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記事一覧

袋叩き

6344d394.jpg明治生まれの高松宮妃(92)が逝去されたが、日本の総人口における明治生まれの人の割合は0.6%でしかないのはご存知だろうか。ちなみに大正生まれの割合は6.9%なので、併せても7%程度。戦前生まれの割合は25.9%。もはや総人口の4分の1になってしまった。これは平成13年のデータなので既に4分の1は切っているだろう。戦後生まれの最初の人々ってのはいわゆる団塊の世代(全共闘世代)。戦後教育を幼稚園から受けた最初の世代だ。彼らもそろそろ定年を迎えようとしている。彼らの上には戦前と戦後の教育を両方体験した世代、さらに上には戦前教育を受けたいわゆる昭和ヒトケタ世代がいるが、最近そのあたりの経営者が吊るし上げを食うケースが頻発している。今、ちょうど「NHKに言いたい!」なる番組が生放送され、エビジョンイルこと海老沢勝二会長(70)が識者視聴者に徹底的に糾弾されているが、今年は渡辺恒雄読売新聞社社長(78)や堤義明西武鉄道会長(70)あたりももえらくご苦労な年だったと思われる。この手のニュースを見ていると、「いよいよ昭和ヒトケタのメンタリティが世の中で通用しなくなってきているのかな?」と思わざるを得ない。具体的に言えば「権威を振り翳すことを当然と考えるやり方」ってのが通用しなくなってきているってことだ。昭和ヒトケタ世代にとって「権威」とは勲章であり、悪いこととは思わないどころか自慢すべきことなのだが、戦後世代、特に全共闘世代あたりにとっては「権威」は反抗すべきもの潰すものであって、むしろ「反権威」みたいな言葉が大好きだったりする。その後に続く我々の世代や若者も「何となく」反権威だったりするから、個人的には今年の流行語大賞だと思っている「たかが選手」などと言う言葉を発してしまおうものなら、戦後教育世代は過剰に反応し、マスコミ界のドンである御仁も思い切り袋叩きにあってしまった。海老沢会長といいナベツネといいマスコミのトップには権威を振り翳すヤな野郎が多いのだろうか。昭和フタケタのはずの日枝久民放連会長(67)までもがCMカット問題で糾弾される始末だ。この世代で権威を振り翳して上手くやっているのは石原慎太郎都知事(72)ぐらいか? むろん、昭和ヒトケタ世代には、野坂昭如(74)や殴られた大島渚(72)など自分が受けた戦前教育への疑問から徹底して反権威を貫いたような人も各界にはいる。でもそういう人に限って体が弱いようで、あんなに元気だったお二人も今や揃ってリハビリ中だ。あと10年もすれば頑固一徹なそれらの世代の人々が懐かしく思えるようになってしまうのかも知れない。

フランシーヌの場合

86d77895.jpgフランシーヌの場合 1969年

■作詞 いまいずみあきら
■作曲 郷五郎
■歌 新谷のり子

1969年に80万枚を売った大ヒット曲。当時、小学生だった私も歌った記憶があるが、この歌の背景を知ったのは後年のことだ。フランシーヌとはベトナム戦争とビアフラ飢餓に抗議して焼身自殺したフランス人女性の名前。"Francine Lecomte" でネット検索すれば情報はかなり出てくる。が、肝心のフランスのサイトで検索しても全くページがヒットしない。それは歌のヒットが無ければ忘れ去られていた出来事だったということを物語ってはいまいか。フランシーヌのいう女性が1969年3月30日にパリで焼身自殺したことは事実で、AFP電として日本の新聞でも報道された。報道機関ってのは自殺を報道する際、故人からのよほど明確なメッセージが無い限り自殺の原因を断定することはない。ネット上で朝日新聞のベタ記事を読んだが、この記事でも現場がパリ会談(ベトナム戦争打開のための米、南北ベトナム、解放戦線の4者による拡大会談)の会場の近くだったことや、女性がビアフラ飢餓の記事の切り抜きを持っていたり、ウ・タント国連事務総長(当時)宛に手紙を書いていたりしたことを伝えてはいるものの、精神科にかかっていたという家族の話も付け加え、原因の断定はしていない。報道されていない別の自殺動機もあったとの噂も当時からあったらしいがその真偽は程はわからない。ただ、この歌を作った人達は彼女の自殺を戦争や飢餓への抗議(これも断定している訳ではないが)と受けとったようで、歌を聴いた多く人も反戦歌と思ったようだ。そして新谷のりこさんは今でも反戦平和の願いをこめてこの歌を歌い続けている。だから自殺の動機はどうであれ歌は歌で良いのではないかとは思う。それよりも現在の国際状況が35年前のそれと「役者と舞台が変わっているだけで本質的に何も変わっていない。」ことに驚く。ソ連邦が崩壊しベルリンの壁が無くなった時はそれまで常識が崩れ去ったと思ったものだが、変わったのは役者だけだった。米国は相変わらず世界の富を奪取独占するために武力を行使し、日本はそれに乗って経済的繁栄を維持しようとしている。その恩恵に預かってぬくぬくと生活している者が反戦を唱えても残念ながら説得力はない。ホントのことを云ったらオリコウになれない時代にすっかりなってしまったということか。

