カレンダー

  • «
  • 2024.4/
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • »

記事一覧

年賀状文化の終焉

年賀状の遅配が気になる正月だった。例年ならば元旦に届くはずの人の年賀状が3日過ぎに届く。明らかに異常。送り主に何かあったかと心配になり消息を電話で尋ねてしまった。郵政公社も遅配が多かったことは認めている。原因は「差し出す側の「遅出し」が顕著になり、年の瀬に1日2億枚と云われる仕分け機の処理能力を超え続けたため」なのだそうだ。・・・これは怪しい。絶対に怪しい。年賀状は減ってるんじゃなかったのか? 10年程前は30日に投函しても同じ市内ならば元日に配達されていたではないか。その頃の方が年賀状は多かったはずだ。2日に返事として投函した同一市内への年賀状の配達が13日だったという話も聞いた。仕分機の処理能力を超えただけでそんなに遅れるものなのか。明らかに何かが隠されている。気になったので調べてみた。

(引用始)「例えば30日中に差し出された普通郵便はほぼ元旦に配達されています。年賀だけが処理が間に合わなかったわけですが、現場からは当たり前だという声が聞こえてきます。熟練労働者はいない、短期アルバイトも集まらない、小包請負業者も逃げ出すような職場にしてしまったのは当局のこれまでのリストラ施策の積み重ねによって。JPS=トヨタ方式による現場を無視した合理化施策がそれに決定的な追い打ちをかけての、今年の惨状なのだと。」「年賀引き受けのピークが遅くなったのは何も今年に限った話しではありません。ここ10年来いや20年来の話しで、30日がピークだったという年も決して少なくはないのです。いわんや今年は年賀葉書の売り上げ自体も落ちており、普段より処理作業量としては少なくなっていたにもかかわらず、年賀状を元旦に配達仕切れなかったのです。」(引用終)
(参照元http://no-to-privatization.blogspot.com/2006/01/blog-post_16.html

こうした内部告発が事実だとしたら、差し出す側の「遅出し」を原因とした郵政公社の態度は絶対に許せない。失敗の理由を利用者(お客さま)に押し付ける企業がどこにあるだろうか? 最低最悪の対応ではないか。そんなことは不二家もしていないし、パロマも雪印もしていないぞ。お客様への「真っ向サービス」どころか「真っ向批判」じゃないの。(笑) 親方日の丸郵政省に出来ないことも出来るから郵政民営化だと小泉さんから聞いていたが、現実はどうやら逆らしい。それが民営化だというのなら、民営化と共に年賀状文化も御終いってことなのね。考えてみれば、携帯電話やメールが普及し尽くした現代に、1枚50円もする有料の紙をショップにワザワザ買いに行き、下手な字で賀詞を書いたり、金も暇もないのにソフトまで購入してパソコンで印刷した挙句に、この寒い中ポストまで投函に行く。こうした高速ネット時代にソグワナイ「非効率的な」通信手段を年末に全国民が一斉に行うっていうも無駄と考えてしまえば確かに無駄だ。私自身はアタマが古いのでそういう無駄に価値を感じて昔から毎年100枚5千円で年賀状を作成してきているが、その非効率性を郵便屋自身が率先して訴えるのなら、もう年賀状は出さない。仕事が減って助かるだろう。喜んで協力する。・・・・・つまらない時代になったものだ

