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汎地域主義の時代

9e30a054.jpg地方での生活で最もグローバリズムを感じる場所、それはジャ※コだ。私の家はある地方都市の郊外にある。近くには江戸時代からある街道が通り、かつてそこには商店街があった。八百屋、肉屋、菓子屋、荒物屋、蕎麦屋、煙草屋、下駄屋、布団屋、風呂屋、床屋、桶屋、電気屋などが軒を並べ、やや離れたところには米屋、魚屋、寿司屋、書店、薬局、麩屋、写真屋、時計眼鏡店などもあった。各店は奉仕券なる共通のサービスチケットを発行し、それを集めると行ける温泉旅行が地域の人々の楽しみだった。そこに30年ほど前、県下初のジャ※コが進出した。するとほどなく商店街は壊滅した。今でも菓子屋、下駄屋など数軒が細々と残るが、マトモな商売をしているのは床屋くらいだ。旧商店街経営者の中には自殺者も出たという。そして今度はなんとそのジャ※コが消える。さらに郊外、高速道路のインターチェンジに近い場所に巨大なショッピングセンターとなって移転するらしい。昨年から今年にかけて私は近県にあるその会社のショッピングセンター2箇所を実際に訪れてみたが、それは店というより巨大な箱の中に詰まった街だった。その箱には120を超えるテナントが入りレストラン街やシネコンまでもがある。ジャ※コはその巨大なモールのキーテナントに過ぎない。無料駐車場の収容能力は4000台。毎日曜日この駐車場がいっぱいになるようなことになれば、今度は地域の商店街ではなく駅前の中心商店街が壊滅することになるだろう。地球規模での効率化、競争力強化を考えれば、とりあえずこの現象は進歩だ。事実、全国規模で展開するレストランやファストフード店のメニューはコストパフォーマンスが異常に高い。近年は人件費も極端に節制しているようで、その価格たるやとても個人商店に真似できるものではない。商品内容がわかる安心感もある。貧乏人の私にとっては安いということは有難いことなのでよく利用させてもらっている。さて、高速道路を使い200kmもクルマを飛ばして行った大規模ショッピングモールではあったが、そこで購入すべきモノは私には無かった。家人は家の近くでは売られてないブランドがあったと衣料を数点購入したようだが、私は一緒に昼飯を食っただけで、あとは同じ敷地内にある日帰り温泉施設で寝ていた。120もの店が並んでいるがとりたてて珍しいものがあるわけではない。観光施設ではなく地域の人が利用する店なのだから地元名産品があるわけでもない。要するにこの手のショッピングセンターの中身はどこも同じなのだ。まさにグローバリズム。これがわが町に出来れば当然利用はするだろう。そこに行けば生活に必要な品は何でも手に入る。200円ほどのガソリン代はかかるがこれは便利だ。しかし、このBLOGを見れば判るとおり、無駄なことをしたり無駄な時間を過ごすのが好きな私にとっては、その便利さはあまりに便利過ぎて少々つまらないと思えることもある。日本中何処に行っても同じ箱同じ店というのには一抹の寂しさを感じなくもない。店によって様子が違っていたら時には隣町のショッピングセンターにも行きたくなるような気もするが、どこも同じなら行くことはないだろう。何処の町の駅前もミニ東京化しツマラナクなったと云われた時期があった。それでも田舎の町には訳のワカラン怪しい店が表通り裏通りにあり、恐る恐るそれを利用するのが旅のスリルだった。自分の街と同じものを見つけると親近感を覚え逆に喜んだりしたものだ。昨今それはない。駅前は衰退し歩けない街が増え、郊外に全国一律の店が並ぶようになり、旅は明らかにつまらなくなってしまった。かつては同じ県内でも他の町に行くと風情が変わり、それ案外面白かったのに今はそんな感慨は全くない。一体これは進歩なのだろうかそれとも衰退なのだろうか。◆◆◆◆◆◆◆◆最近、グローカリズム(Glocalism)なる言葉が流行り始めている。"Globalism"と"Localism"の合成語のようだが、「地球的規模の発想で地域活動を行う」という考え方らしい。反グローバル主義とはやや趣が異なる。グローバルに考えることは重要だが地域性を失ってはいけないということか。実際、グローバリズムが単に東京化米国化を意味するならそれは人類にとって巨大な文化的損失になるだろうことは私のような馬鹿でも判る。仮に各地域の多様な文化を吸い上げて優れたものだけを還元するのがグローバリズムだとしたらローカルの衰退はやがて世界の衰退を招くだろう。いくら優れていても均質化単純化された社会から生まれる文化など長い眼で見れば不毛だからだ。経済的には無駄と思えることも文化的には意味のあることはいくらでもある。私の街に出来る大規模ショッピングセンターにも、せめて建物を仏閣型にするくらいの洒落は欲しいと思う。

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