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記事一覧

諦めは罪なのか?

人は向上心を持って努力する姿が好きらしい。プロジェクトXやらにんげんドキュメントなど、NHKが制作する真面目なテレビ番組だけではなく、最近では民放が制作する教養バラエティ番組なんぞでも、一般の人々やら芸能人が何らかの目標に向かって努力する姿を描いては、スタジオに並ぶ出演者にしたり顔で感想を述べさせていることが多い。とりあげられる人の対象は日本の科学技術を世界レヴェルにまで押し上げた偉人やメダル獲得を目指すオリンピック選手、災害や経済的な逆境を乗り越えようとする市民、ダイエットや隠し芸に挑戦する芸能人、はたまた「おつかい」に挑戦する小学校入学前の子供やチンバンジーまで・・・。そうした番組からは「向上心を持って努力することは善だ」という制作者の揺ぎ無い確信を沸々と感じられる。見ている人に感想を求めればおそらくは「元気付けられた」とか「自分も頑張らねばと思った」などと殊勝なことをきっと云うんだろうな。それがタテマエというものだ。しかし、実際には単に番組を見たことにより自分も成功したかのような疑似体験をして気持ちがよくなっているだけって人が案外多いのではないか。WBCで日本が優勝すれば自分が世界一になったかのような錯覚をし、サッカーのW杯で日本が敗退すれば自分を含めた日本人はダメだと落胆する。現実はそんな単純ではないハズなのだが、それらがこの手の番組の人気の理由であろうことは想像に難くない。まあ、見ている側はそれでも良いような気もしないではない。気分が良くなることは悪いことではないし、しょせんは他人事なのだ。しかし、私が気になるのは前述したように番組制作者側が「向上心を持って努力することは善だ」と盲目的に信じてしまってような気配があるところ。これは怖い。「努力した人は報われるべし」という実力主義社会を求める世相があったり、「失敗したらやり直せばいいではないか」と簡単に云ってのける首相もいたりするが、制作者側がそこまでステレオタイプだったりなんかしたら何とも恥ずかしい。おそらく制作者自身も競争社会の中で窮々としているハズなのに、落伍者の目線でモノを考えることをしない。それどころか学歴社会である程度の実績を収めた自分の過去の成功体験を根拠に上からモノを見るような視点で他人の努力を評価するようなイヤ~な奴もチラホラと見受けられる。もろろん、自分に対して甘いなんてのはあまり感心できないが、他者に対してはもっと優しい目線で物事を考えていても良いような気が私はする。また、物事を達成するには単に努力するだけでなく冷徹な自己評価も必要だったりする。それが無いまま無鉄砲に頑張るのは努力ではなく虚勢と変わらない。稀に無知が功を奏して大成功を収める場合もあるが、それは確率的にはとても低く、多くの場合周囲に迷惑をかけるだけで終わることが多い。まあまだそうやって奮闘している人間はいい。久しく何か固定した価値観が蔓延し、マスメディアが頑張る人ばかりを紹介している中、現実には行き場の無い人が激増しているように思えてならない。経済的敗者はもちろん生殖的敗者(意味わかるかな?)も。かつてはそうした人々の立場で作られたテレビ番組や大衆芸能が多かった。昨今は「悲しい酒」を飲んだらその時点で負けらしい。いずれコップ酒の酒が溢れるだろう。人はタテマエだけでは生きられない。

