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記事一覧

海彦山彦

5c2e5431.jpg雨の中、大林宣彦監督「転校生 さよならあなた」完成感謝鑑賞会を観る。本当に雨の中で、だ。場所は国宝善光寺本堂前。本尊さまにも御覧いただける様、スクリーンは山門に貼られ、夕闇を待って屋外で上映された。監督がこのセルフリメイクを長野で撮影することとなったのは、監督が長野に訪れた際に、いわゆる尾道三部作を見た親世代から「50年後の長野の子どもたちに残したい伝えたい作品を作って欲しい」と懇願されたことがきっかけだったらしい。それを意気に感じで本当に制作をしてくれた大林監督には感謝の気持ちでいっぱいなのだが、尾道三部作に映された美しくひなびた坂の町の風情を知る世代にとっては、正直なところ「本当に長野で大丈夫か?」という不安の方が大だった。約半世紀前、木下恵介監督が描いた美しい長野はもはや存在しない。名作「野菊の如き君なりき」「風花」「笛吹川」に映る雄大な自然。千曲川から見た飯綱山。河川敷沿いの桑畑。長大な木橋。昨今、そうした北信濃の原風景を長野市内で見つけるのは難しい。今や飯綱山の麓から犀川沿い、さらに千曲川沿いまでの間、つまり善光寺平全体が建物で埋め尽くされてしまった。木橋は永久橋に架け替えられ、野菊の墓も大学とアパートと専門学校と食堂の建物の中に埋もれている。尾道のような風情は微塵もない。では都会化して美しく変貌したのか。それも怪しい。1998年長野五輪誘致のために作られたプロモーションビデオには、当の長野市民が驚いた。そこに映る長野は「大都会」。航空法を無視したかのような?美しい空撮で狭い長野の中心市街地を広角レンズでナメ回す。カッコ良過ぎて笑みが出るような映像だったが、実際はそんな街ではない。現実は昼間もシャッターが閉まった店もある典型的な地方都市に過ぎない。中心市街地の街づくりに邁進する松本に遅れをとっているのではないかと心中穏やかではない市民も少なくない。映画のロケ地としても最近は松本の方が良い作品が明らかに多い。プロの映像制作力をもってしても、尾道はもちろん松本にもかなわないだろうな...そんな不安があった。ところが、映画を見て驚いた。映っているのは生活観のある普通の場所だった。水道やガスの配管が露出しているようなモルタルの住宅、訪れる人が減った権堂アーケードやその裏の飲食店街、中途半端に古い(つまり汚い)路地裏映像が満載だ。風光明媚な風景は、戸隠の鏡池やそば畑程度、紅葉の時期の湯福神社、昌禅寺、松代の一陽館や清滝は美しいが、このあたりになるとそこを知らない市民も多い。長野西高校や長野市民病院に至っては、今の形のままで登場。五輪ビデオとは全く異なる長野が映されている。そして映像はほぼ全編ナナメ。「なんでナナメなんだよ~」とも思ったが、これも監督が昔からお得意の低予算特殊効果のひとつ? きっと日常を非日常として撮影しているのだろう。もともとオトコとオンナが入れ替わるなんて全くの非日常的なストーリーだ。ネタバレになるのであえてその内容はここには書かない。しかし、その物語の背景に映る、普通に古い市民も見過ごすような路地裏がなぜこうも魅力的に見えてしまうのか。とても不思議だ。私はそこにこそ大林監督の示唆するものがあるような気がしてならない。監督は舞台挨拶で「日本人は開国以来皆「海彦」となって海の向こうの諸外国から文明や経済政策を移入して国を高め展いてきた。僕は海彦として海に生まれ海をこよなく愛する人間であるが、この六、七年、何故かキャメラが山に向くようになった。」と語っていた。実は監督と故郷尾道との関係は昨年あたりからあまり芳しくない。直接的には映画「男たちの大和」で使われた戦艦ヤマトのセットを公開して稼ごうとした尾道市の行為を、監督が批判したことが原因のようだが、元々監督が自分の記念館やら作品のモニュメントやらの建設に非協力的だったことも対立の根底にあるらしい。今や尾道市に行っても駅や観光案内所等には大林作品のロケ地マップの類は一切ないのだそうだ。それどころか坂は老人の生活には過酷、それを賛美する映画は如何との議論さえ出いるらしい。ひでえもんだ。監督が怒るのも無理はない。もちろん、長野市も10年前に究極の「海彦」、長野五輪をやりハコモノを揃えまくってた訳で、戦艦大和のセットを喜ぶ尾道市民を批判することなどとても出来ない。しかし、山なるもの「山彦」とは何なのか。ここでもう一度じっくりと考えてみる必要はありそうだ。折りも折り、つい1週間程前、長野市の中心市街地活性化基本計画が国の認定を受けた。全国で13市が選ばれ、国の補助を受けて中心市街地を再開発する事業だ。いまどき真鍋博や手塚治虫が描くような近未来的な街は造らないとは思うが、どうせ「灯籠を建てて植栽を植えて玉砂利を入れた水路を流すんじゃあないか」と思う。あるいは、もっと金を掛けて白壁の土蔵が並ぶ時代劇のセットのような街でも造るのだろうか。それで一気に善光寺も世界遺産? 何か違うよな。郊外に超大型ショッピングセンターを誘致するような施策よりはマシだが、中心市街地を時代体験型のアミューズメント施設然とさせてどうする? 結局、それも海彦の発想なのだ。じゃあどうする。「転校生 さよならあなた」にはその答え、山彦からの提案がおぼろげに見えている。新しいだけが重要でないことはもちろん、実は古いだけも重要ではなかったのだ。古くても新しくても、そこに生活があることが重要、それが街だということ。人々が心美しく生活をしてる街は、古くても新しくても美しい。経済効率優先の街でもなく、文化財の中で窮屈に暮らす街でもない。別の価値観があることをこの映画は教えてくれるのだ。...って基本は突然チンチンが無くなったって映画なんだけどね。(笑)

