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ヒッチハイカー

hich見知らぬ23歳の青年をクルマに乗せた。国道脇にクルマを止め得意先の部長と仕事をしていたら、彼は電話を貸して欲しいとその部長に声を掛けてきた。タクシーを呼びたいというのだ。ここに来るまでの間に、歩いている彼を追い越していたのを思い出した。腰の曲がったような老婆くらいしか歩いていないような白昼の田舎、今風の格好をした若者が手ブラで歩いていたのが不思議で、気にはなっていた。しかし、ここは国道脇とはいえ最寄の都市まで30キロはあるであろう山の中だ。こんな場所にタクシーを呼んだら当たり前に1万円以上の運賃はかかる。部長が「金はあるのか?」と尋ねたると、前の町のATMで金は下ろしてきたという。「携帯電話は持っていないのか?」と尋ねると「忘れた」という。本当に金を持ってるのだろうか? 私にはかなり不審に思えた。しかし、部長は、ヒッチハイクよろしく彼を目的の都市まで送るという。かなり疲れた表情をしていたし、我々と行き先が同じだし、人生経験豊かな部長の判断でもあるし、これは乗せるしかないのかなとは思ったが、それでも不審だったので、彼を助手席に乗せ私は後ろの席から監視しながら向かうことにした。運転している部長に何かあったら一大事。ヒッチハイカーを乗せたときのようなフレンドリーさとは程遠い緊張感の中、クルマが動き始めた。部長が彼に身の上話を持ちかける。聞けば、新卒で都内に就職したものの数年で辞めることとなり、関東のとある県庁所在地で職を探したが見つからず、出身県の途中の駅まで電車できたが乗り換えの接続が悪く、天気が良かったので残り75キロを徒歩で歩こうとしていたらしい。具体的には書けないが、状況からすると辻褄が合わない部分はある。金があるなら歩く必要もなかろう。後で部長と話したが、おそらく金は無いのだろう。携帯電話も経済的に維持できなくなっていたのだろう。それでも僅かな自尊心はある。仕事が無くなったことを親にいえず、自らの力で何とか解決しようと試みたが、どうしようも無かったのかも知れない。部長は早い段階でそれを察したようで、途中でコンビニに寄り、彼に簡単な食事を施した。彼はそれを貪るように食べた。パンを持つ手ではなく、頭と口の方が上下する。食べ終わると眠り始めた。やはり極限状態だったのだ。目的の街まで着くと彼を下ろし別れた。最初は不審に思ったが、別れる頃にはごく素直で優しい青年だという印象が残った。雇用情勢が良ければ問題なくやっていけるであろうごく普通の若者だった。プライバイシーのこともあるのであまり具体的には書けないが、これは今日体験した紛れも無い事実。いつからこんな国になってしまったのか。まあ、40年ほど遡れば都会に就職したものの適応できず金もなく淋しく田舎に舞い戻る若者が当たり前にいたことはいた。でもその時代は「金が無くても夢があった」とさきほどの部長が教えてくれた。夢が無いほど淋しいものはない・・・とも。科学技術は進歩して身の回りに便利な機械は増えたが昨今の経済的な閉塞感は昭和初期のような暗さがある。この10年、努力すれば報われる社会だとか再チャレンジ可能な社会だとか云われてきたが、それらがすべて欺瞞であることを、新卒の若者に対する社会の仕打ちを見ながら常々感じてきた。それを今日目の当たりにした。少しくらい経済情勢が悪化しただけで庶民が夢を描けなくなるとはなんとも情けない社会だ。競争社会を推進した学者政治家がそのまんま人材派遣大手の取締役にノウノウと納まる厚顔無恥。よくぞここまでダメな国になってしまったものだ。