美国化日本

アメリカ合衆国のことを日本では「米国」と表記するが、中国では「美国」。安倍首相のキャッチフレーズ「美しい国、日本」を中国表記すればスバリ「美国日本」。なるほど判り易い。「美しい国、日本」とは「米国化日本」のことかいな。米国が唱える「グローバル化」とは所詮「米国化」に過ぎない。米国の指導に従い社会経済を米国化することが、日本が世界で生き残る最善の方法だと日本人の多くが信じているようだが、世界広しと云えどもそんな馬鹿なことをしているのは、日本だけだ。中国では「グローバル化」のことを「全球化」と云う。しかしこれは全世界で中国経済の影響力が強まることを意味する言葉であって決して米国化するという意味ではない。(それなら、米国経済をコテンパンに打ちのめし、世界の覇者となった1980年代後半の日本は正に「全球化」を実現していたってことになるのだが・・・。) 一方、欧州においての「グローバル化」とは「EU化」のことを指す。反グローバル主義者たちはローカリズムを破壊する「EU化」に反対して時に過激な活動もするが、実はその「EU化」を推進する人々も米国に追従する気などはサラサラない。米国に対抗するための「EU化」なのだから。さらに、米国のお膝元、南米。よく調べて欲しい。米国が経済支配を強めれば強めるほど各国は反発し左翼化する傾向にあるではないか。日本人の米国好きは異常なのだ。最近、「ホワイトカラーエグゼンプション」導入の是非が話題になっているが、その内容はともかく、これも昨年の「日米投資イニシアチブ」で米国政府がグローバル資本主義導入の一環として日本政府に要請したことをそのまんま実行しようとしているものだ。いくら要請でもそのまんまじゃダメだろ。日本のやり方が世界に通用しないといつ誰が決めてしまったのか? 世界を席捲した日本方式は現在でも生き残っているし、益々盛んな会社もある。グローバル化のために輸出すべきは日本方式なのだ。今やモノだけでなく強力な文化も世界に輸出している国だというのに、何に遠慮をする必要があるのか。好んでアメリカナイゼーション(アメリカンスタンダード)化するなど愚の骨頂だ。米国と協調するのが悪いとは云わないが、自分を失ったらすべてはお終い。「美国化日本」に未来などない。

青島だあ!

またひとり60年代のスターが逝った。溢れる才能で馬鹿なことをする。密かに憧れの人だった。20年ほど前、とある機会に直接お会いしたことがあるが、放送作家で俳優、歌も唄って、参議院議員で直木賞作家・・・。その輝かしい経歴とは裏腹にとても腰の低い方だった。世の常識を引っ繰り返し、芸能に政治に文学に派手なパフォーマンスを繰り返していても、青島幸男さんご本人は心優しい常識人だったのではないか。それを最も感じたのは都知事になった顛末だ。多くの人は期待外れと評価しているのかも知れない。実際、公約通り都市博を中止して以降は都官僚の言いなりとなり、迫力のかけらもない任期を過ごしてしまった。都知事の権限の強さは尋常ではない。700人以上もいる国会議員ならばひとりやふたり変わり者がいても支障はないが、総理大臣以上に権限が集中する都知事はたったひとりだ。「♪都の知事は気楽な家業と来たもんだ~」とばかり云いたいことを云いたい放題でやってるわけにはとてもいかない。そこに、就任してまもなく都知事宛の郵便物が爆発し、職員の指が吹き飛ぶ事件が発生する。以降、いわゆる青島節が一切聞かれなくなってしまった。昨今、職責となるとロボットのように血も涙もなく行動するする人が多い。業務遂行のためなら部下の指の一本や二本吹き飛んでも仕方が無いと考えている自動車メーカーも現実にあるそうだが、世間の風潮もそのまんまなのは戴けない。青島さんが最も輝いていた60年代も無理な経済成長に起因した数え切れないほどの労働災害があったと聞くし、意外に思う人もいるかも知れないが、実は青少年犯罪も60年代の方が現在よりずっと数は多かった。それでも世間やメディアは(少なくともタテマエだけは)常に地方から出てきた貧しい人々の立場に立って考え行動していたように思う。過激なパフォーマンスをしていても心に伝わる優しさを感じるところは、大島渚さんや野坂昭如さんなど、青島さんと同世代の文化人に共通しているものだ。(現東京都知事には例外的にそれをあまり感じないけれど) それこそが昭和の暖かさだと私は思うのだが、きっと現代の人々はそれを甘さとか弱さと捉えるんだろうね。それじゃグローバル化する社会で生き残れないんだとかさ・・・。本当にそうなんだろうか? ここ10数年の世の中を見ていると、貧困や労働災害の本当の悲惨さを知らない連中が、「世の中はキビシイんだ」「働かざる者は食うべからず」とばかりに人間を機械のように扱い、命令した当人も見たことのない悲惨を生み出しているように思えてならない。子供の頃、虫も殺したこともない奴が思春期に面白半分でカッターナイフで同級生を刺してしまいましたみたいな感覚の延長で、職場で部下にノルマを強要する。問題が発生して初めて現実感を得るみたいなヴァーチャル職場が実に多い。西の方の鉄道会社とかさ・・・。最近、いわゆる昭和ヒトケタ世代が続々と鬼籍に入っている。失われるのが人材だけならばそれは寿命として止むを得ないにしても、彼らを失うことで始まる恐ろしい「何か」に私は戦々恐々としてしまう。病気や事故で死なない限り、私はまだ何十年も生きなければならないのだ。怖い怖い。

