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競争原理の不毛

4f0af70e.jpgバブルの崩壊、相次ぐリストラ、市場開放が叫ばれ、年功序列型社会から実力主義型社会へと移行しているらしい昨今、競争原理こそが活力をもたらすと信じてやまない人々が少なくない。単細胞な経営者は労働者を競争させれば通常の倍の労働力を引き出すことが出来ると信じ、従順な労働者は隣の奴より仕事が出来れば格段に給料が良くなると信じている。そんな連中が競争に負けがちな弱者に説教する際に使う常套句は「世の中は厳しい!」 私の嫌いな言葉のひとつだ。確かに世の中は厳しい。いや厳しいどころではない。「世の中は厳しい!」などと云っている連中が考えているほど世の中は甘くないのが真の現実なのだ。競争原理主義者は「努力すれば報われる」と信じている。受験戦争の如くコツコツと勉強し他者を圧倒する実力を確保すれば勝者となり有名大学に合格出来る。まあそんなところだ。なんともおめでたい。果たして厳しいと云われる世の中のどこにそんなセンター試験のような整然としたルールがあるだろう。いちいち例を示さないが実社会と云うのは奇奇怪怪、陰謀や羨望、欺きや怠惰が入り混じるもっとドロドロとしたものだ。「厳しく厳しく」などとと云いつつ学校型点数主義を実社会に持ち込んだ「成果主義」が敢え無く敗退していく現実。成果主義を唱えた連中は「日本の成果主義は真の成果主義ではない。」とか「実力を正しく評価する基準がない」とか「評価する経営者が年功序列で成り上がった連中だから」などともっともらしい弁明を並べるのだろうが、そんなルール的な部分に拘っている時点で実は社会的に負けだ。世の中はもっと多様。大地主の一人娘を嫁に貰えばその日から経済的勝者、親が金持ちならニートでも暮らせる。宝くじが当たればもちろん億万長者。社会とは元来そういうものなのだ。・・・などと書いてしまうとやや不遜かな・・・。まあ、そこまで落魄れなくとも、例えば利害関係のない友人をたくさん持つ人がいたとしたらそれは収入の少なさを補うほどの人生の価値があるだろうし、競争原理を家庭に持ち込んで家族間で言い争いをしているくらいなら最低限の経済生活で仲良く楽しく暮らしていた方がマシだ。無論、仕事が好きなのであればそれはそれなりに価値はある。熱心に仕事に取り組むことで大いなる幸福感も得られることだろう。しかし、この働いて収入を得るってことに拘り画一的な価値観に囚われると、わずかに多く受けとれるカネのために人々は多くの幸せを失ってしまう。競争原理が蔓延すると人々は勝ち負け以外のことに無関心になる。負けるゲームはすぐやめる。人の見えないところで秘密に練習したり勉強をし、他人の出世を妨げる。経済学的に見ればこれはかなり非生産的な所業だ。つまりそんな人間が増えたらこの国はお終いということ。競争は自発的意欲、創造力を伸ばすためにあるものであって、お互いを鞭で打ち合い痩せ衰えさせるためにすることではない。だいたい厳格に市場原理主義を持ち出せばサラリーマンをしている時点で既に社会的敗者なのだ。勝者とは億のカネを操る人々を云う。1000万程度の年収を貰って勝者気取りをしても仕方が無い。国家経済の贅肉を落とすための方便として使われた理念をいつもまでも信じている殊勝な人々が多くて困る。

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