「ブログは人を表す」と誰かが云ってるかは知らないが、少なくとも当ブログには私の興味対象の多くが記載されている。書きたくても書けない事柄もあるので、もろちんこれがすべてではない。念のため(笑)。日本映画についての記事が多いのは、ウェブサイトでやるほど映画に詳しくないからで、とりあえず観た映画のことを書いている。なぜ、日本映画なのかと云えば、映画に映る風景や街並みの変遷が面白いからだ。映画に映り込んでくる昔のクルマや交通機関、電気製品、建築や土木構造物、看板や家具や衣装のデザイン、そんなものを見ながら楽しんでいることの方が実は多い。そこには当然ノスタルジックな感慨も含まれるが、必ずしも自分が生きた時代や知る風景でなくとも面白いと感じているところからすると、歴史的地理的あるいは文化人類学的な?興味で映画を観ているのかも知れない。だから、私は大規模なオープンセットで完璧な人工的空間を構築するハリウッド映画にはほとんど興味がなく、むしろ低予算がゆえに東京やその周辺でのロケでお茶を濁している日本のB級映画の方がかつての時代が映り込んでいるので大好きだったりする。もちろん、自分の住む地域が映っていれば興味は当然倍増だ。ストーリーはまあ見ていて飽きなければとりあえずOK。もちろん面白かったら当たりだとは思う。大作よりも娯楽作品や「流行に乗って作っちゃいました」みないなものが案外好きだ。正直、映画には詳しくないので偉そうなことは書けないが、強いて云えばその映画に映る時代に映画人がどう生きたのか?キャストやスタッフの生き様には多少興味がある。映画人の自伝評伝は出来るだけ読むようにもしている。俳優に対する興味も基本的には軽い。現在は御老人になられた男優さんたちの若かりし頃の雄姿を見るのは単純に嬉しいし、シワだらけのお婆さんになった女優さんの美しい娘時代を映画で観られるのも至上の喜びだ。むしろその美しかった貴重な一瞬にときめいたり魅かれたりもする。むろん、今でも綺麗ならそれはそれで云うことはない。(笑) 女優といえば私の一番のお気に入りは芦川いづみさん。今から40年ほど前、藤竜也さんと結婚し引退してしまった日活の女優さんだ。年齢的には自分の母親ほど(^_^)。芦川いづみさんの何処が良いかってそれは映画で見てもらうしかないのだが、若き日はひたすら可愛くその後はひたすら誠実に仕事仕事・・・。同僚からも好かれ、映画が斜陽になったら結婚退社。まあ足跡を見れば一昔前の女性像そのままなのだけれど、なんてたって彼女は故石原裕次郎氏の相手役なのだ。自分の世代も含めて若い人々にはあまり知られていないが、それはスーパーの付くスター女優だってことを意味する。ブルジョアと庶民、スターと一般人の差がまだ明確だった昭和30年代、控えめな彼女もドル360円のその時代に日本では誰も使っていないようなフランス直輸入の化粧品でメークをし、自分で外車を乗り回していたのだから面白いし痛快ではないか。それでも彼女からは「女優業を休んでしぱらくパリでお勉強してました」みたいな実力派大女優さんたちにはありがちなアートな嫌味をまったく感じない。そこが好きなのだ。同時期やあるいはその後に、同じようにアイドル的なデビューをし、映画が斜陽になった後も舞台やテレビで研鑽を積み、名実共に大女優となった方々と彼女を比較するのは双方に失礼だと思うが、100本を越える彼女のフィルモグラフィーは可憐さと誠実さに満ちていると私は思う。映画に詳しいお歴々が何と云おうと私は女優芦川いづみさんが大好きだと云っておこう。さて、現在の芦川いづみさんだが、もともと控えめな方と思われるのとストイックな御主人のお考えもあってかメディアに登場することはまずない。最近の消息と云えば、先日、御主人が徹子の部屋に出演し、黒柳さんの巧妙な話術に乗せられた御主人により、一緒に陶芸を楽しんでいる由が伝わった程度。もちろん、軽薄なテレビ番組などになんぞには出て欲しいとは私もまったく思わないが、年齢も年齢なのでそろそろ文筆やオーディオコメンタリーなどでかつてのお仕事について語って貰えればなあ~と心から思う。それは週刊誌的な興味からではなく、最近ようやく再評価の兆しが見えてきた日本の青春映画を含む娯楽映画についてを語る時、芦川いづみさん自身の証言はやはり貴重なのではないのかな~と思うからだ。藤さん何卒お願いします(^_^;。
■密閉型ステレオヘッドホン
大森林に向かって立つ 1961年 カラー 84分 日活
米南部を襲ったハリケーン「カトリーナ」が見せてくれたもの。それは私達が理想とする国の貧しさだ。台風の被害は日本にもある。たびたび巨大地震の被害にも遭っている。被災地はどこも悲惨なもの。しかし、日本の被災地であのような情けない貧富の格差を見せ付けられることがあるだろうか。米国ではそのうち大統領の号令と共に、軍だ警察だ民間だなどとカッコイイ救援隊が現地に駆けつけて英雄的な救助活動を開始し、全米の中産階級の子息達は賛美歌を唄いながら被災地のための募金活動をすることになるのだろう。しかしそれらがいくら美しくてもニュースビデオに映った米国の現実を消し去ることは出来ない。昨今、日本はその米国を手本に努力した者が報われる社会にしようと構造改革の真っ只中。国や経済界のトップから末端のサラリーマンに至るまで「貧富の格差がないのは正しい能力評価がなされていない証拠。