6歳のハローワーク

授業中に先生の話を聞かず、気ままに歩き廻る児童が存在するのが、今日の日本の小学校の当たり前の風景らしい。マスメディアはこれを教育崩壊とか学級崩壊と呼び、政府は飲み屋の社長を教育再生会議委員に選んで学校を改革しようとしている。しかし、そのような改革では状況は改善されないだろう。なぜなら、病んでいるのは学校ではなく社会だからだ。戦前の富国強兵、戦後の経済復興、高度経済成長期は物質的な豊かさを求める等々、国や国民には統一された目標のようなものが暗黙のうちに醸成されている時代は、教育もそれに乗ってやっていれば大きな破綻は起きなかった。ところが物質的な豊かさがピークに辿りついた70年代後半から80年代頃から教育が狂い始める。60年代以前の子供は貧しさの中で育っている。勉学に励めさすれば、現在の貧しい生活から逃れられ豊かな生活を獲得できる。そう思えば授業も真面目に聞くってものだ。教師は貧しさから抜け出るためのノウハウを伝授してくれる大切な存在。とうぜん尊敬される。教育はそれをサポートしていればそれで良かった。ところが70年代になると、生まれおちた時から物質的に豊かに暮らしてきた子供が激増する。普通に考えれば幸せなことだが、実はこれ、良い進学をし良い就職ができなければ自分が育ってきた環境より落ちる暮らしが待っている・・・みたいに考えてしまうと、何ともイヤ~な厭世感を生む。この感覚は、勉強して努力すれば親の世代よりも確実に豊かな生活が出来た50歳代以上の人々にはなかなか理解できないものなのかも知れない。今やそういう世代が親や教師にまでなっている。30年前にこの変化を見逃してしまったのがそもそもの失敗の始まり。歪は最初、校内暴力として現れ、それを管理教育で押さえ込むと裏で陰湿なイジメがはびこるようになり、そういう集団に適応できない子供が登校拒否となると、今度は緩められた管理の中で、学級崩壊。絵に描いたような対症療法の歴史がそこにある。そろそろ根本的な解決を図らないとこの国の将来はヤバイかも知れない。たぶん、多くの人々がそう思い始めている。ところが国のやってることは愛国心だの道徳だのって、今から富国強兵政策を始めてどうする。(笑) 企業経営のノウハウを学校にチョメチョメなんてのもかなりの噴飯もの。子供達に国の借金を減らし方でも教えるつもりか。(笑) 子供達は天皇陛下や国の借金返済のために勉強するわけじゃあない。では、何のために教育を施し勉強をするのか。そこをもっと真剣に議論するべきなのだ。教育云々以前に、今の日本社会はその社会そのものが明確な目標を失ってはいないか。これはオトナの責任。「十三歳のハローワーク」という本がベストセラーから定番のロングセラーになっていると聞く。内容の仔細はともあれ、その企画力たるやさすがは村上龍氏ではないか。社会に欠落しているものをしっかりと見抜いている。猫も杓子も東大を目指しても仕方がない。親や教師や国は子供達に東大以外の目標をたくさん提示すべきなのだ。明確な夢や希望を語れるようになれば馬鹿でも努力をする。落ちこぼれの私がそう云うんだから間違い無い。(爆)