生き残りをかけた戦い

gas2鳩山首相が「温室効果ガスを2020年までに1990年比25%削減する」と国連演説で表明した。これは国際公約だ。「どえりゃ~ことを云ってしまったものだ」と突然名古屋弁が出るほどに心配してしまった。「すべての主要排出国の枠組みへの意欲的な参加が前提」とのことだが、京都議定書のときのような上島竜兵状態はさすがにもう御免。そのあたりは大丈夫なんだろうか。この数値は日本国内の産業を空洞化させかなねない厳し過ぎる削減目標。きっと排出枠取引で莫大な国費が使われる。厳しい財政状況の中で、なぜこんな恐ろしい公約をしてしまったのだろう。人の良いお坊ちゃまを首相にしたのが失敗だったのか。いやいや東大卒だ。そんな馬鹿ではないわな。冷静になって考えみる。いやいやもしかして、これはお人良しどころか日本が数十年ぶり国際政治の中でに攻めに出たって動きなのかも知れない。よく考えて欲しい。エネルギーの節約制限もなく有害物質の排出制限もなく、自由に産業活動が出来たとしたら、この先日本は生き残れるだろうか。否だ。繊維鉄鋼電気自動車。産業革命に始まる工業化は今世紀に入り確実に転機を迎えている。生活に必要な工業製品は先端技術を用いなくても安価に大量に製造可能になった。その主な生産国は日本ではない。中国を始めとする途上国だ。今や世界の人々は高機能な日本製品を求めなくてもそこそこ使える低価格な途上国生産品でじゅうぶんだと考えている。日本は先端技術の研究国でしかなく、特許や知財による高額な富は得られるが、その先端技術が通常の生産技術になった途端、大量生産大量消費によって得られる直接的な利益は中国あたりに奪われてしまう。これでは優れた先端技術を持つ日本の一部の大企業はグローバル社会の中で生き残れるものの、国全体としての活力は失われる。優秀な理工系大学卒業生の就職先は多々あっても、工業高校卒業生が働く場が無い。大多数の日本人は不要とされる。むろん国民生活に必要なサービス業なども含めた内需にかかわる雇用はある。が、そんなモノは途上国にだってあるのだ。一部の人間が豊かな状況では内需の規模も知れている。プータローが増えるのも当然なのだ。でもまあこの状況が続いてくれればいい。これで、先端技術研究の競争力が落ち、「♪後から来たのに追い越され」たらどうする。日本はG8から脱落、先進国の地位を失うことになるだろう。資源も知恵もない、面積相応な極東の小国に成り下がる。それでは困る。いやがおうにも攻めねばならない。そこを突破するために必要なのが温室効果ガス規制なのだ。厳し過ぎる削減目標は産業を空洞化させるとの声もあるが、既に開発ではなく製造に関して云えばすっかり空洞化してしまっているではないか。それどころかこのままズルズル行けば知財も失いかねない岐路に立っているのだ。ここでハードルを高くして「♪後から来たのに追い越され」ないようにするしか日本が生き残る道はないだろう。現時点で、生産から運用に至るまで高度な省エネ技術がないと工業製品が造れないようになるとなれば、まだまだ日本に利がある。厳し過ぎる目標だが、日本がアドヴァンテージを得るにはこうするしかないのだ。温室効果ガス削減はすべての人間活動に関わってくる。目標値が上がれば上がるほど、高度な工業技術がない国はいずれ脱落していくことになる。クルマを例にとろう。ガソリン車やHV車の製造には高度な技術が必要だった。ところが電気自動車の製造にはそれほどの技術はいらない。途上国が人件費の安さに任せてガンガン造りまくり市場を席捲。じゃ、ガンガン造るには省エネ技術が必要になるルールにしましょ。技術は供与するけど完全無償ではないよ。と、こういうこと。ハードルを高くした方が日本の出番は増える。そのためになら湾岸戦争時の日本の拠出金の半額程度の排出権取引費用5千億など安い安い。全国の理工系大学の学生諸君、出番ですよ。実は温暖化の原因が温室効果ガスにあるのかも定かではないのだ。太陽黒点の活動の方が地球環境に与える影響が大きいとの学説もある。温室効果ガス規制の本質は、環境問題というより経済問題。行く末はおおいに心配だが、久々に日本の政治家が政治を行ったのを見た気がした。

自爆テロ

社会を震撼させた旧厚生省幹部殺傷事件。当初は政治的なテロか?との憶測が広がったが、現在では常識の無い人間による卑劣な犯行との報道が中心になっているようだ。その真相は、私のようなものにはわからない。しかし、この事件、仮にその犯行動機が、容疑者の個人的な理由にあったとしても、やはりこれは形を変えたテロなのではないかと思えてしまう。強いて云うなら自爆テロ。他人を道連れにした自殺。そんな匂いを感じてしまう。15年程前、既にバブル経済は崩壊していたが、景気はまだそこそこ良かった。その時期に30歳代で正規雇用され、結婚もせずかつ大きな浪費をせず暮らしていれば、1千万円を超えるの貯蓄をもつことも可能だったはず。その貯えを切り崩しながら、単純に月20万の出費で暮らしていれば5年程度は暮らせる。何もせず15万で暮らせば6年程度は暮らせる。臨時収入があればさらに期間は伸ばせるだろう。容疑者には300万円ほどの借金があったとの報道もされているが、借金が可能ならさらに消極的に暮らせる期間は延ばせるだろう。無職になってから独りダラダラと貯えを食いつぶして生活していたのではないかと私は想像する。「やることはやった。人生に未練はない。」これが容疑者の最新の供述だが、威勢のいい言葉の裏に根深い刹那が漂う。貯えも底を尽き、将来の展望もない。生きるのが面倒になってしまったのが本当のところなのではないか。その場合、普通の人間ならば一人静かに富士の樹海に向かう。しかし、性格的にそうでない方法を選ぶ人々がいても不思議はない。生きるのが面倒になってしまったのが悟られては格好悪い。尤もな理屈を付けるために攻撃対象を探す。社会に対する怨念というよりは、社会なんざどうでもいいと考えるような究極の利己主義。自分に生を授けた親にだけは手紙を書いたのが人との唯一の接点だ。器の小ささを感じる。この10年の日本社会の変貌は、他人のことを思い遣るような心理を根こそぎ駆逐するようなものだった。負け組から抜け出せなかった人々が、社会や不特定の他者への憎悪を表現するために、最期に身勝手な行動と共に自殺する。数年前に名古屋で起きた軽急便立てこもり放火事件。秋葉原の連続殺傷事件。そして今回の旧厚生省幹部殺傷事件。な~んか嫌な共通点を感じるのは私だけだろうか。日本経済が縮小し、かつてのような生活を維持できなくなっていく過程の中で、そこに競争原理を導入し、待遇や賃金を抑制しようとしたやりかたが如何に間違っていたか。その表れがこうした事件に表れているように思えてならない。高度経済成長以前の日本には貧困が原因で発生する寂しく暗い事件が無数にあったのも事実だが、人々は隣近所で味噌や醤油を貸し合いながら慎ましく暮らしていたものなのだ。そうした協同意識は物質的な豊かさを得たことによってやがて崩壊してしまう。さらに古来から日本人に根付いていた儒教的な道徳心も、戦後民主主義によって駆逐されていく。そんな状態の日本人に、為政者や経済団体の指導者は、弱肉強食の競争意識を強いたのだ。ほどなく、他人のことなど考える必要のない社会が訪れた。そんな時代の自殺のあり方だ。考えるだけでも恐ろしい。どうせ死ぬならアイツを巻き添えに、とか、何でもいいから派手に死んでやろう、などと自分勝手な死に方を選ぶ輩が続出してもまったく不思議ではない。地域社会が崩壊し、血縁社会も崩壊した。会社社会もその内部の人間関係においては崩壊してしまった。最期に細々と残っている唯一の社会、中学校の社会科風に云えば社会の最小単位。「家族」。そこからも弾き出された人。そうした社会のしがらみ、そのすべてから孤立している個人。そんな最低な自由人が社会から追い詰められ、自殺を遂げるとき。その方法の妄想もまた自由だ。あまり具体的なことは書きたくないが、自分が死ぬことが前提ならば、一個人でも社会を震撼させるようなことはいくらでもできる。理系の知識のある人物の場合は特に恐ろしい。モラルも無ければイデオロギーもないのだ。事件が起きると「理解できない」と人々は語るが、「理解」などのいうのは人と人とのコミニュケーションの間にある概念ではないか。理解できないのは当然なのであって、問題はその外側で起きている。個々の日本人をこれ以上孤立させるのは危険だ。誤解されるのを承知で書かせてもらえば包丁やタガーナイフで済んでいるうちはまだ可愛いいのではないかと思われる。爆発物や薬品、銃を使用した自殺もどき犯罪が出てきたらどうするのだろう。事件を起こした個人の資質を執拗に問うたところで、起爆装置の生産は終わらない。

