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記事一覧

青島だあ!

またひとり60年代のスターが逝った。溢れる才能で馬鹿なことをする。密かに憧れの人だった。20年ほど前、とある機会に直接お会いしたことがあるが、放送作家で俳優、歌も唄って、参議院議員で直木賞作家・・・。その輝かしい経歴とは裏腹にとても腰の低い方だった。世の常識を引っ繰り返し、芸能に政治に文学に派手なパフォーマンスを繰り返していても、青島幸男さんご本人は心優しい常識人だったのではないか。それを最も感じたのは都知事になった顛末だ。多くの人は期待外れと評価しているのかも知れない。実際、公約通り都市博を中止して以降は都官僚の言いなりとなり、迫力のかけらもない任期を過ごしてしまった。都知事の権限の強さは尋常ではない。700人以上もいる国会議員ならばひとりやふたり変わり者がいても支障はないが、総理大臣以上に権限が集中する都知事はたったひとりだ。「♪都の知事は気楽な家業と来たもんだ~」とばかり云いたいことを云いたい放題でやってるわけにはとてもいかない。そこに、就任してまもなく都知事宛の郵便物が爆発し、職員の指が吹き飛ぶ事件が発生する。以降、いわゆる青島節が一切聞かれなくなってしまった。昨今、職責となるとロボットのように血も涙もなく行動するする人が多い。業務遂行のためなら部下の指の一本や二本吹き飛んでも仕方が無いと考えている自動車メーカーも現実にあるそうだが、世間の風潮もそのまんまなのは戴けない。青島さんが最も輝いていた60年代も無理な経済成長に起因した数え切れないほどの労働災害があったと聞くし、意外に思う人もいるかも知れないが、実は青少年犯罪も60年代の方が現在よりずっと数は多かった。それでも世間やメディアは(少なくともタテマエだけは)常に地方から出てきた貧しい人々の立場に立って考え行動していたように思う。過激なパフォーマンスをしていても心に伝わる優しさを感じるところは、大島渚さんや野坂昭如さんなど、青島さんと同世代の文化人に共通しているものだ。(現東京都知事には例外的にそれをあまり感じないけれど) それこそが昭和の暖かさだと私は思うのだが、きっと現代の人々はそれを甘さとか弱さと捉えるんだろうね。それじゃグローバル化する社会で生き残れないんだとかさ・・・。本当にそうなんだろうか? ここ10数年の世の中を見ていると、貧困や労働災害の本当の悲惨さを知らない連中が、「世の中はキビシイんだ」「働かざる者は食うべからず」とばかりに人間を機械のように扱い、命令した当人も見たことのない悲惨を生み出しているように思えてならない。子供の頃、虫も殺したこともない奴が思春期に面白半分でカッターナイフで同級生を刺してしまいましたみたいな感覚の延長で、職場で部下にノルマを強要する。問題が発生して初めて現実感を得るみたいなヴァーチャル職場が実に多い。西の方の鉄道会社とかさ・・・。最近、いわゆる昭和ヒトケタ世代が続々と鬼籍に入っている。失われるのが人材だけならばそれは寿命として止むを得ないにしても、彼らを失うことで始まる恐ろしい「何か」に私は戦々恐々としてしまう。病気や事故で死なない限り、私はまだ何十年も生きなければならないのだ。怖い怖い。

