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野菊の如き君なりき

430469ba.jpg野菊の如き君なりき 1955年 モノクロ 92分 松竹

■監督 木下恵介
■撮影 楠田浩之
■美術 伊藤熹朔
■音楽 木下忠司
■出演 有田紀子/田中晋二/笠智衆/小林トシ子/杉村春子

伊藤左千夫の「野菊の墓」を木下恵介が映画化。「二十四の瞳」と共に60歳以上の日本人の心の原風景的な映画として、深い影響力を残した作品でもある。木下恵介は映画の舞台を原作の千葉から信州に移して映画化し、ロケも行っている。公開後、感動的な物語はもちろん、美しい風景描写も話題を呼び、日本映画最高の映像叙事詩との評価もされた。その美しい信州の風景とは、上高地でもなく安曇野でもなく浅間山麓でもなく八ヶ岳山麓でも御岳山麓でもない。美ヶ原高原でも志賀高原でもなかった。なんとそれは善光寺平だったのだ。今や平地はそのほとんどが建物で埋まり、残った大きな空き地を狙って巨大な五輪施設が建てられてしまった長野盆地だが、50年前は古き良き日本を象徴する美しい景観があった。善光寺平のいたるところに「北信濃の原風景」(飯山市の菜の花公園の菜の花畑から千曲川越しに斑尾山を望むような美しい風景)が広がっていた。さて、映画の冒頭を飾る旅情豊かなシーンは、長野市安茂里と川中島の間を流れる犀川を丹波島橋から上流に向けて撮影している。遠く北アルプスも見えているがモノクロ映画の鮮明度が悪くはっきりと確認できないのが残念だ。逆に見えるはずの鉄道橋は鮮明度の悪さが幸いしてほとんどその存在がわからない。間近に見えているのは富士の塔山あたりだろうか白土が特徴的な山々を舟から移動ショットで見せている。これは差出地区あたりからの見た目だ。1950年代の安茂里はこんなに叙情的で美しかったのか。中尾山温泉のある共和地区の山々を背景に舟がいくショットもある。これは小市地区に近い場所だろう。当時既に存在したはずの信越線の鉄道橋や小市木橋は上手にカモフラージュされ、大自然の中を小さな舟が行くダイナミックな映像となっている。丹波橋からアルプス方向への眺めは、晩秋の日の夕暮れや晴れた冬の日の朝など、息をのむほどに美しいことがあるが、残念なことに現在は送電線や巨大な鉄塔などがその景観を阻害してしまっている。本編(回想)の中では村山橋と屋島橋の間のあたりと菅平根子岳を背景に舟が行くシーンなども登場する。民夫が郷里を離れ中学のある町に行く際に乗る舟の船着場は小布施町山王島の小布施橋東詰。そこは現在、千曲川ふれあい公園となっている。春になると菜の花が咲き、美しい風景が堪能できる公園だ。河川敷の中に流れ込んでいる千曲川の支流に当時を彷彿とさせる小さな木橋がいくつか渡されている。50年も経てば川の流れも変化する。民夫が舟に乗った場所はとても特定は出来ない。かつて山王島は実際に千曲川通船の重要な船着場で、同じ場所に渡しもあった。もちろん映画が撮影された頃は既に車や鉄道輸送の時代で船運などはなく、渡しも大正時代に架けられた小布施木橋に変わっている。映画ではその木橋の上で年老いた民夫(笠智衆)が杖をつき過去を回想するシーンも撮影されている。ここは西を向けば飯綱山や黒姫山、北を向けば高社山が背景となる絶好のロケーションだ。木橋の上で笠智衆が高社山を背景にして立つショットをよくみると、画面過ぎ右隅に河川敷内に現存する山王古跡(水神様か神社の跡?)を囲む杉の木が移り込んでいるのがわかる。神社といえば政夫や民子の住む村の村祭りのシーンが映画に出てくるが、この神社は飯綱山や黒姫山の見え方からするとおそらく小布施町押羽にある上下諏訪神社ではないかと思われる。