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記事一覧

ただちに健康に影響はない話

fukushima東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故が深刻だ。地震と同時に自動停止したまでは良かったが、想定以上の規模の津波を受け、炉心や使用済核燃料を冷却するシステムが破壊されてしまった。使用後の核燃料は核反応は止まっているものの熱をおび放射性物質を発散させている。それを流水になんと3年間漬けて温度が100度C以下になったところでガラス固化し保管している。期間は数万年。原子力発電所が「トイレのないマンション」といわれる所以だ。東京消防庁や自衛隊が放水し、さらなる水素爆発を防いでいるが、放水したからといって温度が100度C以下になるわけではない。放射性物資の拡散を抑えている間に恒久的な冷却システムを構築する必要がある。地震から10日ほどを経ち既に放射性物質は各地に広がっている。メディアはレントゲン検査の数値を出しては問題のないレベルと報じているが、それは外部被曝の対応としてはたぶん正しい。避難指示の範囲も適切だ。官房長官の「ただちに健康に影響はない」という言葉も嘘ではない。嘘ではないが実は決して真実ではない。なぜ「ただちに」を付けるのか。北関東産のホウレンソウから規制値の10倍を超える放射線量を検出したという情報もあるが、これについても厚生労働省は「ただちに健康に影響を与えるというものではない」と云っている。律儀に「ただちに」を付けてるところが何とも怖い。なぜなのか。そのココロは内部被曝だ。内部被曝とは体内に放射性物質が入ること。放射線も電波と同じ広義でいうところの電磁波。電磁波は距離の二乗に比例して強くなるというのを物理の時間に学習しただろう。放射能も同じ。マイクロシーベルトと云っているうちは大丈夫と思っている人も多いと思うが、そういう微弱な放射線を出す放射性物質が体内、たとえば肺に入り、ずっと粘膜に張り付いたとしたらどうなる。距離は限りなくゼロに近い。放射線は距離の二乗に比例して強くなる。近いということは微量でも強いと考えてよい。だたし、放射性物質は拡散すると薄まる。福島原発から離れてばそれだけ安全であるのだが、その濃度は一定ではない。風向きにより濃度が薄い場所、高い場所が発生する。濃度が高い場所で放射性物質を吸い込んでしまった場合が不幸だ。ヨウ素の半減期は8日間ほど、セシウムは30年。今回は検出されていないがプルトニウムの半減期は2万年、ウランは24億年だ。放射線の強さはレントゲン検査程度というが、5年も10年もレントゲン検査の機械に抱きついている人はいない。レントゲン検査程度の放射線を微弱とはいえ5年も10年も特定の粘膜に照射し続けたとしたら、細胞はどうなる。生物の細胞も物質だ。原子核があってその周りを電子が回っている。そこに隣接して別の物質、ヨウ素やセシウムからに強力な放射線が入り込めば、人間の細胞を形成する物質の原子構造が崩壊する可能性が高い。タールのような化学物質が貼りつくことでも同様のことが起きると言われているが、こうしたしくみが癌の発生原因ではないかと推測されているのだ。もちろん、放射性物質を浴びたら必ずそうなるわけでもない。いつどこで何がどこに張り付いていつ癌化したかなんて追跡調査も病理学的に困難だ。ただし、かつて大気圏内核実験が行なわれていた場所周辺の5~10年後の癌の発生率が他の地域に比べて圧倒的に多いという歴史的なデータは残っている。そのデータを信じるかは人それぞれ。断定的なことは言えない。さらに深刻なのは放射性物資は、他の有害化学物質と同じように食物連鎖による濃縮も行なわれること。ホウレンソウを直接食べた程度では特に問題はないと思われるが、野生に生きる動物の肉から放射線を検出されたとしたら深刻度はやや高い。人間は食物連鎖の頂点に君臨していることを忘れてはならない。我が家から福島第一原子力発電所までは300Km弱。「ただちに健康に影響はない」程度の放射線は検出されている。生活があるからこの場を離れるのは難しい。杉花粉の季節、鼻の粘膜や目に花粉が付着し花粉症の私は痒くて仕方がない日々が続いている。同様に放射性物質が付着していなければよいのだが。