青線赤線

使用していたプリンタが不調になったので新しいプリンタを購入した。今までに私が使用してきたプリンタは全部で4台。初代はBJ-10V(Lite)というキャノンのインクジェット(バブルジェット)モノクロプリンタ。DOS時代の名機だ。交換インクがまだ売られているようだし、モノクロ専用と割り切り、ESC/Pモードで久しぶりに使ってみようかとも考えている。次に購入したのは、エプソンのPM-700C。当時、インクジェットとしては画期的な画質を低価格で実現したこれもインクジェットカラープリンタの名機。驚いた私は発売日に店頭で購入した。(笑) その後、デジカメを購入したのを機に、写真画質を実現するために同じくエプソンのPM-890Cに買い替えた。その頃になると写真画質に拘れば他にも優れたプリンタがたくさん存在したが、大切な写真はラボに出した方が画質が良いし、遊び程度に使えればよいと考え、ランニングコストも考慮してこの機種を選んだ。で、3年間使用してきた訳だが、最近になって印刷結果に激しく「青線」がのるようになってしまった。分解してヘッド周りを無水アルコールで丁寧にクリーニングしても印刷汚れは無くなるものの「青線」は治らない。ネットで調べてみると、ヘッドを交換する必要があるようだ。修理費用はしめて1万2千円。ランニングコストの安いプリンタなので修理も考えたが、最近は1万5千円も出せば同程度の新品プリンタが買えるので買い換えることにした。それにしても2~3年で青線赤線が多発する製品ってのもどうかと思う。年賀状の印刷にしか使わないような人が、3年で赤線青線状態で修理や買い替えじゃきっとたまらんよな。3回の年賀状印刷に¥45800(当時の標準価格)かけて修理に1万円かよ~。どこの会社もインクのリサイクルには熱心なようだが、本体が2~3年で買い替えじゃ激しく無駄ではないか。せめて5年は生きていて欲しかった。地元産品を応援するつもりでエプソンを選んできたが、気分が悪いので今回は10年ぶりにキャノンを選んだ。iP4300。これも何年使えるかは判らない。画質にも期待していない。ランニングコストもまあそこそこでしかない。某店で地デジ対応テレビを購入した際のポイントだけで購入できてしまったのでそれで良しとしているが、いつから MADE IN JAPAN のモノ創りがこんな程度になってしまったのか。とても残念だ。

6歳のハローワーク

授業中に先生の話を聞かず、気ままに歩き廻る児童が存在するのが、今日の日本の小学校の当たり前の風景らしい。マスメディアはこれを教育崩壊とか学級崩壊と呼び、政府は飲み屋の社長を教育再生会議委員に選んで学校を改革しようとしている。しかし、そのような改革では状況は改善されないだろう。なぜなら、病んでいるのは学校ではなく社会だからだ。戦前の富国強兵、戦後の経済復興、高度経済成長期は物質的な豊かさを求める等々、国や国民には統一された目標のようなものが暗黙のうちに醸成されている時代は、教育もそれに乗ってやっていれば大きな破綻は起きなかった。ところが物質的な豊かさがピークに辿りついた70年代後半から80年代頃から教育が狂い始める。60年代以前の子供は貧しさの中で育っている。勉学に励めさすれば、現在の貧しい生活から逃れられ豊かな生活を獲得できる。そう思えば授業も真面目に聞くってものだ。教師は貧しさから抜け出るためのノウハウを伝授してくれる大切な存在。とうぜん尊敬される。教育はそれをサポートしていればそれで良かった。ところが70年代になると、生まれおちた時から物質的に豊かに暮らしてきた子供が激増する。普通に考えれば幸せなことだが、実はこれ、良い進学をし良い就職ができなければ自分が育ってきた環境より落ちる暮らしが待っている・・・みたいに考えてしまうと、何ともイヤ~な厭世感を生む。この感覚は、勉強して努力すれば親の世代よりも確実に豊かな生活が出来た50歳代以上の人々にはなかなか理解できないものなのかも知れない。今やそういう世代が親や教師にまでなっている。30年前にこの変化を見逃してしまったのがそもそもの失敗の始まり。歪は最初、校内暴力として現れ、それを管理教育で押さえ込むと裏で陰湿なイジメがはびこるようになり、そういう集団に適応できない子供が登校拒否となると、今度は緩められた管理の中で、学級崩壊。絵に描いたような対症療法の歴史がそこにある。そろそろ根本的な解決を図らないとこの国の将来はヤバイかも知れない。たぶん、多くの人々がそう思い始めている。ところが国のやってることは愛国心だの道徳だのって、今から富国強兵政策を始めてどうする。(笑) 企業経営のノウハウを学校にチョメチョメなんてのもかなりの噴飯もの。子供達に国の借金を減らし方でも教えるつもりか。(笑) 子供達は天皇陛下や国の借金返済のために勉強するわけじゃあない。では、何のために教育を施し勉強をするのか。そこをもっと真剣に議論するべきなのだ。教育云々以前に、今の日本社会はその社会そのものが明確な目標を失ってはいないか。これはオトナの責任。「十三歳のハローワーク」という本がベストセラーから定番のロングセラーになっていると聞く。内容の仔細はともあれ、その企画力たるやさすがは村上龍氏ではないか。社会に欠落しているものをしっかりと見抜いている。猫も杓子も東大を目指しても仕方がない。親や教師や国は子供達に東大以外の目標をたくさん提示すべきなのだ。明確な夢や希望を語れるようになれば馬鹿でも努力をする。落ちこぼれの私がそう云うんだから間違い無い。(爆)