マニュアル人生の果て

子供が関係した悲惨なニュースが相次いで報道されている。個々の事件について詳細に触れるつもりはないが、その数の多さには驚く。子供が殺されたり猟奇的な事件そのものは昔からあったが、その背景は時代によって異なる。かつては貧困やら狭い社会の中で起こる地縁血縁のトラブルのようなものや身代金目当てのものが多かった。連続ピストル射殺(警察庁広域重要指定108号)事件や吉展ちゃん事件あたりがその代表例だ。それが20年ほど前からチラホラと変な事件が増えてきた。おそらくその最初の重要事件は東京都八王子市在住の27歳(当時)の青年が起こした『連続幼女誘拐殺人(警察庁広域重要指定117号)事件』だろう。ビデオテープで溢れる部屋がテレビに映し出されたのはかなり象徴的だった。その後、いわゆるいじめによる虐待殺人事件が多くなり犯人の低年齢化が進む。少年による犯罪といえばゲームのような犯行声明文がマスコミを賑わせた「神戸連続児童殺傷(酒鬼薔薇)事件もあった。殺人ではないが犯行当時28歳の青年が小学校4年生の少女を9年2ヶ月も監禁し続けた新潟少女監禁事件なんてのも私はかなり気になる事件だ。そして最近増えているのは子を持つ親がいとも簡単に自分の子や他人の子を殺してしまう事件。もはや世も末か? 事件が起きるとマスメディアは必ず「テレビが~」とか「アニメが~」とか「ゲームが~」とか「インターネットが~」などと背景を語ろうとする。むろんそれは背景の一部だが原因ではない。きっとそれは虚構と現実の境目が希薄になっていると云いたいのだろうし、確かにこうした事件に共通するのは「生きているという現実の希薄さ」のようなものだ。現代社会では、かつてのような地縁血縁による結びつきが減り、その代わりにヴァーチャルでかつ強烈な情報が溢れている。子供や若者だけでなく子供を育てるべき親や教師までもが、何をするにもマニュアルを求め、そのとおりに生きていたりもする。とりあえずそれも自己実現ではあるが、かなり安直なものだ。毎日がハンバーガーショップの売り子のような生活や会話ばかりではいくらきちんと応対が出来ていても、やはり生きてる現実感は薄くなる。また、たまにコダワリを持って生きる人がいたかと思えば、マニュアルを遵守することが信念だと勘違いしてたりして実に辟易する。もっと困るのは変なマニュアルに深く洗脳されてしまっているがために、モノを買った先やら職場やら地域やらPTAなどアチラコチラでクレームを付けては興奮し、自分に酔い、それを生きがいにしているような人だ。もちろん、世の中そんな輩ばかりではない。しかし、狂った現実に追いまくられ気が付いた時には自分が狂ってしまっていたってのが現代社会の異常さなのだ。のんびりと自分と自分をとりまく社会を見つめなおし、焦ることなく生きていればそういうことにはならないのだが、そんなことをしていたらとりあえず生存競争に負けてしまう(らしい)。これを読んでいるあなたや書いている私も既に狂ったルートの途中に立っているのかも知れませんね。

