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記事一覧

三大怪獣 地球最大の決戦

6aa39e06.jpg三大怪獣 地球最大の決戦 1964年 カラー 93分 東宝

■製作 田中友幸
■監督 本多猪四郎
■特技監督 円谷英二
■出演 夏木陽介/小泉博/星由里子/若林映子/ザ・ピーナッツ/志村喬/平田昭彦

東宝オリジナルゴジラシリーズ第5作。三大スター怪獣(ゴジラ、モスラ、キングキドラ)が勢揃いする人気作だ。黒部渓谷に落ちた隕石から現れた宇宙怪獣キングギドラが最初に襲った街が松本市。市の広報車が市民にキングギドラの来襲を伝え、松本市民が逃げる逃げる。商店街の人々も次々にシャッターを下ろし避難する。松本市役所の屋上にいた人々は、松本城上空に飛来するキングギドラを目撃、天守閣の瓦が風圧で飛び散る。短いカットを積み重ね、緊迫したシーンが上手に演出されている。さて、このゴジラ映画に映った松本、現在はどうなっているのだろうか。まずはその松本市役所、これは1959年以来の庁舎が現存し、映画に映った屋上や展望室は今もその当時のままだ。もちろん国宝である松本城や観光客が慌てて渡って逃げていく朱色の埋の橋(うずみのはし)も変わっていない。他に場所としてわかり易いのはナワテ商店街のシーンあたりだろう。女鳥羽川にかかる中の橋を人々が右往左往しながら逃げる。橋の向こうにナワテの露店や中劇(映画館)も見えている。その中劇の建物の右隣には現在も越中屋という果物店があるが、当時はその2階がフルーツパーラーになっていた。映画では店内から窓の外を見て客やウェイトレスが逃げ出すシーンも含まれている。越中屋の窓から資生堂化粧品の看板の一部が見えているが、それは越中屋の隣にあったアルガという化粧品店(現在はカラオケスナック)。さらに別カットでは越中屋とシャッターの閉まった隣のアルガの店頭を背景に人々が逃げるシーンもある。こうしたことからゴジラ映画にナワテが映っているとの情報は特撮ファンの間ではそこそこ知られているようだ。が、しかし実は商店街のシーンはナワテよりも伊勢町の方がカットが多い。松本リンクストア事務所という大きな看板が目立つがそれは伊勢町にあった文化チケット(きっと買物額に応じて配られるチケット)の事務所。瘡守稲荷への参道も見えるがこれは筋向いの角屋靴鞄店の店内から撮っている。角屋靴鞄店の外観は参道入口左角にあった栗林薬局の内部から撮ったカットでみることが出来る。参道入口右角はみどりやという洋品店で、それらの店を背景に人々が逃げ惑うシーンもある。別カットでは紳士服のエース、田多井薬局の看板、ミセスはやしも映っており、いずれも伊勢町商店街にあった店だ。伊勢町商店街はこの映画の数年後に歩道アーケードを建設。7~80年代には女優秋本奈緒美の生家「BOSSひらさわ」なるジーンズショップもあったりしたが、90年代にはそのアーケードを撤去。道路も拡幅し大胆に近代化。これらの店の中で現存するのは栗林薬局と田多井薬局のみだ。田多井薬局はやや東に移転しているので、同じ場所にあるのは栗林薬局だけということになる。栗林薬局の方に映画の話を伺うと、当時のことを覚えておられ、監督さんがここに座ってシャッターを閉めるシーンを撮っていたなどの話を聞かせてくれた。栗林薬局の御主人(当時)は、映画監督の小沢茂弘氏(東映京都)と旧制松本中学(松本深志高校)で同級だったとのことだ。稲荷社の参道を介して栗林薬局の隣にあった田多井薬局やみどりやのあった場所は現在Mウィングという巨大なビルになっている。筋向いの角屋靴鞄店のあった場所も現在は駐車場、当時の面影は全くといっていいほど無い。個人的には前出のBOSSひらさわやナカガワレコード店、栗林薬局の隣にあった木曽屋という居酒屋、とても腕のいいDPEだった金鈴堂など自分が松本に住んでいた80年代の伊勢町が懐かしいが、この映画ではさらに20年遡る40年前の松本がフラッシュバックの如く登場する。特撮ファンには申し訳ないが、私は肝心の怪獣の方にはほとんど関心が無かったりもする。松本シーンの次に気になるのはザ・ピーナッツ(可愛いワ!)だったりもするのだが・・・。(現時点では市の広報車が走っている場所は不明。歩道と街路樹のある通りは本町、大名町、大手町くらいだろうからその辺りか。遠兵事務機センターの脇から電電公社(NTT)の鉄塔が見えるカットもあるがこれも場所が不明。松本在住の方で場所が判るかたがおられたらコメントやメールにでぜひ御教示ください。)