悲しき小鳩

e512530b.jpgひばりのサーカス 悲しき小鳩 1952年 モノクロ 91分 松竹大船

■監督 瑞穂春海
■脚本 伏見晃
■音楽 万城目正/田代与志
■出演 美空ひばり/佐田啓二/岸恵子/三宅邦子/堺駿二/川田晴久

美空ひばり子役時代の映画。監督は長野市出身の瑞穂春海。「小野まり子は信州の小都市のミッション・スクールに預けられて勉強していた。学校の聖歌隊の一員だが、かくれて唄う流行歌に天才的なひらめきを見せていた。」(←goo映画サイトのあらすじより引用)流行歌に天才的なひらめきってところが美空ひばりそのまんまで実にベタな設定で泣かせる。さらに嬉しくなるのが信州の小都市のミッション・スクール。信州の小都市とは松本市のことだ。映画本編の冒頭は城山の展望台あたりから撮影した松本市の俯瞰のパンニング。そしてミッション・スクールの外観にオーバーラップ。そのミッション・スクールってのはなんと「開智小学校」。ただし、現在の開智小学校ではない。国の重要文化財「開智学校」の校舎が現役で使われていた旧開智小学校のことだ。旧開智小学校は昭和39年まで松本パルコ北側の女鳥羽川沿いにあった。開智と云えば現在は移築された開智学校や開智小学校が建つ松本城の北側あたりの地区のこと指すが、元々は旧開智学校のあったあたりを開智町と云った。現在の地番では中央1丁目のあたりになり女鳥羽川にかかる開智橋という橋の名前にその名残がある。重文校舎は東を正面にして建っていて、西(裏)側は増築した校舎と校庭になっていた。映画ではこの校庭(裏)側が頻繁に登場する。校舎側が背景になると重要文化財の裏側が、反対側が背景になると伊勢町から開智橋に通じる町並みが映り込んでくる。木造の民家や蔵が並ぶこの道をサーカスの宣伝隊が通るシーンもある。道自体は現在も残っているが、Mウィングという巨大なビルが建ち当時の面影は全く無い。近年の大胆な町並み近代化によりこのあたりは全くの別世界になってしまった。「農林技師とばかり思っていた父隆太郎がサーカスの道化師だったことがわかると、まり子は学校をやめて父と共にサーカスの巡業に加わった。」(←goo映画サイトのあらすじより引用)ひばりは父に母のことを聞きだすわけだが、その辛いシーンは地蔵清水。現在の市役所前の道路だ。巨大な土管がゴロゴロと転がっていてここは一体何処なのだろうって感じがするが、道の奥に松本カトリック教会が確認出来る。松本城は敢えて画面に入らないように撮影してはいるものの、二の丸跡に建っていた裁判所の建物が時々見える。ちなみにこの建物も松本司法博物館として島立に移築されている。さて、ひばりの加わったサーカス一座はその後、長野へと巡業に出かける。ひばりの歌をBGMにサーカスの一団は梓川にかかる梓川橋を渡って長野に向かう?・・・ってそれじゃ国道147号線、大町に行ってしまうではないか? 田沢に向かう国道19号線は無かったのかいな? ま、そこは映画のトリック、アルプスを背景にした雄大な移動シーンを撮影するならやはり梓川橋ってものだろう。残念ながら続く長野市でのシーンについては長野市らしい風景はあまり出てこない。旭山とおぼしき山を背景にした場所にサーカス小屋が建てられているように見えるので調べてみたところ、昭和27年6月22日に信大付属小校庭(現在の信大教育学部グランド)でロケが行われていたことがわかった。スタッフ総勢80名、撮影は正午から4時間ほどに渡って行われた。現場には、美空ひばり、佐田啓二、岸恵子らを見たいがために朝から弁当などを持ったファン8千人ほどが集まり、スタッフは撮影よりも人出の整理に忙殺されたらしい。正に故郷に錦を飾った瑞穂春海監督といったところだが、実はこの付属小校庭、昭和15年までは瑞穂春海監督の母校である長野中学(現在の長野高校)が建っていた。その後長野中学は上松に移転してしまうが、監督はその想い出深い場所で、せめてそこから見える周囲の風景だけでも自分のシャシンに収めておきたかったのではないかな?などと勝手に想像してみた。さて、父から母の居場所を聞き、熱海にその母を尋ねたひばりだが、その帰り、手持ちの金がないため長野までの切符が買えなかった。やむなく手前の駅で降りて歩こうとするわけだが、その降車駅がどこなのか判らない。駅舎の様子やホームにせまる山などから戸倉駅かな?とは思ってはみたが、駅前が温泉地の乗車駅としてはあまりに寂しい。篠ノ井線田沢駅の可能性もあるかな?と思っている。もう少し調べてみたい。この駅からひばりを長野まで送ってくれたトラックの車体には中条村の信州陸送と書かれている。電話番号までしっかりと書かれており、案外、映画のロケに協力した実在の会社だったのかも知れない。最後に瑞穂春海監督のこと。長野出身のこの方は、無声映画時代の大監督池田義信氏(長野市宇木出身)を頼って松竹の監督になった人だ。美空ひばりの映画を数多く手掛け、この手の歌謡映画でたくさんのヒット作を制作し、晩年は生家である善光寺蓮華院の住職をされていた。ローカルのテレビ番組などで何度かお顔を拝見したが、なぜか色艶の良い?善光寺の他のお坊さんと違い、僧衣は着ているものの痩せていて如何にも映画職人然とした方だったという印象だった。