馬鹿を笑う卑屈

「笑い」の研究をしたドイツの哲学者ショーペンハウエルは、「笑い」は論理の差異によって起こると考えた。人は概念と現実の差異(ズレ)を笑っているわけだ。つまり、概念(教養)が豊富で、かつ現実を観察する能力が高い人ほど多くの「笑い」を享受可能だなんてこともそこから発見できる。学者同士が凡人には理解できないような事象で共感し、互いに笑い転げることだってある。それが「笑い」だ。ところが、テレビや寄席で繰り広げられる「お笑い」というのは不特定多数の人々を相手に「笑い」を提供せねばならない。誰もが知り得るであろう教養を基準に、誰もが知り得るであろう現実を提示する。下ネタで笑わせる。反復で笑わせる。差別で笑わせる。低俗化の要因だ。いや、個人的には低俗が悪いなどとは特に思っていないが、それだけではツマラナイだろうと思う気持ちも一方にはある。知的な笑いというのは知的好奇心も満たしてくれる。タモリ倶楽部の名物コーナー「空耳アワー」が腹を抱えるほど面白いのは、誰にでもわかるであろう概念と現実との差異を寸劇で表現した上に、洋楽を知っていることの優越感が上乗せされているからだろう。前述したように私は「低俗」は必ずしも悪いとは思わないのだが「偽善」は嫌いだ。「知的バラエティ」という類のテレビ番組。あれには辟易する。お馬鹿な芸能人相手にクイズ番組をやり、その珍解答を笑う番組。教科書や百科事典に載るような如何にも知的で下品ではない内容を問題として出題し、「オトナのくせにその程度のことも知らネエのか?」とお馬鹿芸能人の馬鹿さ加減を笑う番組の多いこと多いこと。障害者を笑う番組が出来なくなり、田舎者を笑う番組もできなくなり、下品な番組や過激な番組、著名人を馬鹿にする番組もやりにくくなってしまい、テレビバラエティが行き着いた先が、そんな知的バラエティだと思うと何か悲しい。馬鹿を売りモノにして稼いでいる芸能人を笑い者にしているのだから確かに問題はない。問題は無いのだけれど、馬鹿を笑った時点で馬鹿を笑う馬鹿に成り果てるようで怖い。他人の無知を笑うようになったら教養人とは云えない。でも、ついつい笑ってしまう。本当に嫌な番組だ。下劣な演出を自粛し差別的な表現に必要以上に気を使うようになった現在のテレビの品性がそこにある。問題は無いのだけれど何か卑屈だ。会話の中で「めくら」「つんぼ」「びっこ」を連発している我が家の爺さんの方がずっと健全に思えてしまう。そう思える理由はたぶん言葉は悪いが心に偽善がないからだろう。馬鹿を笑う卑屈。下ネタよりも下劣に思えてしまうのは幻覚か、あるいは私の知的劣等感の表れか。いや、やっぱり欺瞞だ。気持ちの悪いタテマエが横行する平成文化の代表例。そういやその類のパイオニア的な番組はその名も「平成教育委員会」とかいう如何にも受験戦争の勝者が嬉々として作ってそうな嫌な番組だった。おなじ北野武でも80年代の「天才たけしの元気が出るテレビ」や「オレたちひょうきん族」の方が正直な分だけ健全だと思えるのだが、そうは考えないのが昨今の常識らしい。