若いやつ

7e34e2ef.jpg若いやつ 1963年 カラー 91分 松竹

■監督 市村泰一
■原作 北条誠
■出演 橋幸夫/賠償千恵子/志村喬/沢村貞子/小坂一也/菅原文太

橋幸夫の歌謡映画。前年に「下町の太陽」で大ブレイクした賠償千恵子がヒロイン役。若き日の菅原文太の顔も見える。物語はバス会社の社長の息子(橋)が身分を隠し営業所で修行するという設定。そのバス会社が驚け!「川中島バス」。実名でバンバン登場する。川中島自動車時代の濃い緑のバスが最初から最後まで映画に出まくり。主人公が修行する場所は冬の赤倉営業所。田口駅(現・妙高高原駅)から赤倉スキー場までスキー客を運ぶ実際に存在する路線だ。田口駅は木造の旧駅舎、バスも鼻(ボンネット)の付いた古いもの。スキーを載せる車両後部の籠が懐かしい。極めつけは橋幸夫と賠償千恵子のデートシーン。場所が長野市。いきなり仏閣型駅舎だ。地附山ロープウェーに乗った二人は雲上殿からロープウェー雲上殿駅の2階テラスに歩いてきて雪の長野市街地を眺める。善光寺で鳩に豆を与えた後は御数珠頂戴。善光寺も大サービスだ。お次は石堂町の「おしゃれのコイデ」で橋幸夫が賠償千恵子にブローチを買う。おお、善光寺の御数珠頂戴に並んでいた人が今度は中央通りを通行人役で歩いているではないか。きっと撮影に協力した地元関係者をお礼を兼ねてエキストラに使ったのだろう。背景に必ず川中島バスが行き交うのがわざとらしくて実にいい。オレンジ色の長電バスが通り過ぎるオマケまである。個人的に思いきり嬉しかったのはコイデの隣の店の窓に貼られている「石坂料理学園」の大看板。これはかなり目立ち過ぎ。その後、橋幸夫は賠償千恵子をほったらかして父のいる川中島バス本社に出向く。正確にわからないが、おそらく西後町(現在の長野税務署のあたり)にあった本社だろう。プレハブ風の建物についた仮設階段を2階に登っていくとそこが本社になっている。これで長野シリーズは終わり。これらのシーンは長野観光連盟とのタイアップということで行われていたようだが、溶けた雪が路面にグチャグチャになっているような街の映像が観光に寄与しかのかはちょっと疑問。しかし、今はな無き地附山ロープウェーの飯綱号(戸隠号かも)が動いてる映像が見られるのは貴重だ。かつて地附山には動物園があり小さなスキー場もあった。ちなみにそこは特撮ドラマ「スペクトルマン(怪獣マウントドラゴン輸送大作戦)」のロケで使われたこともある。でもまあここが全国的に有名になったのはやはり1985年の巨大な地滑りだろう。現場にいた市の職員が恐怖に引きつった顔で「あっという間にベトが押し寄せてきた」と全国放送のインタビューに答えていたのが忘れられない。さて、市村泰一氏は松竹京都の監督、歌謡映画を撮らせたら確実にヒットを飛ばすという安定した実力が買われていた人。須坂市相ノ島出身。父親が教員で小学4年まで上田市に在住していたそうだ。