つけっぱ

TVU Player なる怪しいソフトを試す。いわゆるP2Pテレビ。ソニーが発売したロケーションフリーテレビは自宅で受信可能なテレビ放送をインターネットで送信し、出張先で鑑賞するなど、個人使用を念頭に置いて販売されているものだが、P2Pテレビは不特定多数の人々が自宅等で受信可能なテレビ放送をインターネットで送信し不特定多数の人々がそれを鑑賞するというもの。ADSL以上の回線とパソコンがあれば誰でも無料でみることが出来る。ただし、長時間のP2P接続はリスクを伴うのでその点は注意が必要。で、再送信されている内容を見てびっくり。ABC、NBC、CBS、FOXの米4大ネットワークの国内向け一般放送にCNNやESPNなどケーブルテレビが見放題。こうしたソフトは中国方面が発祥のようで、中国大陸や台湾のテレビ局の再送信も多数登録されていた。当然、放送局に無断での再送信。ヤバイなコレ。そんなこともあってか日本のテレビ局はまったく登録されていない。まあ、法的な問題はともかくとして、その TVU Player で、米国の一般放送をリアルタイムで見ていると「やぱ米4大ネットワークは偉大だなあ」と改めて思ってしまった。次々に新しいニュースや映像が投入され、言葉が理解できなくとも「つけっぱ」にしておきたくなるのだ。スカパーあたりに加入すれば常時70チャンネル以上のテレビを観賞可能な環境が整うが、さてその中に、「つけっぱ」にしておきたくなるチャンネルがどの程度あるだろうか。実はこの「つけっぱにしておきたくなる」ってのが、テレビの本質だったりする。これを理解していないからIT長者は次々とテレビ事業に失敗してしまう。彼らは「チャンネルが多い」「選べる」ってキーワードを既存テレビを打倒する有利な武器と未だに信じきっているのだから笑える。とても東大や一橋を出た秀才とは思えない。そんな中、USENの宇野康秀社長は一味違った。テレビの本質として重要なキーワードのひとつである「視聴料無料(タダ)」に果敢に挑戦した。大手広告主のCMを流し、映画や音楽ソフト、あるいはプロダクションが制作した番組を無料で提供するビジネスモデルをもつGYAOは、既存のテレビ局からも脅威と受け取られた。ところがスタートから2年も経ないうちに正念場を迎えてしまった。今年度も70億円の赤字。来年度も赤字予想で「撤退」も視野に入ったと聴く。ただし、この社長は前出のIT長者連中よりはずっとクレバーだ。年末までにSTB(セットトップボックス)を投入するらしい。モデムとテレビの間に入れると普通のテレビでGYAOが鑑賞できるというシロモノ。2万円は高いと思うが、これでより既存テレビに近づく。これを例えば価格を5千円以下に抑え、チャンネルは1チャンネルのみ、番組制作を既存のテレビ番組制作プロダクションに発注し、視聴者が「つけっぱ」にしたくなるようなCM込みの総合放送にしたら、既存テレビ局にとって本当に脅威になるかも知れない。それを制限する法律はこの日本国内に一切無い。ところが、新手のメディアというのは必ず「チャンネルが多い」「選べる」ってのを売りにして、既存テレビを仮想敵に発奮する。それはGAYOも同様。結果、事業化がうまくいかなければ既得権益のせいにする。はっきり云って無知だ。「チャンネルが多い」「選べる」なんてことは実は長所ではなく短所なのだ。それは衛星放送サービスやビデオレンタルショップにとっては商敵であっても、既存テレビにとっては敵でも脅威でもない、まったくの別モノ。世界で最も強力なマスメディアとABCでもCBSでもなく「朝鮮中央放送」だよん。それが答え。マスメディアの本質も理解せずに、技術的な展開だけで商売を考えている間はITテレビに未来はないように思う。