日本の貧困率

日本の貧困率がOECD加盟26ヶ国中5位というデータを御存知だろうか? OECDってのは経済協力開発機構。簡単に言えば発展途上国に経済援助が可能なそこそこ金のある国家の集まりのことだ。その中で日本の貧困率がなんとワースト5位にランクされている。貧困率はGNP(国民総生産)やらGDP(国内総生産)のように国の経済の規模・成長を測る指標ではない。誰もが知るところだが、GDPの世界1位は米国、日本は続く世界2位の経済大国だ。その日本に「貧困率」もクソもネエだろうとも思うのだが、実はこの貧困率なる指標、意外な現実を浮かび上がらせてくれる。・・・と、ここまで書くとその貧困率って一体何なのよ?ってことにきっとなるなるだろうから、まずは掻い摘んでそれを説明する。貧困率とは「所得の中央値の半分以下の所得で生活している人の比率」。ぶっちゃけ、平均的な所得を得ている人の数に対して貧乏人がどの程度いるのかって割合のことだ。隣の芝生は青く見えるなどというが、人間はサモシイ生き物で、GDPが世界2位であろうが、自分の家が他の家より良い生活をしているかを常に気にしている。そういう意味でこの貧困率はGDPなんぞよりもずっと庶民意識に合致した経済的指標なのかも知れない。実際のデータだが、日本人の所得の中央値は2002年の統計で476万円だった。その半分238万円以下の所得の人の割合は全体の15.3%。この順位がワースト5位だったというわけ。ちなみにワースト1位がメキシコで20.3%、2位が米国で17%。一方、ベストの1位はノルウェーで6.3%、2位はフィンランドで6.4%だ。実はこの先が重要で、ここでいう所得とは「税や社会保障などによる再分配後の所得」のことを指している。つまり、「国が施策によって所得格差を是正していればこの順位は良くなる」ということ。北欧諸国の順位が高いのはそのためだ。20年ほど前、日本はこの指標で15位前後をウロウロしていた。これはGDPを考えれば凄いことだ。国が儲かりかつ貧富の差がない状態。この人類史の中でも稀有な状況に、日本は世界で最も成功した社会主義国などと冗談で云われたりもした。ところが、2002年の段階ではなんとワースト5位になってしまった。格差社会などと云われ、総理大臣が開き直って格差是認発言をしてるくらいだから、今後このワースト順位がさらに上がり、貧困率でも憧れの国アメリカ合衆国と肩を並べられる日もそう遠くはないのかも知れない。無論それでもGDPが多ければ先進国モドキの生活は十分に出来よう。橋の下や洞穴で暮らすわけではない。ローン抱えたままリストラされ自殺を考えた人も真面目にやり直せば年収238万円程度は稼げるだろうし、年収238万円でも発展途上国に行けば大金持ちではないか。総理大臣もWBC野球の結果を見て「一度や二度失敗しても勝ちあがれる社会にしたいですね。」などと笑顔で語っていた。・・・でもソレなんか違くね? まあ個人がそういう慎ましい意識で仕事に励むこと自体は否定しないし、戦中戦後の苦しい時代を生きた人々が浪費飽食を戒める意味で云うのなら、それは誠実に聞く必要はあるとは思う。しかし、「努力した者が報われる社会にしたい」とか「働かざる者食うべからず」みたいな発想で、この貧困率や格差社会を是認しよう思うのであればそれは止めておいた方が身のためではないかと思う。近年、何かを勘違いしてる人が多い。確かに格差社会とは努力した者が報われる社会ではあるのだが、問題はその努力の度合いだ。格差社会では成功へのハードルはどんどん高くなり並大抵の努力では成功できなくなるのがまた現実なのだ。さらに格差社会の継続は新たな格差を生む。よく考えて欲しい。「格差は是認、消費税は引き上げ、所得税の累進課税は緩和」なんて政策では金持ちの子はまた金持ちに貧乏人の子はまた貧乏になるだけではないか。一体どこが実力主義社会なのか? 騙されてはいけない。そして精神まで貧困になってはいけない。大切なのは怠けないことであり自分のスキルを上げるために日夜努力することなのであり、それを誠実に実行している者ならば本来ある程度は報われるような社会でなければいけないのだ。それを実現するのが政治の役割。弱肉強食で良ければ政治など不要だ。人間も動物、放っておけばそのようになる。現総理がやってきたのは徹底して人を蹴落す政策だった。蹴落されても立ち上がれってことだろうが、経営者がそれを云うのならともかく政治家や学者(笑)がそれを云ってしまってはオシマイだ。バブル景気で日本人が弛んだ部分を治すにはそういう発想も必要だと選んだリーダーではあるが、これ以上やったら日本人が壊れてしまう。貧困率はその指標になるだろう。

世界一その後

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■秋以降に日韓再戦を希望 韓国野球委
【ソウル22日共同】韓国野球委員会(KBO)の辛相佑総裁は22日の平和放送のラジオ番組で、プロ野球シーズン終了後の10月以降に日本で再度、日韓戦を行いたいとの考えを示した。辛総裁はワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で日本が優勝したことについて「実質的には2対1(2勝1敗)で韓国に負けたと、日本もよく分かっている」とした。また、開催時期の気候的な問題から「(韓国には)ドーム球場がないために(再戦は)日本の意思が重要」と述べた。(共同通信) - 3月22日12時17分更新
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呆れた。韓国に限らず、今回のWBCで準決勝に残ったキューバやドミニカにも優勝する実力はある。しかし、トーナメントで負けてしまったら点差が6-0の大差であろうが6-5の僅差であろうが負けは負けではないのか。総裁みずからが未練がましく秋に日本とだけ再戦などと公式発言する神経を疑う。再戦で日本を撃破し、「やっぱり自国が世界一だ!」と国民挙って悦に入ろうという発想ならば、それはキューバやドミニカに対してもかなり失礼だ。そんな連中にスポーツをやる資格など無い。二度と国際大会に出てくるなと云いたい。たかが野球のことだが、愚痴ならともかく公職にある人の公式の発言だ。あまりの非常識さ加減に、ふだんとりあげないスポーツのことを書いてみた。

STOP PSE!