スペシャルドラマ「弟」

d84122bd.jpgスペシャルドラマ「弟」

■原作:石原慎太郎
■脚本:ジェームス三木
■監督:若松節朗(共同テレビ)
■出演:渡哲也、三浦友和、徳重聡、長瀬智也、高島礼子、池内淳子、松坂慶子、仲間由紀恵、他

テレビ朝日が社運を掛けたドラマは、共同テレビの制作、照明もFLT。これで視聴率を稼げばフジテレビが祝儀を贈ったようなもの? もっと重々しいドキュメンタリーを想像していたのだが、実際は豪華俳優陣を並べた現代風ドラマだった。この安直さがテレビのウリというか身軽さではある。芸術祭に参加するようでそれはどうかと思うが、視聴率的というか興行的にはこの作り方は成功ではないか。映画なら子役はともかく青年期以降は一人の役者が特殊メイクで化けてとことん演じるだろうし、セットや背景ももっと正確に時代考証して作るだろう。そういうドラマを期待している分にはややスカを食らう作りではある。実際、60年代以前には無かったようなモノや背景が画面にたくさん出てくるのには驚いたし、それでかなり気が散った。そんな中、湘南高校でのサッカーシーンは良いロケ地を選んだと思う。あれは松本市のあがたの森だ。旧制松高の校舎の南側のグランドで趣のある古い校舎を背景に走るシーンをバリバリの順光で撮っている。闘病中の石原裕次郎が姿を現した慶応大学病院の屋上シーンは実際の慶応大学病院だ。すぐ近くに絵画館も見える。病院内部の撮影は松本市の信大付属病院の旧館で行われたらしい。剥き出しの配管が昭和の病院らしく雰囲気抜群。桜が綺麗な調布日活撮影所部分のロケ地は何処なのだろう? 本物の日活撮影所ではないようだ。石原裕次郎がデビューした頃の日活撮影所ってのはアジア一の規模を誇るピカピカの新築。壁は眩しいくらい白かったはずだが、撮影所の建物の外観はやや年季が入っていた。4夜5夜と晩年の闘病生活が話の中心になっていき、渡哲也や三浦友和などオトナの役者が渋い演技をしてドラマに風格を与えているし、原作の中から巧みにエピソードを抽出しているジェームス三木の脚本は見事だ。しかし、個人的には晩年の闘病生活の部分はあまり興味が沸かない。当時もワイドショーで散々見せられたし、その後もいろんな関係者の書物で読んだが、流動食だカルテだみたいな映像は正直見たくもない。実際、闘病生活の顛末より、「黒部の太陽」成功への一部始終の方がプロジェクトXぽくてずっと感動的だと思う。願わくばもっとドキュメンタリータッチで5~60年代を丁寧に描いたドラマが観たかった。

小さな恋のメロディ

42874ef0.jpg小さな恋のメロディ 1971年 カラー 106分

■監督:ワリス・フセイン
■原作/脚本:アラン・パーカー    
■音楽:ビージーズ、CSN&Y
■出演:マーク・レスター/トレーシー・ハイド/ジャック・ワイルド   

