カレンダー

  • «
  • 2008.10/
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • »

記事一覧

馬鹿を笑う卑屈

「笑い」の研究をしたドイツの哲学者ショーペンハウエルは、「笑い」は論理の差異によって起こると考えた。人は概念と現実の差異(ズレ)を笑っているわけだ。つまり、概念(教養)が豊富で、かつ現実を観察する能力が高い人ほど多くの「笑い」を享受可能だなんてこともそこから発見できる。学者同士が凡人には理解できないような事象で共感し、互いに笑い転げることだってある。それが「笑い」だ。ところが、テレビや寄席で繰り広げられる「お笑い」というのは不特定多数の人々を相手に「笑い」を提供せねばならない。誰もが知り得るであろう教養を基準に、誰もが知り得るであろう現実を提示する。下ネタで笑わせる。反復で笑わせる。差別で笑わせる。低俗化の要因だ。いや、個人的には低俗が悪いなどとは特に思っていないが、それだけではツマラナイだろうと思う気持ちも一方にはある。知的な笑いというのは知的好奇心も満たしてくれる。タモリ倶楽部の名物コーナー「空耳アワー」が腹を抱えるほど面白いのは、誰にでもわかるであろう概念と現実との差異を寸劇で表現した上に、洋楽を知っていることの優越感が上乗せされているからだろう。前述したように私は「低俗」は必ずしも悪いとは思わないのだが「偽善」は嫌いだ。「知的バラエティ」という類のテレビ番組。あれには辟易する。お馬鹿な芸能人相手にクイズ番組をやり、その珍解答を笑う番組。教科書や百科事典に載るような如何にも知的で下品ではない内容を問題として出題し、「オトナのくせにその程度のことも知らネエのか?」とお馬鹿芸能人の馬鹿さ加減を笑う番組の多いこと多いこと。障害者を笑う番組が出来なくなり、田舎者を笑う番組もできなくなり、下品な番組や過激な番組、著名人を馬鹿にする番組もやりにくくなってしまい、テレビバラエティが行き着いた先が、そんな知的バラエティだと思うと何か悲しい。馬鹿を売りモノにして稼いでいる芸能人を笑い者にしているのだから確かに問題はない。問題は無いのだけれど、馬鹿を笑った時点で馬鹿を笑う馬鹿に成り果てるようで怖い。他人の無知を笑うようになったら教養人とは云えない。でも、ついつい笑ってしまう。本当に嫌な番組だ。下劣な演出を自粛し差別的な表現に必要以上に気を使うようになった現在のテレビの品性がそこにある。問題は無いのだけれど何か卑屈だ。会話の中で「めくら」「つんぼ」「びっこ」を連発している我が家の爺さんの方がずっと健全に思えてしまう。そう思える理由はたぶん言葉は悪いが心に偽善がないからだろう。馬鹿を笑う卑屈。下ネタよりも下劣に思えてしまうのは幻覚か、あるいは私の知的劣等感の表れか。いや、やっぱり欺瞞だ。気持ちの悪いタテマエが横行する平成文化の代表例。そういやその類のパイオニア的な番組はその名も「平成教育委員会」とかいう如何にも受験戦争の勝者が嬉々として作ってそうな嫌な番組だった。おなじ北野武でも80年代の「天才たけしの元気が出るテレビ」や「オレたちひょうきん族」の方が正直な分だけ健全だと思えるのだが、そうは考えないのが昨今の常識らしい。