相対的絶望感

秋葉原で凄惨な事件が起きた。極刑級の犯罪だ。マスメディアは容疑者の凶行ばかりを強調するが、私は存外に異常性を感じない。要は他人を巻き込む反社会的で迷惑千万な自殺ではないのか。硫化水素自殺と同じだ。自殺をするかしないかは、負荷の重さと耐性のバランスで決まる。負荷の重さとは社会的重圧(プレッシャー)のこと、耐性とは忍耐力(我慢強さ)のこと。自己実現能力が高く人間として優れた人でも、それを上回る過大な社会的な重圧がかかれば自殺を選ぶことも珍しくない。一方、極端に耐性の弱い人の場合はそれまでに経験したことのない社会的重圧を受けただけで安直に命を絶ってしまうこともある。子供の自殺原因の多くはこの耐性の無さにある。今回の容疑者の場合はどうなのだろう。社会的重圧と耐性の無さ、そのいづれもが当てはまるような気がする。報道によれば、両親が借金をして離婚しているようだし、本人も地方の進学校で挫折し、製造業派遣会社で登録労働をしている。子供の頃からちょっとしたことでキレるとの評判もあり、家庭内暴力もあったようだ。そして、凶行の直接の引き金は、派遣先会社からの契約解除に不安を感じたためらしい。警察でも「世の中が嫌になった。生活に疲れた。」と供述している。親の借金は、保証人にさえなっていなければ、相続しなければ回避は可能だ、それに進学校に合格するだけの基本的な学力があれば適応できる仕事も当然ある。奥さんもいなければ子供もいないのだ。あまり勧められる生き方ではないが、本質を追求せず気楽に逃げまくって生きていくことも不可能ではない。仮に派遣労働に希望が無くとも、自殺をするにはまだ早いではないか。この容疑者には広い意味での耐性が、無さ過ぎたと云わざるを得ない。さらに、被害に遭われた方々の立場になってもっと厳しい言い方をさせてもらうと、この容疑者は高校時代に自殺しておくべき人物だったということだ。それを25歳まで引きずってしまったことが凶行を生んでいる。普通は25歳くらいになれば別の生き方を模索し、その糸口くらいは見つけているものだ。それが難しい。年配の人々に叱られるのを覚悟で云えば、これも「無知の涙」だ。もちろん、故永山元死刑囚と比べたら遥かに低次元で幼稚。しかし、生き方での無知が生んだ犯罪であることは間違い無い。容疑者ばかり責めてきたが、為政者の責任も追及したい。日本は今や自殺大国なのだ。自殺者数は8年連続3万人を超え、自殺率は世界9位で先進国中トップ。これを赤穂浪士よろしく日本の文化だとしたらやりきれない。前出の社会的重圧に対して比較的真面目に考える国民性なのではないか。今回の容疑者も、マスメディアは秋葉原という土地と結びつけ異常な若者のように報じられたりもしているが、よく見れば自身の進学や就職、親の離婚や借金などなど、いわゆる世間体を異常に気にする旧来の日本人像が垣間見える。そんな日本人に対してバブル崩壊以降に政府や財界がしてきたこと。それは経済原理の徹底。「格差はあって当然」と平然と言い放つ総理大臣を選んだまではカッコ良かったが、国民のほとんどが「負け組」だったという笑えない現実。ちょっと前まで、年寄りは金持っていて年金も満額貰えて悠々自適、年寄り自身も「高度経済成長に貢献したのだから当然、今の若い者は貧しさを知らんから」と安心してたら、後期高齢者医療制度で身包み剥がされボロボロだ。今頃気付いたって遅い。いや今回の容疑者の世代の方がもっと不幸だ。かつて日本の経済力が世界2位(瞬間1位)だった時代は、平均所得が低い地方でもほとんどの人々が生活に困らなかった。多少は困っていたかも知れないが、家族にとって最も大切な子供に対してはお金をかける余裕が少なくともあった。それは学校教育も週5日化に向かい少しずつ「ゆとり化」されていく時代でもある。そんな経済的危機感の少ない時代に育ったのが今の20代。さあ、寒村で生まれロクなものも食えずに育ち、集団就職で上京してささやかな収入を手にして生きるのと、貧しさを知らずに育ち成人になってから唐突に経済原理を説かれるのと、人間どちらが幸せなのだろう。冒頭に書いたことをここでもう一度繰り返す。自殺をするかしないかは、負荷の重さと耐性のバランスで決まる。どちらが幸せかどころではない。耐性の無い人間に経済原理を押し付けるのは、ある日突然「もやし」を露地栽培に切り替えるようなものなのだ。やり方によっては死滅する。多くの人は現実と対峙し乗り越えていくのだろうが、絶望感しか持てない人が一定数現れてきても不思議ではない。ニュースを聞いてりゃ派遣の次は移民だと??? このまま行けば早晩、日本人が壊れてしまう。20代の凶行にイヤな将来が見え隠れする。資本主義を堅持し国際競争力を維持しようとするあまり人を壊してしまっては意味がない。セフティネットだとか再チャンレンジとかではなく、本当に求められているのは収入が少なくても幸せに暮らせる社会を構築していくこと。そう思えてならない。