ようやくDVDが発売される。ある年代の者にとっては特別な感慨のある映画だが、実はヒットしたのは日本だけ。英国本国や米国では大きな話題にはならなかった。DVDの発売が今頃になったのも英米でDVD化がなされていなかったからだろう。いい歳をしたオトコがこの映画について語るのは今でも少々気恥ずかしい気もするが、実は私の場合、映画より先に当時ラジオで頻繁に流されていたタイトル曲「メロディ・フェア(ビージーズ)」が気に入り、それが目的で初回のテレビ放映を観たら、音楽以上にトレーシー・ハイドにすっかり夢中になってしまったという恥ずかしい過去がある。ビデオの無い時代だ。2度目のテレビ放映の時はカセットテープに音を録り「蝋燭の光でも撮る」ヤシカ・エレクトロ35で画面を撮影してたほどだからかなりのイカレ様だった。メロディのバレエシーンを射止めたテレビ再撮写真の出来が秀逸で、同級生のために何枚も焼き増ししたことなども今となっては懐かしい。ローティーンの恋愛を映画にすることは当時まだ珍しく、同年代の少年少女にとっておもいきり羨ましいストーリーだったことや、ブリテッシュロックの流れをくむビージーズ(オーストラリアだけど)の音楽が映像と溶け合っていたことなど、ハマった理由は他にもあった。なぜこの映画が日本でこんなにヒットしたのだろうと考えると、やはり70年代前半の日本の社会状況ってのもあったのかなと思う。71年の公開だがその頃英米ではもっと近未来的で過激な映画や音楽がもてはやされていた。それからするとこの映画は音楽も60年代後半風でやや古臭い。英米でヒットしなかったのもまあうなずける。ところがその頃の日本はといえば高度経済成長が一段落し、ブルジョワ階級だけでなくようやく国民全体が衣食住以外の贅沢に関心が向き始めた時代だった。よく言われることだが、日本にはビートルズ世代なんてのは存在しない。ビートルズが来日し大騒ぎになってた頃、彼らに夢中になってたのは時代に敏感な一握りの若者たちで、大多数の若者たちは「グループサウンズは不良である」ってな感じで年輩者共々、黄色い歓声を上げる少女たちを馬鹿にしていた。実際、60年代の中頃はまだ集団就職の時代なのだ。そんなものに現を抜かしてはいられない若者も多かったのだと思う。ところが70年を過ぎると風向きが変わってくる。シングル盤しか買えなかった人々がLPレコードを買うようになり、エレキを持ってフォークをやってる若者を不良という人はいなくなった。親はマイカーを持つようになり、子供部屋にはラジオだけでなく、テレビやカセットテープレコーダー、ときにステレオセットまでが置かれるようになった。その部屋にしっくりきたのが、ビートルズのポスターと赤ベスト、青ベスト。レコードや関連グッズの売り上げで見れば日本のビートルズブームはビートルズの解散と共に始まったと言ってもいい。物質的な豊かさが頂点に到達し、ようやっと米英の贅沢で、ある種モラトリアム的な若者文化を日本人も受け入れられる態勢になったのだ。だから、英米ではやや時代遅れとされた映画が日本で大ヒットした。そんな気がする。淡い初恋の映画に日本経済云々ってのも変な話だが...。