東日本大震災

shinsai未曾有の大災害が日本を襲った。震災から数日はあまりの規模の大きさにただただ唖然とするのみで、自分が何を考え何をすべきかも定まらぬまま生活していたように思う。被災していない私がこのような状態なのだから、おそらく被災した人々は生きる上で迫られる様々ことを黙々とこなしているだけの毎日だろう。被災した人々に心からお見舞いを申し上げ、亡くなられた方々のご冥福をお祈りしたい。○○市街地壊滅、□□町壊滅という表現が日本国内の報道で使われるなんでことは考えたこともなかった。壊滅とは必ずしも全滅ではない。それは幸いなことだが、生き残った人々に深い悲しみを与えてしまうという意味では限りなく不幸だ。こうした人々の力になる手立てを考えなければいけない。早速、募金はした。ただし、日本の場合、カネはあるように思う。さらにモノもある。略奪が無いと世界から褒められているが、買占めは盛んに行なわれている。金があるから略奪にならず買占めになってるだけで、褒められるような状態ではない。結局、求められているのは有り余るモノやカネの分配システムなのではないか。物資の輸送手段は当初から問題になった。高速道路を緊急車両専用にしたのは良かったが、通常の物流が滞ってしまい、被災地の周辺市町村が干上がってしまった。燃料の輸送が滞ったのは特に深刻で、日本国内にガソリンそのものは十分にあるというのに、各地でガソリン不足を招いている。そんな中、日本海側の鉄道を使用してガソリンを輸送したのは良かった。有事のために今後も○○本線と名の付くJR路線は最低限残せるように工夫すべきだろう。被災地に対しては自衛隊がフル稼働して物資輸送を行なっているようだが、周辺地域への物流が、一週間を経ても混乱しているというのはちょっと情けないように思う。政府と財界の仲が悪いとこういうことになるのか。災害に伴う自粛ムードが始まっているが、節電は止むを得ないものの、経済活動の停滞は被災地のためにもならない。被災した人々の先の生活を支えるのも経済。歌舞音曲も必要。普通に生活することが大切だと思う。これだけの大災害にも拘わらず、総体として日本人は冷静だ。これは海外から見たら驚異に違いない。自信を持って行動すべきだろう。

仏の顔は一度だけ

saidan喪主を体験した。通夜があって告別式があり、その日に初七日法要も行い、四十九日の法要をして納骨をする。ごく一般的に行なわれている葬儀だ。たいした家柄でないので費用は抑えた。それでも150万円は超える。平均葬儀費用は236万円だそうだ。なるほど抑えずにやればそのラインに簡単に届く。普通に働いて家族を養えている人ならば出せない額ではないし、他に方法が見つからなかったので、とりあえず一般的な葬儀を出してみた。しかし、実際にやってみると正直違和感を感じる。何か釈然としない。葬儀は無事終了した。が、やって良かったという気持ちが希薄だ。嵩む費用の方が気になる。良かったという気持ちになれれば、200万程度は使っても構わないと思う。しかし、そうでなければ出費は10万でも惜しいものだ。どうしてこんな気分になるのか。まずもって仏教徒でもないのに多額のお布施を包んでいる自分に矛盾を感じた。作法も一から覚えなければならないし、葬儀の手順を必死で追っているうちに一通りの儀式が終り、故人を偲ぶなんぞという気分にはまったくなれなかった。私自身、唯物的で純朴じゃないしなあ。じゃ、何で仏教で葬式をやるんだよ!とお叱りを受けそうだが、他に方法が見つからなかったのだ。人間関係の希薄さも感じた。我が家の場合、親族には恵まれ、型どおりの式を行なうには十分ではあった。しかし、この十数年の親戚関係を振り返ればそれは冠婚葬祭互助会みたいなもので、ふだんから交わることはあまりない。冠婚葬祭のみを支えあっている。これも不健康。お互い様とはいえ、とても恐縮で申し訳ない気持ちになってしまった。ところで、その嵩んだ費用は一体どこに行くのか。主に葬儀社と寺院。さらに墓を立てれば石材店、仏壇を用意すれば仏具店。容赦なく一万円札が吸い取られていく。サッカー解説の松木安太郎氏ではないが、「なんなんすか、これ?」と言いたくなる。葬儀社が悪いわけではない。祭壇の使用料にやや疑問は残るが、他のサービスについては利用相応の対価だ。寺院についても同じ。お経を読んだり戒名を考えたりするだけで数十万と考えれば高価だが、その位でないと住職が普通に生活し寺を維持するのは難しい。お布施は無税だから月に一回葬式があれば、普通の会社員程度の収入になるわけだが、100軒檀家がいたとして、毎月葬式があるだろうか。否だ。どうも5~600軒ほどの檀家を擁しないとマトモな寺院経営はできないらしい。このしくみ、いつまで維持できるのだろうか。おそらくあと10年ほどかなと思う。団塊世代の人口が多いのでそれまでは見かけ上続く。しかし、それ以降は一気に簡素化してしまうのではないか。既に都会では直葬、家族葬が激増してる。費用への不満はともかく、集まる親戚がいないのだから無理もない。私のようにそこそこ型どおりの葬儀を出せた者でも、その結果あまりの違和感に「自分の時は葬式不要戒名無用」との意を固めてる人が少なくない。集金システムばかりが一人歩きしているような現在の状態はいずれ淘汰されるではないか。納得のいく別のシステムが流行ればあっという間に転換することも考えられる。最悪、寺院は廃墟となり、文化風習としての仏教を如何に残すかが課題になるのだろう。どこぞやのアンケートによると、仏教への信頼度は実に80%、寺への信頼度は40%、僧侶への信頼度は20%程度なのだそうだ。死者を弔う気持ちや先祖を敬う気持ちが残っていれば仏教そのものがなくなることはない。人々の意識に合致した別のシステムが望まれる。