a6ca9dc7.gif2001年4月に施行された電気用品安全法に定める猶予期間の一部(5年)が終了した。この4月からいよいよ規制が始まる。簡単に云えばPSEマークの付いていない電気製品は新品中古を問わずすべて売買が禁止されるということ。2001年の施行前に製造販売された電気製品は法に基づいた審査がされていないので当然の如くすべて売買禁止。フェンダーストラトキャスターもヤマハDX-7もミニムーグもサンスイAU-α607もデンオンDP-60Mも、マッキントッシュⅡもぜ~んぶ売買禁止。要するに電源内蔵の電気製品はほとんどがその対象。詳しい内容は http://antipse.org/index.html を参照して欲しい。近頃、知らぬ間にびっくりするような法律が国会を通りいつのまにか施行されている。国会で審議され、可決、施行、いずれも結果は官報で告知されているのだから「知らなかった」と云ったところで始まらないのだが、実際問題、一般人はマスコミが大騒ぎでもしてくれない限り施行まで気が付かないのが実情。アタマにくるのはそういう実態を利用して業界団体が自分達に都合の良い法律を官僚や族議員を利用してどんどん作っていること。これほど国民が馬鹿にされている国も珍しい。ハッキリ云えば馬鹿な国民でも電気製品が安全に使えるようにする法律が電気用品安全法だ。PSEマークが付いてない電気製品が火を噴いて火事になったところで、それは製造物責任法で取り締まれば十分ではないか。近年、電気製品は壊れにくくなっただけでなく、進化も頭打ち気味。モノによっては中古で充分ってな分野もあったりするため、ハード・オフやらリサイクルショップなど中古市場が隆盛を極めている。にもかかわらず新品製造メーカーには製造物責任法なる負担の重い法律が課せられているのだから、まあ官僚としても少しはメーカーに美味しい制度も考えてやらにゃ~って思ってのことなのかも知れないが、これでヴィンテージ家電市場は壊滅。マニアは自己責任でも良いから売買して欲しいだろうが、特例はまず望めないだろう。野暮な法律が出来たものだ。

■DETCH-UP SQUARE BLOG は移転しました。
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http://www2r.biglobe.ne.jp/~tkbbs/blog/

職人の眼

昨年の今頃、テレビに出て偉そうに解説していた経済評論家や大学教授って一体何だったのだろう。昨年3月の段階ですべてを見抜いていた一介の会計士のブログ。ここの場所が場所なのでリンク先にはコピペで飛んでください。

http://blog.goo.ne.jp/yamane_osamu/e/42c2c0ee4afb62e55737eaacc2d08b17

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理想国家の現実

2305e6a3.jpg米南部を襲ったハリケーン「カトリーナ」が見せてくれたもの。それは私達が理想とする国の貧しさだ。台風の被害は日本にもある。たびたび巨大地震の被害にも遭っている。被災地はどこも悲惨なもの。しかし、日本の被災地であのような情けない貧富の格差を見せ付けられることがあるだろうか。米国ではそのうち大統領の号令と共に、軍だ警察だ民間だなどとカッコイイ救援隊が現地に駆けつけて英雄的な救助活動を開始し、全米の中産階級の子息達は賛美歌を唄いながら被災地のための募金活動をすることになるのだろう。しかしそれらがいくら美しくてもニュースビデオに映った米国の現実を消し去ることは出来ない。昨今、日本はその米国を手本に努力した者が報われる社会にしようと構造改革の真っ只中。国や経済界のトップから末端のサラリーマンに至るまで「貧富の格差がないのは正しい能力評価がなされていない証拠。よって悪。」と思い込んでいる。さらに大多数の日本人は、自分は大学も出てるいる、会社では一定の地位もある、努力もしている、だから当然中流層に残れる・・・と勘違いをしているらしい。なんともおめでたい。自由競争社会とはとどのつまり、その中流層の選別なのだ。中流層の努力の成果がそのまま中流層に還元されると思ったら大間違い。それはたぶん社民主義と云われているもの。皆様が選択したがっている自由主義社会では、元中流層が生みだす資本は上流層に搾取されることになる。そして上流層はさらに超え太る。確かに国家経済事体は強くなるだろう。しかし、涙ぐましい努力を続けた僅かばかりの者達が中流層に残れる一方、それまで自分は中流層と思っていただった大多数の者達は貧困層に転落することになる。アメリカンドリームで成り上がった成功者ばかりを見ていたら騙されるよん。貧困層が増えれば当然治安は悪化。日本の場合、過酷で悲惨と云われた阪神大震災や中越地震の際も一部例外は除き治安は確保されていた。それこそ中流層の互助意識によってこそ為せるものなのだが、その中流層がやせ細ってしまえば貧困層を助ける能力はない。ひとたび災害が発生すれば略奪強姦殺人のオンパレードだ。貧者の多くは他人のことなと構っていられない。これが世界一豊かな国の現実。そんな国になりたいとアメリカンスタイルな政治家や政党に一票を投ずる君。20年後には「国肥えてあなたその日暮らし」だよん。よ~く考えよう。