昨今、小布施ワイナリーで有名な押羽地区には他にもいくつかの神社があり早計に断定することは出来ないが、周囲に全く民家がないことや鎮守の森の風情からするとその可能性は高い。この神社の周りに民家が無いのには理由がある。かつてこのあたりは千曲川が氾濫すると必ず水没する場所だったのだそうだ。たまりかねた住民が別の土地に集団移転したため神社だけが残ったらしい。現在は隣にフラワーセンターという施設が出来ているが、他に民家はなく撮影当時の様子をそこそこ留めている。さて肝心の政夫の家だが、これは善光寺平をずっと南に下った現在の千曲市打沢にある市川家の門や蔵がロケに使われている。映画の中に何度も登場する重要な場所だ。今は家の前の道は拡幅舗装され、道の手前に広がっていた水田も宅地になっている。敷地も幾つかのお宅に分かれているようだが、その一部に当時の面影を残す蔵や塀がある。ちなみに政夫の家はその周囲だけがロケで撮影され、家の内部の撮影は松竹大船撮影所のオープンセットで行われた。白壁は本塗り、大黒柱は尺五寸という凄いスケールのものだったらしい。その政夫の家の畑、政夫と民子が純真な愛を語らう茄子畑は牟礼村横手で撮影されている。飯綱山が唯一裾野を広げているこの地区はとりたてて山々の姿が美しいわけではないが、畑作業をする背景に近隣の丘(里山)や、延徳あたり平や千曲川が遠くに映りこんでくる爽快な場所だ。後半に登場する葬列のシーンもこの地区で撮影されており、その際に地元の人々18人と馬一頭がエキストラとして出演したらしい。現在、村(正確には三セクか?)が運営し、この地区にある「よこ亭」というそば店の駐車場には、この映画のロケ地であることを紹介する看板も立てられている。また、政夫の家からこの畑に向かうまでの移動シーンは実に様々な場所で撮影されている。何気ない風景なので場所を特定することは難しいが、映りこんでくる山の形がら想像するに、黒姫高原あたりで牟礼の方を背景に撮ったショットや、逆に妙高山を背景にしたショット、信濃町から戸隠に向かう途中の鳥居川沿いかなと思われるショットなど場所的には変幻自在だ。さらには政夫と民子が二人だけで採取に行く綿畑のシーンが遠く離れた長野市大豆島だったというからおそれ入る。印象的な夕焼けのシーンも大豆島の堤防で撮影されたらしい。さて、自然の風景と違いロケ場所がわかり易かったのは政夫の通う中学校。これは観光地にもなっている長野市松代の真田邸だ。この建物の裏には松代藩の藩校である文武学校もあるが、撮影に使われているのは真田家の居宅の方。現在この建物は国史跡指定の文化財として公開されている。映画が撮影された当時はこの隣に県立松代高校があり実際のキャメラを置いた場所もその校庭だ。ここは現在、市が公園として整備しており、長野県出身の作詞作曲家の作品の歌碑などが並んでいる。そして映画のラストを飾る野菊の墓、にわかに信じがたいことだが、なんと長野市街地のド真ん中に現存する。巨大な欅の木が印象的な墓地、若里姫塚。善光寺七名所七塚のうちのひとつに数えられている旧跡だ。欅も健在で長野市の保存樹木に指定されている。周囲は建物にぎっしりと囲まれ撮影当時ののどかな雰囲気はまったくない。本当にこの場所なのか?と思うような現況だが、欅の袂のある特徴的な墓石は映画でもしっかりと確認できた。姫塚とは理由あって父(熊谷次郎直実)と名乗れぬまま娘(玉鶴姫)の最期を看取った直実が玉鶴姫のために建てた墓だ。そんな玉鶴姫の悲話にちなむ場所を民子の墓として撮影するとはなんとも深い。正にロケの達人、木下恵介。