姉妹

4300e25e.jpg姉妹 1955年 モノクロ 95分 独立映画

■監督 家城巳代治
■原作 畔柳二美
■脚本 新藤兼人/家城巳代治
■出演 野添ひとみ/中原ひとみ/望月優子/多々良純/北林谷栄/殿山泰司

姉妹と書いて「きょうだい」と読む。貧困と対峙する青春・・・。独立映画などといわれると教条的な匂いがプンプンしてきて逃げ出したくなる向きもあるが、「川口隊長の奥さん綺麗だわ~」とか「元祖歯磨き一家の奥様も可愛かったのねえ~」などと全くもって不謹慎な興味を持って最後まで見入ってしまった。綺麗な人は綺麗だし、可愛い人は可愛いのだから仕方がない。思想教条的な映画は他にたくさんあったはずで、この程度の内容ならば当時としてはごく当たり前のヒューマンストーリーだったのかな?とも思う。さすがに発電所の屋上で働く若者達が合唱する様は合唱部だった私でも見ていて気恥ずかったが、日活の裕次郎映画「陽のあたる坂道」や「あじさいの歌」あたりでも家族が団らんのあとに合唱したり、若者がパーティーの途中で合唱したりするシーンが見られる。この点も、当時としてはそれが進歩的かつ民主的な光景としてイイ感じだったって程度のことなのかも知れない。さて、本題。例によってこの映画の舞台も長野県。映画では松林市という架空の地名となっているが松本市がロケ地だ。松本城もしっかりと登場。姉妹は現在の松本市役所の前の道を歩きながら北上し、姉は松本カトリック教会に入っていく。道路は未舗装で広場のようにやたら広い。当時、このあたりは地蔵清水と呼ばれていた。移転前なのでそこにはまだ市役所は無い。道路沿いには古い民家や商店が並んでいる。現在は松本カトリック教会の左脇に南を向いて建っている地蔵清水(井戸)の石碑が、筋向いである松本城のお堀の角に東向きに建っているのも確認できる。松本カトリック教会は建て替えられてしまったが、現在も外観の雰囲気は当時とあまり変わらない。隣にあった司祭館は重文開智学校の隣に移築され今はそちらで見ることが出来る。姉妹の伯父さんが賭博で捕まったあと出てくる松本警察署はナワテにあった旧市役所だ。伯父さんは旧市役所から出てきて一ツ橋を渡り姉妹と会話する。夜の繁華街のシーンもオイシイ。伯父さんが松本城の外堀に浮かぶ「かき船」という食堂から出てくる。この店は現存する。どうやってこんな場所に出店できたのやらとても不思議な店だ。北アルプスの山小屋と同じで物事が細かく規制されていない時代に得た既得権なのかなとしか思えない。中原ひとみ役のニックネーム(コンチ)が子供の頃の私のものと同じだったのには笑った。彼女の友達の家は裕福な作り酒屋という設定で、それは「笹の誉」の笹井酒造。女鳥羽川沿いにあったササイというスーパーが笹井酒造の跡地だが、広々としているので島内の蔵なのではないか。大きな屋根に特徴のあるこの地方独特の古民家だ。衝撃的なレズシーン?が撮られたぶどう畑の場所は不明。常識的に考えると山辺あたり。当時は清水、横田、惣社あたりも一面田畑だったと思われるので、案外街に近い場所で撮られたか可能性もある。で、なんと肝心の学校の場所がまだ特定できてない。判る方、ぜひご教示ください。さて、姉妹の故郷である発電所だが、これは松本市ではない。故郷の駅を降りてそこから急峻な山道をバスで行った先に発電所はある。バスは山梨交通。よって山梨県であることが判る。駅も周囲の山に特徴があるので足を使って調べれば判るだろうと思う。発電所に関してはおそらく早川第一発電所だ。大正10年に建てられた古い発電所で、当時は多くの人が働き、古風な建物が特徴的だ。発電所を施工した鴻池組のWebSiteにあった写真と映画の発電所の外観はかなりの部分で一致する。いずれも関係者に聞けばすぐ判ることだが、独力で検証していくのもまたパズルを解くようで面白い。最近の映画やテレビドラマのロケ地を探すのは簡単なパスルとすれば、50年前の映画のロケ地を探すのはかなり難易度の高いパズルだ。だから余計に面白い。