青春映画の巨匠、逝く

偉大な映画人がまたひとり鬼籍に入った。熊井啓さん。毎日新聞によると「社会派映画の巨匠」。そんな凄い方だったのか?などと書くと失礼になってしまうが、私はこの監督は普通の人間が普通に思う感情で社会の矛盾を鋭く描いた人だったのではなかったかと思う。もし、その作品が過激に感じられるのだとしたら、それは監督自身が過激だからではなく、社会の矛盾がそれだけ激しいからなのだと・・・。人間は総じて若い頃は社会の矛盾に敏感だ。矛盾に対して激しい表現をする人さえ珍しくないが、オトナになるにつれ社会に適応し時に迎合までしてしまう。ところが熊井監督は違った。主義主張や思想に囚われていることなく、普通の人が普通に感じる矛盾を、終生、映画という表現で告発し続けた。だから私は最大限の敬意の気持ちを込め、青春を貫いた熊井啓監督を「青春映画の巨匠」と呼んでみようと思う。監督は長野県安曇野市(旧豊科町)の出身。松本深志高校から信州大学(旧制松高)に進み、映画部に入っている。当時、中央の映画関係者と親しかった松本中劇(日本一小さな映画館として有名だった)の藤本徳治氏の計らいで、多くの優秀な映画を見たり、、今井正、今村昌平、山本薩夫、といった独立プロの映画監督と接する機会が持てたと言われている。その後、日活の助監督試験に合格し、赤木圭一郎と芦川いづみ(^_^)の「霧笛が俺を呼んでいる」などプログラムピクチャーの脚本を書いたのち、「帝銀事件 死刑囚」で監督デビューし「社会派監督」と言われるようになるわけだが、その後の作品の傾向を見ていると、やぱ松本時代が重要なのかなと思えてならない。御本人もインタビュー等で自分を分水嶺世代(戦前と戦後の価値観の違いからくる矛盾をダイレクトに受けた世代)と呼んでいたが、その熊井青年の前に現れたのが、今井正や山本薩夫じゃ少なからず影響も受けたのだろう。しかし、藤本徳治氏によれば、当時の熊井青年は松本中劇の2階の板の間で酒を飲んで寝転がっている映画好き学生だったのだそうだ。そこが熊井さんらしい。政治臭はないのだ。好物は酒と巨人軍。王貞治氏との親交も深く、大のG党としても有名だったが、案外それも同郷の偉人、読売新聞中興の祖、務台光雄氏(三郷村出身)がらみではなかろうかと思う。また、吉永小百合を「忍ぶ川」で脱がせるために、吉永邸の庭の木に登り「出演受託するまで降りない」とダダをこねたなんてお茶目な逸話もある(結局、その役は栗原小巻になった)。「朝焼けの詩」では、上高地明神池で、まだ10代の関根(高橋)恵子をスッポンポンにして泳がせて環境庁からクレームが付き、青木湖で撮り直したことも。晩年には、処女作「帝銀事件 死刑囚」を彷彿とさせる「日本の黒い夏 -冤罪-」という冤罪事案を映画にしているが、これは監督の故郷で起きた事件で、監督ともただならぬ関係があった。被害者河野義行さんの先々代は熊井監督が幼い頃、母親が教員として働いていた長野高等女学院の校長で、監督自身も近所に住み、河野邸にお使いにいったことすらあるのだそうだ。家風を知り、友人から子孫である河野義行氏の評判も聞き、「とても犯罪に関係しているとは思えない」との思いが映画制作の動機だったという。社会派などといわれるけれど、実のところはとても人間的、良い意味での田舎者だったのではないかと思う。だからこそ、熊井啓監督の作品は重い。謹んでご冥福をお祈りします。