愚かな指導者

知らない人も多いと思うが日本は核保有国だ。・・・なんぞと書くとエエエッ~?ってことになるが、まあ正確に云えば「潜在的核保有国」ということ。その気になれば1年以内に核兵器を製造することが可能だろう。有事ともなれば3ヶ月。そこまで断定するのには根拠がある。なぜなら日本の原子力技術は基礎技術があるなどというのんびりとしたものではないからだ。実際に核爆弾を製造する施設もある。・・・なんぞと書くとまたエエエッ~?ってことになるが、これもまた事実。転用可能な施設はいくらでもあるのだ。では実際に核兵器製造に必要な技術にはどんなものがあるかと云えば、まずは核融合技術。これ、日本は世界のトップレヴェルにある。ウランの濃縮から再処理施設、さらに高速増殖炉までちゃ~んとあるではないか。安全に臨界を維持する高い技術を持てば、当然、瞬時に臨界を連鎖させる技術もあろうというもの。オマケにパーツの小型化実装技術は世界に誇る日本のお家芸となれば、出来上がった核爆弾の能率(プルトリウムが効率的に爆発する率)も相当高いモノになる。小型でかつ強力な核爆弾を作れるってこと。爆縮技術は実際に実験を繰り返してノウハウを得るものらしいので核実験をしたことのない日本にどの程度の爆弾が作れるかはやや疑問は残るが、実は30年も昔、1973年に通産省工業技術院(当時)が密かに爆縮の基礎実験を終えているとの未確認情報もある。次にミサイル技術、これ、日本は既に大陸間弾道弾を保有しているでしょ。エエエッ~?っの3回目。だって日本はH2ロケットで指定軌道上に静止衛星を配置する技術を持ってるじゃないか。残るは大気圏再突入技術となる。実はこの技術がやや遅れていた。でも、2003年にJAXAは静止衛星が収集した情報を載せたカプセルを計画した地点(洋上)に正確に帰還させるUSERS計画を無事に成功させてしまった。爆弾の場合は必要はないだろうが、実際に落ちた場所を特定し再突入カプセルを回収するシステムまで構築している。あとは材料。これも豊富にある。人形峠でせっせと少ないウランを掘らなくても、発電量の3割を原子力発電に頼っている日本には使用済みのプルトリウムがごまんとある。その再処理も可能だ。こ~んなこと書いているオマエは核武装論者かと云われそうだが、それはない。日本の場合、核武装は技術的な問題ではなくあくまでも政治的な問題なのだ。先制核攻撃なんざしようものならその国はもうその時点でオシマイ。核は持ってることが政治力ってことなら、日本の場合、潜在的核保有なんだから政治的にはそれでもう十分ではないか。もちろん、北朝鮮が日本のどこかに核爆弾を落としたら報復は止むを得ない。愚かかも知れないが、罪のない家族や同胞が大量に殺されたら、相手国を火の海にしたくもなる。争いごとが嫌いな私でもそう思うのだ。そうなる前に愚かな指導者にはこの世を去ってもらいたい。そろそろ潮時だと思う。