三大怪獣 地球最大の決戦

6aa39e06.jpg三大怪獣 地球最大の決戦 1964年 カラー 93分 東宝

■製作 田中友幸
■監督 本多猪四郎
■特技監督 円谷英二
■出演 夏木陽介/小泉博/星由里子/若林映子/ザ・ピーナッツ/志村喬/平田昭彦

東宝オリジナルゴジラシリーズ第5作。三大スター怪獣(ゴジラ、モスラ、キングキドラ)が勢揃いする人気作だ。黒部渓谷に落ちた隕石から現れた宇宙怪獣キングギドラが最初に襲った街が松本市。市の広報車が市民にキングギドラの来襲を伝え、松本市民が逃げる逃げる。商店街の人々も次々にシャッターを下ろし避難する。松本市役所の屋上にいた人々は、松本城上空に飛来するキングギドラを目撃、天守閣の瓦が風圧で飛び散る。短いカットを積み重ね、緊迫したシーンが上手に演出されている。さて、このゴジラ映画に映った松本、現在はどうなっているのだろうか。まずはその松本市役所、これは1959年以来の庁舎が現存し、映画に映った屋上や展望室は今もその当時のままだ。もちろん国宝である松本城や観光客が慌てて渡って逃げていく朱色の埋の橋(うずみのはし)も変わっていない。他に場所としてわかり易いのはナワテ商店街のシーンあたりだろう。女鳥羽川にかかる中の橋を人々が右往左往しながら逃げる。橋の向こうにナワテの露店や中劇(映画館)も見えている。その中劇の建物の右隣には現在も越中屋という果物店があるが、当時はその2階がフルーツパーラーになっていた。映画では店内から窓の外を見て客やウェイトレスが逃げ出すシーンも含まれている。越中屋の窓から資生堂化粧品の看板の一部が見えているが、それは越中屋の隣にあったアルガという化粧品店(現在はカラオケスナック)。さらに別カットでは越中屋とシャッターの閉まった隣のアルガの店頭を背景に人々が逃げるシーンもある。こうしたことからゴジラ映画にナワテが映っているとの情報は特撮ファンの間ではそこそこ知られているようだ。が、しかし実は商店街のシーンはナワテよりも伊勢町の方がカットが多い。松本リンクストア事務所という大きな看板が目立つがそれは伊勢町にあった文化チケット(きっと買物額に応じて配られるチケット)の事務所。瘡守稲荷への参道も見えるがこれは筋向いの角屋靴鞄店の店内から撮っている。角屋靴鞄店の外観は参道入口左角にあった栗林薬局の内部から撮ったカットでみることが出来る。参道入口右角はみどりやという洋品店で、それらの店を背景に人々が逃げ惑うシーンもある。別カットでは紳士服のエース、田多井薬局の看板、ミセスはやしも映っており、いずれも伊勢町商店街にあった店だ。伊勢町商店街はこの映画の数年後に歩道アーケードを建設。7~80年代には女優秋本奈緒美の生家「BOSSひらさわ」なるジーンズショップもあったりしたが、90年代にはそのアーケードを撤去。道路も拡幅し大胆に近代化。これらの店の中で現存するのは栗林薬局と田多井薬局のみだ。田多井薬局はやや東に移転しているので、同じ場所にあるのは栗林薬局だけということになる。栗林薬局の方に映画の話を伺うと、当時のことを覚えておられ、監督さんがここに座ってシャッターを閉めるシーンを撮っていたなどの話を聞かせてくれた。栗林薬局の御主人(当時)は、映画監督の小沢茂弘氏(東映京都)と旧制松本中学(松本深志高校)で同級だったとのことだ。稲荷社の参道を介して栗林薬局の隣にあった田多井薬局やみどりやのあった場所は現在Mウィングという巨大なビルになっている。筋向いの角屋靴鞄店のあった場所も現在は駐車場、当時の面影は全くといっていいほど無い。個人的には前出のBOSSひらさわやナカガワレコード店、栗林薬局の隣にあった木曽屋という居酒屋、とても腕のいいDPEだった金鈴堂など自分が松本に住んでいた80年代の伊勢町が懐かしいが、この映画ではさらに20年遡る40年前の松本がフラッシュバックの如く登場する。特撮ファンには申し訳ないが、私は肝心の怪獣の方にはほとんど関心が無かったりもする。松本シーンの次に気になるのはザ・ピーナッツ(可愛いワ!)だったりもするのだが・・・。(現時点では市の広報車が走っている場所は不明。歩道と街路樹のある通りは本町、大名町、大手町くらいだろうからその辺りか。遠兵事務機センターの脇から電電公社(NTT)の鉄塔が見えるカットもあるがこれも場所が不明。松本在住の方で場所が判るかたがおられたらコメントやメールにでぜひ御教示ください。)