シンフォニックロックの名盤

cf759c96.jpg最近のヘヴィローテーション。「吉松隆 交響曲第5番・アトムハーツクラブ組曲第2番・鳥たちの視察への前奏曲 藤岡幸夫指揮BBCフィルハーモニック CHANDOS 10070 (2003)」 時々想い付いたようにクラシックのCDを買って聴く習性が昔からある。かつて「ぷろぐれ歌謡盤」でも紹介したことのある70年代ロック風アンサンブル曲「アトムハーツクラブクァルテット」のオーケストラ版「アトムハーツクラブ組曲第1番」の続編と思しき「アトムハーツクラブ組曲第2番」ってのが聴くのを目的に在京した際に購入、帰りの新幹線の中で聴いてぶっ飛んだ。アトムハーツではなく、「交響曲第5番」の方に・・・。これ「シンフォニックロック」じゃん。(笑) 第1楽章と第4楽章がビートミュージック、第2楽章がジャズ、第3楽章はバラードだよコレ。どこが8ビートでどこが4ビートやねんと怒る人がいるかも知れないが、まあその辺りはフィーリングがロックやジャズだってことで理解してもらいたい。要するにビートが効いた交響曲だってこと。近年の吹奏楽曲にはパーカッションが炸裂するものが珍しくないので、クラシックしか聴かない人々はこの交響曲を吹奏楽的と評するのかも知れないし、19世紀や20世紀初頭の大作曲家に心酔する人々は「無駄な繰り返しが多い」とか「木管が聴こえない」などとその完成度にきっとイチャモンを付けることだろう。不幸な人々だ。そんなこと云っていたら音楽が「音が苦」になるだけ。イントロの「ジャジャジャジャ-ン」でワカランのかいな。つべこべ言わずにビートを楽しめばいい。それがクダラナイと思うのなら聴かなければいい。この交響曲には従来の器楽法を超えた気持ち良さがあるよ。それはズバリ「ロック」。だったらロックを聴けばいいじゃないかとなる訳だが、まあそれはとりあえず正しい反論だとは思う。(笑) でもまあそれをクラシックのフィールドでやってみましたってってのがこの交響曲の面白さだ。100年後、20世紀を代表する音楽とは何かと問われた時、それがシェーンベルグやケージあたりになるのか、あるいはビートルズになるのかは後世の人々に聞いてみないと判らないが、すでに21世紀となり、時が経るにつれそれはやっぱり後者、やっぱり「ビートルズ」じゃなかったのかなあ~と思えるような気分が増してきている。芸術的に優れた音楽、作曲や演奏技術の究極を目指した音楽だけが人類を代表する音楽ではないっていうことか。音楽の周辺で起きたメディアや電子技術の進歩によって、音楽そのものが大衆化し、旧来のサロン的な価値感だけではそのすべてを推し量るわけにはいかなくなっている。無論、18世紀や19世紀の音楽を忠実かつそれ以上に再現するために演奏技術を磨いたり楽曲の研究に勤しむことも大いに価値のあることだとは思うが、それだけに固執してしてしまったら、もはやクラシックの行き先は30年程前に流行した現代音楽(無調音楽)のようなものに行き着いて終了ってことにしかならない。絵画の世界が究極の写実主義の後に抽象画に向かいその後また多様な表現が許されるようになったように、仮にすべてが振り出しに戻ったって別にかまわないではないか。ジャズや南米音楽を取り入れた高名なクラシックの作曲家もかつては存在した。この時代に世界を制覇したロックをクラシックを導入しない手はないのだ。プログレッシブロックなどロックからクラシック音楽にアプローチした例はこの40年枚挙に暇がないが、その逆は少ない。この交響曲の価値はそのあたりにある。第4楽章の最後はビートルズ和音の繰り返しだぞ~。これはザマーミロと思う位に痛快で気持ちがいい。こんなこと書いてもどうせクラシックファンには馬鹿にされるだろうから、この交響曲をトランスアトランティックの「SMPTE」やフラワーキングスの「スペースリボルヴァー」など軽快でポップなシンフォニックロックが好きなプログレファンに勧めたい。同志である君達になら判る。騙されたと思って聴いてごらん。