毛沢東の孫達へ

d2fc187d.jpg長野での聖火リレーは、日本警察の優秀さが目立った。聖火を守る機能的な陣形については新聞やテレビで紹介されているので敢えて書かないが、到着式会場の若里公園の警備も実に機能的だった。ステージの周囲に入れるのは関係者のみ。その周りにフェンスが張られ、1000人ほどの中国人が紅い旗を振る。チベット支持者はそこから隔離された南側の小高い丘に集められていた。端に追いやられているような印象があり、チベット支持者の中には不満を漏らす人も少なからずいたのも事実だが、これは警察が中国を優遇していたからではない。イベントを妨害する可能性の少ない側を聖火の近くに配置し、妨害の可能性のある側を遠ざける。子供でも判る警備上の都合に過ぎない。チベット支持者を囲むように警官が配置されていたのも、人数で劣るチベット支持者を守るほうが、警備効果が高いからだ。そのおかげで、ここに集まったチベット支持者は最後まで自由に「フリーチベット!」と大声で叫び続けることが出来た。それを警察が制止することも無かった。国境無き記者団のロベール・メナールもこの丘にやってきて、手錠五輪旗を広げていた。彼は「日本は民主主義の模範を示した」と会見で語っていたが、それはおそらくこの会場の様子を見て言っていたのではないか。中国はめざまし経済発展を遂げ、GDPで日本を追い越す成果を挙げているが、これからの中国を担う若い留学生達を見る限り中国人は30年前から全く進歩していないようにも思えた。64天安門事件からも何も学んでいない。タナボタでゲットした国連常任理事国のせいか国家としての発言はいつも勇ましいが、庶民レベルの政治では明らかな発展途上国。まあ、愛国心を持つのは結構なことだ。しかし、その行き過ぎはロクなことがない。日本の田舎町に大挙して押し寄せ、紅い旗で埋め尽くす偏狭なナショナリズムを持っている限り、今後も一流国家にはなれないと、今回私は確信した。国民が一丸となって目標に突き進むといえば聞こえが良いが、落とし穴はそこにある。戦前の日本はそれで大失敗をした。戦後の日本はどうか、先輩たちは「豊かになりたい」という点についてだけは一丸となって働いたが、戦前に対する反省かあるいは落胆か思想的にはバラバラだった。宗教心も薄く、モラルも崩壊したかの様相も見える。しかし、70年前に徴兵制がなくなり女みたいな男が増えてるはずなのに、今回の警察の警備は見事だったではないか。葬式の時しか用のない仏教のはずなのに、善光寺は土壇場で1400年の歴史に恥じない大英断を下していたではないか。そう、バラバラがいいのだ。そこが重要。発想の自由やイノベーションというのはそういう環境でないと生まれない。人を殺す技術は戦争によって生まれ、人を育てる技術は表現の自由によって生まれる。中国の経済成長にはイノベーションが無いといわれている。初めは真似から入るとしても、一体いつまで猿真似を続けるのだろう。既に世界の工場などと云われているのだ、その端緒くらいはあってもいいはずだ。それも無い。原因は紅い旗。紅い旗の下に人の想像力が奪われ、チベット人が虐殺される。不幸な国だ。