スペクトルマン 怪獣マウントドラゴン輸送大作戦

bc0ec208.jpgフジテレビ(制作ビープロ)の特撮ドラマ「スペクトルマン」の長野ロケは地元のガキにとっては大事件だった。長野県内初のUHFテレビ放送局で、当時の県民に「U」と呼ばれていた長野放送が「スペクトルマンが長野にやってくる!!」と、事前にロケの告知をやっていたものだからさあ大変。絶対見に行くと意気込んでいたのだが、「小学生だけでは行かないように」という学校の指導に従ってしまった真面目な私は結局ロケには行かず、親と見に行った友人の話を、悔しく聞いた思い出がある。放送は後日食い入るように見たが、怪獣を乗せたトラックが国道19号線を走る映像程度しか今は記憶に残っていない。その第52話が先日遂にスカパーで放送された。6万円もする限定版DVDボックスなどとても買えないと諦めていただけに、これはありがたい。見たいのは第52話「怪獣マウントドラゴン輸送大作戦」だけなのだから。(笑) そしてHDDに留守録画された放送をまるで小学生時代の記憶を思い返すかのように見た。そこには今だから判る新事実がゴロゴロ。この回のストーリーは三重(鈴鹿)で捕らえられた怪獣マウントドラゴンを公害Gメンが名古屋から東京にトラックで移送して調査するという流れ。名古屋で高速のICが破壊されたため、トレーラーは国道19号線を北上し、長野市経由で東京に向かうよう変更される。塩尻から20号線で新宿に向かえばいいのに・・・とも思うが、1971年。中央道も無ければ上信越道も無い時代だ。トラックは木曽路から長野市に向かう。移動シーンとして上松町の町内、桃介橋などが映されるが、カーアクションの部分は風景からすると戸隠バードラインの荒安地籍あたりで撮影されている可能性が高い。その後、長野までの距離が表示されたレトロな国道看板が次々に映し出され、長野市に近づいていく。途中、麻酔銃のストックが少なくなった公害Gメンは公害調査局の長野支局に応援を求め、支局のスタッフが麻酔を三菱ジープに乗せて出動するも敢え無く敵に倒され崖下に転落してしまうシーンがある。そのシープが出動する長野支局は、おそらく長野放送の旧社屋裏口だろう。長野放送と書かれたジープもそこに映っているのだ。その次のカットは県庁前交差点を新田町方向から裾花川方向に走るシーン。マウントドラゴンが長野市地附山に到着すると、地元長野放送がテレビ中継車を出動させニュースの実況中継をするシーンが登場。中継車の上に中継カメラを2台載せ、実際のテレビ局スタッフと思しきカメラマンが狙う先は、公害Gメンのチーフに現在の状況を聞くインタビュー。インタビュアーは、私の記憶に間違いが無ければ、その後、NBSニュースイブニング630のキャスターを務める長野放送の塚田アナウンサーだ。現場には物凄い数のエキストラというか野次馬が集まっているが、これは冒頭にも書いた通り、地元放送局が事前にロケ告知をさかんに行った結果だろう。それをそのまま利用して撮影が行われてる。場所は当時地附山にあった観光ロープウェーの雲上台駅の周辺。このあたりは、その後(1985年)、地附山地すべり災害でとんでもない被害にあうことになるが、当時は善光寺とセットの観光地として機能していた。小さな動物園やスキー場もあったと記憶している。飯綱高原や戸隠高原へ通じる戸隠バードラインの入口でもあり、ロープウェーからは長野市が一望できた。ちなみにこのロープウェーは1963年に橋幸夫が主演した松竹映画「若いやつ」にも倍賞千恵子とのデートシーンで登場する。冒頭で、「協力 長野放送 善光寺スカイランド」とのクレジットが出るが、おそらくそれはロープウェーを運営会社かそこにあった食堂だったと思う。その善光寺スカイランドの協力に感謝してだろうか、長野まであと8キロというドラマ用に造られた看板にも「善光寺スカイランド」と書かれている。その看板のアップからズームアウトすると長野市北部を一望する道路が現れ、マウントドラゴンがトーレラーで運ばれていくという映像。この映像に私は痺れた。長野市まで8キロと表示されているが、実際の撮影場所は地附山、85年の地すべり災害で完全に崩れてしまった戸隠バードラインだ。ズームアウトと共に看板のすぐ後ろに見えてくるのが、長野市の上松地区。開校して間もない長野市立湯谷小学校の美しい校舎がズームアウトの途中で一瞬フルサイズショットで映るのが感慨深い。地すべり災害の際はその体育館が避難所になっていた。ロープウェーはその後取り壊され、戸隠バードラインも災害で途切れたまま、戸隠には、これもまた田中康夫前知事の脱ダム宣言で有名になった浅川ダム工事や長野五輪のフリースタイル、ボブスレー、リュージュ会場へのアクセス道路を念頭に作られた浅川ループ橋を通って行くように変わっている。さて、こうしたドラマでは定番の一件落着のあとに主人公らが談笑するシーンは、地附山スキー場の最下部で撮影されている。背景には飯綱山やバードラインの一部が見える。その次のカットは、スペクトルマンがやっつけたマウントドラゴンを載せて東京に帰るトレーラーが、仏閣型駅舎の長野駅の前を通るシーンだ。屋根にハート型の模様が施された長野電鉄のバスが懐かしい。地方都市である長野はようやく経済成長の結果が形になって現れ始めた時期。その中途半端な風景がドラマの背景シーンで垣間見れるのがとても面白い。

