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自爆テロ

社会を震撼させた旧厚生省幹部殺傷事件。当初は政治的なテロか?との憶測が広がったが、現在では常識の無い人間による卑劣な犯行との報道が中心になっているようだ。その真相は、私のようなものにはわからない。しかし、この事件、仮にその犯行動機が、容疑者の個人的な理由にあったとしても、やはりこれは形を変えたテロなのではないかと思えてしまう。強いて云うなら自爆テロ。他人を道連れにした自殺。そんな匂いを感じてしまう。15年程前、既にバブル経済は崩壊していたが、景気はまだそこそこ良かった。その時期に30歳代で正規雇用され、結婚もせずかつ大きな浪費をせず暮らしていれば、1千万円を超えるの貯蓄をもつことも可能だったはず。その貯えを切り崩しながら、単純に月20万の出費で暮らしていれば5年程度は暮らせる。何もせず15万で暮らせば6年程度は暮らせる。臨時収入があればさらに期間は伸ばせるだろう。容疑者には300万円ほどの借金があったとの報道もされているが、借金が可能ならさらに消極的に暮らせる期間は延ばせるだろう。無職になってから独りダラダラと貯えを食いつぶして生活していたのではないかと私は想像する。「やることはやった。人生に未練はない。」これが容疑者の最新の供述だが、威勢のいい言葉の裏に根深い刹那が漂う。貯えも底を尽き、将来の展望もない。生きるのが面倒になってしまったのが本当のところなのではないか。その場合、普通の人間ならば一人静かに富士の樹海に向かう。しかし、性格的にそうでない方法を選ぶ人々がいても不思議はない。生きるのが面倒になってしまったのが悟られては格好悪い。尤もな理屈を付けるために攻撃対象を探す。社会に対する怨念というよりは、社会なんざどうでもいいと考えるような究極の利己主義。自分に生を授けた親にだけは手紙を書いたのが人との唯一の接点だ。器の小ささを感じる。この10年の日本社会の変貌は、他人のことを思い遣るような心理を根こそぎ駆逐するようなものだった。負け組から抜け出せなかった人々が、社会や不特定の他者への憎悪を表現するために、最期に身勝手な行動と共に自殺する。数年前に名古屋で起きた軽急便立てこもり放火事件。秋葉原の連続殺傷事件。そして今回の旧厚生省幹部殺傷事件。な~んか嫌な共通点を感じるのは私だけだろうか。日本経済が縮小し、かつてのような生活を維持できなくなっていく過程の中で、そこに競争原理を導入し、待遇や賃金を抑制しようとしたやりかたが如何に間違っていたか。その表れがこうした事件に表れているように思えてならない。高度経済成長以前の日本には貧困が原因で発生する寂しく暗い事件が無数にあったのも事実だが、人々は隣近所で味噌や醤油を貸し合いながら慎ましく暮らしていたものなのだ。そうした協同意識は物質的な豊かさを得たことによってやがて崩壊してしまう。さらに古来から日本人に根付いていた儒教的な道徳心も、戦後民主主義によって駆逐されていく。そんな状態の日本人に、為政者や経済団体の指導者は、弱肉強食の競争意識を強いたのだ。ほどなく、他人のことなど考える必要のない社会が訪れた。そんな時代の自殺のあり方だ。考えるだけでも恐ろしい。どうせ死ぬならアイツを巻き添えに、とか、何でもいいから派手に死んでやろう、などと自分勝手な死に方を選ぶ輩が続出してもまったく不思議ではない。地域社会が崩壊し、血縁社会も崩壊した。会社社会もその内部の人間関係においては崩壊してしまった。最期に細々と残っている唯一の社会、中学校の社会科風に云えば社会の最小単位。「家族」。そこからも弾き出された人。そうした社会のしがらみ、そのすべてから孤立している個人。そんな最低な自由人が社会から追い詰められ、自殺を遂げるとき。その方法の妄想もまた自由だ。あまり具体的なことは書きたくないが、自分が死ぬことが前提ならば、一個人でも社会を震撼させるようなことはいくらでもできる。理系の知識のある人物の場合は特に恐ろしい。モラルも無ければイデオロギーもないのだ。事件が起きると「理解できない」と人々は語るが、「理解」などのいうのは人と人とのコミニュケーションの間にある概念ではないか。理解できないのは当然なのであって、問題はその外側で起きている。個々の日本人をこれ以上孤立させるのは危険だ。誤解されるのを承知で書かせてもらえば包丁やタガーナイフで済んでいるうちはまだ可愛いいのではないかと思われる。爆発物や薬品、銃を使用した自殺もどき犯罪が出てきたらどうするのだろう。事件を起こした個人の資質を執拗に問うたところで、起爆装置の生産は終わらない。

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