面倒臭い奴

世の中いろんな性格の人がいるが、付き合っていて一番困るのは「粘着質な堅物」。堅物でもさわやかな人は周囲からその堅物さをからかわれるなどして人気者だ。真面目なスポーツマンによくいるタイプで、実直で不器用なゆえ堅物に見えるだけで、そういう人は根は良い人間であることが多い。ところが、さわやかでない堅物。これは問題だ。堅物ゆえ物事には真面目に取り組む。結果、人並み以上の評価をもらってたりするから、そこがまた厄介。その評価をもって自己正当化をしてしまうものだから、ますます堅物になる。そうやって進化させてしまうとさあ大変。さわやかでない堅物氏は周囲にたくさんいるいい加減な奴や事象が許せなくなり、公の席で学級委員長よろしく「お説もっともだけどそれを云っちゃ野暮」な指摘を平気でし始めるようになる。聞いてる人々も建前の上では否定できないから仕方なく納得したふりをしているが、腹の中では「やれやれ」と呆れていたりする。私のような根がいい加減な奴はやれやれを通り越して辟易するのだが、喧嘩をしても間違いなく(いい加減なのは私だから当然)負けるので我慢するしかない。よほど親の躾が立派だったのだろう。ご立派な人生だ。こうした人は、兵隊さん時代は上官にとって便利なケースもあるので重宝される。しかし、自分が上官になったとたん壁にぶち当たる。野暮な奴がいても見て見ぬふりができるが、野暮を強要されたらかなわない。普通の人間なら反発する。世の中、粘着質な堅物氏のように生真面目な人ばかりではない。建前はともかく、現実には多少いい加減な奴がいてもそれを許容できるくらいな人物でないと、組織を動かすのは難しい。粘着質な堅物氏は嫌われて悩み鬱になるか、ぶちキレて自ら組織を離れることになるか、いずれかの道を歩むことになる。

やおおさの神々

800cyo大相撲が崖っぷち。八百長の決定的な証拠の出現は、近年続いた大相撲の深刻な不祥事よりさらに深刻だ。公益法人として致命的な失態といえよう。相撲協会が民間の一興行会社になるのは勝手だが、その場合、相撲自体は存続されても、現在のような巨大な組織を維持するのはきっと難しい。この事態は相撲文化自体の終焉を意味する。のだろうか? まあ、マトモに考えればそうなのかも知れない。しかし、大相撲自体が元々そんな公正なスポーツだったのだろうかと考えると何かとても複雑だ。詳しい歴史は知らないが、太古の昔、相撲は青年男子の力比べだったのだろう。その迫力、真剣さに驚嘆した人々はやがて相撲を神事として様式化していく。我家の近所にある神社にも土俵の跡が残っている。聞けば戦前までは定期的に村の相撲大会が行なわれたらしい。江戸時代、その全国津々浦々の神社で行なわれていた神事として行なわれていた相撲の強者を集めてプロとして興業化されたのが大相撲。テレビの情報番組で紹介されている通り、八百長という言葉そのものが江戸時代からある相撲用語なのだ。興行化するってのを判り易く言えば見世物にすること。見世物である以上、真剣勝負を装いつつ、営業上の様々な調整も必要になってくる。それは他の職業格闘技であるプロボクシングやプロレスリングなどを見れば明白だ。むろんそれがイコール八百長とは限らない。ボクシングの場合は興行上の成功を狙ってマッチメイクの相手や時期や順序が極限まで検討されている。プロレスリングの場合はもっと示唆的だ。力道山の時代、多くの国民はプロレスを真剣勝負と信じて手に汗を握っていた。現在はどうだろうか。私の見る限り、現在のプロレスはレスラーを偶像化したりその様式を楽しむファンのための興行と化してるように思える。大相撲も同じ。相撲の場合、様式が神道に準じているため、多くの国民がその神々しいヴェールの中はあまり探らずにその神技を楽しんできたに過ぎない。何ら科学的根拠がないのに新年になれば神社にお参りするのと同じ。あるいは信者でも檀家でもないのに、家族が亡くなると坊さんを呼んで葬式をやるのと同じ。信じれば救われると信じる。信じなければそれまで。野球賭博や八百長メールに関与した力士が拙い事をしたとすれば、その信仰心に水を注したこと。和尚が葬式に平服で現れたようなもので、それでいくらお経を詠んでもらっても有難味が無い。それでは厳粛な葬儀が台無しとなる。私が勤務する会社の近くにあるホテルの結婚式場の斎主はホテルの従業員。昼飯を食いにグリルに行けばふだんはウェイターをしている。それを知るとかなりシラケルが、きちんと神道上の資格を持ってやってることなのだろうから、そこはその気になって接しなければ意味がない。私は相撲を儀式と考える。その中に八百長なりな馴れ合いなりお約束があってもまったく構わないとは思うが、そこをカモフラージュするために様式であり儀式なのだ。見破られないようにやるのがプロの仕事。信じるのがファンの努め。だから朝青龍のように相撲を単なる格闘技スポーツと捉えているアスリートは相撲界から去って正しい。真実を暴き出すことは正義には違いないが、それで世の中が楽しくなるかは別問題。新聞、ラジオ、テレビ、インターネットと情報伝達の手段が豊富になるにつれ、誰もがあらゆる裏情報を手にするような時代になったために、既存の権威や組織がどんどん陳腐化している。今回の八百長騒動も携帯電話の削除メールに復活の呪文をかけたことで勃発した。大相撲は高度情報化社会に負けたのだ。この先どうする? 私見としては文部省所轄の公益法人はもうやめて、神社本庁に連なる宗教法人格となるのが正しい生き残り方なのではないかと考える。宗教ならば信じるか信じないかはそれぞれの自由。税制でも優遇がある。けだし名案だと思われるが如何だろう。

