たわけだが、karina が当時のスペインで茶の間(は無いか。リビングリーム?)のアイドルだった様子がよくわかる楽しい映像だった。ユーロビジョンソングコンテスト映像も最近では審査風景まで入ったヴァージョンがアップロードされている。高得点を得て満面の笑みを浮かべる karina の表情が印象的だ。他にも90年代にスペインのテレビに出演し、「Concierto Para Enamorados」と「Romeo y Julieta」を歌った際のビデオもアップされていた。こうした過去の映像を掘り起こすのが動画共有サイトの醍醐味ではないかと思う。karina だけではない。他にも、ESC優勝をうけてダブリンの会場近くで急遽撮影したと思われるSeverine の「Un Banc, Un Arbre, Une Rue」のモノクロプロモフィルムや、Chantal Goya が歌のお姉さん(おばさん?)になる前に、Nana Mouskouri、Mireille Mathieu、Dalida と同じ曲Alouetteをそれぞれのシチュエーションで歌う企画番組(画像一番下)など、面白い面白い。法的な問題もあるのだろうが、画像解像度を制限するなどの工夫してぜひこの「文化」は残して欲しいものだ。