ザゴラ−タムグルート 1994.11.1

戻る


この日はようやく、タムグルート行き徒歩旅行を決行した。朝4時半に目を覚まして、宿の玄関から出ようとするのだが、門扉に鍵がかかっていて出られない。人の気配はない。どうしたものか考えた末に、元の階に戻り、ホテルの建築中の未完成部分の通路に乗り越えて出て、出口を探したのであるが、造り掛けの殺風景な灰色のモルタル窓から見下ろすと、高い〜。降りられる足がかりがない〜。そこで部屋に戻ったり階段を上ったり下りたり右往左往しているうちに、宿の人が出てきて鍵を開けてくれる。素直に呼び出して待っていれば良かった。

結局、出発したのは6:45。ホテルの脇の道を降りていくと、くねり曲がってドロア河に沿ってその左側に伸び、ほどなく橋にさしかかっている。自転車に乗った少年がやってきて、私の側で停止し、「おはよう!」と声をかけてくる。「これから学校に行くんだ。またね!」そう言って、また自転車をこいで行ってしまう。河は水嵩があふれ、橋の縁の欄干を一部削り取って、橋の下一杯まで轟々と流れている。渡るのが怖い。対岸にはまた道が続いていたが、左手には未舗装の赤茶けた道が伸びている。その先は山になっている。右手には舗装された道が続いている。地図によれば、橋を渡った時点で左折するはずだったのであるが、舗装されている道の方が真っ当な気がするので、そちらに進むことにする。案の定、2、3回、道なりに角を曲がって進んでいくと、開けた大地が姿をあらわした。はるか地平線には、山岳がそびえている。見渡す限りの赤い平原。洪水の後の、遠くまで広がる水面。道路を外れればすぐ沼地か荒い砂。木々はまばらに生えているが、身を隠すようなところはない。盛り土の上に舗装された一直線の道路で、時折、大型貨物トラックのような車両が通り過ぎる。時にはその上に子供たちを満載している。私を見ると、手を振ってくる。白い自家用車も、高級大型バスも通る。その度に、路側帯に寄って過ぎるのを待つ。道沿いの家の近くで、「5DH、頂戴」と手を差し出してくる子がいた。「タムグルートまで一緒についてくれば出す」「そんなぁ。僕学校に行きたいの。行くお金がないの」「来るんなら向こうに着いたらあげるけど、そうでないならだめだよ」しばらく歩いて後ろを振り返ると、付いてくる様子はなかった。登り坂の途中で、食事を摂ろうとおもって、道路の両側に突き出していた岩に腰掛け、昨日買っておいた平パンを取り出して食べる。立ち上がり、歩き始めて数分。さっきの岩のところにアラビア語−日本語−フランス語の会話集を置き忘れたことに気が付いた。取りに戻っている暇はないので、そのまま進み続ける。日が上ってきて、暑い。しかし、汗はかく間もなく、引いていく。降った雨水が蒸発した湿気もほとんど消えて、乾いてくる。道路の脇には、電柱が等間隔に立っており、数km毎に、どこそこの街まで何km、という標識が設置してある。たった一本しか持ってこなかったミネラルウォーターの瓶は500mlしかない。飲もうと取り出して、振ると、底から白い薄い破片がはらはらと舞い上がって降りていく。げ。不純物入り。しかし、他に当てはないので、それを少しづつ飲みながら歩く。家畜のような動物を連れた遊牧の人達を遠くに見かけることもあった。もくもくと足元を見つめて、前方を見て、足を出していく。ぎりぎりまで軽く詰めたはずのリュックサックが次第に重くなってくる。水の瓶は軽くなっていく。完全な体調ならまだいいのだろうが、衰弱している状態では、少々無謀だと思いながらも、歩いて同じ距離を引き返すのも難しい地点まで来てしまっているので、さらに足を運ぶ。ようやく、前方にかすかに建物の集合らしき影がおぼろげに見えてくる。あと1km。それからはとても長く感じられた。街の入り口に着いて、時計を見ると、9時58分。17kmを3時間と少しのペースで歩いたことになる。それにしても、喉が渇いて、消耗しきって、すぐには動けない。