昭和は遠くなりにけり

この夏、ようやくDVDをコ※ー出来る環境を整えた。以降、借りたレンタルソフトはゆうに200枚を超えた。最初のうちは古い(5~60年代の)洋画を観ていたのだが、最近は同時期の邦画にハマッている。私が映画を見る目的はおおきく分けて二つ。まずは女優、綺麗なおねえさんにうっとりする至福のひととき。もうひとつはタイムマシン効果、映画を見ている時だけ、昔に戻った気分になれるのが面白い。映画の出来は一応気にはなるが、綺麗な女優が出ていて昔の日本がたくさん映っていれば、最後までそれが良くって観てしまう。正直そういう観方をすることが多い。例えば木下恵介監督の「風花」には昭和33年の長野市がふんだんに写しこまれている。小坂家や雄大な飯綱山、千曲川にかかる長い木橋(関崎橋)やその周辺の桑畑、自分の幼少期の微かな記憶が甦る。同監督の「喜びも悲しみも幾年月」は燈台守夫婦を描いた作品で全編海ばかりの映画だが唯一妻の里帰り先として内陸の長野が登場する。生まれた子供のお宮参りのシーンは西尾張部の八幡神社だ。もちろん若宮の信号の北側にいまでもある。現在は周囲は家だらけで神社も塀で囲まれているが、映画に映るそこは鳥居と神社と大きな木と未舗装の道路以外何もない。そこにボンネットバスがフレームイン。悶絶ものだ。この映画に登場する女優は高峰秀子。演技は完璧。木下組は長野ロケの際、藤屋旅館を定宿としていたそうだが、昭和35年、「笛吹川」のロケで長野に来ていた際に安保反対統一行動日(6月4日)となり、木下恵介、高峰秀子、田村高広ら20人ほどが県庁前の集会に「安保に反対する映画演劇人の会」として飛び入り参加。その後、権堂あたりまでデモの先頭を歩いたり、ビラ配りなどをして長野の人々を感激させたという逸話もある。国産初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」も浅間山麓が舞台、動く草軽軽便鉄道も映っている。そのくらい木下監督は信州を愛してくれた。木下恵介監督は数年前に他界したが、高峰秀子は健在だ。50歳で女優業は引退したものの、その後は優れたエッセイストとして活躍している。この人の文章は本当に面白い。ズケスケと他人のことを書いているのだが、まったく嫌味がない。読めば読むほど80歳のおばあさんの世界に引き込まれてしまう。さて、60年代の信州が映った映画を他にもいくつか紹介しよう。上田でロケをした映画はかなり多いが、戦前のロケや戦後でも「けんかえれじい」のように時代設定が戦中戦前のものが多い。普通に古い町並みが残っていたからだろう。生の60年代日本が映っている映画といえば、志賀高原を舞台にした石原裕次郎、北原三枝の「白銀城の対決」が完璧。今はもうない上林の山ノ内シャンツェや完成したばかりのロープウェーも登場。県スキー連盟の許可を得た上で実際のジャンプ長野県選手権で出場選手に撮影用のウェアを着させて映画撮影したら、他の大会関係者からアマチュア規定に触れると異論が出てしまい、結局その選手はその直後にあった国体への出場を辞退することになってしまったなどいう今では考えられないような事件も起きた。同じ日活の「若草物語」にも冬の熊の湯や丸池周辺が登場する。芦川いづみ、浅丘ルリ子、吉永小百合、和泉雅子が四姉妹という豪華な60年代版トレンディードラマ。浅丘ルリ子、吉永小百合や浜田光夫が志賀高原にスキーに来るという設定で、熊の湯ゲレンデなどで怪しい滑りを披露している。吉永小百合の著書によるとその後もプライヴェートで志賀高原でスキーに来ることが多かったようだ。映画ではないが「七曲署」って警察署名は石原裕次郎が骨折したゲレンデに由来しているとの話もある。日活系の俳優さんと志賀高原とのつながりは深い。吉永小百合といえば青春映画「美しい暦」がオール松本ロケだってことも忘れてはならない。松本城やその裏の松本神社で吉永小百合は芦川いづみ扮する先生と語らう。松本城の西側にあった遊園地の巨大な回転遊具も背景に映ってる。乗ったことがある人は懐かしいだろう。主人公の家は女鳥羽川沿いの旧商工会議所にセットを組んだと思われる質屋、通う高校は松商学園。映画を観ながらロケ地がどこなのか判定するのに骨が折れるが、それを探すのが存外に面白い。蛇足だが、個人的には吉永小百合よりも先生役の芦川いづみに萌え~だったりもする。高峰秀子80歳、芦川いづみ69歳、吉永小百合59歳・・・。チト愕然とした。昭和は遠くなりにけり。みなさん御健在のうちに昔の映画を楽しみたいと、最近かなり焦っている。

