野菊の如き君なりき 1955年 モノクロ 92分 松竹
■監督 木下恵介
■撮影 楠田浩之
■美術 伊藤熹朔
■音楽 木下忠司
■出演 有田紀子/田中晋二/笠智衆/小林トシ子/杉村春子
伊藤左千夫の「野菊の墓」を木下恵介が映画化。「二十四の瞳」と共に60歳以上の日本人の心の原風景的な映画として、深い影響力を残した作品でもある。木下恵介は映画の舞台を原作の千葉から信州に移して映画化し、ロケも行っている。公開後、感動的な物語はもちろん、美しい風景描写も話題を呼び、日本映画最高の映像叙事詩との評価もされた。その美しい信州の風景とは、上高地でもなく安曇野でもなく浅間山麓でもなく八ヶ岳山麓でも御岳山麓でもない。美ヶ原高原でも志賀高原でもなかった。なんとそれは善光寺平だったのだ。今や平地はそのほとんどが建物で埋まり、残った大きな空き地を狙って巨大な五輪施設が建てられてしまった長野盆地だが、50年前は古き良き日本を象徴する美しい景観があった。善光寺平のいたるところに「北信濃の原風景」(飯山市の菜の花公園の菜の花畑から千曲川越しに斑尾山を望むような美しい風景)が広がっていた。さて、映画の冒頭を飾る旅情豊かなシーンは、長野市安茂里と川中島の間を流れる犀川を丹波島橋から上流に向けて撮影している。遠く北アルプスも見えているがモノクロ映画の鮮明度が悪くはっきりと確認できないのが残念だ。逆に見えるはずの鉄道橋は鮮明度の悪さが幸いしてほとんどその存在がわからない。間近に見えているのは富士の塔山あたりだろうか白土が特徴的な山々を舟から移動ショットで見せている。これは差出地区あたりからの見た目だ。1950年代の安茂里はこんなに叙情的で美しかったのか。中尾山温泉のある共和地区の山々を背景に舟がいくショットもある。これは小市地区に近い場所だろう。当時既に存在したはずの信越線の鉄道橋や小市木橋は上手にカモフラージュされ、大自然の中を小さな舟が行くダイナミックな映像となっている。丹波橋からアルプス方向への眺めは、晩秋の日の夕暮れや晴れた冬の日の朝など、息をのむほどに美しいことがあるが、残念なことに現在は送電線や巨大な鉄塔などがその景観を阻害してしまっている。本編(回想)の中では村山橋と屋島橋の間のあたりと菅平根子岳を背景に舟が行くシーンなども登場する。民夫が郷里を離れ中学のある町に行く際に乗る舟の船着場は小布施町山王島の小布施橋東詰。そこは現在、千曲川ふれあい公園となっている。春になると菜の花が咲き、美しい風景が堪能できる公園だ。河川敷の中に流れ込んでいる千曲川の支流に当時を彷彿とさせる小さな木橋がいくつか渡されている。50年も経てば川の流れも変化する。民夫が舟に乗った場所はとても特定は出来ない。かつて山王島は実際に千曲川通船の重要な船着場で、同じ場所に渡しもあった。もちろん映画が撮影された頃は既に車や鉄道輸送の時代で船運などはなく、渡しも大正時代に架けられた小布施木橋に変わっている。映画ではその木橋の上で年老いた民夫(笠智衆)が杖をつき過去を回想するシーンも撮影されている。ここは西を向けば飯綱山や黒姫山、北を向けば高社山が背景となる絶好のロケーションだ。木橋の上で笠智衆が高社山を背景にして立つショットをよくみると、画面過ぎ右隅に河川敷内に現存する山王古跡(水神様か神社の跡?)を囲む杉の木が移り込んでいるのがわかる。神社といえば政夫や民子の住む村の村祭りのシーンが映画に出てくるが、この神社は飯綱山や黒姫山の見え方からするとおそらく小布施町押羽にある上下諏訪神社ではないかと思われる。昨今、小布施ワイナリーで有名な押羽地区には他にもいくつかの神社があり早計に断定することは出来ないが、周囲に全く民家がないことや鎮守の森の風情からするとその可能性は高い。この神社の周りに民家が無いのには理由がある。かつてこのあたりは千曲川が氾濫すると必ず水没する場所だったのだそうだ。たまりかねた住民が別の土地に集団移転したため神社だけが残ったらしい。現在は隣にフラワーセンターという施設が出来ているが、他に民家はなく撮影当時の様子をそこそこ留めている。さて肝心の政夫の家だが、これは善光寺平をずっと南に下った現在の千曲市打沢にある市川家の門や蔵がロケに使われている。