軽井沢シンドローム

karu巨大なアウトレットモールが人を呼ぶ軽井沢。貧乏人がレンタサイクルに乗って行き交う喧騒を離れ、ちょっと森に入るとセレブな人々を見かける。どのような方々なのだろうか? 下世話な興味は尽きない。いや、下世話ではないな。案外そこを分析すればメディアが伝えない日本国が見えてくる。そんな感じがする。メディアといえば、この夏、鳩山別荘からのニュースが大々的に報道された。一度目は金賢姫の滞在場所として、二度目は民主党議員の懇親会の場所としてだった。鳩山別荘は軽井沢駅と旧軽井沢商店街の中間、雲場池の近くにある。敷地は広大、接する道路は鳩山通りと呼ばれている。由紀夫氏が総理になった際、鳩山家は華麗なる一族だとテレビでさかんに紹介された。祖父が鳩山一郎元総理、父は鳩山威一郎元外務大臣、弟の邦夫氏も元大臣だ。みな東大卒の秀才。たしかに華麗だが、鳩山家そのものは岡山の田舎藩士の出に過ぎない。では何故そんなに金を持っているのか? 周知ことだが、それは石橋家の閨閥だからだ。石橋正二郎が一代で築いた財閥、ブリジストンタイヤの石橋家。現役バリバリの企業のオーナー一族だ、生きたお金を持っている。その石橋家も明治の初め、正二郎氏以前は着物の仕立て屋に過ぎなかったのだが、このスタイルこそが現代日本の特権階級を支えてきた処世そのものだ。一代で財を成す実業家とエリート官僚や学者、叩き上げの政治家との婚姻によって形成される一族。そこに歴史的な名誉を武器に巧妙に加わってくる旧華族。そんなものの複合体が日本の金持ちの実像だ。名誉だけでは食えない。金を持ってるだけならいずれ相続税に潰される。能力が無ければ商売は続かない。政治に口出ししなければ利権を誘導できない。それら必要な要素すべてを最も手っ取り早く手に入れる方法がある。セックスだ。あはは、これはさすがに下品だったかな。要するに血の繋がり。上手に閨閥を形成することで自分の死後も子孫に富を残すことが可能となる。さて、セックスの話はこれ位にして、さらにもうひとつ重要なポイントがある。それは米国と仲良くすることだ。いきなり何で?と思われるかも知れないが、これをしないととりあえず金持ちになれてもきっと支配層には加われない。戦後、財閥は解体され、華族制度も廃止された。農地改革も含めそれらは革命的な変化だったはず。しかし、実際には旧財閥は緩やかな企業グループを形成し、今でも日本の富を支えている。どういうことか。その理由は現在でも天皇が在位していることに象徴的に現れている。戦後、日本の統治を容易にするために米国が天皇制を残したことはよく知られた話だが、その後、世界が急速に冷戦構造に突入する世界情勢の中、米国は日本の旧支配層を利用し米国に忠誠を尽くす実力者達を優遇した。この時、米国に尻尾をふった人々が現代日本の特権階級だ。無論、戦後になって勃興した成金も多い。しかし、既存の特権階級と閨閥を築けなかった人や、反米的な行いをした家はだいたい一代限りで没落している。考えてみれば当然のことだ。日本は敗戦国。さらに米国に占領された国なのだ。サンフランシスコ講和条約を機に名実共に独立国として復活したことになってはいるが、その独立に占領国の意に沿わない独立などあるわけがないではないか。その証拠に現在でも日本の領空を米国の戦闘機が自由に飛び回っている。実は何も変わっていないのだ。他国の戦闘機が自由に飛びまわってる国を真の独立国といえるのかどうかは微妙だが、その状態で経済だけは独立してると思い込むのもまた微妙だ。戦後の日本は驚異的な経済発展を遂げた。G5時代から先進国に仲間入りし、今もG7、G8のメンバーとなっている。80年代に経済で米国を抜いたなんてこともほんの一瞬、あったにはあった。しかし、その時、調子に乗って米国人の威信を傷つけてしまった旧財閥は、系列の自動車メーカーがSUVを得意としたことも相俟って、その後こっぴどく米国に虐められたことを忘れてはならない。ある時期、世界で一人勝ちし、米国の豊かさの象徴だった自動車のビック3を追い詰めてしまった日本の別の旧財閥系自動車メーカーも現在どういう仕打ちを受けているかも皆が知るところだろう。社長が泣いてる姿まで全米に放送されてしまった。東条英機や山下奉文が草葉の陰で泣いてるぞ。ドルショックに始まり、牛肉オレンジ、円高不況、プラザ合意、湾岸戦争負担金、郵政民営化・・・。高度経済成長後の日本経済は、内容の違いこそあれそんなことの繰り返しだった。政治家も同じ、調子に乗って日本の増益を追及し米国の逆鱗に触れると必ず失脚する。そんな元気のある政治家も最近はいなくなった。当代こそ市民運動叩き上げの男が首相をやってるが、平成になってからの首相はいわゆる二世議員ばかり。彼らが何のために政治をやってるかといえば、親から引き継いだ一族の権益を守るため。土建屋に連なる閨閥、クルマ屋に連なる閨閥、タイヤ屋、電気屋、セメント屋、そういった閨閥が欲の突っ張りあいで集合離散しては政局を演じつつ持ち回りで総理をやってるに過ぎない。なんともカッコ悪いが、それが去勢された国の現実。情けないといえばその通りだが、一方で1億円以上の資産を持つ家が100万世帯以上あるのも日本だ。これは世界的にみれば凄いこと。カッコは悪いがうまいことやっているとも云えなくは無い。いつも世界の主役で、月に人間まで送り込み国歌もカッコイイ米国だが、第ニ次大戦が終了して以降、世界のあちこちで起きた紛争での米国の戦死者数は実に10万人を超える。豊かさの代償も大きい。子供の頃、軽井沢に云った際、何よりも珍しく感じたのは外人がいる光景だった。ジョン・レノンが避暑にきているのを噂で聞いてワクワクしたこともあった。そういや軽井沢にジョンを連れてきたのは旧安田財閥直系の娘さんだよな。そのジョンも軽井沢に通った数年後にはニューヨークで凶弾に倒れてしまう。何が幸せで何が不幸なのか。夏の軽井沢を歩きながら考えるのもまた乙だろう。