よって悪。」と思い込んでいる。さらに大多数の日本人は、自分は大学も出てるいる、会社では一定の地位もある、努力もしている、だから当然中流層に残れる・・・と勘違いをしているらしい。なんともおめでたい。自由競争社会とはとどのつまり、その中流層の選別なのだ。中流層の努力の成果がそのまま中流層に還元されると思ったら大間違い。それはたぶん社民主義と云われているもの。皆様が選択したがっている自由主義社会では、元中流層が生みだす資本は上流層に搾取されることになる。そして上流層はさらに超え太る。確かに国家経済事体は強くなるだろう。しかし、涙ぐましい努力を続けた僅かばかりの者達が中流層に残れる一方、それまで自分は中流層と思っていただった大多数の者達は貧困層に転落することになる。アメリカンドリームで成り上がった成功者ばかりを見ていたら騙されるよん。貧困層が増えれば当然治安は悪化。日本の場合、過酷で悲惨と云われた阪神大震災や中越地震の際も一部例外は除き治安は確保されていた。それこそ中流層の互助意識によってこそ為せるものなのだが、その中流層がやせ細ってしまえば貧困層を助ける能力はない。ひとたび災害が発生すれば略奪強姦殺人のオンパレードだ。貧者の多くは他人のことなと構っていられない。これが世界一豊かな国の現実。そんな国になりたいとアメリカンスタイルな政治家や政党に一票を投ずる君。20年後には「国肥えてあなたその日暮らし」だよん。よ~く考えよう。
いまどきこのジャケットデザインに反応するのはクルマ好きのオヤジだけかな? 私は音楽が好きで聴いている。この頃のフォークソングはこの曲のように生のストリングス(弦楽編曲)が使われていることが多い。ロックバンドに管弦楽という編成は音に清潔感があって爽快だ。これを知的な音などというとクラシックコンプレックスが丸出しになってしまうが、まあそんなところだ。戦後のポップス歌謡曲は進駐軍キャンプ周辺でジャズを演奏していた人々を中心に発展してきたので、伴奏は金管が主役のジャズのピッグバンドが当たり前だった。「原信夫とシャープス&フラッツ」「岡本章生とゲイスターズ」「ダン池田とニューブリード」とかね。ところが60年代の後半になるとビッグバンド編成でない歌謡曲が増えてくる。これはとりあえずビートルズの影響と言い切ってしまっていいだろう。ビートルズブームでポピュラーソング伴奏の主役の座が完全にジャズからロックに移っただけはなく、弦楽四重奏をバックにしたイエスタディなど、それまでに無かった楽器編成で次々にヒットを飛ばしたものだから、豪華なはずのピッグバンド伴奏がダサく聴こえるようになってしまった。ボブディランがロックバンドを従えて唄うようになったのもその頃だ。「ケン&メリー~愛と風のように~(BUZZ)1972」も歌自体はギター1本で唄うようなフォークソングだが、若き日の高橋幸宏によるアクセントの効いたドラムと大袈裟なスリングスによってソフトロックの名曲に変貌している。日本ではこのパターンのキーパーソンはきっと村井邦彦氏だろう。ヒューマンルネサンス「廃墟の鳩(タイガース)1968」、再評価が待たれる「愛の理由(トワ・エ・モワ)1969」に始まり、誰でも知ってる「翼をください(赤い鳥)1971」、隠れた名曲「憶えているかい(ガロ)1973」など、かなり早い段階で欧米で流行し始めた編曲手法を導入している。これにはマルチトラックレコーディングが可能になったという技術的な進歩も背景に含まれる。アメリカのA&Mレーヴェル、ヨーロッパ(フランス)ではポールモーリアが管弦楽器をパート録音し、それまでのレコードでは聴くことが出来なかった抜けの良いキラキラストリングスの音が世に溢れたのだ。70年代に入ると加藤和彦がすぐに反応し「あの素晴らしい愛をもう一度(加藤和彦と北山修)1971」を出せば、新人バンド、チューリップも青木望編曲の「夏色のおもいで(チューリップ)1973」や「青春の影(チューリップ)1974」などで大胆な管弦楽編曲を取り入れている。こうしたアレンジは60年代的の発想の集大成として70年代前半にほぼ手法が完成した。そういう意味ではプログレッシブロックと同根だと私は勝手に考えている。プログレが70年代中期に失速したのと同じように、この管弦楽フォークも「翳りゆく部屋(荒井由実)1976」あたりを最後に流行のメインストリームから離れていく。プログレが編み出したマルチキーボードシステムがオケの代用品となり、5人編成程度のロックバンドをバックに唄う歌謡歌手が増えてしまったのだから皮肉なものだ。その後の時代と云えば、村井邦彦氏のアルファレコードの最初のアルバム、厚見玲衣によるシンフォニックプログレバンド「ムーンダンサー(ムーンダンサー)1979」あたりが印象深いが、ディスコ全盛だった当時の流行からはかなり逸れた音だ。ほどなくアルファはYMOや戸川純で時代の寵児となるが、それは生弦が鳴るような音楽ではなかった。また、同じ時期で弦が美しい曲といえば「ローレライ(H2O)1980」がある。彼ら珠玉のデビュー曲。「想い出がいっぱい(H2O)1983」が大ヒットするが、弦が活躍するのはそのあたりまで。以後、彼らは当時の音楽的流行に翻弄されながらの苦闘する。彼らが60年代的なるものの日本での最期の音だったのかも知れない。