記事一覧

仏の顔は一度だけ

saidan喪主を体験した。通夜があって告別式があり、その日に初七日法要も行い、四十九日の法要をして納骨をする。ごく一般的に行なわれている葬儀だ。たいした家柄でないので費用は抑えた。それでも150万円は超える。平均葬儀費用は236万円だそうだ。なるほど抑えずにやればそのラインに簡単に届く。普通に働いて家族を養えている人ならば出せない額ではないし、他に方法が見つからなかったので、とりあえず一般的な葬儀を出してみた。しかし、実際にやってみると正直違和感を感じる。何か釈然としない。葬儀は無事終了した。が、やって良かったという気持ちが希薄だ。嵩む費用の方が気になる。良かったという気持ちになれれば、200万程度は使っても構わないと思う。しかし、そうでなければ出費は10万でも惜しいものだ。どうしてこんな気分になるのか。まずもって仏教徒でもないのに多額のお布施を包んでいる自分に矛盾を感じた。作法も一から覚えなければならないし、葬儀の手順を必死で追っているうちに一通りの儀式が終り、故人を偲ぶなんぞという気分にはまったくなれなかった。私自身、唯物的で純朴じゃないしなあ。じゃ、何で仏教で葬式をやるんだよ!とお叱りを受けそうだが、他に方法が見つからなかったのだ。人間関係の希薄さも感じた。我が家の場合、親族には恵まれ、型どおりの式を行なうには十分ではあった。しかし、この十数年の親戚関係を振り返ればそれは冠婚葬祭互助会みたいなもので、ふだんから交わることはあまりない。冠婚葬祭のみを支えあっている。これも不健康。お互い様とはいえ、とても恐縮で申し訳ない気持ちになってしまった。ところで、その嵩んだ費用は一体どこに行くのか。主に葬儀社と寺院。さらに墓を立てれば石材店、仏壇を用意すれば仏具店。容赦なく一万円札が吸い取られていく。サッカー解説の松木安太郎氏ではないが、「なんなんすか、これ?」と言いたくなる。葬儀社が悪いわけではない。祭壇の使用料にやや疑問は残るが、他のサービスについては利用相応の対価だ。寺院についても同じ。お経を読んだり戒名を考えたりするだけで数十万と考えれば高価だが、その位でないと住職が普通に生活し寺を維持するのは難しい。お布施は無税だから月に一回葬式があれば、普通の会社員程度の収入になるわけだが、100軒檀家がいたとして、毎月葬式があるだろうか。否だ。どうも5~600軒ほどの檀家を擁しないとマトモな寺院経営はできないらしい。このしくみ、いつまで維持できるのだろうか。おそらくあと10年ほどかなと思う。団塊世代の人口が多いのでそれまでは見かけ上続く。しかし、それ以降は一気に簡素化してしまうのではないか。既に都会では直葬、家族葬が激増してる。費用への不満はともかく、集まる親戚がいないのだから無理もない。私のようにそこそこ型どおりの葬儀を出せた者でも、その結果あまりの違和感に「自分の時は葬式不要戒名無用」との意を固めてる人が少なくない。集金システムばかりが一人歩きしているような現在の状態はいずれ淘汰されるではないか。納得のいく別のシステムが流行ればあっという間に転換することも考えられる。最悪、寺院は廃墟となり、文化風習としての仏教を如何に残すかが課題になるのだろう。どこぞやのアンケートによると、仏教への信頼度は実に80%、寺への信頼度は40%、僧侶への信頼度は20%程度なのだそうだ。死者を弔う気持ちや先祖を敬う気持ちが残っていれば仏教そのものがなくなることはない。人々の意識に合致した別のシステムが望まれる。

トラックバック一覧

コメント一覧