町中を、さらに先ほどまでの道路が真っ直ぐに伸びていた。まず、雑貨屋を見つけて、ミネラルウォーターを頼む。1リットル入りの大瓶。なぜかダノンのバナナヨーグルトも売っている。少し休憩。手前の右側に、病院らしき建物がある。その前で休んでいると、話し掛けてくる人がいる。あまり相手にならないで、黙ってしゃがみこんで水を飲む。暑い。病院の建物から声がするので、近寄ってみる。中にいた少女達、女性達とも、話をして、少しお近付きになれる。皆、黒づくめである。図書館はどこですか?会話をしながら、建物の中の日陰で少し涼む。教えられた通りに、さらに道路を進んでいくと、門の閉ざされたホテルらしき豪勢な建物の前に座っていたおじさんが、私を呼び止めて、もっていた紙に地図を書いてくれる。「まず、ザーウィヤに行って、中の広場にある扉を叩きなさい。幸運のしるしです。それから、カスバの中はこのように歩いて、図書館はこちらの方。出る時に、そこでは2DHを置いてくるのです。ザーウィヤには何も払わなくてよろしい。他に話しかけてくる人もいるでしょうが、気にしなくてかまわない。それから、potteryがあるから、そこへ行って、戻ってきたら、ここで呼んで下さい。食事をしましょう」言われた通り、道を真っ直ぐ進んでいくと、やはり、案内しますよ、と言ってくる青年がいる。適当にかわして、ザーウィヤ(修練場)の中に入る。ジュラバを着て座り込んでいる人達がいる。奥の建物に、透かし彫り細工の飾りを施した、門扉がある。お寺のようだ。叩いてみる。かたん。これで何かの意味があるのだろうか。

図書館は庭園の中を通って入るようになっていた。一部屋の造りで、壁の四方に本棚が並び、写本が数千冊納められている。基本的には黒い文字だが、赤や、緑などの彩色で文字を書いているものもある。説明をしていたのは、ジュラバを着た男の人で、フランス語でとうとうと説明を流す。初めは聞き取れなかったので、次の観光客が来て、その人達に向かって同じ話をしているのをまた聞いていた。鹿の皮で作った、8世紀頃(不明)のものが一番古いそうである。

ここの街並みも、赤茶色の土壁造りである。細い道を歩いて行くと、貯蔵塔に出る。これが言われていたpotteryなのだろうか。道路は、街を抜けて、さらにその先の砂漠へと続いていく。この街の先に、砂丘があると聞いていたので、行ってみようと歩き始めたが、2km歩いたところではるか彼方の地平線の山裾に、三角形のものを見つけた。まだ何キロもかかりそうで、これ以上歩くのか、と思うと挫折して、引き返してきた。道路を戻っていくと、傍らに丈の高い建物がそびえていて、その前で男達が何人も座り込んでいる。「pottery!potteryだよ!見て行かない?」「私は疲れているの!」断って、戻る。地図を書いてくれたホテルまで戻ると、お昼をご馳走してくれた。クスクスに鶏肉を載せた食事である。弟さんらしき人も出てきて皆で食べる。長い金属製のやかんから、ミントティーを注いでくれる。「potteryには行った?」「行きませんでした」寄らなかったので、少し良心に咎めを覚える。「日本に帰ったら、ここのホテルのことを言ってね」やはりそうか。「私は、絵も描くんですよ」そう言いながら、奥から自分の画いた絵を取り出してきて、見せてくれる。目を幾つも描き込んだ少し強迫っぽい、けれどもイマジネーションのはたらく絵である。私のもっていたシステム手帳の一枚にも、記念にといって、ヤシの木や名前のロゴを一息に描いてくれた。

帰りは、また歩いて帰ろうか、どうしようか、と思っていたが、ホテルの主人から、乗合があるからしばらく待ってくれ、と言われて、そのうちに、乗用車がやってきて目の前で急回転して停まった。後ろの席に4人くらい乗り込んでいて、さらに私が乗るのである。狭い。きつい。しかし、歩いて帰ることを思えば。帰りは、10分とかからなかった。何てこった!ザゴラのホテルの手前の坂で、人目を気にして、下ろしてもらう。10DHの紙幣を取り出して渡すと、それがたしか取り決めだったはずだったのだが、一瞬、ためらってから運転手の若者が受け取る。

夕方、落ち着いてから、ドロア河をもう一度見ようと散策に出かける。河を渡った先には、ヤシの木の間に、用水路が開けている。子供たちが沢山歩き回っている。「アラビア語の言葉、幾つくらい知ってるの?」等と話しかけてくる。「遺跡に行こうよ」と道路の右手を指して言う子もいる。



進む



インデックスへ戻る