野菊の如き君なりき

430469ba.jpg野菊の如き君なりき 1955年 モノクロ 92分 松竹

■監督 木下恵介
■撮影 楠田浩之
■美術 伊藤熹朔
■音楽 木下忠司
■出演 有田紀子/田中晋二/笠智衆/小林トシ子/杉村春子

伊藤左千夫の「野菊の墓」を木下恵介が映画化。「二十四の瞳」と共に60歳以上の日本人の心の原風景的な映画として、深い影響力を残した作品でもある。木下恵介は映画の舞台を原作の千葉から信州に移して映画化し、ロケも行っている。公開後、感動的な物語はもちろん、美しい風景描写も話題を呼び、日本映画最高の映像叙事詩との評価もされた。その美しい信州の風景とは、上高地でもなく安曇野でもなく浅間山麓でもなく八ヶ岳山麓でも御岳山麓でもない。美ヶ原高原でも志賀高原でもなかった。なんとそれは善光寺平だったのだ。今や平地はそのほとんどが建物で埋まり、残った大きな空き地を狙って巨大な五輪施設が建てられてしまった長野盆地だが、50年前は古き良き日本を象徴する美しい景観があった。善光寺平のいたるところに「北信濃の原風景」(飯山市の菜の花公園の菜の花畑から千曲川越しに斑尾山を望むような美しい風景)が広がっていた。さて、映画の冒頭を飾る旅情豊かなシーンは、長野市安茂里と川中島の間を流れる犀川を丹波島橋から上流に向けて撮影している。遠く北アルプスも見えているがモノクロ映画の鮮明度が悪くはっきりと確認できないのが残念だ。逆に見えるはずの鉄道橋は鮮明度の悪さが幸いしてほとんどその存在がわからない。間近に見えているのは富士の塔山あたりだろうか白土が特徴的な山々を舟から移動ショットで見せている。これは差出地区あたりからの見た目だ。1950年代の安茂里はこんなに叙情的で美しかったのか。中尾山温泉のある共和地区の山々を背景に舟がいくショットもある。これは小市地区に近い場所だろう。当時既に存在したはずの信越線の鉄道橋や小市木橋は上手にカモフラージュされ、大自然の中を小さな舟が行くダイナミックな映像となっている。丹波橋からアルプス方向への眺めは、晩秋の日の夕暮れや晴れた冬の日の朝など、息をのむほどに美しいことがあるが、残念なことに現在は送電線や巨大な鉄塔などがその景観を阻害してしまっている。本編(回想)の中では村山橋と屋島橋の間のあたりと菅平根子岳を背景に舟が行くシーンなども登場する。民夫が郷里を離れ中学のある町に行く際に乗る舟の船着場は小布施町山王島の小布施橋東詰。そこは現在、千曲川ふれあい公園となっている。春になると菜の花が咲き、美しい風景が堪能できる公園だ。河川敷の中に流れ込んでいる千曲川の支流に当時を彷彿とさせる小さな木橋がいくつか渡されている。50年も経てば川の流れも変化する。民夫が舟に乗った場所はとても特定は出来ない。かつて山王島は実際に千曲川通船の重要な船着場で、同じ場所に渡しもあった。もちろん映画が撮影された頃は既に車や鉄道輸送の時代で船運などはなく、渡しも大正時代に架けられた小布施木橋に変わっている。映画ではその木橋の上で年老いた民夫(笠智衆)が杖をつき過去を回想するシーンも撮影されている。ここは西を向けば飯綱山や黒姫山、北を向けば高社山が背景となる絶好のロケーションだ。木橋の上で笠智衆が高社山を背景にして立つショットをよくみると、画面過ぎ右隅に河川敷内に現存する山王古跡(水神様か神社の跡?)を囲む杉の木が移り込んでいるのがわかる。神社といえば政夫や民子の住む村の村祭りのシーンが映画に出てくるが、この神社は飯綱山や黒姫山の見え方からするとおそらく小布施町押羽にある上下諏訪神社ではないかと思われる。