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記事一覧

台湾国

7d38948a.gif仕事で台湾に行ってきた。親日的と云われる台湾では反日デモの心配は不要だが、近代化した台北市に実際に訪れてみると、いわゆる中台問題について理屈では語れない現実があるのを実感する。具体的に云えば台湾は経済的にはもちろん暮らす人々の意識も立派な準先進国になっており、いくら沿岸部での経済成長が著しいとは云えやはり中国とは別格だなというのが率直な感想だ。もちろん、高層ビルやら高速道路、大規模なショッピングセンターがあるからなんてことが理由なのではない。大都市上海を持ち出すまでもなくそんなもの中国に限らず今時どこの国にでもあるものだ。しかし、その都市の姿に「民主化の度合い」というファクターを重ね合わせながら人々や街を眺めると印象がグンと変わってくる。かつて台湾は蒋介石元総統による独裁が続いていたが、李登輝元総統の時代に大胆かつ最後には捨て身とも云える改革によって現在の台湾は民主化が達成されている。憲法を改正、万年地位を保証されていた外省人国会議員の特権が無くなり、台湾史上初の直接選挙によって選ばれたのが陳水扁現総統だ。総統には「一期四年、連続二期」の任期の制限もあり、独裁政権の発生も封じ込められている。この事実を踏まえながら、ブランドショップが群居する美麗華百楽園のような大規模ショッピングセンターや女子中高生が制服姿で行き来し渋谷や原宿を彷彿とさせる西門市場を訪れると、親近感どころか安心感すらも感じる。日本が本当に仲良くするべき国とはこういう国なのではないか。戦前、日本は台湾を併合し台湾の人々を日本人とした。「二等国民」などと差別した歴史もある。にも関わらず台湾の人々は日本は台湾近代化の基礎を作ったと評価し、原則的に親日でいてくれるのだ。ところが日本政府は中国の経済発展による経済的恩恵に期待するあまり、中台問題はアメリカと同様、中国の国連復帰時に示されたひとつの中国論を原則に現状を維持し一切の変化を望まないという政策をとっている。まあ、台湾自体も中国大陸に多大な投資をしている訳で、経済的関係と政治的関係を必ずしも一致させる必要はないが、日本は政治的にもうちょっと台湾の人々に礼を尽くしても良いような気がする。例えばとりあえず仮にこの先、台湾の人々が大陸も自国の領土と考えた旧中華民国と完全に決別し、台湾のみでの新たな独立を企てた場合、日本は勇気をもってそれを承認するべきだろう。前出したがビルが建って高速道路が走って工業製品をたくさん作って多少儲かろうが、真に民主的でない国は所詮後進国なのだ。先日の首脳会談で中国は我国に対し、反日デモとは関係のない中台問題の件にまで釘を刺そうとした。その行為そのものが実に後進的ではないか。過去の歴史をきちんと認識することは大切だが、そのために現状認識を誤ってはいけない。台湾を認め真の民主化の何たるかを知ることの方が中国の人々のためになるのではないか。既に台湾は近代化と民主化、そのいずれもを達成してしまったのだ。この事実は止め処も無く大きい。