若いやつ

7e34e2ef.jpg若いやつ 1963年 カラー 91分 松竹

■監督 市村泰一
■原作 北条誠
■出演 橋幸夫/賠償千恵子/志村喬/沢村貞子/小坂一也/菅原文太

橋幸夫の歌謡映画。前年に「下町の太陽」で大ブレイクした賠償千恵子がヒロイン役。若き日の菅原文太の顔も見える。物語はバス会社の社長の息子(橋)が身分を隠し営業所で修行するという設定。そのバス会社が驚け!「川中島バス」。実名でバンバン登場する。川中島自動車時代の濃い緑のバスが最初から最後まで映画に出まくり。主人公が修行する場所は冬の赤倉営業所。田口駅(現・妙高高原駅)から赤倉スキー場までスキー客を運ぶ実際に存在する路線だ。田口駅は木造の旧駅舎、バスも鼻(ボンネット)の付いた古いもの。スキーを載せる車両後部の籠が懐かしい。極めつけは橋幸夫と賠償千恵子のデートシーン。場所が長野市。いきなり仏閣型駅舎だ。地附山ロープウェーに乗った二人は雲上殿からロープウェー雲上殿駅の2階テラスに歩いてきて雪の長野市街地を眺める。善光寺で鳩に豆を与えた後は御数珠頂戴。善光寺も大サービスだ。お次は石堂町の「おしゃれのコイデ」で橋幸夫が賠償千恵子にブローチを買う。おお、善光寺の御数珠頂戴に並んでいた人が今度は中央通りを通行人役で歩いているではないか。きっと撮影に協力した地元関係者をお礼を兼ねてエキストラに使ったのだろう。背景に必ず川中島バスが行き交うのがわざとらしくて実にいい。オレンジ色の長電バスが通り過ぎるオマケまである。個人的に思いきり嬉しかったのはコイデの隣の店の窓に貼られている「石坂料理学園」の大看板。これはかなり目立ち過ぎ。その後、橋幸夫は賠償千恵子をほったらかして父のいる川中島バス本社に出向く。正確にわからないが、おそらく西後町(現在の長野税務署のあたり)にあった本社だろう。プレハブ風の建物についた仮設階段を2階に登っていくとそこが本社になっている。これで長野シリーズは終わり。これらのシーンは長野観光連盟とのタイアップということで行われていたようだが、溶けた雪が路面にグチャグチャになっているような街の映像が観光に寄与しかのかはちょっと疑問。しかし、今はな無き地附山ロープウェーの飯綱号(戸隠号かも)が動いてる映像が見られるのは貴重だ。かつて地附山には動物園があり小さなスキー場もあった。ちなみにそこは特撮ドラマ「スペクトルマン(怪獣マウントドラゴン輸送大作戦)」のロケで使われたこともある。でもまあここが全国的に有名になったのはやはり1985年の巨大な地滑りだろう。現場にいた市の職員が恐怖に引きつった顔で「あっという間にベトが押し寄せてきた」と全国放送のインタビューに答えていたのが忘れられない。さて、市村泰一氏は松竹京都の監督、歌謡映画を撮らせたら確実にヒットを飛ばすという安定した実力が買われていた人。須坂市相ノ島出身。父親が教員で小学4年まで上田市に在住していたそうだ。