あいつと私

f6d974bf.jpgあいつと私 1961年 カラー 105分 日活

■監督:中平康
■原作:石坂洋二郎
■脚本:池田一朗/ 中平康
■撮影:山崎善弘
■出演:石原裕次郎/芦川いづみ/小沢昭一/吉永小百合
/酒井和歌子/吉行和子/宮口精二/轟夕起子

石坂洋次郎原作の青春映画。大学生を主人公に描かれるセックスコメディ。といってもその内容は昨今なら中学生を主人公にしてでも成立する程度のもの。それが大学生でってところが時代を現していて微笑ましく楽しい。当時は性に対する興味をあっけらかんと描くこと自体が新しかったのだろう。時代と言えばこの映画、60年の安保騒動も登場する。「アンポ、ハンタイ!!」ってな合唱がスクリーンの中で幾度となく繰り返される。主人公たちも実際にデモの現場に足を運び殴られ怪我をしたりもするのだが、映画に政治的なメッセージなどはない。当時のごく普通の大学生は最低限この映画の主人公と同じ程度には政治に関心を持ち、かつ性にはおおいなる好奇心を持って生活していたのだろう。その様子がとてもよく描かれている。さて、この映画、一般的には石原裕次郎と吉永小百合が共演した数少ない映画として有名だが、吉永小百合はこの時点ではまだチョイ役。裕次郎の恋人芦川いづみの高校生の妹役だ。さらにその下の小学生の妹はなんと酒井和歌子さん。豪華女優陣総出演??なのだ。・・・とはいえ残念ながら皆さんまだまだ子供。美しいのはやはり芦川いづみさん。この映画での彼女は美しく明るく可愛い。美の絶頂期かも。映画興行的にはおそらく嵐の中での〇〇シーンが見せ場なんだろう。雨に濡れたいづみさんは美しい。が、私のお気に入りは別のシーン、裕次郎の大きな手で口封じされた時の彼女のコミカルな表情だ。そこには流行の先端を走ったモダニスト中平康監督が捉えた自由で可愛い女性の表情が映し込まれている。中平康監督は既に前年(1960年)公開の「あした晴れるか」で芦川いづみコメディスト?としての才能を開花させている。オトナの女性が幼児的な表情を露にする演出なんてのは61年当時まだあまり無かったのではないか。中平康監督はこの4年後の64年に加賀まりこの小悪魔的な可愛らしさを全開させた映画「月曜日のユカ」を撮っているが、セルジュ・ゲンズブールがフランス・ギャルに「夢みるシャンソン人形」を歌わせたのが翌65年だってことを考えると、驚くべき先端流行感覚の持ち主だってことがわかる。56年に撮った「狂った果実」が、フランスのヌーヴェルバーグに影響を与えたことも映画マニアにはよく知られているが、こんなお洒落な監督が当時の日本にいたとは誇らしい。60年代後半以降日本では暗くドロドロした映画ばかりが価値があるかのように語られ、中平康監督は不遇の生涯を閉じることになってしまうが、私はもっと再評価されるべき人だと思う。蛇足だが小沢昭一(学生服姿)や吉行和子が学生役で登場するところも隠れた見所かも。