United Nations

韓国人が国連事務総長になるんだと・・・。韓国は祝賀ムード。たぶん、多くの日本人は「なんで韓国なの?」とか「これで常任理事国入りはないなあ」などと、正直あまり面白くない気分でこのニュースを聴いたと思う。しかし韓国さんコレ、祝賀してる場合じゃ無いっスよ。すっかり米国や中国とロシアにハメられてしまったと考えた方が正しい。国際連合なんて邦訳のせいか、日本人には国連に何か世界連邦のような平和なイメージを持つ人が多いが、正確な訳は「連合国」。要するに先の大戦の「戦勝国」のことだ。そこに「敗戦国」や「新興国」が加わって現在は192ヶ国で構成されているらしいが、安保理常任理事国5大国の強大な権限の異常さは今も変わらない。その中での事務総長の役割とは何か。ズバリ大国の太鼓持ちだ。もっと詳しく云えば大国の利害を正当化するための別働隊の代表。歴代の事務総長の中で唯一そうでない動きをした人物としてダグ・ハマーショルドがいるが、任期中に飛行機事故死した彼の末期には謎が多い。ブトロス・ガリも過激な国連改革を進め太鼓持ちでないところを見せたが、アメリカの拒否権であっけなく再選が阻止されてしまった。事務総長とはもともとそういう立場なのだ。それを前提に今回の人事を考えると、背筋にぞ~っと寒いモノが走る。任期は1期5年。再任されれば2期10年。その間に北朝鮮は核実験をするだろう。北朝鮮が崩壊するかも知れない。難民が来るぞ~。緒方さんはもうイネエぞお。韓国の国益でする仕事ではない、何度も云うが現実は大国の利害を正当化するための別働隊の代表。朝鮮民族が自ら問題の詰め腹を切らされるようなものではないか。さらに任期中に中華人民共和国(共産党独裁)の崩壊あるいは中華連邦への移行があったりなんかしたらもっと悲惨。さらに難民が増える。オマケに中国内の朝鮮民族が北朝鮮部分での利害を主張するだろうし、事務総長なんてやってたら不利なことばかり。もう一度云うが、国連は常任理事国の利害を調整する組織。事務総長が出身国の国益で動いたりしたら常任理事国の袋叩きにあう。日本相手に偏狭な外交手法ばかりとっているからこういうことになるのさ。日本ような国と違って地球のあちこちに利権紛争を抱えている5大国は怖いッスよ~。

Working Poor People

新自由主義という名の妖怪がニッポンを徘徊している。努力した者が報われる社会という妖怪が・・・。1995年、日本経団連(旧・日経連)が「新時代の日本的経営」提言して以降、日本は確実に格差社会への道を歩んできた。破綻したバブル経済を立て直すために行われたのは日本人の賃金を下げること。一般庶民もバブルの恩恵には与った。発展途上国に技術移転をした結果、モノの値段は相対的に抑えられ、物質的により豊かな生活を享受することもできた。で、そのツケが廻って国際競争力が落ちたのだから、ある程度の痛みを受けるのはやむを得ない。バブル時代はイイ思いもしたし、浮かれて怠けていたのだから・・・仕方がない。これが、とりあえず定職に就き、普通に生活している日本人の標準的な認識だろう。純朴な日本人は自分の生活感覚で経済を語る。そしてそうした日本人に宗教のように信じられているキーワード。それが「努力した者が報われる社会」だ。しかし、この10年、日本の政治家や財界がやってきたこと。実のところそれは「努力しても報われない社会」の構築だった。国や企業には金がないのだ。多くの人が努力して報われてしまったら払う給料がない。皆が潤うような仕組みを作るわけもない。競争社会というのは一握りの成功者と大多数の敗者を作り出す。そしてそれがいよいよ現実となってきた。昨今日本では「働く貧困層」が急速に拡大しているらしい。その数、400万世帯。「働けど働けど我が暮らし楽にならず」と歌ったのはかの石川啄木だが、「働く貧困層(ワーキングプア)」とは、頑張って働いて得た収入が生活保護水準以下という状態をいう。それが全世帯数の10分の1を超えた。つまり10軒に1軒はワーキングプアってことだ。条件が満たされなければもちろん支給されないが、生活扶助やら住宅扶助やら生活保護法に基づく生活保護ってのは、状況によっては年間250万円ほどの支給がある場合もある。その根拠になっているのは日本国憲法第25条の「生存権」の崇高な理念だ。ところが現実社会には1年間頑張って働いても年収が手取りで250万を超えない人もいまどき珍しくない。月額で20万。地方の自営業者には月に10万も稼げない人もたくさん存在する。ニートではないのだ。皆、生活のために必死で働いている。しかし働いても250万の年収が得られないのだ。10世帯に1世帯。「生存権」って何なのだろう。御立派な大学に勤め御立派なデスクでパソコンを打ちながら経済を語る学者はそれを「能力の問題」として片付ける。もう一度職業教育を受けてやり直しをすればいい・・・と。努力した者は報われる・・・と。総理大臣も「格差が出るのは悪いことではない」などと平気で発言している。が、400万世帯は多すぎないか。繰り返し書くがニートではないのだ。そのうち無産政党が復活するぞ~。受験戦争の影響か運動部教育の成果か日本人には競争が好きな人が多い。そういう人に限って競争に勝てば今までにどおりに生活できると勘違いをしてしまっているのではないか。私が云うのも変だが、世の中そんなに甘くないぜ。(笑) もっと厳しく言えば「努力した者が報われるほど社会は甘くない」のだ。働く貧困層(ワーキングプア)の増加はそれをを如実に示している。真に「努力した者が報われる社会」とは、実は皆が馬鹿にする「横並び社会」のことだったりする。横並び社会ではそこそこ努力すればそこそこの成功が得られる。経済が破綻したときはワーキングシェアで我慢。戦争もやったし経済成長も謳歌した。世界2位の経済力が無くても人々が幸福に暮らせる方法はきっとある。私はそう思いたい。