藤さん何卒お願いします(^_^;

ade74b8d.jpg「ブログは人を表す」と誰かが云ってるかは知らないが、少なくとも当ブログには私の興味対象の多くが記載されている。書きたくても書けない事柄もあるので、もろちんこれがすべてではない。念のため(笑)。日本映画についての記事が多いのは、ウェブサイトでやるほど映画に詳しくないからで、とりあえず観た映画のことを書いている。なぜ、日本映画なのかと云えば、映画に映る風景や街並みの変遷が面白いからだ。映画に映り込んでくる昔のクルマや交通機関、電気製品、建築や土木構造物、看板や家具や衣装のデザイン、そんなものを見ながら楽しんでいることの方が実は多い。そこには当然ノスタルジックな感慨も含まれるが、必ずしも自分が生きた時代や知る風景でなくとも面白いと感じているところからすると、歴史的地理的あるいは文化人類学的な?興味で映画を観ているのかも知れない。だから、私は大規模なオープンセットで完璧な人工的空間を構築するハリウッド映画にはほとんど興味がなく、むしろ低予算がゆえに東京やその周辺でのロケでお茶を濁している日本のB級映画の方がかつての時代が映り込んでいるので大好きだったりする。もちろん、自分の住む地域が映っていれば興味は当然倍増だ。ストーリーはまあ見ていて飽きなければとりあえずOK。もちろん面白かったら当たりだとは思う。大作よりも娯楽作品や「流行に乗って作っちゃいました」みないなものが案外好きだ。正直、映画には詳しくないので偉そうなことは書けないが、強いて云えばその映画に映る時代に映画人がどう生きたのか?キャストやスタッフの生き様には多少興味がある。映画人の自伝評伝は出来るだけ読むようにもしている。俳優に対する興味も基本的には軽い。現在は御老人になられた男優さんたちの若かりし頃の雄姿を見るのは単純に嬉しいし、シワだらけのお婆さんになった女優さんの美しい娘時代を映画で観られるのも至上の喜びだ。むしろその美しかった貴重な一瞬にときめいたり魅かれたりもする。むろん、今でも綺麗ならそれはそれで云うことはない。(笑) 女優といえば私の一番のお気に入りは芦川いづみさん。今から40年ほど前、藤竜也さんと結婚し引退してしまった日活の女優さんだ。年齢的には自分の母親ほど(^_^)。芦川いづみさんの何処が良いかってそれは映画で見てもらうしかないのだが、若き日はひたすら可愛くその後はひたすら誠実に仕事仕事・・・。同僚からも好かれ、映画が斜陽になったら結婚退社。まあ足跡を見れば一昔前の女性像そのままなのだけれど、なんてたって彼女は故石原裕次郎氏の相手役なのだ。自分の世代も含めて若い人々にはあまり知られていないが、それはスーパーの付くスター女優だってことを意味する。ブルジョアと庶民、スターと一般人の差がまだ明確だった昭和30年代、控えめな彼女もドル360円のその時代に日本では誰も使っていないようなフランス直輸入の化粧品でメークをし、自分で外車を乗り回していたのだから面白いし痛快ではないか。それでも彼女からは「女優業を休んでしぱらくパリでお勉強してました」みたいな実力派大女優さんたちにはありがちなアートな嫌味をまったく感じない。そこが好きなのだ。同時期やあるいはその後に、同じようにアイドル的なデビューをし、映画が斜陽になった後も舞台やテレビで研鑽を積み、名実共に大女優となった方々と彼女を比較するのは双方に失礼だと思うが、100本を越える彼女のフィルモグラフィーは可憐さと誠実さに満ちていると私は思う。映画に詳しいお歴々が何と云おうと私は女優芦川いづみさんが大好きだと云っておこう。さて、現在の芦川いづみさんだが、もともと控えめな方と思われるのとストイックな御主人のお考えもあってかメディアに登場することはまずない。最近の消息と云えば、先日、御主人が徹子の部屋に出演し、黒柳さんの巧妙な話術に乗せられた御主人により、一緒に陶芸を楽しんでいる由が伝わった程度。もちろん、軽薄なテレビ番組などになんぞには出て欲しいとは私もまったく思わないが、年齢も年齢なのでそろそろ文筆やオーディオコメンタリーなどでかつてのお仕事について語って貰えればなあ~と心から思う。それは週刊誌的な興味からではなく、最近ようやく再評価の兆しが見えてきた日本の青春映画を含む娯楽映画についてを語る時、芦川いづみさん自身の証言はやはり貴重なのではないのかな~と思うからだ。藤さん何卒お願いします(^_^;。