映画の中に何度も登場する重要な場所だ。今は家の前の道は拡幅舗装され、道の手前に広がっていた水田も宅地になっている。敷地も幾つかのお宅に分かれているようだが、その一部に当時の面影を残す蔵や塀がある。ちなみに政夫の家はその周囲だけがロケで撮影され、家の内部の撮影は松竹大船撮影所のオープンセットで行われた。白壁は本塗り、大黒柱は尺五寸という凄いスケールのものだったらしい。その政夫の家の畑、政夫と民子が純真な愛を語らう茄子畑は牟礼村横手で撮影されている。飯綱山が唯一裾野を広げているこの地区はとりたてて山々の姿が美しいわけではないが、畑作業をする背景に近隣の丘(里山)や、延徳あたり平や千曲川が遠くに映りこんでくる爽快な場所だ。後半に登場する葬列のシーンもこの地区で撮影されており、その際に地元の人々18人と馬一頭がエキストラとして出演したらしい。現在、村(正確には三セクか?)が運営し、この地区にある「よこ亭」というそば店の駐車場には、この映画のロケ地であることを紹介する看板も立てられている。また、政夫の家からこの畑に向かうまでの移動シーンは実に様々な場所で撮影されている。何気ない風景なので場所を特定することは難しいが、映りこんでくる山の形がら想像するに、黒姫高原あたりで牟礼の方を背景に撮ったショットや、逆に妙高山を背景にしたショット、信濃町から戸隠に向かう途中の鳥居川沿いかなと思われるショットなど場所的には変幻自在だ。さらには政夫と民子が二人だけで採取に行く綿畑のシーンが遠く離れた長野市大豆島だったというからおそれ入る。印象的な夕焼けのシーンも大豆島の堤防で撮影されたらしい。さて、自然の風景と違いロケ場所がわかり易かったのは政夫の通う中学校。これは観光地にもなっている長野市松代の真田邸だ。この建物の裏には松代藩の藩校である文武学校もあるが、撮影に使われているのは真田家の居宅の方。現在この建物は国史跡指定の文化財として公開されている。映画が撮影された当時はこの隣に県立松代高校があり実際のキャメラを置いた場所もその校庭だ。ここは現在、市が公園として整備しており、長野県出身の作詞作曲家の作品の歌碑などが並んでいる。そして映画のラストを飾る野菊の墓、にわかに信じがたいことだが、なんと長野市街地のド真ん中に現存する。巨大な欅の木が印象的な墓地、若里姫塚。善光寺七名所七塚のうちのひとつに数えられている旧跡だ。欅も健在で長野市の保存樹木に指定されている。周囲は建物にぎっしりと囲まれ撮影当時ののどかな雰囲気はまったくない。本当にこの場所なのか?と思うような現況だが、欅の袂のある特徴的な墓石は映画でもしっかりと確認できた。姫塚とは理由あって父(熊谷次郎直実)と名乗れぬまま娘(玉鶴姫)の最期を看取った直実が玉鶴姫のために建てた墓だ。そんな玉鶴姫の悲話にちなむ場所を民子の墓として撮影するとはなんとも深い。正にロケの達人、木下恵介。
あいつと私 1961年 カラー 105分 日活
銀座の恋の物語 1967年 カラー 93分 日活
月曜日のユカ 1964年 モノクロ 94分 日活
憎いあンちくしょう 1962年 カラー106分 日活
写真はシングル盤。「PENELOPE」って聴いてすぐピンと来た人は、立派なイージーリスニングファン。そうこれはポール・モーリア・グランド・オーケストラの演奏で日本でも大ヒットした「エーゲ海の真珠」の原曲。高校時代の吹奏楽部の部長(で指揮者)が守屋くんという奴で、ポール守屋と呼ばれていたなんてことはどうでもいいことだが、まあそのくらい当時人気のあった楽団だった。マジックショーの定番BGM「オリーブの首飾り」や「涙のトッカータ」などヒット曲は数多いが、私はこの「エーゲ海の真珠」がユーロ・ロック・テイストが強く大好き。イントロのペット~オルガン~ピアノ~フルート、極めつけはダニエル・リカーリのスキャットとチェンバロ。プログレッシヴポップなアレンジは、30年の時を経ても新鮮な驚きが楽しめる名曲。・・・って紹介してるのはポール・モーリア版じゃないか。さてこの曲の原曲。作曲は Augusto Algureo。作詞は Joan Manuel Serrat。