粛々と語る尖閣事件

senkakujp尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件、中国の過剰反応が凄まじい。穏健派と知られる温家宝首相を筆頭に、言葉が悪いがキチガイじみた恫喝外交を展開している。領土は国家主権そのもの。日本政府のヘタレな対応も情けないが、死者や怪我人の出ていない領海侵犯漁船拿捕案件でここまでの狂乱状態に至る国家がこれからの世界の覇権を狙っているとしたら地球の将来は間違いなく暗い。事件の推移についてはメディアで報じられているので書かないが、日米会談で「尖閣は安保の適用対象」「尖閣連携で一致」したとたんに船長が釈放されたあたりが今回のポイントだろう。米国は表向きは第三者を装っているが実は当事者だ。私の住む地域には米軍基地はないが、山間に入ると時おり米軍の戦闘機を見かける。アフガニスタン北部などの山岳地形を念頭に入れての訓練だろう、星のマークが目視確認できるほどの低空を轟音を轟かせて飛んでいる。軍事的に日本は独立国ではない。軍事的には日本の領空は米国の領空。日本の領海は米国の領海なのだ。尖閣周辺の海域は資源が眠っているだけでなく軍事的にも重要な場所。沖縄の米軍基地とも目と鼻の先だ。尖閣が中国領土となれば防衛線は南洋まで後退しかねない。尖閣から中国大陸はたった2~300km。これまで米国は世界中のいたるところで対抗する国の国境線ギリギリにまで自国の軍事的プレゼンスを行使してきた。それを後退させ中国の艦船や軍用機が太平洋を我が物顔で行き交うようになるということは、米国の時代の終わりの始まりを意味する。今回、尖閣起きていることを傍観するほど米国は御人好しではないし、それを軍事的に独立していない日本の政治や自衛隊に任せるほど馬鹿ではない。一方、中国は油田が欲しい。太平洋に出たい。さらに米国のように「覇権国でありたい」という願いが強い。ここが重要だ。日本のように油田は欲しいが、太平洋は既に領海だし覇権国になる気などさらさらない国とはモチベーションの強さが違う。なんでそんなことになってしまったのだろう。米英露の力で第ニ次大戦の戦勝国となったというのに、自らの力で抗日戦争に勝利したと勘違いしてしまったのがそもそもの原因かな。教育というのは恐ろしい。報道を見る限り、資源や人口の豊富さを背景にアメリカをも凌駕する大国になりたいという意欲が中国国内には満ち満ちているし、そうあらねばならないとうのがタテマエになっているようにも見える。だから対抗国、特に戦争で勝利した日本に対して弱腰なことをする指導者は強硬派に騒がれて失脚の憂き目を見る。その様子がとても判り易く展開しているのが今回の中国政府の強硬ぶりではないか。国家は主権を守るため毅然と対応する必要はある。しかし、中国政府のそれは毅然を通り越してほぼ半狂乱に等しい。その姿は英国のお陰で勝利した日清日露戦争を自分の力で勝ったと勘違いし泥沼に嵌まっていった大日本帝国を彷彿とさせる。地域や階層による所得格差は絶望的なくらい酷い。世界の下請け工場としてブクブクと経済力が付き日本のGDPを追い越してはいるが、技術的なイノベーションはほとんど見られない。法整備が遅れているのも致命的だ。未だに政治体制が事実上共産党の独裁であることも恐ろしい。御人好しの日本を相手に恫喝して領土をふんだくるのは簡単だ。しかし、世界の覇権は恫喝や国の規模だけでは握れない。その規模や強硬姿勢が致命傷になってしまうことの方が世界史の必然だ。今回の様子を見て私は中国がいずれ衰退すると見た。最悪、崩壊瓦解するだろう。普通の国であればカタワでも存続できるが、超大国の重圧と責任に耐えうる国家になれるとはとても思えない。