DETCH-AGE

長年、世話になっている友人が BLOG で mixi について触れ、珍しくマトモなことを書いているなと感心した。「だったらトラックバックせんかい!ゴララァ」「ブログの意味ネエだろう!」と思われる方も多いだろうが、トラックバックはしない。コメントもしない。その友人はインターネットを通した友人ではないので、必要があれば直接話せば良く、どうしてもネットを使えというのならメールでも話せる。我々のやりとりをデメリット覚悟でわざわざ世界中に BLOG で公開する必要などないのだ。私もパソコン通信を始めた頃は「ネットワークは人間社会を変える」と思い込み、その限りない可能性をいったんは信じたものだが、ほどなくそれは幻想であることを思い知らされた。ニフティ・サーブには、「プログレ隔離室」というプログレッシブ・ロックを語る会議室があったのだが、そこには多くの有意義な発言があった一方で、誹謗中傷など読んでいて淋しくなるような発言もかなり多かった。ネットワークに理想郷などはなく、結局はドロドロとした人間社会があることをいきなり思い知らされた。その後、インターネットの時代となり、1997年には私も DECTH-UP SUQARE なる WebSite を公開した。キャッチフレーズは「高度情報化社会をでっちあげよう」。実はもうその時点でネットワークになんざたいした期待をしていなかった。私が持っていて整理できてる情報の中で、タダで人にあげても良い情報を選んで「でっちあげた」から、 DECTH-UP SQUARE 。・・・ところが、インターネットや個人ホームページがまだ珍しかったためか、真面目にコンタクトを求める方が現れ、いい加減なことをしている私の方が恐縮してしまうようなこともあった。実名で書き込みしてきた方が現れた時は本当に慌てた。そういう方には真摯に応対したつもりだが、もともと動機がテキトーなので、やがてそういう方も訪れなくなった。それで良いのだ。このブログも同じ、自分の考えを自分のためにまとめているだけ。トラックバックやコメントを禁止していないのは、良心的な書き込みならば、ボランティアの範囲で応対しても良いから。私がタダで出した情報をアカの他人が利用してもらう分には一向に構わないのだ。ギブ&テイクの原則はパソコン通信の時代から言われていたことだが、私自身インターネットの個人サイトから多くの情報を得て、それを利用したり楽しんでいる。それに対する感謝の気持ちを込めて、自分の出せる情報を「でっちあげて」いるに過ぎない。だから、昔から私にとって本当にオイシイ情報は公開していなかったりもする。(笑) ・・・そんなところに人間関係は生まれるだろうか? 云うまでもなく答えは「否」だ。そんなことで人間関係が築けたら人生に苦労はない。それはそれほど重要でない情報のギブ&テイクだから成立してるだけの関係。そこを勘違いしてはならない。mixi は会員制により、責任を伴うやりとりと可能とするネットワークと聞く。ま、匿名よりは安全度は高いとは思うが、匿名であろうが実名であろうが、画面の向こうにいるのは「生身の人間」。欲もあれば感情もある。それを忘れないことが肝要だ。ネットに書かれていることなんざ「でっちあげ」くらいに思っていた方がちょうど良い。