DVDメディア粗悪品

52438ed4.jpgごく普通に売られている台湾製のDVD-Rメディア。粗悪品の混入率が異常に高い。値段の安さに釣られてつい買ってしまったのだが、実際に使ってみたらどうしようもないシロモノ。かなり後悔した。CD-Rメディアが出回り始めた頃も、海外産メディアに粗悪品が多いことが指摘されたが、実害は少なかった。CDの場合、エラーが多いとそれは音質劣化となって現れるのだが、聴感上は音がこもる程度なので耳の悪い人には判らない。アナログ録音と異なりデジタルではS/N比が良いのでそここそ満足出来てしまったりもした。音声以外のデータが消えたり読み取れなかったことも無かったように思う。ところがDVD-Rの場合はそうはいかない。エラーは即、画面上のノイズになって現れる。アナログデータではないので映像同期が乱れるようなことはないのだが、画面が次のシーンに飛んでしまったり、モザイク状(ブロック状)のノイズが画面内に現れる。映画やドラマなどを見ていた場合、これでは興冷めだ。ドライブとの相性が悪いのかと考え、いくつか試してみたが結果は変わらなかった。次にDVD-Rメディアを購入した際、パッケージを開けた直後に盤面を観察すると無数のゴミと塗布物質のムラを次々に発見。こりゃひでぇ~モノを売ってる。50枚入りのケーキをゴミ箱に捨てた。いくら値段が安くても期待される機能を果たせないのであれば全くの無駄だ。現金をゴミ箱に捨てたようなもの。騙された。こうした製品は全国の有名電気店やディスカウント店で当たり前にかつ大量に売られている。質が悪くても期待される機能を果たしていれば価格相応なのだから問題はない。しかし、この場合、消費者が期待するであろう機能は全く果たしていない。製造しているのは台湾のメーカーだが販売しているのは日本の会社だ。消費生活センターは機能しているのだろうか。台湾メディアにすっかり懲りてしまった私はその後、国産品の雄、太陽誘電のメディアを愛用している。価格は3倍以上だが事故は今のところゼロ。製造自体の歩留まりも当然良いのだろうが、出荷製品のチェックも厳密なのだろう。そこにコストがかかってるとしたら製品の性質上、価格が高いのも止むを得ない。貧乏人には辛いが仕方がない。