霧の子孫たち

kiri絶版となっていた新田次郎さんの「霧の子孫たち」の文庫本が再版されている。何故、このタイミングで再版されたのか。かつてはその作品が次々に映画化され、没後も「武田信玄」が大河ドラマになるなど人気のある作家だ。近年はやや地味な存在になりつつあるが、皇太子殿下をはじめ、今でも登山を愛好する人々には根強い人気がある。登山の愛好家でもなく、文学青年でもなかった私が「霧の子孫たち」と出合ったのは、20年程前。なんと小説の舞台「霧が峰」でだ。鷲ヶ峰フュッテの書棚にそれはあった。夜の9時か10時には消灯となる宿だが、ロビーには明かりがあった。この小説は事実に基づいて書かれたある種のノンフィクションだ。部屋に戻らず一気に読んでしまった記憶がある。それ以来、特に縁は無かったのだが、再版されたのを知り、改めて読んでみた。読んでみるとしばらく再版されなかった理由がわかる。内容に問題があるわけではないが、実在の人をモデルにした人物がたくさん登場する。実在の人には当然その後の人生もある。「霧の子孫たち」に描かれた時代、私はまだ小学生だった。それでもビーナスラインのルート問題はテレビや新聞でさかんに報道されていたので記憶にある。環境庁という役所が出来、その初代の長官、大石環境庁長官が美ヶ原の現地視察に来たときは大騒ぎだった。小説に出てくる東沢知事は権さんと呼ばれた西沢権一郎知事、大沢企業局長とは相沢武雄局長だろう。そのふたりが戦った知事選もあった。長野県企業局で開発した道路と云えば戸隠バードラインやビーナスライン、菅平有料道路など、聖高原の別荘地開発やら戸倉上山田温泉にある白鳥園もそうか。1960年代、相沢氏はそれらすべてを仕切ったやり手のお役人だった。そういう人が自民党系ではなく社会党系から知事選に出たってところが、大阪で万博が行なわれていた時代というか、「開発」という言葉が光り輝いていた時代を彷彿とさせる。こうした県レヴェルでの開発に対してその県レヴェルで自然保護運動が行なわれたのがビーナスラインのルート問題だ。それが日本の自然保護運動の先駆けとなった。小説に登場する宮森栄之助は考古学者の藤森栄一さん。青山銀河は産婦人科医の青木正博さん。牛島春雄は諏訪清陵高校の理科教諭、牛山正雄さん。いずれも新田次郎さんとは旧制諏訪中学(諏訪清陵高校)の同窓で、この3氏については新田次郎さんは小説のあとがきでモデルをはっきりと明かしている。彼らの活動は6万人の署名を集めるところとなり、地元選出の大川平次郎代議士(小川平二さんだろうな)を通して国会請願に至り、遂に県企業局は旧御射山遺跡と七島八島湿原を迂回するルートでビーナスラインを建設することになる。遺跡と湿原の直接的な破壊は免れたが、その後もビーナスラインは建設された。この小説の登場人物たちは70年代の後半から80年代前半にかけて次々に鬼籍に入られてゆくが、それと時を同じくしてビーナスラインは美ヶ原の天辺まで延びて行き、屋外彫刻美術館まで作られる。あれから30年。ビーナスラインは無料となりトラックが行き交う道となった。彫刻美術館はなんと「道の駅」を兼ねている。ビーナスライン沿線の草原は野焼きが行なわれなくなったため森林化が進んでいる。人間が作りしだした自然を保護している場所も実はあるのだ。鳥獣を保護したためニホンシカが増え、ニッコウキスゲが食べられてしまったり湿原が壊される事態も発生しているらしい。再版を機に霧が峰の自然にもう一度考えてみるのも良いだろう。とまあ自然保護のマナーも怪しい私が他人事のようによくあるまとめをすればこの稿も終わるのだが、正直私はもっと別のことを思った。