筋肉脳

テレビ番組制作スタッフによる市民への恫喝事件がネットで話題になっている。この事件、普通に捉え方としては「テレビ何様?」みたいな話なんだと思う。つまり、メディア関係者の特権意識みたいなものに対する批判ってことして話題になっているのだと思うが、原因は案外別なところにあるように私は思う。だいたいメディア関係者の特権意識なんてのは今に始まったことではない。時代を遡れば遡るほど、花形職業ゆえの特権意識も強かった。それが原因ならば過去にはもっと酷い事例が多数あってしかるべきなのだ。ところがそういう話はとんと聞かない。今回の事件の原因、私はつまるところ当該スタッフの社会性の無さとそれを生み出す組織の問題にあると思う。原因はズバリ、テレビ業界の末端に蝕んでいる体育会系的な画一的な組織運営だ。・・・体育関係者に喧嘩を売る気はない。「健全な体には健全な精神が宿る」真摯にスポーツに取り組んだ人々は、いわゆる文武両道、人間として立派な人が多い。体育が悪いわけではもちろんない。しかし、中途半端にスポーツをやった人の中には日本の学生体育が持つ負の体質ばかりを習得してしまった人々が山のように存在する。試合よりもコンパの方が盛り上がるような運動部、運動技能よりも先輩後輩間の盲目的な従属関係が重視されてしまうような体育部・・・から生み出される人材にはロクな奴がいない。日本では昔から人材採用にあたって「厳しい練習と集団生活を経験したスポーツ経験者」を優先する企業が少なくないが、テレビ業界もその例外ではない。スポーツエリートが引退後にテレビの解説者になったり、スポーツで良い成績を残した学生がアナウンサーとして採用されるケースも多いが、まあそうした先端の目立つ部分では優秀な人材も多く問題も少ない。ヤバイのは末端だ。つまり番組制作現場の末端のこと。番組制作の下請け業者。そこでの労働というのはそれこそ体育馬鹿でないと務まらない実態がある。安い給料、尋常でない労働時間、イジメ、恫喝、カツアゲ、軍隊のような集団生活。そこは「高校時代放送部でした」みたいな根性のない文化系ヲタクが馴染めるような職場ではない。昨今そういう人はだいたい就職後すぐに挫折し辞めてしまう。残るのはとりあえず根性のある人材。そこは会社も当然評価する。それは経営者にとってはニートさんあたりよりも百倍マシな人材なのだ。ただ、残った人材が形成するコミュニティがどういうものになるかは想像せぬとも判るだろう。当然、体育会的なナニだ。かつてテレビそのものが発展途上にあり、アイディアは面白ければ何でもあり、視聴者の眼も肥えていない時代には、多様な人材を受け入れる余裕もあるにはあったのだが、テレビの成長が止まり、番組制作手法が定型化してしまった現在では、特に末端の現場では新しいアイディアをもって斬新な番組を創造するかなんてことよりも、低予算と限られた制作時間の中で、如何にテレビ番組的な状況を発生再現させるかが勝負になる。そこに勝負を賭けている?スタッフは、如何にもって状況を作り出せれば決められたパターンに沿って最新のデジタル機材で如何にもっていう形に作ってハイ出来上がりって程度のものを「創造」と勘違いしてしまう。当人達は「創造」してると信じているが、業界的には擦り切れる程にやり尽くされたパターンのひとつでしかないのだ。そんな中で問われるのは悪条件の中で如何に定型的なプロジェクトをやり遂げるかっていう忍耐と根性。こうなるとやはり競技スポーツ経験者は有利だ。(笑) しかし、個性や多様性を語る余裕などない殺伐とした職場から生み出される番組なんてのは、形だけは見事に完成していても、中身のない薄っぺらなものばかり。マトモな大人が真剣に見るようなモノは少ない。それどころか、うわべだけチャリティーや人類愛を謳ったプログラムを作っても、作っている側の殺伐とした状況が、取り繕う手段が難しい生放送ではモロに出てしまう始末。このスタッフ、声がよく出ていたのだ。なるほど競技者としての基本はしっかりしている。(笑)

