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青春映画の巨匠、逝く

偉大な映画人がまたひとり鬼籍に入った。熊井啓さん。毎日新聞によると「社会派映画の巨匠」。そんな凄い方だったのか?などと書くと失礼になってしまうが、私はこの監督は普通の人間が普通に思う感情で社会の矛盾を鋭く描いた人だったのではなかったかと思う。もし、その作品が過激に感じられるのだとしたら、それは監督自身が過激だからではなく、社会の矛盾がそれだけ激しいからなのだと・・・。人間は総じて若い頃は社会の矛盾に敏感だ。矛盾に対して激しい表現をする人さえ珍しくないが、オトナになるにつれ社会に適応し時に迎合までしてしまう。ところが熊井監督は違った。主義主張や思想に囚われていることなく、普通の人が普通に感じる矛盾を、終生、映画という表現で告発し続けた。だから私は最大限の敬意の気持ちを込め、青春を貫いた熊井啓監督を「青春映画の巨匠」と呼んでみようと思う。監督は長野県安曇野市(旧豊科町)の出身。松本深志高校から信州大学(旧制松高)に進み、映画部に入っている。当時、中央の映画関係者と親しかった松本中劇(日本一小さな映画館として有名だった)の藤本徳治氏の計らいで、多くの優秀な映画を見たり、、今井正、今村昌平、山本薩夫、といった独立プロの映画監督と接する機会が持てたと言われている。その後、日活の助監督試験に合格し、赤木圭一郎と芦川いづみ(^_^)の「霧笛が俺を呼んでいる」などプログラムピクチャーの脚本を書いたのち、「帝銀事件 死刑囚」で監督デビューし「社会派監督」と言われるようになるわけだが、その後の作品の傾向を見ていると、やぱ松本時代が重要なのかなと思えてならない。御本人もインタビュー等で自分を分水嶺世代(戦前と戦後の価値観の違いからくる矛盾をダイレクトに受けた世代)と呼んでいたが、その熊井青年の前に現れたのが、今井正や山本薩夫じゃ少なからず影響も受けたのだろう。しかし、藤本徳治氏によれば、当時の熊井青年は松本中劇の2階の板の間で酒を飲んで寝転がっている映画好き学生だったのだそうだ。そこが熊井さんらしい。政治臭はないのだ。好物は酒と巨人軍。王貞治氏との親交も深く、大のG党としても有名だったが、案外それも同郷の偉人、読売新聞中興の祖、務台光雄氏(三郷村出身)がらみではなかろうかと思う。また、吉永小百合を「忍ぶ川」で脱がせるために、吉永邸の庭の木に登り「出演受託するまで降りない」とダダをこねたなんてお茶目な逸話もある(結局、その役は栗原小巻になった)。「朝焼けの詩」では、上高地明神池で、まだ10代の関根(高橋)恵子をスッポンポンにして泳がせて環境庁からクレームが付き、青木湖で撮り直したことも。晩年には、処女作「帝銀事件 死刑囚」を彷彿とさせる「日本の黒い夏 -冤罪-」という冤罪事案を映画にしているが、これは監督の故郷で起きた事件で、監督ともただならぬ関係があった。被害者河野義行さんの先々代は熊井監督が幼い頃、母親が教員として働いていた長野高等女学院の校長で、監督自身も近所に住み、河野邸にお使いにいったことすらあるのだそうだ。家風を知り、友人から子孫である河野義行氏の評判も聞き、「とても犯罪に関係しているとは思えない」との思いが映画制作の動機だったという。社会派などといわれるけれど、実のところはとても人間的、良い意味での田舎者だったのではないかと思う。だからこそ、熊井啓監督の作品は重い。謹んでご冥福をお祈りします。