謝罪要求立国

f9074799.jpg1972年、田中角栄首相が北京を訪れ発表した日中共同声明の一節。「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」 1995年、村山富市首相の終戦記念日談話。「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」 過去30年間、日本はこの代表的な声明を含め、侵略戦争についての公式に21回もの謝罪を行っている。しかし、例えば前者は「自らの反省の弁」を述べたのであって「謝罪」とは云えない。後者は内容は評価出きるが中国を特定して謝罪していない点、「談話」であって文書での無い点から正式な謝罪ではない。・・・というのが現中国指導部の「屁」の付くような理屈による見解だ。正式な文書による謝罪って一体何なのか? いつ何処でどのようにすれば正式な謝罪になるのか? 戦後60年を節目に「日本国第二次世界大戦謝罪大宣言」とやらでも国会で決議すればそれでいいのか? 日本は1951年のサンフランシスコ講和条約(多数講和)、1956年の日ソ共同宣言、1972年の日中共同声明によって旧連合国すべてとの講和を実現している。1956年には直訳すれば「連合国」となる国連に加盟し、米国に次ぐ国連分担金と職員を投入、さらにやはり米国に次ぐ額のODA(政府開発援助)を中国を含む発展途上国に30年以上にわたって行い、国際社会においてするべきことは行い、それに応じた地位も確保している。日本の国連常任理事国入り云々もそうした活動の延長線上にあるのではないか。そこを思うと謝罪だ歴史認識だを繰り返す昨今の中国政府の対応はとんでもない時代錯誤をしていると云わざるを得ない。これでは先の侵略戦争において我が国がアジア諸国に対して行ったことについては率直に詫びるべきと思っている私でも「いい加減にしろ!」と云いたくなってしまう。前出の日中共同声明で中国は日本との国交正常化に応じ、国家としての戦争賠償の請求も放棄しているが、これは田中角栄首相による上記反省の弁を毛沢東主席や周恩来首相が評価してのことでは無かったのか。一体、あれは何だったのか? 戦争賠償請求を放棄までをした偉大な国が30年後の現在、事ある毎に謝罪せよだの歴史の歪曲だなどとネチネチと繰り返し難癖を付けている。まるでサド国家だ。私個人は侵略戦争を正当化する気は毛頭ないが、あれからもう60年も過ぎているのだ。歴史認識も大切だが、あの国の現状認識はどうなっているのだろう。では何故、あの国は現状認識を誤るほどに歴史認識に拘るのか? それは歴史認識に拘らないと国自体が崩壊するからだ。実はイデオロギー組織としての共産党は30年前に既に崩壊している。人民公社で知られる1958年に始まる第2次5か年計画(大躍進政策)は3000万人近い餓死者を出し、それを隠匿するために1968年頃行われたプロレタリア文化大革命では数百万~2000万人もの人々が反動分子として処刑された。仮に1937年に日本軍が中国人に対して行ったとされる南京大虐殺が中国が主張するような数十万人規模で行われていたとしても、その戦争が終わった後、日本では石原裕次郎がスターになってそろそろ国も豊かになろうかとしてた時代に、その中国が自国民に対して合計5000万人規模で虐殺(餓死は虐殺)を行っていたのだ。政権は転覆しなかったものの共産主義は政治的にも経済的にも完全に破綻してしまった。毛沢東主席は自己批判をし、70年代になると経済立て直しのために米国に接近する。日中共同声明もその流れにあるものだ。そして毛沢東主席の死後の中国は古い政治体制のまま市場経済への参加を開始する。経済の自由化はその副作用として国民意識の自由化ももたらした。その結果起きたのが1989年「天安門事件」だった。古い政治体制は民衆に戦車を向け腕力で制圧し、共産党独裁政権は生き残ったわけだが、仮に天安門クーデターが成功しあのまま共産党独裁が崩れていたらどうなっていただろう。間違いなく中国はいくつかの国に分裂していただろし、場合によっては内戦なっていたはずだ。火種となるチベット自治区やウイグル自治区はともかく、都市部だって危ない。中国人民解放軍とひとくくりにされるが実は各軍区はかつて元々の軍隊だったものが集まったもので未だに独立意識が強い。国家主席になった胡錦涛氏がなかなか軍事委員会主席になれなかったのはそのためだ。北京と上海では軍の中で使う言葉も異なるのが中国軍。その結束が弱まれば何が起こるかわからないが、とりあえず現在は結束が守られている。なぜ守られているのか? それは古い体制が一応機能しているからだ。古い体制とは既に30年前に崩壊している中国共産党のこと。ではなぜ形骸化しても機能しているのか? それは「結束を崩したらお終いだ」という保守意識もさることながら、中国共産党と人民解放軍は「抗日戦争を勝利に導いた」という一点で中国人民全体を結束させ統括しうる唯一の連合組織だからだ。他に10億の民を結束させる理念はそうはない。高度経済成長による富の魅力は国民を結束させるだけの理念ではあるが、実際に起きているのは眼を覆うばかりの貧富の格差。都市と農村の経済格差はもとより、都市部のエリート層でさえも勝ち組と負け組との激しい格差があるというのだから堪らない。10億の民がかつての日本のような一億総中流意識を持たない限り、高度経済成長による国民は結束は望めないが、それは100年経っても難しいのではないか。結局、共産党が存在しなければ国は分裂に向かうわけで、その共産党を維持するには「抗日戦争勝利」の功績を60年も70年も100年もずっと謳い続けなければならないってことなのだ。つまり、日本に謝罪を求め続けることによってのみ中国は国家の統一を維持出きる。なんということだ。しばらく前までは毅然とした中国外務省報道官の発表を「怖い国だな」と思いながら見ることが多かったが、最近はその毅然とした態度が「国を統一するために必死な姿」として憐れみの気持ちで見るようになってきた。かつて朱鎔基首相が来日し日本のテレビに出演した際、「10億の人々を束ねるには日本の人々にはわからない苦労がある」と率直に云っていたが、案外それが本音なのだろう。日本が国連の常任理事国になり、敵対国条項が削除されてしまったら、「抗日戦争勝利」も対外的には完全に過去の出来事になる。国を束ねる手段をひとつ失うようなものだ。これは中国にとって脅威なのだろう。ちなみに中国の学校では「第二次大戦で日本は米国ではなく中国共産党軍により敗北させられた」と教えていて、中国の戦後教育を受けた人々は留学経験のある人を除くとみなそれを信じている。歴史の歪曲によって成立している国に歴史認識をとやかく言われたくはない。国を束ねる苦労には同情するが、そのために独立国日本をいつまでも利用するとは何とも情けないお国だと云わざるを得ない。