箱の中の街

d74aab25.bmp地方での生活で最もグローバリズムを感じる場所、それはジャ※コだ。私の家はある地方都市の郊外にある。近くには江戸時代からある街道が通り、かつてそこには商店街があった。八百屋、肉屋、菓子屋、荒物屋、蕎麦屋、煙草屋、下駄屋、布団屋、風呂屋、床屋、桶屋、電気屋などが軒を並べ、やや離れたところには米屋、魚屋、寿司屋、書店、薬局、麩屋、写真屋、時計眼鏡店などもあった。各店は奉仕券なる共通のサービスチケットを発行し、それを集めると行ける温泉旅行が地域の人々の楽しみだった。そこに30年ほど前、県下初のジャ※コが進出した。するとほどなく商店街は壊滅した。今でも菓子屋、下駄屋など数軒が細々と残るが、マトモな商売をしているのは床屋くらいだ。旧商店街経営者の中には自殺者も出たという。そして今度はなんとそのジャ※コが消えるらしい。さらに郊外、高速道路のインターチェンジに近い場所に巨大なショッピングセンターとなって移転するとの情報がある。昨年から今年にかけて私は近県にあるその会社の巨大ショッピングモール2箇所(群馬県太田市と富山県高岡市)を実際に訪れてみたが、それは店というより巨大な箱の中に詰まった街だった。箱の中には120を超えるテナントが入り、さらにレストラン街やシネコンまでもがある。ジャ※コはその巨大なモールの中心となるキーテナントに過ぎない。無料駐車場の収容能力は4000台。毎日曜日この駐車場がいっぱいになるようなことになれば、今度は地域の商店街ではなく駅前の中心商店街も壊滅することになるだろう。経済原理主義の立場に立ち、地球規模での効率化、競争力強化を考えれば、とりあえずこの現象は「進歩」だ。事実、全国規模で展開するレストランやファストフード店のメニューはコストパフォーマンスは異常に高い。人件費も極端に節制されているようで、その価格展開たるやとても個人商店に真似できるものではない。貧乏人の私にとっては安いということはとりあえず有難いことではある。しかし、高速道路を使い200kmもクルマを飛ばして訪ねた大規模ショッピングモールではあったが、私の場合は特にそこで購入したいと思うようなモノは何ひとつ無かった。家人は家の近くでは売られてないブランドがあったと衣料を数点購入したようだが、私には何の魅力も無かった。結局、私は家人と一緒に昼飯を食っただけで、あとは同じ敷地内にある日帰り温泉施設で寝ていた。120もの店が並んでいるがとりたてて珍しいものがあるわけではない。要は広い意味での生活用品がごまんと置いてあるだけだ。観光施設ではないから地元名産品があるわけでもない。要するにこの手のショッピングセンターの中身はどこも同じなのだ。まさにグローバリズム。これがわが町に出来れば当然利用はするだろう。そこに行けば生活に必要な品は何でも手に入る。200円ほどのガソリン代はかかるもののとりあえず便利だ。しかし、このBLOGを見れば判るとおり、無駄なことをしたり無駄な時間を過ごすのが好きな私にとって、便利なだけが有り難い訳でもない。日本中何処に行っても同じ箱同じ店だなんてのはむしろツマラナイことだと言ってもいい。店によって様子が違っていたら時には隣町のショッピングセンターにも行きたくなるような気もするが、どこも同じならわざわざ行く気にもなれない。20年程前、何処の町の駅前もミニ東京化しツマラナクなったと云われた時期があった。それでも田舎の町には訳のワカラン怪しい店が表通り裏通りにあり、恐る恐るそれを利用するのが旅のスリルだった。その頃は自分の街と同じ店を見つけると親近感を覚え逆に喜んだりしたものだ。昨今そんな楽しみは消失した。地方都市の駅前はどこも衰退し、歩く気にもならない街になり、クルマで郊外に行ってみれば自分の住む町と同じ全国一律のチェーン店が並び、明らかに旅はつまらなくなってしまった。かつては文化的に近しい同じ県内でも他の町に行くと風情が変わり、その微妙な差が案外面白かったのに今はそんな感慨はほとんど皆無だ。一体これは進歩なのだろうかそれとも衰退なのだろうか。まあ、巨大ショッピングモールが出来て、首都東京にある商品が総て手に入るなら、ある意味それは「進歩」だろう。しかし、巨大ショッピングモールに実際に並ぶ商品を眺めていると、仮に我が町に巨大ショッピングモールが出来たところで、マニアアライクで珍しい商品が欲しければ、新幹線に乗ってTYOに行くしかないのは明白。その程度のもので地域文化や町並みが破壊されるなら、それは進歩でなく明らかに「後退」だ。日本中の地域コミニュティを破壊し尽した箱型商店街の創業者の息子がなんと野党第一党の党首として政権をめざしているんじゃ、この流れはそう簡単に変わるまい。淋しい国になったものだ。最近、グローカリズム(Glocalism)なる言葉が流行り始めている。これは"Globalism"と"Localism"の合成語のようだが、「地球的規模の発想で地域活動を行う」という考え方らしい。反グローバル主義とはやや趣が異なる。グローバルに考えることは重要だが地域性を失ってはいけないということかなとも思う。実際、グローバリズムが単に東京化米国化を意味するならそれは人類にとって巨大な文化的損失になるだろうことは私のような馬鹿でも判る。仮に各地域の多様な文化を吸い上げて優れたものだけを還元するのがグローバリズムだとしたらローカルの衰退はやがて世界の衰退を招くだろう。いくら優れていても均質化単純化された社会から生まれる文化など長い眼で見れば明らかに不毛だからだ。経済的には無駄と思えることも文化的には意味のあることはいくらでもある。私の街に出来る大規模ショッピングセンターも、せめて建物を仏閣型にするくらいの洒落は欲しいと思う。だから何だと云えばそれまでだが、その無駄が大切なのだ。そういう発想を誰もしなくなったところに今日の不毛がある。

