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マニュアル人生の果て

子供が関係した悲惨なニュースが相次いで報道されている。個々の事件について詳細に触れるつもりはないが、その数の多さには驚く。子供が殺されたり猟奇的な事件そのものは昔からあったが、その背景は時代によって異なる。かつては貧困やら狭い社会の中で起こる地縁血縁のトラブルのようなものや身代金目当てのものが多かった。連続ピストル射殺(警察庁広域重要指定108号)事件や吉展ちゃん事件あたりがその代表例だ。それが20年ほど前からチラホラと変な事件が増えてきた。おそらくその最初の重要事件は東京都八王子市在住の27歳(当時)の青年が起こした『連続幼女誘拐殺人(警察庁広域重要指定117号)事件』だろう。ビデオテープで溢れる部屋がテレビに映し出されたのはかなり象徴的だった。その後、いわゆるいじめによる虐待殺人事件が多くなり犯人の低年齢化が進む。少年による犯罪といえばゲームのような犯行声明文がマスコミを賑わせた「神戸連続児童殺傷(酒鬼薔薇)事件もあった。殺人ではないが犯行当時28歳の青年が小学校4年生の少女を9年2ヶ月も監禁し続けた新潟少女監禁事件なんてのも私はかなり気になる事件だ。そして最近増えているのは子を持つ親がいとも簡単に自分の子や他人の子を殺してしまう事件。もはや世も末か? 事件が起きるとマスメディアは必ず「テレビが~」とか「アニメが~」とか「ゲームが~」とか「インターネットが~」などと背景を語ろうとする。むろんそれは背景の一部だが原因ではない。きっとそれは虚構と現実の境目が希薄になっていると云いたいのだろうし、確かにこうした事件に共通するのは「生きているという現実の希薄さ」のようなものだ。現代社会では、かつてのような地縁血縁による結びつきが減り、その代わりにヴァーチャルでかつ強烈な情報が溢れている。子供や若者だけでなく子供を育てるべき親や教師までもが、何をするにもマニュアルを求め、そのとおりに生きていたりもする。とりあえずそれも自己実現ではあるが、かなり安直なものだ。毎日がハンバーガーショップの売り子のような生活や会話ばかりではいくらきちんと応対が出来ていても、やはり生きてる現実感は薄くなる。また、たまにコダワリを持って生きる人がいたかと思えば、マニュアルを遵守することが信念だと勘違いしてたりして実に辟易する。もっと困るのは変なマニュアルに深く洗脳されてしまっているがために、モノを買った先やら職場やら地域やらPTAなどアチラコチラでクレームを付けては興奮し、自分に酔い、それを生きがいにしているような人だ。もちろん、世の中そんな輩ばかりではない。しかし、狂った現実に追いまくられ気が付いた時には自分が狂ってしまっていたってのが現代社会の異常さなのだ。のんびりと自分と自分をとりまく社会を見つめなおし、焦ることなく生きていればそういうことにはならないのだが、そんなことをしていたらとりあえず生存競争に負けてしまう(らしい)。これを読んでいるあなたや書いている私も既に狂ったルートの途中に立っているのかも知れませんね。

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