競争原理の不毛

4f0af70e.jpgバブルの崩壊、相次ぐリストラ、市場開放が叫ばれ、年功序列型社会から実力主義型社会へと移行しているらしい昨今、競争原理こそが活力をもたらすと信じてやまない人々が少なくない。単細胞な経営者は労働者を競争させれば通常の倍の労働力を引き出すことが出来ると信じ、従順な労働者は隣の奴より仕事が出来れば格段に給料が良くなると信じている。そんな連中が競争に負けがちな弱者に説教する際に使う常套句は「世の中は厳しい!」 私の嫌いな言葉のひとつだ。確かに世の中は厳しい。いや厳しいどころではない。「世の中は厳しい!」などと云っている連中が考えているほど世の中は甘くないのが真の現実なのだ。競争原理主義者は「努力すれば報われる」と信じている。受験戦争の如くコツコツと勉強し他者を圧倒する実力を確保すれば勝者となり有名大学に合格出来る。まあそんなところだ。なんともおめでたい。果たして厳しいと云われる世の中のどこにそんなセンター試験のような整然としたルールがあるだろう。いちいち例を示さないが実社会と云うのは奇奇怪怪、陰謀や羨望、欺きや怠惰が入り混じるもっとドロドロとしたものだ。「厳しく厳しく」などとと云いつつ学校型点数主義を実社会に持ち込んだ「成果主義」が敢え無く敗退していく現実。成果主義を唱えた連中は「日本の成果主義は真の成果主義ではない。」とか「実力を正しく評価する基準がない」とか「評価する経営者が年功序列で成り上がった連中だから」などともっともらしい弁明を並べるのだろうが、そんなルール的な部分に拘っている時点で実は社会的に負けだ。世の中はもっと多様。大地主の一人娘を嫁に貰えばその日から経済的勝者、親が金持ちならニートでも暮らせる。宝くじが当たればもちろん億万長者。社会とは元来そういうものなのだ。・・・などと書いてしまうとやや不遜かな・・・。まあ、そこまで落魄れなくとも、例えば利害関係のない友人をたくさん持つ人がいたとしたらそれは収入の少なさを補うほどの人生の価値があるだろうし、競争原理を家庭に持ち込んで家族間で言い争いをしているくらいなら最低限の経済生活で仲良く楽しく暮らしていた方がマシだ。無論、仕事が好きなのであればそれはそれなりに価値はある。熱心に仕事に取り組むことで大いなる幸福感も得られることだろう。しかし、この働いて収入を得るってことに拘り画一的な価値観に囚われると、わずかに多く受けとれるカネのために人々は多くの幸せを失ってしまう。競争原理が蔓延すると人々は勝ち負け以外のことに無関心になる。負けるゲームはすぐやめる。人の見えないところで秘密に練習したり勉強をし、他人の出世を妨げる。経済学的に見ればこれはかなり非生産的な所業だ。つまりそんな人間が増えたらこの国はお終いということ。競争は自発的意欲、創造力を伸ばすためにあるものであって、お互いを鞭で打ち合い痩せ衰えさせるためにすることではない。だいたい厳格に市場原理主義を持ち出せばサラリーマンをしている時点で既に社会的敗者なのだ。勝者とは億のカネを操る人々を云う。1000万程度の年収を貰って勝者気取りをしても仕方が無い。国家経済の贅肉を落とすための方便として使われた理念をいつもまでも信じている殊勝な人々が多くて困る。