裸の王様、城を去る

鳴り止まぬ目覚まし時計が止まった。元銀行頭取は元々彼を担ぎ出した立役者だ。すべてを知る氏は98年までの清算を行わなければ破滅することも知っており、民主主義の目覚まし時計をセットした。ところが目覚まし時計は壊れていたのだ。遠くで聞いている分には心地よい響きも耳元で鳴り続ければヤカマシイ。何より目覚まし時計は起床し活動するために使うものであって聞き続けるものではない。スイッチが壊れて修理不能な目覚まし時計は当然お取り替え。彼の功績を称えるならばそれは田舎の既得権益に群がる利益共同体を完膚なきまでに破壊したこと。これは時代の要請であり、彼が改革の先駆者とされた理由でもあったが、彼が居なくとも遠からずその変化は訪れていたと思う。バブル崩壊以降に顕在化した制度疲労は国はもちろんどこの県にもあり、五輪とそれに伴う過大な公共投資が財政を圧迫していた長野県ではそれがいち早く2000年に革命的な変化として表れただけのことなのだ。2002年には国でも小泉内閣が発足し、賎民資本主義者による流血改革が始まったし、今年2006年、最後まで土建屋知事が居座った岐阜県あたりでも目覚まし時計が鳴り始めている。ところが先駆のはずの長野県ではこの6年間目覚まし時計がやかましく鳴り続けているだけで、ロクなリコンストラクトが行われていない。目玉の大きい元国会議員よろしく「小さなこともこつこつと」やっていると云えば聞こえも良いが、実態はNPOがやるようなことを県が直接行い話題を集めているような事業ばかり。全国で唯一、借金を減らした県などと大宣伝も打ってきたが、内実は嘘八百。特別会計分までもを算術式に加えて弾き出したイカサマデータを堂々と出してしまった。借金も減らしたが貯金も大幅に減らしてしまい、差し引きでは逆に借金が増えている有様。メディア操作の腕前だけは超一流なのだ。そんなこともあって遠くで見守る人々は「改革の方向性やよし」と未だに褒め続けているが、身近にいる人間はたまらない。特にヒステリックな目覚まし音を近くで聞かされ続けた県職員が健康を害する者が続出する始末。何故なのか。その内実を最も知っているからだ。何も知らない人々は怠け者の県職員と既得権益に固執する県議会という抵抗勢力が改革を阻止しているからとステレオタイプに信じ込んでいるらしく、彼が負けた今回の選挙結果によって改革が後退するだの利権政治が復活するだのと叫んでいるが、旧体制を担った連中や県民もそこまで馬鹿ではない。そんなものは6年前の政治状況なのだ。いまどき無駄な公共事業で食えると思っている土建業者などいない。業態転換までして必死に生き残ろうとしている業者も少なくない。時代は変わり、誰もが変わった時代の中で如何に生きていくかと考えている。革命家は用が済めば惨殺されるか失脚するのが歴史の常。破壊と創造を同時に成功させた政治家は少ない。自分が変えた状況に自分自身がついて行けなくなってしまうからだ。有能なブレーンとけんか別れを繰り返し、裸の王様になってしまうような人にこれ以上の期待するのには無理がある。成功事例とされる3セクしなの鉄道の黒字化でさえ、結局はHIS社長とけんか別れをしてしまった。3セクエムウェーブを黒字化した反改革派?市長の方が波風立てずに粛々と仕事をしているではないか。(笑) 現松本市長もサリンの報道被害者氏もみんな怒って去っていってしまった。そのあたりがすべて。外面は改革派のヒーロー、内実は知事の地位という最も古典的な「既得権益」に拘った改革貴族。私にはずっとそのようにしか見えなかった。今度は棺桶に半分足を突っ込んだような方が知事になった。失礼な書き方をしてしまったが、既に地位も名誉も獲得した御老人。ここで長野県を財政再建団体にする道筋を付けてしまったら、今までの地位や名誉も水の泡。昔から実直誠実で知られる方なので、歴史を戻し晩節を汚すようなことはしないだろうと信じたい。