銀座の恋の物語

771ec913.jpg銀座の恋の物語 1967年 カラー 93分 日活

■監督:蔵原惟繕
■脚本:山田信夫/熊井啓
■撮影:間宮義雄
■出演:石原裕次郎/浅丘ルリ子/ジェリー藤尾/江利チエミ
/和泉雅子/高品格/三崎千恵子/牧村洵子/金井克子

デュエットソングの定番「銀座の恋の物語」の映画版。別の映画の挿入歌として作られた曲が200万枚の大ヒット。で映画が作られたらしい。この唄、現在では場末の繁華街で歌われる演歌というイメージが強いが、かつてはおしゃれな歌謡曲だったハズ。映画にはそのおしゃれな雰囲気がしっかりと記録されている。新宿にまだ高層ビルがなく渋谷にパルコがない時代、銀座は若者の街だった。服部時計店や松屋、日劇や森永の広告塔など、映画「月曜日のユカ」に映されている当時の横浜元町と比べるとネオングルグルな銀座はやっぱり日本一の繁華街だったことを実感する。正に60年代のトレンディードラマ。浅丘ルリ子は相変わらず美しく、メガネをかけて3枚目を演じてる妹役の和泉雅子も実は可愛い。婦人警察官役で登場する江利チエミの演技が如何にもスター然としていたり、「♪心の底から痺れるよおな~」っていう唄のフレーズが映画のいたるところで流れるあたりは歌謡映画。当時のドラマの定番といえば、金持ちと貧乏人モノ、都会人と田舎もモノ、新婚初夜の嬉し恥ずかしモノ、記憶喪失モノ、努力して大成功モノなどなど。この映画でもそのうちのひとつがぴったんこカンカンだったりもする。昨今は単純な恋愛ストーリードラマなんてものはほとんど無く、普通のドラマでも練りに練った推理サスペンスみたいだったりするが、この映画を見ると大スタアが登場する恋愛映画はストレートな王道スト-リーの方が華やかでいいワナって感じもしなくはない。韓国の恋愛ドラマが大好評だし、そろそろ日本も王道恋愛映画を復活させたらどうか? 10年程前に「僕は死にましぇん・・」ってテレビドラマがあったが、判り易いドラマも必要だ。

月曜日のユカ

8f84d46d.jpg月曜日のユカ 1964年 モノクロ 94分 日活

■監督:中平康
■脚本:斎藤耕一/倉本聰 ■撮影:山崎善弘
■出演:加賀まりこ/中尾彬/加藤武/北村谷栄/山本陽子

加賀まりこ主演の日本版ヌーベルバーグ映画。中平康監督が57年に撮った「狂った果実」はフランスヌーベルバーグに影響を与えたってらしいからこちらの方が元祖かも? ストップモーションや新聞穴ワイプなど映像処理はフランスのソレよりも自然で違和感が少ない。・・・ってな堅い話よりもまずこの映画は18歳の加賀まりこのキュートな美しさを堪能すべき映画。昨今、この映画での彼女のファッションを信奉する若い女性が増えてると聞く。山下公園、元町、赤燈台にレンガ倉庫、横浜が舞台。元町のロケ場面ではキタムラ元町本店らしき建物の前を加賀まりこと中尾彬が仲むつまじく歩くシーンもあったりもするが、現在からすれば場末の商店街のように見えなくもない。こういうのをおしゃれと思う若い女性がいてくれることは嬉しいが、実際の昭和39年の元町商店街はドブ板の下からいろんな臭いがしてたんじゃないかと思う。(笑) それらを容認した上でおしゃれだと思うなら実に結構なことだ。テレビのバラエティ番組で毒舌をふりまいてる加賀まりこと中尾彬の若き日の姿は何とも初々しい。この映画を見れば、バラエティ番組からうける2人の印象も変わることだろう。山本陽子がほとんど子役としてチョイ役で出ているが後姿ばかりで顔が見えないのが演出とはいえ残念。