小説の中で牛島春雄は吐露する「おれは霧が峰の将来についてはほどんどあきらめている。だが、霧が峰にたった一本の植物が残っていても、おれはその植物を見捨てることはできない。植物が死に絶えて石だけになっても、おれはその石を守ろうとするだろう。」この言葉から見えるもの。それは自然保護への執念だろうか。きっと違う。実は彼らが守りたかったのは自然というより、心の原風景だったのではないか。新田次郎さんにとってもあの辺りはペンネーム(諏訪市角間新田)するほど大切な故郷。むろん自然も故郷の一部だが、守ったものは自然だけではない。考古学者である藤森栄一さんは旧御射山遺跡を守った。旧御射山遺跡は諏訪の人々の心の拠りどころ諏訪大社にまつわる大切な遺跡だ。そうしたものを守りたいという気持ちには共感できる。地元の駅や建物が建て替えられるだけで残念な気持ちになる人ならば理解してもらえるだろう。

金メダルへのターン

gold日本はバンクーバー五輪でマスコミが事前に煽ったほどメダルが獲れかった。荒川静香さんの金メダルひとつで馬鹿騒ぎしていたトリノに比べたら、ずっとマシだし、歴代の冬季五輪の中でもかなり良い成績だったはずだ。なのにあまり喜べない。その理由はおそらくお隣の韓国の躍進ぶりが凄いかったからだろう。それを象徴するのがスピードスケートや女子フィギュアの結果だ。大手メディアは選手強化費や施設利用料の違いを挙げて検証しているが、そんなにメダルが欲しければ、スポーツ省を作って国民一人あたり100円(で100億)なり200円(200億)なりの費用負担で、頑張る選手を支援すればいいだけのことだ。かつての東ドイツのようにやれば日本人の体格でも倍増以上のメダルは望めるだろう。そうするかしないかは国民次第。個人的には世界レヴェルで頑張るアスリート達がそれを望むのなら、そうするべきだろうと思う。田舎の零細企業の社長が五輪選手の生活を支えている。そんなことができるのも日本がG7に名を連ねるような先進国だからなのだが、それはあくまでも逆説。まともに考えれば経済一流政治三流の結果でしかない。欧米には敵わないが、日本の国民スポーツの裾野は恥ずかしくない程度に広い。東京マラソンにあれだけの人々が集う十分に成熟した社会なのだよ。あるべき姿でスポーツを楽しむ国民がこれだけたくさんいるのは、戦後の学校体育や国民体育大会といった教育政策の立派な成果だというのに、何故か頂点の選手が冷遇される。不思議だ。この謎を解くキーワードは「日の丸」と「エコノミックアニマル」だろう。古い言葉を出してしまったが、前者は「国威発揚のためのスポーツを否定したい」という気持ち、後者は「プロならば金を得ても構わないが、アマチュアスポーツはしょせん道楽だ」という実益主義。そんな警戒感が日本人の深層心理に未だ働いてはいるのではないか。そういう昭和な発想はそろそろ捨てた方がいい。仮に日本が強化費に100億や200億使ったって世界はまったく驚かない。今や借金大国だがその位の経済力はある。国威発揚でもなければ道楽でもない、日本は成熟した社会の代表として五輪選手を送り出すべきで、それに必要な予算を宛てるのは当然なのだ。裾野が広いから金はかかる。しかし、それに耐えるのが先進国だ。耐えられなければG7離脱。競技を絞って国威発揚のためにメダルを獲りに行くやり方は、発展途上国のやること。テレビ受像機をたくさん売って金メダルもたくさん獲ってIOC委員や国連事務総長も出しているのに先進国扱いされない国が近所にあるが、そんな次元で争う必要はない。重要なのはメダルの総量ではなく、その国のスポーツ文化に相応したメダルの数かどうか。現状はややそれには足りないように思う。