昨今、小布施ワイナリーで有名な押羽地区には他にもいくつかの神社があり早計に断定することは出来ないが、周囲に全く民家がないことや鎮守の森の風情からするとその可能性は高い。この神社の周りに民家が無いのには理由がある。かつてこのあたりは千曲川が氾濫すると必ず水没する場所だったのだそうだ。たまりかねた住民が別の土地に集団移転したため神社だけが残ったらしい。現在は隣にフラワーセンターという施設が出来ているが、他に民家はなく撮影当時の様子をそこそこ留めている。さて肝心の政夫の家だが、これは善光寺平をずっと南に下った現在の千曲市打沢にある市川家の門や蔵がロケに使われている。映画の中に何度も登場する重要な場所だ。今は家の前の道は拡幅舗装され、道の手前に広がっていた水田も宅地になっている。敷地も幾つかのお宅に分かれているようだが、その一部に当時の面影を残す蔵や塀がある。ちなみに政夫の家はその周囲だけがロケで撮影され、家の内部の撮影は松竹大船撮影所のオープンセットで行われた。白壁は本塗り、大黒柱は尺五寸という凄いスケールのものだったらしい。その政夫の家の畑、政夫と民子が純真な愛を語らう茄子畑は牟礼村横手で撮影されている。飯綱山が唯一裾野を広げているこの地区はとりたてて山々の姿が美しいわけではないが、畑作業をする背景に近隣の丘(里山)や、延徳あたり平や千曲川が遠くに映りこんでくる爽快な場所だ。後半に登場する葬列のシーンもこの地区で撮影されており、その際に地元の人々18人と馬一頭がエキストラとして出演したらしい。現在、村(正確には三セクか?)が運営し、この地区にある「よこ亭」というそば店の駐車場には、この映画のロケ地であることを紹介する看板も立てられている。また、政夫の家からこの畑に向かうまでの移動シーンは実に様々な場所で撮影されている。何気ない風景なので場所を特定することは難しいが、映りこんでくる山の形がら想像するに、黒姫高原あたりで牟礼の方を背景に撮ったショットや、逆に妙高山を背景にしたショット、信濃町から戸隠に向かう途中の鳥居川沿いかなと思われるショットなど場所的には変幻自在だ。さらには政夫と民子が二人だけで採取に行く綿畑のシーンが遠く離れた長野市大豆島だったというからおそれ入る。印象的な夕焼けのシーンも大豆島の堤防で撮影されたらしい。さて、自然の風景と違いロケ場所がわかり易かったのは政夫の通う中学校。これは観光地にもなっている長野市松代の真田邸だ。この建物の裏には松代藩の藩校である文武学校もあるが、撮影に使われているのは真田家の居宅の方。現在この建物は国史跡指定の文化財として公開されている。映画が撮影された当時はこの隣に県立松代高校があり実際のキャメラを置いた場所もその校庭だ。ここは現在、市が公園として整備しており、長野県出身の作詞作曲家の作品の歌碑などが並んでいる。そして映画のラストを飾る野菊の墓、にわかに信じがたいことだが、なんと長野市街地のド真ん中に現存する。巨大な欅の木が印象的な墓地、若里姫塚。善光寺七名所七塚のうちのひとつに数えられている旧跡だ。欅も健在で長野市の保存樹木に指定されている。周囲は建物にぎっしりと囲まれ撮影当時ののどかな雰囲気はまったくない。本当にこの場所なのか?と思うような現況だが、欅の袂のある特徴的な墓石は映画でもしっかりと確認できた。姫塚とは理由あって父(熊谷次郎直実)と名乗れぬまま娘(玉鶴姫)の最期を看取った直実が玉鶴姫のために建てた墓だ。そんな玉鶴姫の悲話にちなむ場所を民子の墓として撮影するとはなんとも深い。正にロケの達人、木下恵介。