愚かな指導者

知らない人も多いと思うが日本は核保有国だ。・・・なんぞと書くとエエエッ~?ってことになるが、まあ正確に云えば「潜在的核保有国」ということ。その気になれば1年以内に核兵器を製造することが可能だろう。有事ともなれば3ヶ月。そこまで断定するのには根拠がある。なぜなら日本の原子力技術は基礎技術があるなどというのんびりとしたものではないからだ。実際に核爆弾を製造する施設もある。・・・なんぞと書くとまたエエエッ~?ってことになるが、これもまた事実。転用可能な施設はいくらでもあるのだ。では実際に核兵器製造に必要な技術にはどんなものがあるかと云えば、まずは核融合技術。これ、日本は世界のトップレヴェルにある。ウランの濃縮から再処理施設、さらに高速増殖炉までちゃ~んとあるではないか。安全に臨界を維持する高い技術を持てば、当然、瞬時に臨界を連鎖させる技術もあろうというもの。オマケにパーツの小型化実装技術は世界に誇る日本のお家芸となれば、出来上がった核爆弾の能率(プルトリウムが効率的に爆発する率)も相当高いモノになる。小型でかつ強力な核爆弾を作れるってこと。爆縮技術は実際に実験を繰り返してノウハウを得るものらしいので核実験をしたことのない日本にどの程度の爆弾が作れるかはやや疑問は残るが、実は30年も昔、1973年に通産省工業技術院(当時)が密かに爆縮の基礎実験を終えているとの未確認情報もある。次にミサイル技術、これ、日本は既に大陸間弾道弾を保有しているでしょ。エエエッ~?っの3回目。だって日本はH2ロケットで指定軌道上に静止衛星を配置する技術を持ってるじゃないか。残るは大気圏再突入技術となる。実はこの技術がやや遅れていた。でも、2003年にJAXAは静止衛星が収集した情報を載せたカプセルを計画した地点(洋上)に正確に帰還させるUSERS計画を無事に成功させてしまった。爆弾の場合は必要はないだろうが、実際に落ちた場所を特定し再突入カプセルを回収するシステムまで構築している。あとは材料。これも豊富にある。人形峠でせっせと少ないウランを掘らなくても、発電量の3割を原子力発電に頼っている日本には使用済みのプルトリウムがごまんとある。その再処理も可能だ。こ~んなこと書いているオマエは核武装論者かと云われそうだが、それはない。日本の場合、核武装は技術的な問題ではなくあくまでも政治的な問題なのだ。先制核攻撃なんざしようものならその国はもうその時点でオシマイ。核は持ってることが政治力ってことなら、日本の場合、潜在的核保有なんだから政治的にはそれでもう十分ではないか。もちろん、北朝鮮が日本のどこかに核爆弾を落としたら報復は止むを得ない。愚かかも知れないが、罪のない家族や同胞が大量に殺されたら、相手国を火の海にしたくもなる。争いごとが嫌いな私でもそう思うのだ。そうなる前に愚かな指導者にはこの世を去ってもらいたい。そろそろ潮時だと思う。