Swallows

659fca00.jpgライブドアの堀江社長が日本外国特派員協会の講演で「インターネットが5~10年でメディアの主役になる」と云ったのに対し、フジテレビの日枝会長は「テレビは一番大衆に近いメディア。むしろテレビがネットを使いながら付加価値を広げていく。新しい技術革新と新しい視聴者サービスを怠らなければ、のみ込まれることは絶対にない。」と反論した。この議論、インターネットが普及し始めた10年程前からネット上ではよく行われていたものだ。パソコンやネットには詳しいがメディアの何たるかを知らないITおたくの皆様は口の中を泡だらけにしながら既存メディアに対するインターネットの優位性を説いたものが、なんと有名なIT企業の総帥が未だにそんな子供染みた理論を振り翳していたとは正に笑止千万、開いた口が塞がらない。10年前ならともかく、今それを云うのはペテンも甚だしい。仮に数年後にテレビがインターネットに飲み込まれるのなら、インターネット普及から10年の時を経た現在、既に新聞あたりはインターネットに飲み込まれていてしかるべきだろう。新聞1日分のデータ量など現在のパソコンやインターネットの処理速度からすれば取るに足らないものだ。しかし、インターネットの普及で新聞社が潰れたという話を私は聞いたことがない。むしろ実態は逆だ。新聞社のウェブサイトのトップページは検索サイトやテレビ局のホームページと並ぶ人気サイトであるばかりか、新聞社はインターネット上のポータルサイトや町や電車や航空機内にある電光ニュースに情報を流し、新たな稼ぎ口を見つけている。それもかつては専用線を敷設し経費がかけてやっていたものだが、現在は「インターネット」を利用している。こんな単純な例を示すだけでも技術的に可能だから飲み込まれると考えるのは実に小学生レヴェルの思考だってことがよくわかる。このようなことを書くと、既存メディアは規制に守られているから出来るのだとか暴利を貪っているくせにと罵る人が必ず現れる。確かに新聞は商法で守られテレビは免許事業として放送法で守られている。しかし、守られている反面、制約も多いことを世間の人々は知らない。例えば中波ラジオ局を買収すべく頑張っている昨今話題の会社のグループ企業にサラリーマン金融やアダルトエンターテイメント事業を行う会社があれば、定期的に行われる放送免許の更新はかなり面倒だ。放送局自身が放送以外に行える営利事業となると制約はさらに厳しい。やや話は逸れてしまったが、制約の多い電波事業に較べればインターネットは太平洋に自在に走り回れる高速船のように自由だ。その気になれば誰でもネット新聞を発行出来るし、ウェブラジオもウェブテレビも始められる。800億円も持っていてインターネットが優れていると力説するのであればすぐにでも始めれば良い。このように書くと今度は「日本は著作権規制が厳しいから商売にならないのだ」とネット厨は叫び出す。確かにJASRACの生真面目さは世界的に見れば異常。しかし、テレビ局も毎年億単位のカネをJASRACに払っているのだ。800億もカネを集められる会社ならそれは何とでもなるだろう。さて、皮肉はこの程度にして最後に「なぜテレビがネットに飲み込まれないのか」についての説明をしよう。テレビがネットに飲み込まれない理由(わけ)。それはメディアを使ったコンテンツビジネスに汎用性は不要だからだ。むしろメディアとしての特異性こそが商いのタネになる。インターネットでテレビを伝送したり新聞を表示したりすることは技術的にはそこそこ可能だが、テレビや新聞のメディアとしての特性をインターネット上で最大限に活かすことはかなり難しい。余分な機能が多いネットはマスメディアには向かないのだ。仮にシンプルな操作でウェブテレビが見られるように工夫したとしても表には見えないシステムそのものに多機能メディアゆえのリスクがついて回る。まあ、テレビの方も総務省のくだらん政策のために地上デジタル放送にはどうでも良い機能がたくさん付いてたりもするが、そんなもの実はテレビのメディアとしての特徴を弱めるものでしかない。極論してしまえば双方向性などテレビには不要なのだ。リモコンのボタンを2回押すだけで世界80億の人々が同時に同じ画面を見られるのがテレビ。光回線が各家庭に普及しようがそれをインターネットで実現するのは至難の業であることはITおたくの君ならわかるだろう。「道路があればどこへでも走っていける自動車の方が、駅でしか乗り降りできない鉄道より優れている。だから東名高速道路を片道10車線にして高速バスをたくさん走らせよう。」ってなものだ。決まった道しか往復しないのなら短時間に大量輸送が可能な新幹線の方がずっと快適で有利。私はJRの廻し者じゃないが駅を降りたら駅レンターカーを利用すればさらに便利だ。つまり、メディアとメディアの連携は重要で、それは時として莫大な富を生む。しかし、それぞれのメディアが合体することでそれぞれの特性が失われてしまったら、お客さまは見向きもしなくなる。かつてNHK紅白歌合戦の視聴率が70%であった時代があったが、正月休みに東京都民の70%が一斉にクルマで行楽に出かけたら、東名高速や中央道の車線は片道100車線あっても足りない。オマケに高速道路の中に路面電車の如く新幹線が走っていようものなら邪魔でしょうがない。大渋滞の原因どころか深刻な事故が起きるだろう。メディアの融合も同じなのだ。インターネットが優れたメディアであることは疑いのない事実だが、多機能であるがゆえの足かせがあることも見逃せない。そのあたりの損得の見抜き方は実際にメディアで働いてみないと判りにくい。昨今、インターネットの普及により個人が情報を発信可能な時代となり、メディアの特性を理解する一般の人は確実に増えてはいるが、そのノウハウはやはり100年も情報を発信し続けている新聞や70年程の歴史のある放送などマスメディアに一日の長がある。商売にならないコンテンツの虚しさも肌で知っている。今日、電通がフジテレビのTOBに応じた。株の取り合いの結果は別としてコンテンツビジネス界での勝敗はこれで決まったと云っていい。株のプロもメディア操作に関しては素人だったようだ。