What a Wonderful World

60f662a7.jpg米国同時多発テロからはや6年。今年も9月11日がやってくる。その日に合わせたかのようにビンラディンの声明がビデオで公開。なんとも胡散臭い。この事件、発生直後から陰謀説が飛び交っていた。今じゃ丁寧な人々がそれらをまとめでネットで公開したり、映画にまでしてくれたりもする。その中には演出過剰でいい加減なものもあるにはある。しかし、同時多発テロに関する公式発表や報道を額面通り受け入れられるかといえば、私の場合はまったくもって「否」だ。発生当日から疑問に思っていたことがある。それは、衝撃的なニューヨークからの映像に比して、ピツバーグ郊外の現場映像やペンタゴンの現場映像が貧弱なこと。旧ソ連を彷彿とさせるような限定的な映像。テレビ報道が世界一進んだ国のものとはとても思えないシロモノだった。自由の国アメリカも、有事となると完璧なメディア規制が行われるらしい。実際、このピッツバーグ郊外とペンタゴンでの出来事は陰謀説を唱える人々の格好の餌食になっている。発生当時は見逃してたが、近年になって最も疑問に思えてきたのがWTC7崩壊の謎。WTC1、WTC2(ツインタワービル)のパンケーキ崩壊の真偽はともかくとして、道路を挟んだ場所に建つ47階建てのWTC7が、航空機が突っ込んだ訳でもないのに、最初の衝突から約8時間後、見事に崩壊している。長時間にわたる火災の放置が原因で崩壊したとされているが、ネットで見ることのできる崩壊の映像は、どう見ても芸術的な制御崩壊だ。つまり、解体業者による爆破解体そのものだということ。放任火災であのように綺麗にビルが崩れ落ちるのなら解体業者など不要だ。これは公式見解を信じろと云うほうが無理。さて、世界を襲うテロの恐怖はその後も止まることが無かった。911から2年後の2004年3月11日、今度はマドリードで列車爆破テロ事件が発生し、200人以上が死亡、1000人以上が怪我をした。しかしこれもかなり胡散臭い。直近に迫った選挙で敗色濃厚だった政権は、当初国内反政府勢力の犯行だと大騒ぎするのだが、ほどなく郊外で発見された盗難車の中からコーランのテープと7つ起爆装置がみつかり、今度はアルカイーダ犯行説に変わっていく。誰が盗難車を置いたんだろうね。低予算のサスペンスドラマじゃあないのだから、諜報機関はもっとリアリティのある仕掛けを施したほうが良かったのではないか。さらに翌年、2005年の7月7日には、ロンドンで同時爆破事件が発生し56人が亡くなった。アルカイダ系の実行犯4人による自爆テロということになっているが、これも怪しい。これら3つの事件に共通してるのは、誰が何の目的で・・・て部分が、実は案外希薄な点だ。マドリードやロンドンの事件に関していえば、今じゃ捜査当局もアルカイダ犯行説を否定している。結局、なんなのだろう。何故、世界一対米追従で危機管理もグタグタな日本ではテロが発生しないのか。今日(2007.9.9)のニュースによると日本の首相は「海自の給油活動継続できねば退陣」とまで言ってるのだ。アルカイダさん、アベちゃんはどう考えても標的だよん。まあ、スペインやイギリスのお粗末さからすると、日本でなんかやったら裏台本が全部バレちゃうから危なっかしくてテロも出来ネエのかも知れない。ついでに今日のニュースをもうひとつ、「ビンラーディン装う芸能人ら、APEC検問を素通り」なのそうだ。オーストラリアのテレビ局のコメディ番組が、ウサマ・ビンラディン容疑者に扮した1人を含む芸能人らが車列をつくって要人に成り済まし、2つの検問所を素通りしていたというのだ。3千人近い人々が911で亡くなっていることを考えると、「アラファト私が夢の国」の松本明子より不謹慎にも思えるのだが、ネット上に公開されるホンモノのビンラディン映像もマッチポンプだと考えればそれも半分コメディのようなもの。そんなペテン、茶番で多くの人々が死んでいく。What a Wonderful World.

欲しがりません勝つまでは

NHKスペシャル「人事も経理も中国へ」を視聴した。絶句。NHKスペシャル「ワーキングプア 働いても働いても豊かになれない」以来の衝撃的なドキュメンタリーだった。総務部のリストラ。かつての日本の会社の常識では考えられないことが現実に行われている。内容については、とりあえず、NHKによる番組紹介記事を引用する。

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NHKスペシャル
人事も経理も中国へ
(NHK総合9月3日放送)

製造業の分野では続々と生産拠点を中国へ移し、コストダウンを図ってきた日本企業。そして今、人事や経理などホワイトカラーの仕事までもが次々に中国へ移っている。大連や上海などの都市では、日本語を話せる人材の育成を強化し、日本のサラリーマンの5分の1以下という人件費を武器に、日本企業の仕事を大量に請け負っているのだ。中国にホワイトカラー業務を移した日本企業は2500社に上る。血のにじむような効率化を重ねてきた製造現場に比べ、日本のホワイトカラー一人当たりの生産性は先進国で最低と言われている。言葉の壁に守られてきた日本のホワイトカラーが中国との厳しい競争にさらされている。 番組では、ある大手通信販売会社が踏み切ったホワイトカラー部門の中国への業務移管に密着、グローバル化の荒波に突然飲み込まれた、サラリーマンたちの苦悩と再起への決意を描く。
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もっと詳しく内容を知りたい方は、BS2での再放送(9月8日13:30~14:30)を見るか、「人事も経理も中国へ」をキーワードにWeb検索すれば、多くの人々が丁寧に番組の流れを解説してくれているのを読むことができるだろう。

私はこの番組に政治の不毛を見た。経済の原則から言えば、この通販会社のやってることはきっと正しい。生き残るためには必要な対応なのだとは思う。断っておくが、ここでいう経済というのは日本経済のことではない。企業を成長させ、利潤を追求し、株主への還元をもたらすために、経営者は現状で必要なことしているのだろう。(通販業界ではもっと海外へのアウトソーシング化が進んでいる会社もあると聞く。) 配置転換を余儀なくされた総務一筋21年58歳のベテラン社員の苦悩や、自分のしてきた仕事が奪われたことでモチベーションが下がり、退職の道を選らんだ女性事務員の姿を見ていると、職場改革の指揮をとってる上級社員や、番組の中で紹介程度に登場する社長が、極悪人のようにも見えてくるが、そのようにしなければ会社自体が生き残れないのも現実なのだ。社長を責めても始まらない。これは国レベルの問題だ。