United Nations

韓国人が国連事務総長になるんだと・・・。韓国は祝賀ムード。たぶん、多くの日本人は「なんで韓国なの?」とか「これで常任理事国入りはないなあ」などと、正直あまり面白くない気分でこのニュースを聴いたと思う。しかし韓国さんコレ、祝賀してる場合じゃ無いっスよ。すっかり米国や中国とロシアにハメられてしまったと考えた方が正しい。国際連合なんて邦訳のせいか、日本人には国連に何か世界連邦のような平和なイメージを持つ人が多いが、正確な訳は「連合国」。要するに先の大戦の「戦勝国」のことだ。そこに「敗戦国」や「新興国」が加わって現在は192ヶ国で構成されているらしいが、安保理常任理事国5大国の強大な権限の異常さは今も変わらない。その中での事務総長の役割とは何か。ズバリ大国の太鼓持ちだ。もっと詳しく云えば大国の利害を正当化するための別働隊の代表。歴代の事務総長の中で唯一そうでない動きをした人物としてダグ・ハマーショルドがいるが、任期中に飛行機事故死した彼の末期には謎が多い。ブトロス・ガリも過激な国連改革を進め太鼓持ちでないところを見せたが、アメリカの拒否権であっけなく再選が阻止されてしまった。事務総長とはもともとそういう立場なのだ。それを前提に今回の人事を考えると、背筋にぞ~っと寒いモノが走る。任期は1期5年。再任されれば2期10年。その間に北朝鮮は核実験をするだろう。北朝鮮が崩壊するかも知れない。難民が来るぞ~。緒方さんはもうイネエぞお。韓国の国益でする仕事ではない、何度も云うが現実は大国の利害を正当化するための別働隊の代表。朝鮮民族が自ら問題の詰め腹を切らされるようなものではないか。さらに任期中に中華人民共和国(共産党独裁)の崩壊あるいは中華連邦への移行があったりなんかしたらもっと悲惨。さらに難民が増える。オマケに中国内の朝鮮民族が北朝鮮部分での利害を主張するだろうし、事務総長なんてやってたら不利なことばかり。もう一度云うが、国連は常任理事国の利害を調整する組織。事務総長が出身国の国益で動いたりしたら常任理事国の袋叩きにあう。日本相手に偏狭な外交手法ばかりとっているからこういうことになるのさ。日本ような国と違って地球のあちこちに利権紛争を抱えている5大国は怖いッスよ~。

プロレタリアートの秘かな愉しみ

酒は少量、愉しんで飲むのが一番。深酒自棄酒はするものじゃない。飲酒運転も絶対に×。さらに、酒の飲み方で私が気になっているのは、分相応の酒の愉しみを知るべきだってことだ。ロマネ・コンティを飲むのが夢ならばそれはそれで構わないし、テイスティングそのものを趣味にするのならば財産叩いて研究すればいい。しかし、飲むのが目的ならば格付けなんて少なくとも庶民には関係ない。ワインの格付けはもともと欧州の階級社会の中で形成されてきたもの。貧乏人が城に忍び込んで王座に座って王冠を頭に載せて悦に入っていても仕方が無いではないか。何も知らず高級ワインを飲んだところですぐにお里が知れるわな。階級社会をぶっとばすアナーキーな行為と考えれば面白いってハナシもあるが、とりあえずそういう行為はワインの生産者や欧州の文化伝統に対して失礼だ。今年もあとわずかでボジョレーヌーボーの季節。収穫を祝い新酒を愉しむことは広く庶民にも許されるだろう。しかし、解禁日に成田空港まで行って飲む奴って、やっぱり何か間違っている。日本の商社やスーパーが現地で高値で買い付けているのはボジョレーヌーボーだけではなく、「顰蹙」も買い付けているとの話も聞く。もっと淡々と愉しめないものか。たくさんは飲まないが私も自宅で酒を飲む。庶民的な料理に合った庶民的な酒を選ぶのが身上だ。日本酒は時折行く新潟県内で地元の特別有名ではない酒造場の安い銘柄を買ってくるのが愉しみで、ワインに関しても地元のワインが大好きだ。原産地呼称管理制度なんてものもあって、とりあえず真面目に生産したものであれば、庶民が愉しむ酒としては十分な品質はある。無いのは格付けだけ。もし、新酒を楽しみたいのならば、生産者の顔が見えない地球の裏側のワインを選ぶよりも、誠実に働く地元の農家やワイナリーの人々と共に収穫を祝って地元のワインを飲んだ方がずっとヌーポーの趣旨に合っているのではないかとも思う。そんな私の秘かな愉しみはシュトルム。シュトルムとは発酵途中のワインを瓶に詰めたにごりワイン。あるのはこの時期だけ(今年は10月10日発売よん)。量もわずかしか作れず、毎年1ヶ月以内に完売してしまうのだが、ワイナリーでしか売ることが出来ないという酒税法上の制約もあるため、実は自分からワイナリーに直接出向けば案外簡単に入手できる。アルコール度数は5~6%程度、悪く云えばジュースみたいなものだ。格式としてもほとんど無いに等しいものなので、価格は750mlで1300円程度。ボジョレーヌーボーの若い味に秋を感じるのも風情なんだろうが、アレをホントに美味いと思って飲んでる庶民(素人)っているのかな。私はシュトルムの方に小さい秋とささやかな幸せを感じるけどね。(笑) 実はこのワイナリー、1999年に国際コンクールで金メダルを受賞し、誰もが知ってるあのオデコの広いソムリエ氏も大絶賛されているのだ。にもかかわらず「コンクールに迎合するワイン作りは往々にして没個性となりワイン本来のよさを失いかねません。そこでしばらくの間自分たちの作りたいワインは何なのか、個性とはなんなのかを冷静に追求する目的でコンクール出品を控えたいと考えております。」との声明を公開。このストイックさこそ表彰ものではないか。ホンモノの職人だあね。まあ、金の余っている人は薀蓄をツマミに高い酒を飲むべし。その方が経済が活性化するだろう。貧乏人の私は良いものを分相応に秘かに愉しみたい。