メディア革命 (w

21bb2442.JPG筑紫哲也氏と堀江社長の対談を見た。江川昭子氏のHPや外国人記者クラブでの会見に続く堀江社長よるメディア論披瀝ということになる。それによると彼はBLOGをネット時代のジャーナリズムと位置づけているらしい。ネットでは有用な意見に人気が集まり、無用な意見は自然に淘汰される。既存の押し付けがましい偏ったジャーナリズムは不要なのだそうだ。おいおいネットのことを知らないジジイを脅かすにはそれで充分なのかも知れんが、そんな青いメディア論を振り翳していて本当に大丈夫なのか? 確かにBLOGはネット上での民主主義を体現するものだ。しかし、それはムーブメントであってジャーナリズムではない。かつて学生運動や労働組合運動が盛んだった頃、運動に熱心だった人々はさかんに新聞やビラを作成した。それはいわゆる左翼だけではなく右翼の皆さんも同様だった。政治活動だけではない。学校新聞や公民館報にまでお見事な論説が掲載されていた時代があったのだ。それらの中には優れたオピニオンも含まれていたし、それらが相互に交流して大きな意見となり当時の世論の一部となり大手の新聞に影響を与えたこともあったとは思う。簡単に言えばBLOGというのはそれの電子版じゃないのか? もちろんかつてのビラに比べて双方向性が高く伝播速度も著しく速ければ情報量も格段に多い。しかしそのポジションはあまりは変わらないような気がする。だとするとそれは残念ながらマスメディアの役割を代替するものではない。例えが適当かどうかは判らないが、彼の云ってることは草の根運動家がいれば既成政党はいらないと言っているようなものだ。既成政党もロクなもんじゃないからブチ壊したい気持ちもわからないではないが、仮に粉々に破壊したところで、そのうち草の根運動家が離合集散しながらロクでもない政党がまた再構成されることだろう。政党もマスメディアも所詮人間社会内で利害関係で一致を見た者の集合体でしかない。草の根民主主義を熱心に推進するのは結構なことだとは思うが、人の物欲や権力欲の巨大な集合体である既成団体を破壊するようなことをしたら命がいくつあっても足りない。だいたい彼自身をここまで有名にしたのもネットではなくテレビだ。例えばネットだけで有名になった人に代表には「ひろゆき」氏(2ちゃんねる)がいるがそれが知れ渡るために要した時間はかなりマタ~リしたものだった。さて、仮にネット上でマスメディアの役割を担えるとすればそれはいわゆる「ポータルサイト」ってヤツになる。ただしテレビのような簡便性を活かすなら使えるのはそのトップページとせいぜいそこからの1次リンクあたりが関の山だろう。そこに詰め込める情報量などごく僅かだ。ヤフーを超えるポータルサイトを目指すライブドアのHPを見ればそれは一目瞭然。(笑) 情報満載のフジテレビのHPともなると細かい画や文字が乱舞し見難くて仕方がない。(爆笑) ポータルサイトに映像リンクを貼れば情報量自体は増えるが、その分文字領域が圧迫されてしまう。それ以前に情報を得るのにいちいちマウスクリックしなければならないのがなんとも面倒臭い。クリック箇所を減らして連続映像のみにすれば操作は楽になるがそれではネットが単なるケーブルテレビになってしまう。それに比してテレビのニュースはどうだろう? あるいは毎朝家に配られる新聞はどうだろう? 電車の中で読むタブロイド紙はどうだろう? テレビが1日に放送する情報量は8TB(テラバイト)といわれる。半日寝転がって見てるだけで4TBもの情報が一方的に眼と耳から入ってくるとんでもなく恐ろしいメディア、それがテレビだ。「テレビなど見たくない。必要な情報はインターネットで取捨選択して得る」と考えるのは至極健全な行動だと私も思うが、家族がそれぞれノートパソコンを広げてカチカチマウスを動かしている家族団らんは極端な姿としても、マイクロソフトパワーポイントみたいな画面のネットテレビを家族で見るのもどうかとも思う。すでにDVDはいちいち「メニューが表示されて面倒だから嫌だ」と云ってる女子供年寄りが少なくない。繰り返しになるがその手順を簡単するってことは既存メディアと同じになるってことにしかならないのだ。私自身はインターネットがメディアの主役になるのはかなり怪しいと思っている。少なくとも現在のアーキテクチャでは困難だ。それ以前にメディアとマスメディアの違いを理想論ではなく実態としてもう一度精査する必要もあるように思う。

虚業立国・日本の自叙伝

c55da8cd.jpgある催しで仕事をしていたらいきなりビル・クリントンが入ってきた。第42代米国大統領御本人だ。その場にいた300人ほどの人々は急な出来事に驚き歓声をあげスタンディング・オヴェイションで彼を迎えた。しかし、周囲の熱狂とは裏腹に私自身はいろいろと思うところが頭の中を過ぎってしまった。コイツのお陰でいま私は苦労しているんじゃないかと・・・。(笑) この人、日本人にとってはあまりありがたい大統領ではなかったように私は思っている。彼が大統領になった90年代前半の米国の国内経済の状態は悲惨そのものだった。冷戦が終結し軍需産業が再編に向けて動き出す中、経済の方は日本を中心とするアジアの新興国に押されてしまい、街には失業者が溢れ治安は最悪、米国はその威信をすっかり失っていた。その解決として彼が行った政策は経済のボーダレス化と自由化。そう云うと聞こえが良いが、実際は品物の生産や消費が無くても儲かる資本主義にゴーサインを出したってこと。実体経済ではよく働きよく創るアジアにかなわないから別の方法を考えたわけだ。株式会社は株主のものでありその筆頭株主がオーナーであることは100年以上前から変わらない原則。この原則を徹底しただけで米国の景気は回復した。商品開発力が無ければある会社を買収すれば良い。もちろんカネは必要だ。しかし、そのカネは別の事業で儲けたカネででも当然良いし、カネを持ってる会社を買収して得た金でも良い。ペーパーカンパニーがとりあえず実体のないカネを集め、実体のある企業が地道な商品開発で得たカネを奪うことも可能にした。会社は株主のものなのだがら株主になれば泥棒ではない。細かいルールも変えた。そうやって他国にも経済の自由化を迫り、実体経済で成長した他国の会社を次々に買収すれば、当然米国にカネは集まる。ついでに云えば、株や証券を運ぶのに荷車や船はいらない。情報さえ伝達すれば商売は成立する。そこでクリントンがブチあげたのが「情報スーパーハイウェイ構想」だった。それは一般的にはインターネットとして結実するが、本来の目的は「軍事」。しかし、それが民間にもたらした効果は「虚業の加速化」。そしてそれは大成功する。ところでカネを集めると簡単にいうがその元資はどこにあるのだろうか。実は米国、日本と違い景気が悪くてもカネは持っている。なぜなら世界の資源利権を握っているから。掘れば出てくるものに然したる工夫はいらない。資本主義社会では資源利権こそ打出の小槌。その資源利権が他国に奪われそうになれば、米国は即戦争。実に判り易い。わが日本も商品開発力が近年かなり落ちてきた。このまま行ったら実体経済ではアメリカどころかアジアの国々に負けてしまいそうだから、経済を自由化して米国のように生き残らねばならない。それがこれからの時代だなのだそうだ。折りしも日本有数のメディアグループにM&Aを仕掛けた若手実?業家に世間の注目が集まり、旧体制を倒すヒーローよろしく彼を応援する日本人も少なくない。しかし、よく考えて欲しい。その彼が企業買収をするために集めたカネは「米国の証券会社から借りたカネ」であり、奪い取るカネは「日本人が働いて蓄積したカネ」なのだ。既得権益を諸悪の根源の如く考えている人が多いが、日本の既得権益は日本人が戦後60年汗水垂らして働いて集まったカネではなかったのか。それを他国に供出することに喝采するとはとんでもない亡国行為だ。資源利権をほとんど持たず、働くことでしか元資を得られない日本がクリントンの猿真似をして生き残れるとは到底思えない。90年代を日本経済を空白の10年と云うらしいが、クリントンに騙された10年と云ってもいい。御本人は引退し、こんな片田舎にやってきているってのにまだ彼に騙されたいと思っている日本人が多いのがなんとも情けない。