大森林に向かって立つ

33289d5f.jpg大森林に向かって立つ 1961年 カラー 84分 日活

■監督:野村孝
■出演:小林旭/浅丘ルリ子/かまやつヒロシ

この頃のプログラムピクチャーは大量に生産されていたためか、タイトルが類型化していたり大袈裟なものが少なくない。大森林に向かって立ってどうするんだ? ・・・とも思うが、これは山林を舞台にした小林旭のアクション映画。同年公開の「散弾銃の男」(監督:鈴木清順、主演:二谷英明)は飛騨、木曽方面でのロケ、こちらは伊那が舞台だ。映画の随所に伊那周辺の1961年風景が現れる。冒頭、労務者を載せ浅丘ルリ子が運転するトラックは、旧伊那市役所の前を北から南に通過し、伊那大橋をなぜか高遠方面から伊那市内に向けて渡り、美和ダムの上を走って進んでいく。上映数分で伊那市民は大満足?? 美和ダムは映画公開の2年前1959年に竣工した多目的ダム。この三峰川(みぶがわ)総合開発事業ではその後いろいろなことがあったが、とりあえず当時は地元自慢の施設だったようだ。続く森林のシーンは太田切渓谷での撮影。このあたりには中央アルプスの山々から天竜川に注ぐ急峻な支流がいくつかあり、その渓谷はそれぞれ大田切、与田切など「〇〇切」と呼ばれている。「〇〇切」は登ればどこも大森林だ。途中で登場する見事な夕景は、千畳敷から南アルプス方面を見た朝焼けに似ている。が撮影場所は不明。ちなみに駒ケ岳ロープウェーなどまだ出来ていない。小林旭や労務者たちが繰り出す夜の街は錦町あたりのようだ。「酒は仙醸」なる電柱看板も見える。酒場で歌うは当然、小林旭。しかし注目はギターを持ち彼とデュエットする若者だ。なんとそれは「短髪の」かまやつひろし、驚け! 驚くと云えば100人以上のエキストラが櫓を囲んで勘太郎踊りを踊るシーンもあるが、ロケ場所が地元民でない私には不明。小林旭が歩く傍らにはなぜか「つばめタクシー」なるわざとらしい看板も登場、地元では著名なタクシー会社だ。きっとロケ移動の便宜を図ったのだろう。櫓の場所は駅前あたりと思われるが、朝焼け同様もう少し調べないと正確なことはわからない。さてこの時期の映画でヒーローヒロインが語らうシーンと云えばなぜか街が一望出来る高台ってのがお決まりのパターンだったりするが、この映画にもそれはある。春日城址だ。桜の名所。全国的には高遠城址の桜の方が圧倒的に有名だがシーズン中は観光客でいっぱい、そのため、地元民のお花見はこの春日城址らしい。そして、浅丘ルリ子が融資を受けに訪れる銀行は、そのものズバリ、八十二銀行伊那支店!! 浅丘ルリ子の父が療養している場所は伊那からやや離れた蓼科。広大な八ヶ岳から蓼科山方面にゆっくりとパンニングする映像が見られるが道路は未舗装だ。当然ビーナスラインはない。最後に今回最大のサプライズ(?)。それは後半部で蓼科に向かった浅丘ルリ子を小林旭がジープで追いかけるシーンに隠れていた。ジープは冒頭でも登場した伊那大橋を今度は伊那(入舟)側から高遠(中央)側に渡るのだが、ボンネットに乗せたカメラが、運転する小林旭を撮ればその背景に当然町並みも映る。それをコマ送りでツブサに見るとロケ見物の野次馬が数十人みなこちらを見ているのがよく判る。まあそれはご愛嬌として、橋のたもとにある食堂の看板に私は驚いた。「飯島食堂」。知る人ぞ知る伊那の名所?(笑)。4人以上で一緒に食べると昼からサービス満点の中華定食。蓋から具が溢れるほどのボリウムたっぷりのソースカツ丼は、駒ヶ根が名物として売る出すずっと以前からから地元の人々に親しまれていた。(「中華料理 飯島」で Google検索すればと地元の方のBlogでその写真が閲覧可能だ。驚け!)「研ナオコさん元気ですか?」などと誰にもわからんオチもつけておこう。(^_^) 最近の伊那市はあちらこちらの地方都市と同様、中心市街地の空洞化が進み夜の街の勢いはサッパリだが、その伊那市もかつては人口あたりの飲み屋の数が全国3位と云われた時期もあったらしい。戦前戦後は映画「伊那の勘太郎」が大ヒットし有名となった街でもある。この映画に映る伊那の街はその往時の賑わい留めているのが嬉しい。

北国の街

00b9748c.jpg北国の街 1965年 カラー 92分 日活

■監督:柳瀬 観
■脚本:倉本 聰
■出演:舟木一夫/山内 賢/和泉雅子/葉山良二

和泉雅子さんの可愛らしさに惚れ込んだ方にもう一作。「絹織物の街・新潟県十日町。手織り職人・小島公平(信欽三)の息子、高校生の海彦(舟木一夫)は列車の中で可憐なひとりの女学生・雪子(和泉雅子)と知り合う。」などといろんなところであらずじ紹介されているので、十日町の映画なのかと思っていたが、「阿弥陀堂だより」もびっくり、全編オール飯山ロケ。40年前の飯山が続々と画面の中に甦る完璧な郷土映画だった。冒頭から雪の飯山線を走る蒸気機関車。タイトルも綱切橋あたりの高い場所から飯山市内を大展望している。体育館のような大きな建物は移転前の飯山南高校だろうか。舟木さんは飯山駅で下りて飯山北高校に通う設定。エキストラと思われる北高生も登場する。学校の裏山で山内賢さんと殴りあったりするシーンもあるがこれは城山公園。背景に見えるのは北高ではなく飯山ニ中だと思われる。画面には登場しないがヒロイン和泉雅子さんが通う高校が女学校だとすればそれは飯山南高校ってことになるだろう。かつて飯山南高校があった場所には現在、飯山赤十字病院が建っているが、80年代まで病院は道を隔てたすぐ近くに建っていた。その一部木造の旧日赤も山内賢が怪我をして入院する病院として登場する。あまたある近隣のスキー場で骨折などの怪我をすると必ず送られる病院だ。映画の中にはスキーのシーンもあるのだがどーもその場所がよくわからない。ゲレンデの下方に山々が広がっているので戸狩や信濃平ではないことは確かだ。じゃ斑尾かな?とも思ったが、昭和40年じゃまだ出来ていないよな。(笑) 山の感じからすると志賀の丸池かサンバレーなのかも知れない。日活映画といえば志賀高原?だって話もある。さて、この映画は駅と機関車と線路がふんだんに登場する鉄ヲタ必見映画でもある。飯山駅、信濃平駅、戸狩駅。そして謎の信濃城北駅。北飯山駅をイメージしているのかも知れないが、画面でみる限り、飯山駅に細工を施して撮影しているようにも見える。映画でもっとも印象的と思われるシーンも線路上で撮影されている。ネタバレさせたくないので詳しくは書かないが舟木さんと和泉さんのふたりが信濃平駅から線路上を歩いていくシーンはなかなかロマンチックだ。正直に云うと舟木さんは表情はちょっとアブナイ(^_^;のだが、とにかく和泉雅子さんが可憐で美しいので淋しい雪国の風景も綺麗に見えてしまう。辿り着く場所は常盤(ときわ)あたりの踏切。まわりの風景や山の形、田んぼの中にポツンとある常盤小学校が見えていたりするので間違いはないだろう。和泉雅子さん18歳。映画の設定そのまんまの歳だったのか。可愛いわけだ。可愛いといえばこの映画には東宝の岡田可愛さんがチョイ役(舟木の隣家の娘役)で出ている。17歳。サインはVで大ブレイクする5年も前だ。風景と女優しか見てないことがバレバレだが、これも隠れた見所か。