作詞者がパフォーマー。ジョアン・マヌエル・セラートはスペインの歌手。私にしては珍しく男性歌手の紹介だ。60年代後半はエルビス・プレスリー、アンディ・ウィリアムス、トム・ジョーンズなど男性歌手がそれぞれ一時代を築いているが、この曲はそれらに負けないスケールがある。しかし、その後の Joan Manuel Serrat の活動は順風満帆とは云えなかった。彼はスペインといってもカタルーニャ地方の出身。この頃のスペインはフランコによる軍事独裁の時代。カタロニア地方はその言葉さえ使うこも許されず文化は徹底的に迫害されていたことは、日本でも報道されてきたので御存知かと思う。バルセロナ五輪で南北の調和を世界にアピールしたとは云え、未だにサッカーのレアルマドリードVSバルセロナは遺恨の戦いとして有名だ。実はこのページでも紹介してるスペインの女性歌手 Karina は南部アンダルシア地方のハエンの出身。彼女はハエンからマドリードに出てきてイエイエ歌手になった訳だ。独裁政権にイエイエ歌手ってのも不釣合いな気もするが、実は60年代のスペインはザ・ビートルズを真似たLOS何々ってビートグループが星の数ほどいた。(LOSってのはTHEみたいな定冠詞なんだと思う) 独裁政権への批判を和らげるためフランコ政権は国民がサッカーで盛り上がることを奨励したと云われてるが、おそらく同じようにガス抜き的な意味合いでグループサウンズも奨励されていたのではないか。もちろん、アメリカ戦後政策のお陰で日本と同様、驚異的な経済成長を遂げていた背景もある。しかし一方で、独裁政権に反旗を翻す文化は徹底的に弾圧されていた。ピカソやカザルスが亡命の後、最後まで母国に帰ることが無かったことは皆さんもご存知の通りだ。南部出身のKarina はユーロビジョンコンテンストに参加し準優勝したが、人気歌手だったJoan Manuel Serrat はコンテストへの参加を要請されるも、「カタルーニャ語で歌うことが条件」と突っぱったため、参加は取りやめになるわ、テレビから追放されるわ、最後には亡命するわ・・・と、とても Karina と同時代の歌手とは思えない人生を送っている。余談だが昨今話題のスペインの超美人女優 Penelope Cruz。彼女の芸名もこの曲が由来。両親が Joan Manuel Serrat の熱烈なファンだったらしい。私は未聴だが、Joan Manuel Serrat が Penelope Cruz と一緒に Penelope を唄ってるCDもあるという。
邦題は「哀しみのソレアード」。74年にヨーロッパで大ヒットし、フランク・プゥルセルやポール・モーリアなども演奏している有名曲。日本でもフジテレビの連続ドラマ「春ひらく」の主題歌(アンサンブル・カンパーナ版と詞・布施明、歌・西城慶子版)として使われたことからヒットした。60年代はフランス映画のサウンドトラックよろしくメロディアスで優しい音楽がヒットチャートに必ず入っていたものだが、おそらくこの曲はそうした流れの最後を飾る名曲ではないかと思う。東芝EMIから発売されたLPの解説書によると、この曲はカンタウトーレであるチロ・ダッミッコが自身のソロで歌入りで演奏してた曲(CIRO DAMMICCO の「Le Rose Blu」)をインストメンタルで作りなおしたと書かれてる。歌入り原曲も多くの人にカヴァーされており、さる男性歌手が唄っている版などは、途中でセリフが入ったりなんぞして聴いていて実に恥ずかしい。(笑) 盛り上げ過ぎると臭くなる曲なのかも知れない。まあ、ダニエル・リカーリの「二人の天使」が真顔で聴かれてた時代なのだ。臭いなんて批判する人は何処にもいなかったのだろう。しかし、実はオリジナルの「Le Rose Blu」は驚くほどあっさりと唄っていて殊の外若々しい。ドラムもイタロテイスト。むしろ、PFMやらイル・ヴォーロなどイタリアン・プログレッシヴ・ロックと共通する雰囲気があったりもする。カンタウトーレってのはイタリア版のフォークシンガーのようなもの。もともとそのあたりが源流なのだ。そういや日本では直太郎の母ちゃん(森山良子さん)がフォークテイストで歌ってたな。聴いてみよ。