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ヤングアダルト総括-京フェス1999

ヤングアダルト総括-京フェス1999

http://www004.upp.so-net.ne.jp/fuetakofans/kyofes99.htm#honkai2

正確に再現できなくて申し訳ないのだが、喜多さんが、「ヤングアダルト小説には、『老婆は怖い顔をして笑った』といった表現が出てくる。他に小説なら書きようがあるだろうに。だが、これは、怖い顔をして笑う、で読者の頭のなかにある画像データベースからそういう顔を検索してくるのではないか」といったことをおっしゃった。三村さんも、「若い読者は、自分の好きな画像、好きな声優の声で、登場人物を動かしながら読んでいるのでは」とコメントなさっていた。若い世代には残念ながらもはや属さないが、実はわたしも画像データベース利用型読書系の読者である。こちらの語彙が乏しいので、たとえば主人公の身なり、居場所を言葉を尽くして緻密に表現されても、ピンとこないどころか、絵を想像するのに苦しむのである。

http://www7.cds.ne.jp/~nactor/sf_obline/vol3/kyoto_99_day3.html

 ところが冒頭の挑発がパネルの根幹とかかわってくるのだから世の中はわからない。YA史の概説から始まって、YAというジャンルの定義、そしてYAは卒業すべきものかという読者論へと話題は移っていくのだが、ここで三村氏がYAを「突出した同時代性を持つ文学」と定義したあたりがパネルの肝だったように思う。

 三村氏によれば「突出した同時代性」とは、「作者と読者がアニメやTVの感覚を共有していること」だという。これを僕なりに咀嚼すると、同じメディア環境に置かれてきた人間には説明ぬきで通じる小説、となる。――だとするならば、まさしく「ゲームやアニメを知らない人間にYAを語る資格はない」!

 三村氏に対し小説読みの立場から反論を試みる喜多氏だったが、私見ではいささか分が悪かった。現にパネル中で「うーん、(三村美衣に)説得されてしもた」と腕を組む場面が何度かあった。

 しかしパネラーの勝ち負けより重要なのは――ゲームじゃなし勝敗がパネルにとってなんであろう――YAにおいてはジャンル論と読者論が不可分であることが示された点である、と僕は思う。これは、他ジャンルにはない特徴である。早い話、「SF」について語ることと、「SFを読む人」を論じることは等価ではない。ふたつはまったくの別物だ。ところがYAについて語ることは、作者と読者の感覚の共有という一点を経路として、ダイレクトに読者論へと結びつく。共有を前提として「記号化」(三村氏)された言葉を読み解かなければ、その作品がなにを語ろうとしているかさえわからないだろう。両氏の話題がジャンル論から読者論へと転じたのは、決して偶然ではないのだ。

最終更新時間:2018年10月09日 17時10分31秒