高原のお嬢さん

4b7b84a8.jpg高原のお嬢さん 1965年 カラー 93分 日活

■監督:柳瀬 観
■脚本:千葉茂樹/柳瀬 観
■出演:舟木一夫/山内 賢/和泉雅子/西尾三枝子/ザ・スパイダース

舟木一夫さんのいわゆる歌謡映画でありかつ真剣な純愛映画。舟木さんのファンではない特にオトコが見るべきポイントは全盛時代の和泉雅子さんの美しさ。物語は舟木さん中心だが、カメラは執拗に和泉雅子さんを狙う。バラ越し、真っ赤な紅葉ごし、ズームインにトラックイン。あまりにミエミエのカメラワークだが和泉雅子さんが可愛いので全然OK。逆に嬉しい。和泉雅子さんも今やシミソバカスだらけの北極オバサンだが、やりたいことをおもいきり楽しみ生き生きと活動しているこの人の姿は今も美しい。さて、もうひとつの見所は横岳の山頂にエレキを持ち上げて演奏するスパイダース。横岳ピラタスロープウェーが完成した頃なので、本当に山頂にまで登って撮影しているのかと思ったが、実際には三ヶ峰のあたりでロケをしたようだ。三ヶ峰も眺望は良く、草原のあちこちに火山岩がボコボコと顔を出しているさまは映画のとおりだ。かまやつさんや井上順さんはその上に乗ってギターを演奏している。この時期の「フリフリ(日本語ヴァージョン)」の映像も貴重だが、それ以上に映画に合わせてしおらしく「鈴掛の道」を伴奏しているスパイダースなんてはもっと貴重かもしれない。田辺社長や順さんらはバンドとして控えめに登場しているだけだが、堺正章さんは助演級で登場。さすがは堺駿二氏の息子、存在感ありすぎ。芸風は現在と全く同じ。(笑) 彼らが親湯の温泉プールで演奏するシーンなんてのもある。かってはあった眺めているだけでセレブな気分になる場所のひとつだ。他にも蓼科湖などかつての蓼科の風景が満載。だが、映画の中で恋人同士の儀式が行われ印象的なシーンとして登場する「乙女滝」。あれはどう見ても乙女滝じゃあない。乙女滝は江戸時代に坂本養川という人物が切り開いた用水の途中に人工的に作られた滝、もっと高度差があり爽快な滝で場所は横谷温泉旅館の近くにある。映画に協力ししている蓼科観光協会がこれでよく了解したものだ。考えてみればGSがNHKに出られないような時代に山の天辺でエレキバンド演奏ってのも凄い。でもまあこの映画、蓼科高原の秋をカラーでとても綺麗に撮影もしている。多くの人々がまだ白黒でテレビを見ていた時代、このカラー映画に映された紅葉の蓼科は鮮烈な印象を残したのではないか。こんど蓼科に行く機会があったらロケ地を訪れてみたい。最後にどうでもいい話だが鉄道ヲタクの皆さんには舟木さんが和泉さんと別れて乗り込む列車が「新宿駅発普通列車長野行」ってのが嬉しいかも