あいつと私

f6d974bf.jpgあいつと私 1961年 カラー 105分 日活

■監督:中平康
■原作:石坂洋二郎
■脚本:池田一朗/ 中平康
■撮影:山崎善弘
■出演:石原裕次郎/芦川いづみ/小沢昭一/吉永小百合
/酒井和歌子/吉行和子/宮口精二/轟夕起子

石坂洋次郎原作の青春映画。大学生を主人公に描かれるセックスコメディ。といってもその内容は昨今なら中学生を主人公にしてでも成立する程度のもの。それが大学生でってところが時代を現していて微笑ましく楽しい。当時は性に対する興味をあっけらかんと描くこと自体が新しかったのだろう。時代と言えばこの映画、60年の安保騒動も登場する。「アンポ、ハンタイ!!」ってな合唱がスクリーンの中で幾度となく繰り返される。主人公たちも実際にデモの現場に足を運び殴られ怪我をしたりもするのだが、映画に政治的なメッセージなどはない。当時のごく普通の大学生は最低限この映画の主人公と同じ程度には政治に関心を持ち、かつ性にはおおいなる好奇心を持って生活していたのだろう。その様子がとてもよく描かれている。さて、この映画、一般的には石原裕次郎と吉永小百合が共演した数少ない映画として有名だが、吉永小百合はこの時点ではまだチョイ役。裕次郎の恋人芦川いづみの高校生の妹役だ。さらにその下の小学生の妹はなんと酒井和歌子さん。豪華女優陣総出演??なのだ。・・・とはいえ残念ながら皆さんまだまだ子供。美しいのはやはり芦川いづみさん。この映画での彼女は美しく明るく可愛い。美の絶頂期かも。映画興行的にはおそらく嵐の中での〇〇シーンが見せ場なんだろう。雨に濡れたいづみさんは美しい。が、私のお気に入りは別のシーン、裕次郎の大きな手で口封じされた時の彼女のコミカルな表情だ。そこには流行の先端を走ったモダニスト中平康監督が捉えた自由で可愛い女性の表情が映し込まれている。中平康監督は既に前年(1960年)公開の「あした晴れるか」で芦川いづみコメディスト?としての才能を開花させている。オトナの女性が幼児的な表情を露にする演出なんてのは61年当時まだあまり無かったのではないか。中平康監督はこの4年後の64年に加賀まりこの小悪魔的な可愛らしさを全開させた映画「月曜日のユカ」を撮っているが、セルジュ・ゲンズブールがフランス・ギャルに「夢みるシャンソン人形」を歌わせたのが翌65年だってことを考えると、驚くべき先端流行感覚の持ち主だってことがわかる。56年に撮った「狂った果実」が、フランスのヌーヴェルバーグに影響を与えたことも映画マニアにはよく知られているが、こんなお洒落な監督が当時の日本にいたとは誇らしい。60年代後半以降日本では暗くドロドロした映画ばかりが価値があるかのように語られ、中平康監督は不遇の生涯を閉じることになってしまうが、私はもっと再評価されるべき人だと思う。蛇足だが小沢昭一(学生服姿)や吉行和子が学生役で登場するところも隠れた見所かも。

銀座の恋の物語

771ec913.jpg銀座の恋の物語 1967年 カラー 93分 日活

■監督:蔵原惟繕
■脚本:山田信夫/熊井啓
■撮影:間宮義雄
■出演:石原裕次郎/浅丘ルリ子/ジェリー藤尾/江利チエミ
/和泉雅子/高品格/三崎千恵子/牧村洵子/金井克子

デュエットソングの定番「銀座の恋の物語」の映画版。別の映画の挿入歌として作られた曲が200万枚の大ヒット。で映画が作られたらしい。この唄、現在では場末の繁華街で歌われる演歌というイメージが強いが、かつてはおしゃれな歌謡曲だったハズ。映画にはそのおしゃれな雰囲気がしっかりと記録されている。新宿にまだ高層ビルがなく渋谷にパルコがない時代、銀座は若者の街だった。服部時計店や松屋、日劇や森永の広告塔など、映画「月曜日のユカ」に映されている当時の横浜元町と比べるとネオングルグルな銀座はやっぱり日本一の繁華街だったことを実感する。正に60年代のトレンディードラマ。浅丘ルリ子は相変わらず美しく、メガネをかけて3枚目を演じてる妹役の和泉雅子も実は可愛い。婦人警察官役で登場する江利チエミの演技が如何にもスター然としていたり、「♪心の底から痺れるよおな~」っていう唄のフレーズが映画のいたるところで流れるあたりは歌謡映画。当時のドラマの定番といえば、金持ちと貧乏人モノ、都会人と田舎もモノ、新婚初夜の嬉し恥ずかしモノ、記憶喪失モノ、努力して大成功モノなどなど。この映画でもそのうちのひとつがぴったんこカンカンだったりもする。昨今は単純な恋愛ストーリードラマなんてものはほとんど無く、普通のドラマでも練りに練った推理サスペンスみたいだったりするが、この映画を見ると大スタアが登場する恋愛映画はストレートな王道スト-リーの方が華やかでいいワナって感じもしなくはない。韓国の恋愛ドラマが大好評だし、そろそろ日本も王道恋愛映画を復活させたらどうか? 10年程前に「僕は死にましぇん・・」ってテレビドラマがあったが、判り易いドラマも必要だ。