朝青龍社員

asasyo横綱朝青龍の評価。意見のわかれるところだろう。相撲の実績は申し分ない。テレビCMに出演するほどの人気もある。しかし、常識と品格に欠けている。古来、常識や品格が無くても、類まれなる才能が世間から評価された人は多い。偉大な業績を残すような人は常人ではないことの方が多かったりもする。朝青龍もそうした偉人の一人なのか。いや、残念ながら私の答えは否だ。常識や品格が無くても優れた業績で評価されるような人は、それとは別に誰からも愛される人間性があるものだ。簡単に云えば「可愛げがある」ということ。それがあれば人々は「しょうがねえなあ」とあきらめつつ、良い面を応援するようにしてくれる。かつて放送されていた朝青龍を起用したテレビCMもそのあたりを意識して作られていたように思う。しかし、現実の朝青龍の所業は、可愛さよりも、ふてぶてしさの方が目立つ。いくら実績を残しても慕う人間はどんどん減っているのではないか。それではダメということだ。ところで、あなたの会社にも、朝青龍のような社員が一人位はいるのではないか? とても良い仕事をするのに、規律意識のない人。能力はあるのに、感情が昂ぶると制御が効かない人。そういう人の社内での評価は二分されることが多い。実力を評価する人は認め、人柄が許せない人は絶対に認めないからだ。よく言えば社内に活気を与え、悪く言えばトラブルメーカー。価値観が大きく変動する時代にはそういう人物の破天荒な行動力が許容されることもある。急激に価値観が変わった戦後の日本社会にも、極端な行動や言動をとる若者が時々現れたように思う。その頃の社会にはまだ封建的な風習が少なからず残っており、指導層にも明治生まれが居たりしたので、古い制度に対抗する若者は、ある種の英雄だった。そして、当時の青春映画でも主人公の石原裕次郎を東野英治郎が暖かく見守る、あるいは森田健作を笠智衆が応援するみたいな構図が喜ばれたもした。現実社会でも、破天荒な若者にこそ世の中を変えていくパワーがあると考え、決められた枠組みの中から飛び出してしまうような若者の人間性を見抜いて、敢えて可愛がるような経営者も少なからずいたようには思う。管理を強化し過ぎて小役人のような社員ばかり増やしてしまうと当然社業は停滞してしまう。バイタリティに溢れた社員は現在でも少なからず必要だろう。しかし、現在の日本社会には昭和の時代にあったような劇的な変化はない。また、多少のマイナス要因など吹き飛ばしてしまうような、経済の急成長もあるわけでもない。朝青龍のような社員の存在を許容できる企業はきっと少ないのではないか。相撲協会もジリ貧と聞く。相撲が反社会的な格闘技としてダイナミックに変貌することで進歩すると考えるのならともかく、国技としての再生を目指すのであれば、今回は朝青龍を解雇すべきだろう。解雇どころか永久追放、記録抹消なんて処分もありうる。彼の破天荒さは、相撲界を崩壊させるパワーは持っていても、人々を惹きつけるようなパワーはない。「愛される人間性」のメッキが剥げてしまったからだ。伝統ある業界とはいえ、多少の規律違反は許容されても良かろうとは思う。しかし、人柄を疑われ始めたら横綱としては失格だ。能力の高い人物なので、母国に戻れば経済人として成功するのではないか。今回の事態を逆手にとって商売するのも良いだろう。その方が彼にとっても幸せだと思われる。