スペシャルドラマ「弟」

d84122bd.jpgスペシャルドラマ「弟」

■原作:石原慎太郎
■脚本:ジェームス三木
■監督:若松節朗(共同テレビ)
■出演:渡哲也、三浦友和、徳重聡、長瀬智也、高島礼子、池内淳子、松坂慶子、仲間由紀恵、他

テレビ朝日が社運を掛けたドラマは、共同テレビの制作、照明もFLT。これで視聴率を稼げばフジテレビが祝儀を贈ったようなもの? もっと重々しいドキュメンタリーを想像していたのだが、実際は豪華俳優陣を並べた現代風ドラマだった。この安直さがテレビのウリというか身軽さではある。芸術祭に参加するようでそれはどうかと思うが、視聴率的というか興行的にはこの作り方は成功ではないか。映画なら子役はともかく青年期以降は一人の役者が特殊メイクで化けてとことん演じるだろうし、セットや背景ももっと正確に時代考証して作るだろう。そういうドラマを期待している分にはややスカを食らう作りではある。実際、60年代以前には無かったようなモノや背景が画面にたくさん出てくるのには驚いたし、それでかなり気が散った。そんな中、湘南高校でのサッカーシーンは良いロケ地を選んだと思う。あれは松本市のあがたの森だ。旧制松高の校舎の南側のグランドで趣のある古い校舎を背景に走るシーンをバリバリの順光で撮っている。闘病中の石原裕次郎が姿を現した慶応大学病院の屋上シーンは実際の慶応大学病院だ。すぐ近くに絵画館も見える。病院内部の撮影は松本市の信大付属病院の旧館で行われたらしい。剥き出しの配管が昭和の病院らしく雰囲気抜群。桜が綺麗な調布日活撮影所部分のロケ地は何処なのだろう? 本物の日活撮影所ではないようだ。石原裕次郎がデビューした頃の日活撮影所ってのはアジア一の規模を誇るピカピカの新築。壁は眩しいくらい白かったはずだが、撮影所の建物の外観はやや年季が入っていた。4夜5夜と晩年の闘病生活が話の中心になっていき、渡哲也や三浦友和などオトナの役者が渋い演技をしてドラマに風格を与えているし、原作の中から巧みにエピソードを抽出しているジェームス三木の脚本は見事だ。しかし、個人的には晩年の闘病生活の部分はあまり興味が沸かない。当時もワイドショーで散々見せられたし、その後もいろんな関係者の書物で読んだが、流動食だカルテだみたいな映像は正直見たくもない。実際、闘病生活の顛末より、「黒部の太陽」成功への一部始終の方がプロジェクトXぽくてずっと感動的だと思う。願わくばもっとドキュメンタリータッチで5~60年代を丁寧に描いたドラマが観たかった。

東証一部上場企業による悪徳商法

92a70fc2.jpg「この辺一体が日本テレコムの管理になる。NTTと同じなので事務手続きだけしてほしい」という電話を家人が受けた。電話だから相槌をうつ感じで「はい」と応じて話を聞いていたところ、契約申し込みと判断され、一時間後には契約を前提とした電話が「別の」担当者からかかってきた。私が出て「この辺一体がテレコムの管理になるわきゃネエだろう!」というと「そのようなことは申していないと思います」だと(笑) 「契約はしない」と応じると「キャンセルですね」というので「申し込み自体していない!」とキッパリと云ってやった。危ない危ない・・・。これはネ◇シ△ズ(◇=ク △=ー)URLは、w■w.ne▲yz.co.jp/。(■=w ▲=x)という代理店からの電話だ。(伏字にしてあるのは社名でのロボット検索ヒット防止。)早速、この会社について調べたところ強引な勧誘で有名なようだ。テレコムだけでなくヤフーBB勧誘やら、有名企業のマーケティング代行などまでしている。驚いたことにこんな会社が11月11日、東証一部に上場した。12月1日には大証にも上場している。困ったものだ。ネット上で調べてみると契約の意思をきちんと確認しないまま、実際に契約されてしまった人もいるらしい。そこまでいくと「詐欺」まがいではないのか。悪徳商法ってのは昔からあり珍しくもないが、テレコムのような有名会社の名を語ってというか、テレコムそのものの商品を売るためにここまでやるとは驚きだ。再三にわたってNTTからくる電話も迷惑だが、あれには違法性はない。ところがこちらはかなり違法臭い。こういう会社は直接苦情を云っても無駄だ。とりあえずテレコムに苦情メールを出しておいた。いずれ監督官庁(総務省)にも苦情メールをしようかと思っている。有名企業はもっと世間には判らないように悪事をするもんだ? 上場企業がこんなひっかけ勧誘みたいなことをしてるようじゃ世も末だな。