経済の世界的規模でのグローバル化は、国家間競争の枠を超え始めている・・・かのように見える。日本国のため、だとか日本国民のため、なんてことを考えて企業経営を考えていたら、グローバル化した経済の中では、たぶん生き残れないのだ。労働単価の安い国を利用して価格競争力を保つという手法は、技術職の世界では既に20年程前から行われてきたことで、それがホワイトカラーにも及んできたという意味では、一連の流れの中の出来事だと言える。賤民資本主義ここに極まれり・・・だ。

要は「単純労働はもちろん3K労働も製造現場も人事も経理も中国へ」で、われわれ日本人が幸せになれるのだろうかということ。企業活動は成立しても、国民に必要な労働が残らないのでは、国家と国民が疲弊する。安易なアウトソーシングは、ノウハウの流出を招き、やがてグローバル化で生き残ったはずの日本国籍の企業も滅んでいくのではないか。さらに有史以来保ってきた日本人特有の知的財産が失われたら、日本も終了。自由競争に賛成する諸氏はまさか「人類皆兄弟、世界に国境はない」なんてユートピア幻想を信じて推進しているわけではあるまい。むしろ、経済は食うか食われるか「競争原理のないところに成長はない・・・」というような危機感の中でそう考えているのだと思う。だったらもっとズル賢く考えるべき。オモテ向きは自由競争を推進したフリをして、如何に自分や自分の家族、友人、故郷、民族に富をもたらすことが出来るか。そこを考えよ。欧米や中国はもっと強(したた)かだ。自由競争は慈善事業ではない。もちろん、それらは政治の役割。日本は、マトモに戦ったたら勝てる国家ではないことを第二次世界大戦で学び、その反省を基に、冷戦状況下で経済的に上手く立ち廻り今日の繁栄を手にしてきたはずなのに、昨今、グローバル化という世界経済大戦の中で市井の日本人がやってることは、資格をとれば生き残れるだの努力すれば報われるだの・・・、その心意気たるや立派だが、それではB29に竹槍で抵抗していたかつての姿と同じではないか。むろん、私も竹槍訓練程度は付き合うが、特攻だの玉砕だのは御免だ。幸い、現代の日本は指導者を選べる。もっと政治家を育てないといけない。

番組は、配置転換を余儀なくされた総務一筋21年58歳のベテラン社員が、個人情報保護士認定試験に合格し、社内に別の仕事を見つけて生き生きと働く姿を最後に見せて終わっていくが、これは欺瞞だ。今後も総務畑で働くために有利だと考え、競争率2倍程度の認定試験に合格して、人事異動先が「営業」ではお粗末だ。番組の趣旨からするとペテンに近い結末。取材先の企業にでも配慮したのだろうか。これは視聴者をかなり馬鹿にした構成だといえる。深く考えずに、にこやかな表情で張り切る総務一筋21年58歳のベテラン社員氏が最後に画面に映るのを見てると、ついつい努力すれば生き残れる良かったよかったと勘違いしてしまう。そんな程度で生き残れるのなら苦労はない。そういやNHKスペシャル近年の名作「ワーキングプア 働いても働いても豊かになれない」の続編は「ワーキングプアII 努力すれば抜け出せますか」だった。この番組、サブタイトルを付けてNHKスペシャル「人事も経理も中国へ 努力すれば抜け出せます」に変えてみたらどうだろう。

馬鹿が多くて困ります

横柄な態度で他者を威圧して自分の優位を保とうとする奴。心理学的には劣等感の裏返しとされることが多いその行為。自分でそこに気付かないのは、ひとえに教養がないからだ。実利ばかりを追い求める社会風潮の中、そうい奴がやたら増えている。空き缶のポイ捨て、迷惑喫煙、暴走行為や迷惑駐車・・・。マナー違反や軽犯罪が行われる心理は、きっとどこかで繋がっている。生存競争の過酷さは、そういう奴らから罪の意識、罪悪感を奪い去る。実社会では横柄な態度が「得」を生むことが案外多い。だから、いわゆる勝ち組と云われる人間の中にもモラルの無い奴が腐るほどいる。あなたの所属する会社で、仕事が出来て評価の高いと思われる人達、彼等が人格的にも優れた者達であれば、あなたの会社の将来は明るい。そうでなければ仮に業績が良くても居心地は悪いはず。小市民は「得」を求めて右往左往する。寄らば大樹の陰。虐められたくないから孤立を恐れる。そこを触媒に横柄な奴がますますのさばってしまう。宗教が形骸化し、儒教的価値観も過去のものとしてしまった現代日本人はまるで、獣。求めるべきは「徳」であり、「得」ではない。

マスメディア講座(初級編)