休刊情報

68bf6d46.jpg30年間地元の書店に並んできたタウン誌が昨年いっぱいで棚から消えた。このタウン誌は地方都市で発行されるこの手の雑誌としてはおそらく最古。31の出版社が加盟するタウン情報全国ネットワークは、1月29日を「タウン情報誌の日」としているが、それは1973年にこのタウン誌が創刊された日に因んでいる。なんとわが街のタウン誌は業界のパイオニアだったのだ。そのタウン誌が休刊した。発行会社は解散、特別清算手続きに入り、社員20人は解雇された。発刊してまもない頃の同誌は、当時10代前半だった私にとってまさに街への扉だった。誌面からは60年代に米英で生まれた若者文化が都会を経由してようやく田舎都市に流れ込んできたような新しさもあった。その頃の地方出版物といえば新聞のような活版印刷が主流、このタウン誌はツヤのある紙に写植で印刷されているというだけでもナウかった。(笑) 私自身もプレゼントに応募したり投書欄を利用した記憶がある。今でも旅行に出かけるとその土地のタウン誌を買って街を歩くことがあるが、わが街のタウン誌は広告と割引券ばかりで薄っぺらな他の地方都市のそれと比べると内容のあるしっかりとした誌面で、それは永年にわたり密かに自慢できるものでもあった。しかし、近年わが街でも後発のタウン情報誌が複数刊行されている。これらの情報誌、装丁や写真など見た目には大手出版社の雑誌と変わらない出来だ。比べると老舗の方はかなり地味。既に私自身はタウン誌を買うことはあまりないのだが、家人が買うのはムックを除くとほとんど後発の方。数年前、老舗誌の方にファッションホテルの広告を見つけた時、これはかなり厳しい状況にあるのかなとも思ったものだ。そして遂に今回の決定。結果だけをみれば、さもあらんという状況はいくつもあることはある。この老舗誌の仕事をしたあるタレントが「現代を生きている若者の感性と大幅にずれてしまっている。」とその保守性を批判した文章すら読んだ。ま、その通りなんだろう。30年の歴史を持つということは30年間働いてきた方もいるということだ。実際、この編集部の平均年齢は高く社員率も高い。一方、後発誌のライターはみな若い。そして社員率は低い。もともと大手出版社の周辺で契約ライターやらアルバイト!をしていた連中なのだから、とりあえず仕事は出来る。こりゃ経費人件費等々考えれば営業的には勝負あって当然だ。しかし、どうなんだろ。こういう状況は昨今、他のメディア関連業種やサービス業種でも共通しているんだろうとは思うが、いくら競争社会だからといって40歳定年みたいな業界ばかり作ってしまって世の中の人々は本当に幸せに暮らせるのだろうか。社会に出ても社員として採用されず、30歳くらいなってやっと社員になったと思ったら40歳になったら感性が古くなったと定年。苦労したなりに仕事は出来る人々だから以降はフリー(自営)で食い繋ぐ。むろん、それは仕事師としては立派な人生だとは思うが、その仕事相応の報酬が得られているようにはとても思えない。一方で定年を65歳にしましょなんて話もある時代だというのに50代の人々が20代の連中と同じことやらされて競争してる業界なんてのは大局的にみれば衰退するんじゃないかとさえ思う。競争!競争!と発破をかけつつ我が身を削り衰退しているのが昨今の日本。若者、中年、年寄りが一緒に生き生きと働いている業界を探すのは難しい。