憎いあンちくしょう  

94bb3455.jpg憎いあンちくしょう  1962年 カラー106分 日活

■監督:蔵原惟繕■脚本:山田信夫
■出演:石原裕次郎/浅丘ルリ子/芦川いづみ/小池朝雄/長門裕之

石原裕次郎主演の傑作ロードムービー。実はこの映画、真の愛のあり方を問うストーリーはさることながら、1960年代前半、高度経済成長初期の日本の風景がフルカラーのシネマスコープサイズでよみがえるところに記録的な価値がある。ジャガーXK120、ジープCJ3B-J3(J10)というカーマニアにとってはたまらなくカルトなクルマが、新幹線も高速道路もない時代の、東京~箱根~静岡駅前~名古屋テレビ塔~京都二条大橋~大阪梅田駅前~尾道~広島原爆ドーム~関門トンネル~福岡中州を走り抜ける。街の中心地を通る国道、海際を走る国道、未舗装の国道は雨で泥々。きっと映画のスポンサーなのだろう給油は必ず出光(アポロ)、当時のガソリンスタンドの風情もいい。そしてゴールは九州の山奥、楢山節考もびっくりの山村だ。60年代を記憶に留める人であれば懐かしさに心震えることだろう。映画もテレビもまだ白黒が当たり前、自分自身の60年代の記憶もなぜかモノクロームだったりするので、個人的には当時のカラー映像が新鮮だった。テレビといえば主人公がテレビタレントという設定、当時のテレビスタジオやサブコントロールルームが画面に登場したりもする。60年代の日本の風景がふんだんに詰まった記録映画としてみるのが楽しい。・・・といいつつ、22歳の浅丘ルリ子ってふっくらしていて可愛かったのね~と妙に嬉しくなったりもする。70年代以降のスリムで美しい浅丘ルリ子しか知らん世代にとってはこれも驚きのひとつかも知れない。それとなぜか桑田圭祐がテレビディレクター役で出演している・・・もちろん嘘。

ゴールドラッシュ

アテネ五輪は日本のメダルラッシュ。東京五輪の金16個を上回る勢いを誰が予想しただろうか。評論家はこの活躍を日本の社会情勢を結びつけたがるが、まあそれもあるだろう。新卒者が就職できない時代だ。昨今の日本の20代は少なくとも30代40代よりはハングリー精神はありそうだし、今回中国がやや不振なのは高度経済成長のせいだという指摘もある。実際、バブルの時代、メダルを獲得した選手は貴重な国民的ヒーローだったが、一方で「何を好んでそんなに苦労をするの?」って視線もあったような気もする。苦労せずとも食える時代(国)なんてそんなものだ。

でも実際的にはそうした精神的なことよりも、各競技団体が取り組んだ根本的な選手育成策が20年の時を経てようやく実を結んだってことではないのか。学生&実業団スポーツを根性根性で取り組み勝ち得たのが東京五輪の頃の日本のメダルだが、70年代後半あたりから国家的事業として英才教育を施す旧共産圏の選手育成策にはかなわず、メダルが取れなくなってしまった。その頃から日本はジュニアの育成に力を入れ始める。水泳、柔道、体操、いずれも小学校入学前から丁寧に選手を育てるようになった。ようやくその世代が成人。国も西ヶ丘にトレセンを作って支援した。ここには仕事で行ったことがあるが、トレセンっていうより研究所。旧共産圏でなくとも国家に出来ることはあるんだなと思わせる施設だ。