地デジ再送信問題でCATVと地方の民放テレビ局が対立している。その内容については説明しない。必要なら新聞やネット検索で調べれば判る。まあ、視聴者は無料(あるいは安価)で面白い番組を見たいのがホンネだろう。そして、地上波キー局の放送を直接見ることが出来れば、地方の民放局など不要と考える人がほとんどではないかと思う。地上波テレビネットワークは40年前の放送技術に基づいて形成されたもので、日本全国にあまねく放送を行き渡らせるためならば、現在では衛星放送を利用する方が技術的にも手っ取り早い。また、通信に造詣の深い素人が集まると大概はIP送信の優位性を説いては電波放送不要論で盛り上がる。そこに少し政治経済に詳しい奴が加わったりすると、既得権やら護送船団なる用語が飛び出して、それは市場開放論へと飛躍していく。しかし、放送局が一定の設備投資を終え全国の県庁所在地で地上デジタル放送が見られるようになった現在になっても、残念ながらキー局はもちろん地方放送局が倒産したという話は聞かない。それどころか、BSジャパンという衛星放送局を系列を持つはずのテレビ東京がなんとこの時期に、静岡、広島、仙台の地方系列局を増やすべく準備を始めている。地方テレビ局はそんなに儲かるのか? 市場開放論者は、「それ見たことか!」と国の過保護政策を批判することだろう。しかし、そんな批判をしたところでテレビ局の牙城は崩れない。なぜなら、テレビや新聞といったマスメディアは日本の既得権益そのものだから...。地方テレビ局の年間売り上げはどこも年間100億を下回る程度だが、その存在は既得権益を補強する手段としては欠かせないものなのだ。逆転の発想をして欲しい。仮に無くても済むようなものがあって、しかしそこに莫大な投資をしなければ生き残れないとしたら何が起きると思う? そう、貧乏人は排除されるということだ。具体的に説明しよう。実は全国放送で有効な広告効果を得るには年間最低10億以上の広告費を使わないと難しい現実があるのだ。その垣根の高さが重要。垣根を低くしたら経済界全体が下克上状態になってしまう。それはベンチャー企業にとっては歓迎すべきことだが、経済団体に役員を派遣している企業にとっては、安いということは必ずしもありがたいことではない。大企業優先社会を維持し市場開放を妨げるたには超高コスト体質でないといけない。既得権益が保有する最強の武器、それがテレビという広告媒体。自社のテレビコマーシャルを全国放送で流したかったら、キー局だけでなく系列局すべてに金を払わなければならないのが、テレビ広告の仕組み。そこがミソなのだ。さらに各民放への広告依頼を一手に引き受ける巨大広告代理店の存在が影の主役。その実体は価格カルテルの胴元の役割を合法的に行える会社。建設業界の談合と違い、その行為に違法性はまったくない。そんな馬鹿な!と思うか知れないが、元来、民間放送テレビというのは、55年体制といわれた政治の中で、与党や国体護持を願う勢力や経済団体が、その既得権益を温存し、対抗者を排除する工夫の中で形成されたもの。ルールもそれに都合の良いように作られている。国家公認経済団体公認で40年も前から虚業でボロ儲けしてこれた理由はそこにある。このシステムを破壊したかったら、既得権益にとってもっと都合のよいマスメディアシステムを別途作り上げるか、大企業を優先しない代々木あたりの政党に政権を任せるしかない。きっとその政党は低予算で全国一律放送ができる衛星放送を選ぶだろう。放送局や放送業界を守るために放送事業が保護されているわけではない。大企業やその代理人である為政者が自分達の権益を保護するために現在の放送体制を守る必要性があるのだ。ロクな自主放送をしていないあなたの田舎の地上波放送局の株主構成をしらべてごらん、田舎の経済界のボス達がそれを牛耳ってるでしょ? テレビが既得権益なのではなくて、既得権益を持っている人々が集まって運営しているのがテレビなのさ。3公社5現業や銀行、ゼネコンは、既得権益を持っている人々がその必要性を感じたから解体再編がおこなわれた。それだけのこと。衛星放送やIP送信の方が既得権益を持っている人々にとって都合が良くなれば、あるいは既得権益もつ人々そのものが崩壊するような事態になれば、現在のテレビシステムが崩壊することもあるだろう、しかし、今のところその兆候はない。現在のテレビシステムは、未だに既得権益をもつ人々にとっては都合が良いものらしい。それどころかそれを維持するために地上デジタル放送という壮大な無駄が国策として実行された。今まで溜め込んだ貯金(内部留保)を全て吐き出さねばならないデジタル化事業をテレビ局が渋々やっているのは、それこそが既得権益をもつ人々の要請だからだ。昭和の時代と比べてテレビ番組やその取材が身近なものとなり、したり顔でテレビやネットを語る人が増えているが、伝送路の技術的な優位性やらテレビ番組が面白いかつまらないかなんてことは、実はたいした問題ではない。かつて大宅壮一という優れたジャーナリストが「一億総白雉化」というキーワードでテレビを批判したが、正に国民を白雉化させるのが為政者から依頼されたテレビの役割なのだ。民放の番組の質の低下が著しいが、一方で国民の問題意識を喚起し為政者に都合の悪い放送をする赤坂や六本木あたりのテレビ局はあちらこちらから徹底的にイジメられている。自由で民主的で公正なフリをして広告や言論を牛耳る。それが権力者の関心であってテレビ局はその提灯持ちに過ぎない。媒体とはそういうもの。仮にどうしてもテレビを批判し、そのありかたを変えたいと思うのなら、とりあえず選挙は棄権しないことだ。無論、放送されている番組を面白いのつまらないのを批評する権利は幼い子供を含めて誰にでもある。見る見ないも自由。しかし、そのあり方まで含めて論ずるとなると、メディアリテラシーを克服するための一定の学習をした方がいい。でなければあり方までは語れない。