日本民営化の行方

改革なくして成長なし」これが日本の常識になって久しい。国の借金が730兆円もあるのだ。何らか改革をしなければいずれ断末魔の叫びを聞くことになるのだろう。・・・と思うようになってからもずいぶん経つ。2000年頃の気分では、今頃はもう私のように仕事のできないダメなサラリーマンは失業し、僅かな銀行預金は紙切れ同然となり、一杯のかけそばを家族4人で有難く食うような生活をしている予定だった。あれから5年、小泉構造改革は掛け声はともかく実質的には一向に進んでいないのだが、とりあえず低所得者層の我家でも蕎麦屋に行けば大盛りそばやら冷やしたぬそばなどをひとり一品づつそれぞれ好きなものを未だにたらふく食べさせてもらっている。まったく有り難いことだ。天皇陛下に感謝しなければいけない。さて、進まぬ構造改革といえば郵政民営化法案も抵抗勢力の反対にあい廃案となってしまった。小泉首相のマジ切れぶりに、このまま行ったら2010年代には「かけそば暮らし」になるだろうと心配する人々は喝采し、綿貫さんや亀井チャンが右往左往しているのを楽しんでいるようにも見える。もっと品が無い連中は今まで身分が安定し潰れる心配のない職場で働いていた郵政公務員(現在は公社職員)の皆さんが人並みの世間の辛さを味わって苦労するのではないかと喜んでいる。まったくイヤな世の中だ。ところで、そんな政治のドタバタをよそに日本の景気がなぜかこのところ踊り場を脱し始めているのが面白い。銀行の不良債権処理が進み、民間のリストラも一段落した。それでもやっぱり2010年代には「かけそば暮らし」が待っているのだろうか?日本の国家予算は年間約80兆。借金が730兆ってことは、年収800万のサラリーマンが7千万の借金を背負ってるのと同じ。個人だったら正に樹海逝き。尋常ではない。なのにどうして破綻しないのか。とりあえずそれは借金主の立場が強いから。国という借金主はいざとなれば借金を踏み倒したり、通貨そのものの価値を変えて借金を誤魔化したりもできる。だから個人の借金ほどの危機感はなく、むしろある程度の借金ならば、あった方が景気が良くなるという側面すらある。破綻しない理由はもうひとつある。これは庶民より実は金持ちの味方である大手メディアがあまり報じない常識のひとつなのだが、それは日本国の借金の貸主のほとんどは日本人だってこと。これは大きい。だから諸外国も日本経済に元気がないと儲け話が少なくなるから「はよ構造改革をして元気になってネ!」ぐらいのことしか云わない。しかしこれが仮に国の借金の貸主が外資だったとしたらどうだろう。大騒ぎだ。当然の如くIMFが介入し、今頃日本はかつてのブラジルやアルゼンチンの如く火達磨になっていたことだろう。ところが貸主も借主も日本人じゃ財政は破綻しても国は滅びない。それどころか貸主が日本人でそれも我々とは違い銀行にたんまりと金品を預けている富裕層の皆様とくれば日本政府もペイオフやら新円発行などなかなか出来ない。そんなことしたらお金持ちの皆さんが大損害を被ってしまう。それでいながら貧乏人も含め公平に広く痛みをわかちあえる消費税率アップの方はOKってんだから案外日本の政治も判り易い。ところが日本人は戦前から政府のいうことは素直に聞く国民性。