だからということではないが、今回チームスポーツが苦戦している。プロ野球選手が出てる野球は別として他の競技は期待されつつも爆発的な強さはない。やはり実業団スポーツの崩壊が響いているとしか云い様がない。そのあたりが今後の課題なのだろう。

あとこれは蛇足だが、今回の五輪、ジャッジが比較的公正。これも真っ向勝負で取り組む日本には追い風だ。・・・ってことは次の五輪はダメってことか。(藁

第二幕のはじまり

HMVとタワーレコードが洋楽輸入盤CDに関する共同声明を発表した

http://www.watch.impress.co.jp/av/docs/20040608/handt.htm

共同声明文は以下の通り。
-----------------------
一、「著作権法の一部を改正する法律案」の成立、施行によって、洋楽輸入盤CDの輸入規制が起こらないよう、今後も文化庁や日本レコード協会などの関連省庁・団体に対して働きかけを行ない、その動きを厳しく注視していくこと

一、「著作権法の一部を改正する法律案」が邦楽の著作権者を守るという本来の目的に沿って運用され、政府および関係者が同法案の「欧米諸国からの洋楽の並行輸入等が阻害されるなど消費者の利益が侵害される事態が生じた場合には適切な対策を講じる」等の付帯決議を尊守するよう働きかけていくこと

一、万一、洋楽輸入盤規制により消費者に不利益が生じるような可能性が発生した場合には、直ちに洋楽輸入盤の自由な流通を守るために必要な行動をとること
------------------------

声明の中に動きを厳しく注視するとあるが、タワーとHMVは音楽業界関係者有志と共に監視組織を立ち上げるようだ。ピーター・バラカン氏によると「音楽の選択を守る協議会」や「FREE MUSIC」などの名称を考えてる。高橋健太郎氏のBlogにあった第ニ幕が切って下ろされたのだ。最初から敗戦を覚悟して行われた第一幕より案外こちらの方が重要なのかも知れない。実はこの法案の主目的が還流盤なんぞではなくズバリ欧米輸入盤にあったってことは、業界関係者には周知の事実だ。妖怪はいずれ化けの皮を剥がす。音楽愛好家は注視していかなければならない。