小さな恋のメロディ

42874ef0.jpg小さな恋のメロディ 1971年 カラー 106分

■監督:ワリス・フセイン
■原作/脚本:アラン・パーカー    
■音楽:ビージーズ、CSN&Y
■出演:マーク・レスター/トレーシー・ハイド/ジャック・ワイルド   

ようやくDVDが発売される。ある年代の者にとっては特別な感慨のある映画だが、実はヒットしたのは日本だけ。英国本国や米国では大きな話題にはならなかった。DVDの発売が今頃になったのも英米でDVD化がなされていなかったからだろう。いい歳をしたオトコがこの映画について語るのは今でも少々気恥ずかしい気もするが、実は私の場合、映画より先に当時ラジオで頻繁に流されていたタイトル曲「メロディ・フェア(ビージーズ)」が気に入り、それが目的で初回のテレビ放映を観たら、音楽以上にトレーシー・ハイドにすっかり夢中になってしまったという恥ずかしい過去がある。ビデオの無い時代だ。2度目のテレビ放映の時はカセットテープに音を録り「蝋燭の光でも撮る」ヤシカ・エレクトロ35で画面を撮影してたほどだからかなりのイカレ様だった。メロディのバレエシーンを射止めたテレビ再撮写真の出来が秀逸で、同級生のために何枚も焼き増ししたことなども今となっては懐かしい。ローティーンの恋愛を映画にすることは当時まだ珍しく、同年代の少年少女にとっておもいきり羨ましいストーリーだったことや、ブリテッシュロックの流れをくむビージーズ(オーストラリアだけど)の音楽が映像と溶け合っていたことなど、ハマった理由は他にもあった。なぜこの映画が日本でこんなにヒットしたのだろうと考えると、やはり70年代前半の日本の社会状況ってのもあったのかなと思う。71年の公開だがその頃英米ではもっと近未来的で過激な映画や音楽がもてはやされていた。それからするとこの映画は音楽も60年代後半風でやや古臭い。英米でヒットしなかったのもまあうなずける。ところがその頃の日本はといえば高度経済成長が一段落し、ブルジョワ階級だけでなくようやく国民全体が衣食住以外の贅沢に関心が向き始めた時代だった。よく言われることだが、日本にはビートルズ世代なんてのは存在しない。ビートルズが来日し大騒ぎになってた頃、彼らに夢中になってたのは時代に敏感な一握りの若者たちで、大多数の若者たちは「グループサウンズは不良である」ってな感じで年輩者共々、黄色い歓声を上げる少女たちを馬鹿にしていた。実際、60年代の中頃はまだ集団就職の時代なのだ。そんなものに現を抜かしてはいられない若者も多かったのだと思う。ところが70年を過ぎると風向きが変わってくる。シングル盤しか買えなかった人々がLPレコードを買うようになり、エレキを持ってフォークをやってる若者を不良という人はいなくなった。親はマイカーを持つようになり、子供部屋にはラジオだけでなく、テレビやカセットテープレコーダー、ときにステレオセットまでが置かれるようになった。その部屋にしっくりきたのが、ビートルズのポスターと赤ベスト、青ベスト。レコードや関連グッズの売り上げで見れば日本のビートルズブームはビートルズの解散と共に始まったと言ってもいい。物質的な豊かさが頂点に到達し、ようやっと米英の贅沢で、ある種モラトリアム的な若者文化を日本人も受け入れられる態勢になったのだ。だから、英米ではやや時代遅れとされた映画が日本で大ヒットした。そんな気がする。淡い初恋の映画に日本経済云々ってのも変な話だが...。