Working Poor People

新自由主義という名の妖怪がニッポンを徘徊している。努力した者が報われる社会という妖怪が・・・。1995年、日本経団連(旧・日経連)が「新時代の日本的経営」提言して以降、日本は確実に格差社会への道を歩んできた。破綻したバブル経済を立て直すために行われたのは日本人の賃金を下げること。一般庶民もバブルの恩恵には与った。発展途上国に技術移転をした結果、モノの値段は相対的に抑えられ、物質的により豊かな生活を享受することもできた。で、そのツケが廻って国際競争力が落ちたのだから、ある程度の痛みを受けるのはやむを得ない。バブル時代はイイ思いもしたし、浮かれて怠けていたのだから・・・仕方がない。これが、とりあえず定職に就き、普通に生活している日本人の標準的な認識だろう。純朴な日本人は自分の生活感覚で経済を語る。そしてそうした日本人に宗教のように信じられているキーワード。それが「努力した者が報われる社会」だ。しかし、この10年、日本の政治家や財界がやってきたこと。実のところそれは「努力しても報われない社会」の構築だった。国や企業には金がないのだ。多くの人が努力して報われてしまったら払う給料がない。皆が潤うような仕組みを作るわけもない。競争社会というのは一握りの成功者と大多数の敗者を作り出す。そしてそれがいよいよ現実となってきた。昨今日本では「働く貧困層」が急速に拡大しているらしい。その数、400万世帯。「働けど働けど我が暮らし楽にならず」と歌ったのはかの石川啄木だが、「働く貧困層(ワーキングプア)」とは、頑張って働いて得た収入が生活保護水準以下という状態をいう。それが全世帯数の10分の1を超えた。つまり10軒に1軒はワーキングプアってことだ。条件が満たされなければもちろん支給されないが、生活扶助やら住宅扶助やら生活保護法に基づく生活保護ってのは、状況によっては年間250万円ほどの支給がある場合もある。その根拠になっているのは日本国憲法第25条の「生存権」の崇高な理念だ。ところが現実社会には1年間頑張って働いても年収が手取りで250万を超えない人もいまどき珍しくない。月額で20万。地方の自営業者には月に10万も稼げない人もたくさん存在する。ニートではないのだ。皆、生活のために必死で働いている。しかし働いても250万の年収が得られないのだ。10世帯に1世帯。「生存権」って何なのだろう。御立派な大学に勤め御立派なデスクでパソコンを打ちながら経済を語る学者はそれを「能力の問題」として片付ける。もう一度職業教育を受けてやり直しをすればいい・・・と。努力した者は報われる・・・と。総理大臣も「格差が出るのは悪いことではない」などと平気で発言している。が、400万世帯は多すぎないか。繰り返し書くがニートではないのだ。そのうち無産政党が復活するぞ~。受験戦争の影響か運動部教育の成果か日本人には競争が好きな人が多い。そういう人に限って競争に勝てば今までにどおりに生活できると勘違いをしてしまっているのではないか。私が云うのも変だが、世の中そんなに甘くないぜ。(笑) もっと厳しく言えば「努力した者が報われるほど社会は甘くない」のだ。働く貧困層(ワーキングプア)の増加はそれをを如実に示している。真に「努力した者が報われる社会」とは、実は皆が馬鹿にする「横並び社会」のことだったりする。横並び社会ではそこそこ努力すればそこそこの成功が得られる。経済が破綻したときはワーキングシェアで我慢。戦争もやったし経済成長も謳歌した。世界2位の経済力が無くても人々が幸福に暮らせる方法はきっとある。私はそう思いたい。