台風クラブ

aa18ef5f.jpg台風クラブ 1985年 カラー 96分 ディレカン-ATG-東宝

■監督 相米慎二
■出演 工藤夕貴/三浦友和/大西結花/尾美としのり/鶴見辰吾/三上祐一

10代の揺れ動く感性を台風の通過に伴う高揚感に見立てて描いた相米慎ニ監督の怪作。まだ世の中の多くを見ていないが故の純粋で突飛で思い込みが強い中学生の行動は、端から見れば狂気のように見えなくもない。そんな中学生の様子を巧みに描いた映画だ。この映画を見て何も感じない人は、歳を経て昔のことを忘れてしまったか、よほどしっかりとした中学生時代を過ごしたのだろうなと思う。私などは「恥」が歩いているような中学生時代をおくったので、この映画の登場事物達の心持ちは何となく理解できる。映画の舞台は実名で出てくるわけではないが佐久市立中込中学校。夏休みを利用して撮影が行われたようで、校庭や玄関、昇降口、講堂、校舎内などがあまねくロケに使用されている。浅間山を背景にした中学校の美しい外観や中込周辺の田園風景、さらには中込小学校ちかくの市営住宅、工藤夕貴が東京からの帰途下り立つ中信駅こと中込駅、街の中を走り回るシーンではシャッターの閉まった夜の岩村田商店街。ここまで佐久が映っている映画は他にはないのではないか。ところでこの中込中学校の校舎、映画が撮られた7年程後の1992年頃、不審火で全焼してしまった。図書館が焼けた翌年に校舎全部が焼けるというなんともキナ臭い経過を辿っている。映画のテーマに沿った原因だとは思いたくないが、仮にそんなことがあったとしたら事実が映画を陵駕してしまうことになるのだろうか。真相は未だに不明のまま。仮にそうだとしたら原因は不明のままで良いような気もしないでもないが・・・。

悲しき小鳩

e512530b.jpgひばりのサーカス 悲しき小鳩 1952年 モノクロ 91分 松竹大船

■監督 瑞穂春海
■脚本 伏見晃
■音楽 万城目正/田代与志
■出演 美空ひばり/佐田啓二/岸恵子/三宅邦子/堺駿二/川田晴久

美空ひばり子役時代の映画。監督は長野市出身の瑞穂春海。「小野まり子は信州の小都市のミッション・スクールに預けられて勉強していた。学校の聖歌隊の一員だが、かくれて唄う流行歌に天才的なひらめきを見せていた。」(←goo映画サイトのあらすじより引用)流行歌に天才的なひらめきってところが美空ひばりそのまんまで実にベタな設定で泣かせる。さらに嬉しくなるのが信州の小都市のミッション・スクール。信州の小都市とは松本市のことだ。映画本編の冒頭は城山の展望台あたりから撮影した松本市の俯瞰のパンニング。そしてミッション・スクールの外観にオーバーラップ。そのミッション・スクールってのはなんと「開智小学校」。ただし、現在の開智小学校ではない。国の重要文化財「開智学校」の校舎が現役で使われていた旧開智小学校のことだ。旧開智小学校は昭和39年まで松本パルコ北側の女鳥羽川沿いにあった。開智と云えば現在は移築された開智学校や開智小学校が建つ松本城の北側あたりの地区のこと指すが、元々は旧開智学校のあったあたりを開智町と云った。現在の地番では中央1丁目のあたりになり女鳥羽川にかかる開智橋という橋の名前にその名残がある。重文校舎は東を正面にして建っていて、西(裏)側は増築した校舎と校庭になっていた。映画ではこの校庭(裏)側が頻繁に登場する。校舎側が背景になると重要文化財の裏側が、反対側が背景になると伊勢町から開智橋に通じる町並みが映り込んでくる。木造の民家や蔵が並ぶこの道をサーカスの宣伝隊が通るシーンもある。道自体は現在も残っているが、Mウィングという巨大なビルが建ち当時の面影は全く無い。近年の大胆な町並み近代化によりこのあたりは全くの別世界になってしまった。「農林技師とばかり思っていた父隆太郎がサーカスの道化師だったことがわかると、まり子は学校をやめて父と共にサーカスの巡業に加わった。」(←goo映画サイトのあらすじより引用)ひばりは父に母のことを聞きだすわけだが、その辛いシーンは地蔵清水。現在の市役所前の道路だ。巨大な土管がゴロゴロと転がっていてここは一体何処なのだろうって感じがするが、道の奥に松本カトリック教会が確認出来る。松本城は敢えて画面に入らないように撮影してはいるものの、二の丸跡に建っていた裁判所の建物が時々見える。ちなみにこの建物も松本司法博物館として島立に移築されている。さて、ひばりの加わったサーカス一座はその後、長野へと巡業に出かける。ひばりの歌をBGMにサーカスの一団は梓川にかかる梓川橋を渡って長野に向かう?・・・ってそれじゃ国道147号線、大町に行ってしまうではないか? 田沢に向かう国道19号線は無かったのかいな? ま、そこは映画のトリック、アルプスを背景にした雄大な移動シーンを撮影するならやはり梓川橋ってものだろう。残念ながら続く長野市でのシーンについては長野市らしい風景はあまり出てこない。旭山とおぼしき山を背景にした場所にサーカス小屋が建てられているように見えるので調べてみたところ、昭和27年6月22日に信大付属小校庭(現在の信大教育学部グランド)でロケが行われていたことがわかった。スタッフ総勢80名、撮影は正午から4時間ほどに渡って行われた。現場には、美空ひばり、佐田啓二、岸恵子らを見たいがために朝から弁当などを持ったファン8千人ほどが集まり、スタッフは撮影よりも人出の整理に忙殺されたらしい。正に故郷に錦を飾った瑞穂春海監督といったところだが、実はこの付属小校庭、昭和15年までは瑞穂春海監督の母校である長野中学(現在の長野高校)が建っていた。その後長野中学は上松に移転してしまうが、監督はその想い出深い場所で、せめてそこから見える周囲の風景だけでも自分のシャシンに収めておきたかったのではないかな?などと勝手に想像してみた。さて、父から母の居場所を聞き、熱海にその母を尋ねたひばりだが、その帰り、手持ちの金がないため長野までの切符が買えなかった。やむなく手前の駅で降りて歩こうとするわけだが、その降車駅がどこなのか判らない。駅舎の様子やホームにせまる山などから戸倉駅かな?とは思ってはみたが、駅前が温泉地の乗車駅としてはあまりに寂しい。篠ノ井線田沢駅の可能性もあるかな?と思っている。もう少し調べてみたい。この駅からひばりを長野まで送ってくれたトラックの車体には中条村の信州陸送と書かれている。電話番号までしっかりと書かれており、案外、映画のロケに協力した実在の会社だったのかも知れない。最後に瑞穂春海監督のこと。長野出身のこの方は、無声映画時代の大監督池田義信氏(長野市宇木出身)を頼って松竹の監督になった人だ。美空ひばりの映画を数多く手掛け、この手の歌謡映画でたくさんのヒット作を制作し、晩年は生家である善光寺蓮華院の住職をされていた。ローカルのテレビ番組などで何度かお顔を拝見したが、なぜか色艶の良い?善光寺の他のお坊さんと違い、僧衣は着ているものの痩せていて如何にも映画職人然とした方だったという印象だった。