中央アルプス市

79741cac.jpg駒ケ根市、飯島町、中川村が合併して出来る新市の名称が「中央アルプス市」に決まったそうだ。「南セントレア市」に比べればマシな気もするが、私は基本的に頂けない名前だと思っている。中央アルプスと南アルプスに挟まれたこの地区の景観は素晴らしく、特に冬の晴れた日の駒ケ岳は息をのむほどに美しい。3市町村共通のアイデンティティを中央アルプスに求めようとする気持ちはよくわかるが、何もまんまそれを名前にしなくても良いのではないか。それぞれの地域には景観だけでなく歴史や文化もある。まず純粋な日本の言葉から地名を考えて欲しい。例えば駒ヶ根市には赤穂という名称が付いた組織や公共施設が多い。これはきっと赤須郷、上穂郷というかつての地名に由来があるのだろう。飯島町は飯島郷、中川村は田島郷と片切郷だった。いずれも鎌倉時代から続く地名だ。私は保守的な国語学者ではないので外来語をいちいち排除するつもりはないし、歴史に因んだ名前がすべてだとも思わない。駒ヶ根という地名もきっと市制を敷いた時の新造語だろう。しかし、地名に外来語ってのは、あまりにドラスティック過ぎないか? キッパリと歴史と決別してるような怖さを私は感じる。グローバル化時代になったからといって、あなたは自分の名前をジョンだとかポールだとかいう西洋名に変えてしまうのだろうか。駒ヶ根市あたりでもアマチュアロックバンドをやってるような若者の中にはバンド内で自分達のことをジミーだとかジョニーなどと呼び合ったりしたりしている人もいるのかも知れないが、家に帰れば家族と沢庵つついて煎茶飲んでる生活をしてたりするのだろうし、役所にある住民票にはまず間違いなく日本語の名前が書いてあるはずだ。彼らは本当にジミーなのだろうか? もちろん、洒落でそう呼び合っている分には楽しくていい。彼らも学校や職場では真面目でいい青年だったりするのだ。「中央アルプス市」という名前は、地域の地理と景観の同一性をうまく表している名称ではある。でも、それってジミーだとかジョニーだとか云ってノリノリになりその気になってる田舎バンドのミュージシャンのステージ上のスタイルとあまり変わらないような気がする。地名は本名であって欲しい。そうでなければ世界に発信するすることも出来ないだろう。

EASY MONEY

d30c3c2f.jpgコンテンツ産業としてトップクラスの成功収めてる企業が技術も人材もなく黒字すら出したことない企業に株を買われて経営参加を要求されている。新勢力VS旧勢力、通信VS放送、市場解放派VS既得権益擁護派、そういう眼で見ている人は、今回の件をプロ野球騒動の時と同じように捉え、旧体制が慌てているのを喜んでいるのかも知れないが、実はその図式、残念ながら今回は当てはまらない。富士電子台は97年に東証一部に上場するなど、この10数年来、企業経営の透明性をグンと高めてきた。カネさえあれば誰でも買える株になっているのだ。今回のようなことも起こり得るべくして起ったこと。なぜ、そんなことをしてるのかといえば、それこそが既得権益に頼らずボーダレス時代に適応した経営ってものだからだ。株の公開買い付けはその変化の最後の仕上げのようなものだった。一方で実際そのグローバルな基準に満たない部門は仮に収支が黒字でもリストラしたりもしている。(^_^; ←(笑) 富士山系を甘くみてはいけない。生扉も選んだ喧嘩の相手が悪かった。会見で生扉の社長が富士電子台のホームページを有効に使えば・・・みたいなことを云っていたが、通信と放送の融合なんてことは10年以上前からさかんに言われていたこと。富士山系はそれよか前、パソコン通信の時代から必要な取り組みを進めておるのだよ、「皆さん」←(笑) 物販も30年も前からメディアミックスで行い高収益をあげ、国際戦略も20年前から専門会社を設立して行っている。むろん、インターネットの方が優れているというのならネットを利用するだけのことでしかない。ただそれだけのことなのに、何をそんなに特別視して考えるのだろう。Windows95が登場し誰もがインターネットを始めるようになった頃は「これは凄いことになった」と私も思ったものだが、あれから10年、今やネットもごくあたりまえのインフラになり可能性を語る時代は終わっている。インフラだけで食っていこうなんてことは少なくとも富士電子台は考えていない。あるのはごく普通のビジネス。つまりあえてネットベンチャーに頼る必要などどこにもないのだ。ところがそのネットベンチャーのやったことはなんと株の仕手戦。それも借りた金でやっている。(笑) 規制緩和が進んだのでそんなことも出来るようになったのね。仕手戦に負けてしまった富士電子台は大人げなく怒っているが、こんなことされりゃ責任を取らなきゃならない人も出てくる、怒るわな。いやそれもかなり本気で怒らせてしまったようで、10日の日経朝刊トップ記事を見て私はぶっ飛んだ。こりゃ国際試合か?? 日本参戦が決まった時点でちょっかい出した程度に考えていた米国や台湾は案外試合放棄するのかも。そしたら生扉は困る。私しゃアンタが気に入ってここにブログを置いているんだから一応心配しているのだが、米国会社員兄弟に嵌められていないかい。梯子外されたらどうするの?