月曜日のユカ

8f84d46d.jpg月曜日のユカ 1964年 モノクロ 94分 日活

■監督:中平康
■脚本:斎藤耕一/倉本聰 ■撮影:山崎善弘
■出演:加賀まりこ/中尾彬/加藤武/北村谷栄/山本陽子

加賀まりこ主演の日本版ヌーベルバーグ映画。中平康監督が57年に撮った「狂った果実」はフランスヌーベルバーグに影響を与えたってらしいからこちらの方が元祖かも? ストップモーションや新聞穴ワイプなど映像処理はフランスのソレよりも自然で違和感が少ない。・・・ってな堅い話よりもまずこの映画は18歳の加賀まりこのキュートな美しさを堪能すべき映画。昨今、この映画での彼女のファッションを信奉する若い女性が増えてると聞く。山下公園、元町、赤燈台にレンガ倉庫、横浜が舞台。元町のロケ場面ではキタムラ元町本店らしき建物の前を加賀まりこと中尾彬が仲むつまじく歩くシーンもあったりもするが、現在からすれば場末の商店街のように見えなくもない。こういうのをおしゃれと思う若い女性がいてくれることは嬉しいが、実際の昭和39年の元町商店街はドブ板の下からいろんな臭いがしてたんじゃないかと思う。(笑) それらを容認した上でおしゃれだと思うなら実に結構なことだ。テレビのバラエティ番組で毒舌をふりまいてる加賀まりこと中尾彬の若き日の姿は何とも初々しい。この映画を見れば、バラエティ番組からうける2人の印象も変わることだろう。山本陽子がほとんど子役としてチョイ役で出ているが後姿ばかりで顔が見えないのが演出とはいえ残念。

憎いあンちくしょう  

94bb3455.jpg憎いあンちくしょう  1962年 カラー106分 日活

■監督:蔵原惟繕■脚本:山田信夫
■出演:石原裕次郎/浅丘ルリ子/芦川いづみ/小池朝雄/長門裕之

石原裕次郎主演の傑作ロードムービー。実はこの映画、真の愛のあり方を問うストーリーはさることながら、1960年代前半、高度経済成長初期の日本の風景がフルカラーのシネマスコープサイズでよみがえるところに記録的な価値がある。ジャガーXK120、ジープCJ3B-J3(J10)というカーマニアにとってはたまらなくカルトなクルマが、新幹線も高速道路もない時代の、東京~箱根~静岡駅前~名古屋テレビ塔~京都二条大橋~大阪梅田駅前~尾道~広島原爆ドーム~関門トンネル~福岡中州を走り抜ける。街の中心地を通る国道、海際を走る国道、未舗装の国道は雨で泥々。きっと映画のスポンサーなのだろう給油は必ず出光(アポロ)、当時のガソリンスタンドの風情もいい。そしてゴールは九州の山奥、楢山節考もびっくりの山村だ。60年代を記憶に留める人であれば懐かしさに心震えることだろう。映画もテレビもまだ白黒が当たり前、自分自身の60年代の記憶もなぜかモノクロームだったりするので、個人的には当時のカラー映像が新鮮だった。テレビといえば主人公がテレビタレントという設定、当時のテレビスタジオやサブコントロールルームが画面に登場したりもする。60年代の日本の風景がふんだんに詰まった記録映画としてみるのが楽しい。・・・といいつつ、22歳の浅丘ルリ子ってふっくらしていて可愛かったのね~と妙に嬉しくなったりもする。70年代以降のスリムで美しい浅丘ルリ子しか知らん世代にとってはこれも驚きのひとつかも知れない。それとなぜか桑田圭祐がテレビディレクター役で出演している・・・もちろん嘘。

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