姉妹

4300e25e.jpg姉妹 1955年 モノクロ 95分 独立映画

■監督 家城巳代治
■原作 畔柳二美
■脚本 新藤兼人/家城巳代治
■出演 野添ひとみ/中原ひとみ/望月優子/多々良純/北林谷栄/殿山泰司

姉妹と書いて「きょうだい」と読む。貧困と対峙する青春・・・。独立映画などといわれると教条的な匂いがプンプンしてきて逃げ出したくなる向きもあるが、「川口隊長の奥さん綺麗だわ~」とか「元祖歯磨き一家の奥様も可愛かったのねえ~」などと全くもって不謹慎な興味を持って最後まで見入ってしまった。綺麗な人は綺麗だし、可愛い人は可愛いのだから仕方がない。思想教条的な映画は他にたくさんあったはずで、この程度の内容ならば当時としてはごく当たり前のヒューマンストーリーだったのかな?とも思う。さすがに発電所の屋上で働く若者達が合唱する様は合唱部だった私でも見ていて気恥ずかったが、日活の裕次郎映画「陽のあたる坂道」や「あじさいの歌」あたりでも家族が団らんのあとに合唱したり、若者がパーティーの途中で合唱したりするシーンが見られる。この点も、当時としてはそれが進歩的かつ民主的な光景としてイイ感じだったって程度のことなのかも知れない。さて、本題。例によってこの映画の舞台も長野県。映画では松林市という架空の地名となっているが松本市がロケ地だ。松本城もしっかりと登場。姉妹は現在の松本市役所の前の道を歩きながら北上し、姉は松本カトリック教会に入っていく。道路は未舗装で広場のようにやたら広い。当時、このあたりは地蔵清水と呼ばれていた。移転前なのでそこにはまだ市役所は無い。道路沿いには古い民家や商店が並んでいる。現在は松本カトリック教会の左脇に南を向いて建っている地蔵清水(井戸)の石碑が、筋向いである松本城のお堀の角に東向きに建っているのも確認できる。松本カトリック教会は建て替えられてしまったが、現在も外観の雰囲気は当時とあまり変わらない。隣にあった司祭館は重文開智学校の隣に移築され今はそちらで見ることが出来る。姉妹の伯父さんが賭博で捕まったあと出てくる松本警察署はナワテにあった旧市役所だ。伯父さんは旧市役所から出てきて一ツ橋を渡り姉妹と会話する。夜の繁華街のシーンもオイシイ。伯父さんが松本城の外堀に浮かぶ「かき船」という食堂から出てくる。この店は現存する。どうやってこんな場所に出店できたのやらとても不思議な店だ。北アルプスの山小屋と同じで物事が細かく規制されていない時代に得た既得権なのかなとしか思えない。中原ひとみ役のニックネーム(コンチ)が子供の頃の私のものと同じだったのには笑った。彼女の友達の家は裕福な作り酒屋という設定で、それは「笹の誉」の笹井酒造。女鳥羽川沿いにあったササイというスーパーが笹井酒造の跡地だが、広々としているので島内の蔵なのではないか。大きな屋根に特徴のあるこの地方独特の古民家だ。衝撃的なレズシーン?が撮られたぶどう畑の場所は不明。常識的に考えると山辺あたり。当時は清水、横田、惣社あたりも一面田畑だったと思われるので、案外街に近い場所で撮られたか可能性もある。で、なんと肝心の学校の場所がまだ特定できてない。判る方、ぜひご教示ください。さて、姉妹の故郷である発電所だが、これは松本市ではない。故郷の駅を降りてそこから急峻な山道をバスで行った先に発電所はある。バスは山梨交通。よって山梨県であることが判る。駅も周囲の山に特徴があるので足を使って調べれば判るだろうと思う。発電所に関してはおそらく早川第一発電所だ。大正10年に建てられた古い発電所で、当時は多くの人が働き、古風な建物が特徴的だ。発電所を施工した鴻池組のWebSiteにあった写真と映画の発電所の外観はかなりの部分で一致する。いずれも関係者に聞けばすぐ判ることだが、独力で検証していくのもまたパズルを解くようで面白い。最近の映画やテレビドラマのロケ地を探すのは簡単なパスルとすれば、50年前の映画のロケ地を探すのはかなり難易度の高いパズルだ。だから余計に面白い。

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