PENELOPE ( JOAN MANUEL SERRAT ) 1969

5072794e.jpg写真はシングル盤。「PENELOPE」って聴いてすぐピンと来た人は、立派なイージーリスニングファン。そうこれはポール・モーリア・グランド・オーケストラの演奏で日本でも大ヒットした「エーゲ海の真珠」の原曲。高校時代の吹奏楽部の部長(で指揮者)が守屋くんという奴で、ポール守屋と呼ばれていたなんてことはどうでもいいことだが、まあそのくらい当時人気のあった楽団だった。マジックショーの定番BGM「オリーブの首飾り」や「涙のトッカータ」などヒット曲は数多いが、私はこの「エーゲ海の真珠」がユーロ・ロック・テイストが強く大好き。イントロのペット~オルガン~ピアノ~フルート、極めつけはダニエル・リカーリのスキャットとチェンバロ。プログレッシヴポップなアレンジは、30年の時を経ても新鮮な驚きが楽しめる名曲。・・・って紹介してるのはポール・モーリア版じゃないか。さてこの曲の原曲。作曲は Augusto Algureo。作詞は Joan Manuel Serrat。作詞者がパフォーマー。ジョアン・マヌエル・セラートはスペインの歌手。私にしては珍しく男性歌手の紹介だ。60年代後半はエルビス・プレスリー、アンディ・ウィリアムス、トム・ジョーンズなど男性歌手がそれぞれ一時代を築いているが、この曲はそれらに負けないスケールがある。しかし、その後の Joan Manuel Serrat の活動は順風満帆とは云えなかった。彼はスペインといってもカタルーニャ地方の出身。この頃のスペインはフランコによる軍事独裁の時代。カタロニア地方はその言葉さえ使うこも許されず文化は徹底的に迫害されていたことは、日本でも報道されてきたので御存知かと思う。バルセロナ五輪で南北の調和を世界にアピールしたとは云え、未だにサッカーのレアルマドリードVSバルセロナは遺恨の戦いとして有名だ。実はこのページでも紹介してるスペインの女性歌手 Karina は南部アンダルシア地方のハエンの出身。彼女はハエンからマドリードに出てきてイエイエ歌手になった訳だ。独裁政権にイエイエ歌手ってのも不釣合いな気もするが、実は60年代のスペインはザ・ビートルズを真似たLOS何々ってビートグループが星の数ほどいた。(LOSってのはTHEみたいな定冠詞なんだと思う) 独裁政権への批判を和らげるためフランコ政権は国民がサッカーで盛り上がることを奨励したと云われてるが、おそらく同じようにガス抜き的な意味合いでグループサウンズも奨励されていたのではないか。もちろん、アメリカ戦後政策のお陰で日本と同様、驚異的な経済成長を遂げていた背景もある。しかし一方で、独裁政権に反旗を翻す文化は徹底的に弾圧されていた。ピカソやカザルスが亡命の後、最後まで母国に帰ることが無かったことは皆さんもご存知の通りだ。南部出身のKarina はユーロビジョンコンテンストに参加し準優勝したが、人気歌手だったJoan Manuel Serrat はコンテストへの参加を要請されるも、「カタルーニャ語で歌うことが条件」と突っぱったため、参加は取りやめになるわ、テレビから追放されるわ、最後には亡命するわ・・・と、とても Karina と同時代の歌手とは思えない人生を送っている。余談だが昨今話題のスペインの超美人女優 Penelope Cruz。彼女の芸名もこの曲が由来。両親が Joan Manuel Serrat の熱烈なファンだったらしい。私は未聴だが、Joan Manuel Serrat が Penelope Cruz と一緒に Penelope を唄ってるCDもあるという。

SOLEADO ( DANIEL SENTACRYZ ENSEMBLE ) 1974

42e8b41a.jpg邦題は「哀しみのソレアード」。74年にヨーロッパで大ヒットし、フランク・プゥルセルやポール・モーリアなども演奏している有名曲。日本でもフジテレビの連続ドラマ「春ひらく」の主題歌(アンサンブル・カンパーナ版と詞・布施明、歌・西城慶子版)として使われたことからヒットした。60年代はフランス映画のサウンドトラックよろしくメロディアスで優しい音楽がヒットチャートに必ず入っていたものだが、おそらくこの曲はそうした流れの最後を飾る名曲ではないかと思う。東芝EMIから発売されたLPの解説書によると、この曲はカンタウトーレであるチロ・ダッミッコが自身のソロで歌入りで演奏してた曲(CIRO DAMMICCO の「Le Rose Blu」)をインストメンタルで作りなおしたと書かれてる。歌入り原曲も多くの人にカヴァーされており、さる男性歌手が唄っている版などは、途中でセリフが入ったりなんぞして聴いていて実に恥ずかしい。(笑) 盛り上げ過ぎると臭くなる曲なのかも知れない。まあ、ダニエル・リカーリの「二人の天使」が真顔で聴かれてた時代なのだ。臭いなんて批判する人は何処にもいなかったのだろう。しかし、実はオリジナルの「Le Rose Blu」は驚くほどあっさりと唄っていて殊の外若々しい。ドラムもイタロテイスト。むしろ、PFMやらイル・ヴォーロなどイタリアン・プログレッシヴ・ロックと共通する雰囲気があったりもする。カンタウトーレってのはイタリア版のフォークシンガーのようなもの。もともとそのあたりが源流なのだ。そういや日本では直太郎の母ちゃん(森山良子さん)がフォークテイストで歌ってたな。聴いてみよ。