Past Tube

2f10e837.jpg動画共有サイトは底なし沼か。こんな映像があったのかってな映像が続々とUPされてくる。邦楽関係は JA*RAC の御活躍でかなり削除されているものの洋楽に関しては何でもありの状態が続いている。その中から私が注目しているのは、ビデオパッケージとして発売される可能性が薄く、いまダウンロードしておかないと二度と見る機会が無くなってしまうような映像だ。画像のうち上の3枚はこれまでもこのBLOGで紹介したことのあるKarina 。日本ではCDも発売されておらずほとんど知られていないスペインの40年前の女性歌手のこのような動画など、かつては新たに話題にならない限り一生見ることが出来なかった。それが検索次第でお目にかかれてしまうのがインターネットの凄さだ。Karina に関しては、これまで1971年のユーロビジョンソングコンテストの映像が見られる程度だったが、ここにきて先日紹介した「El baul de los recuerdos」のプロモフィルムが登場し、狂喜乱舞したのも束の間、今度は「En Un Mundo Nuevo」のモノクロプロモフィルムや映画「En Un Mundo Nuevo」のメドレーシーンまでもがアップされいてびっくり。プロモの内容は karina がヒッチハイクをするがなかなか乗せてもらえない設定。クルマに始まり、馬車や船、終いには旅客機に向かって karina がヒッチハイクサインをおくるやや馬鹿馬鹿しい内容。プロモがこういう映像で良かった時代がのどかで懐かしい。映画の方は今年の1月にスカパーのスペイン語チャンネルで放映されたのだが、私はそのチャンネルを契約しておらず、録画できずに悔しい思いをしたももの。そのほんの一部のみを見ることが出来たわけだが、karina が当時のスペインで茶の間(は無いか。リビングリーム?)のアイドルだった様子がよくわかる楽しい映像だった。ユーロビジョンソングコンテスト映像も最近では審査風景まで入ったヴァージョンがアップロードされている。高得点を得て満面の笑みを浮かべる karina の表情が印象的だ。他にも90年代にスペインのテレビに出演し、「Concierto Para Enamorados」と「Romeo y Julieta」を歌った際のビデオもアップされていた。こうした過去の映像を掘り起こすのが動画共有サイトの醍醐味ではないかと思う。karina だけではない。他にも、ESC優勝をうけてダブリンの会場近くで急遽撮影したと思われるSeverine の「Un Banc, Un Arbre, Une Rue」のモノクロプロモフィルムや、Chantal Goya が歌のお姉さん(おばさん?)になる前に、Nana Mouskouri、Mireille Mathieu、Dalida と同じ曲Alouetteをそれぞれのシチュエーションで歌う企画番組(画像一番下)など、面白い面白い。法的な問題もあるのだろうが、画像解像度を制限するなどの工夫してぜひこの「文化」は残して欲しいものだ。