日本の借金が増えたのは我々庶民が真面目に働かなったからと思い込み、痛みに耐え、「殺されても構わない」と不退転の決意で突き進む男小泉純一郎を支持してやまないのだから、美しい。これぞ日本繁栄の原点だ。いっそのこと昨今の現状は天皇陛下に申し訳ないから消費税率を50%程度にでもするか。そうすりゃ税収が年間50兆ほど増えるから10数年で借金が返せるわい。・・・などという馬鹿げた話はともかくとして、実はその国の借金、貸主さんの中に渦中の郵便局さんがいるのをご存知だろうか。借主じゃあない「貸主」だ。で、その額なんと140兆。もちろんその原資は国民から集めた郵便貯金やら保険なのだが、とりあえず140兆も金を貸しているんだから優良企業なのではないか。そんな会社どこにもない。もちろん言われている簡保施設に無駄と不正が多いのは正す必要はあるが、実は郵便事業そのものは黒字だったりもするのだ。首相からは民営化してもやっていけるとのお墨付も頂いている。おいおいそんな美味しい公社を一般企業するのは勿体無くはないか。国の機関をスリム化して経費削減するのは結構だが、民営化したとたんに外資に巣食われたんじゃ目も当てられないよな。黒猫大和と競争してるようじゃ世界じゃとても戦えない。案外ドイツポストあたりに骨抜きにされるんじゃないか。改革=民営化だと思ったら大間違いだ。当たり前のことだが民営化とは自由競争の荒波に揉まれるということ。ダメな会社は潰れて当然とか言ってる場合ではない。そこに外資が絡んだらとんでもない悲劇が日本を襲うことになる。

いつか来た別の道

d3737832.jpg人民元が通貨バスケット制に移行したとのことだ。経済オンチの私には何が何やら訳若布なのだが、「主要貿易相手国通貨を一定の割合で加重平均したものと自国通貨を連動させる方式」だそうだ。完全な固定相場制からは一歩抜け出しているものの、市場を勘案して中国(中央銀行)自身がレートを決めるようなものだから、過渡的な制度なのかも知れない。同時に2%の元切り上げも行った。米国のその名もライス国務長官が先月中国を訪れているが、きっと経済制裁も辞さないみたいなことを言われたんだろうな、昔の日本と同じだ。日本の場合、圧力に屈して360円、308円、遂には変動相場制移行となった訳だが、とりあえず通貨バスケット制とは如何にもプライドだけは高い中国らしいやり方だ。政治的には巧み。自分でコントロールしてるような格好になるから大国のメンツも立つ。でもまあ、裏を返せばそんなやり方をしてること自体が中国の必死さの表しているとは言えやしまいか。一歩間違えればバブル化して大崩壊の可能性もある中での舵取りを、かつては社会主義経済を標榜していた連中がやっているんだからかなりのスリルがある。日本の場合、昔も今も政治的にはいつも外圧に屈していて情けない限りだが、経済的な部分に限ればかつては常にその逆境を克服してきた。そしてその克服のキーワードは商品開発力だった。どんなに円が高くなり価格が上がっても世界中の人々が欲しがる工業製品を新開発していた時代の日本経済は強かった。中国から来る留学生はみなかつての日本人のように勉強熱心だ。人を宇宙に送れる国。きっと驚くような工業製品を次々に開発して生き残ることだろう。・・・と、とりあえずエールを贈っておく。結果は北京五輪のあとに出る。