汎地域主義の時代

9e30a054.jpg地方での生活で最もグローバリズムを感じる場所、それはジャ※コだ。私の家はある地方都市の郊外にある。近くには江戸時代からある街道が通り、かつてそこには商店街があった。八百屋、肉屋、菓子屋、荒物屋、蕎麦屋、煙草屋、下駄屋、布団屋、風呂屋、床屋、桶屋、電気屋などが軒を並べ、やや離れたところには米屋、魚屋、寿司屋、書店、薬局、麩屋、写真屋、時計眼鏡店などもあった。各店は奉仕券なる共通のサービスチケットを発行し、それを集めると行ける温泉旅行が地域の人々の楽しみだった。そこに30年ほど前、県下初のジャ※コが進出した。するとほどなく商店街は壊滅した。今でも菓子屋、下駄屋など数軒が細々と残るが、マトモな商売をしているのは床屋くらいだ。旧商店街経営者の中には自殺者も出たという。そして今度はなんとそのジャ※コが消える。さらに郊外、高速道路のインターチェンジに近い場所に巨大なショッピングセンターとなって移転するらしい。昨年から今年にかけて私は近県にあるその会社のショッピングセンター2箇所を実際に訪れてみたが、それは店というより巨大な箱の中に詰まった街だった。その箱には120を超えるテナントが入りレストラン街やシネコンまでもがある。ジャ※コはその巨大なモールのキーテナントに過ぎない。無料駐車場の収容能力は4000台。毎日曜日この駐車場がいっぱいになるようなことになれば、今度は地域の商店街ではなく駅前の中心商店街が壊滅することになるだろう。地球規模での効率化、競争力強化を考えれば、とりあえずこの現象は進歩だ。事実、全国規模で展開するレストランやファストフード店のメニューはコストパフォーマンスが異常に高い。近年は人件費も極端に節制しているようで、その価格たるやとても個人商店に真似できるものではない。商品内容がわかる安心感もある。貧乏人の私にとっては安いということは有難いことなのでよく利用させてもらっている。さて、高速道路を使い200kmもクルマを飛ばして行った大規模ショッピングモールではあったが、そこで購入すべきモノは私には無かった。家人は家の近くでは売られてないブランドがあったと衣料を数点購入したようだが、私は一緒に昼飯を食っただけで、あとは同じ敷地内にある日帰り温泉施設で寝ていた。120もの店が並んでいるがとりたてて珍しいものがあるわけではない。観光施設ではなく地域の人が利用する店なのだから地元名産品があるわけでもない。要するにこの手のショッピングセンターの中身はどこも同じなのだ。まさにグローバリズム。これがわが町に出来れば当然利用はするだろう。そこに行けば生活に必要な品は何でも手に入る。200円ほどのガソリン代はかかるがこれは便利だ。しかし、このBLOGを見れば判るとおり、無駄なことをしたり無駄な時間を過ごすのが好きな私にとっては、その便利さはあまりに便利過ぎて少々つまらないと思えることもある。日本中何処に行っても同じ箱同じ店というのには一抹の寂しさを感じなくもない。店によって様子が違っていたら時には隣町のショッピングセンターにも行きたくなるような気もするが、どこも同じなら行くことはないだろう。何処の町の駅前もミニ東京化しツマラナクなったと云われた時期があった。それでも田舎の町には訳のワカラン怪しい店が表通り裏通りにあり、恐る恐るそれを利用するのが旅のスリルだった。自分の街と同じものを見つけると親近感を覚え逆に喜んだりしたものだ。昨今それはない。駅前は衰退し歩けない街が増え、郊外に全国一律の店が並ぶようになり、旅は明らかにつまらなくなってしまった。かつては同じ県内でも他の町に行くと風情が変わり、それ案外面白かったのに今はそんな感慨は全くない。一体これは進歩なのだろうかそれとも衰退なのだろうか。◆◆◆◆◆◆◆◆最近、グローカリズム(Glocalism)なる言葉が流行り始めている。"Globalism"と"Localism"の合成語のようだが、「地球的規模の発想で地域活動を行う」という考え方らしい。反グローバル主義とはやや趣が異なる。グローバルに考えることは重要だが地域性を失ってはいけないということか。実際、グローバリズムが単に東京化米国化を意味するならそれは人類にとって巨大な文化的損失になるだろうことは私のような馬鹿でも判る。仮に各地域の多様な文化を吸い上げて優れたものだけを還元するのがグローバリズムだとしたらローカルの衰退はやがて世界の衰退を招くだろう。いくら優れていても均質化単純化された社会から生まれる文化など長い眼で見れば不毛だからだ。経済的には無駄と思えることも文化的には意味のあることはいくらでもある。私の街に出来る大規模ショッピングセンターにも、せめて建物を仏閣型にするくらいの洒落は欲しいと思う。