フェズ 1994.10.25

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メクネスで会った学生二人連れとまた会った。一緒に行動することにして、少しほっとする。バスの中で、フェズの人だ、というひとと知り合いになる。バスを降りるときには何も払わなくていいよ、と言われてその通りにする。フェズの人が安い宿を紹介してくれる、というので、あとに三人でついていく。確かに安宿だったのだが、シャワーのお湯がすぐに出ないのでそれで少しもめ、皆で会話集を突き合わせて文句を言うと、出る時間帯があるらしいとか、シーツが替えてなさそうだとか、結構怪しかったが、その時は特に疑問もなく決めてしまった。荷物を整理して、それぞれの居場所を決めて、ロビーに出てくると、さっきの人が待っていて、さぁ、出かけよう、と言う。その人は、軍の幼年学校で教えているそうで、6年後に退職金が出たら、日本に行きたいという。しかし、その聞いた退職金の額は、渡航費用とそれほど桁が変わらない。大丈夫なのだろうか。新市街と旧市街の両方に家があり、お父さんという人が工場を9つもっていて、有名な芸術家だと言う。本当だろうか。新市街の家に招待してくれた。郊外の大通りのバス亭で降り、そのままレンガ色の造りの、集合住宅の一角へ案内される。空が青く、地平線から地平線まで、丸く広がって、雲一つなく晴れわたっている。家の応接間らしきところに通されて、お母さんという人に紹介される。インドにいたことがあるそうで、二人の学生の片方がヒンディー語を話せるというので、その言葉で挨拶をかわして座が和む。お昼もご馳走になる。木彫りの、造りかけの箱を見せてもらう。サンダルウッドが材としていいのだそうだ。見上げると、天井際の壁には有田焼の写真が額に入れて飾ってある。座っているのはこの地域独特の、部屋の三方に敷き詰められた、背もたれのついた角型の長椅子である。手持ちのインスタントカメラを取り出して、三人の学生の写真を撮ってもらった。その先生の兄弟二人にも紹介される。一人はオハイオ州に留学していた物理専攻の学生でスペイン語を話し、もう一人は警察官でフランス語とアラビア語を話す。片方の人がカメラをもっていって奥に引っ込んでしまう。私が抗議すると、しばらくして返してくれたが、後で現像したフィルムには、わけのわからない試し撮りの写真が一枚混じっていた。屋上にお母さんに連れていって頂いて、そこから見下ろせる遠くのテントが立ち並ぶ市場の眺めを見晴らす。「ずっとアラビア語の勉強を続けるの?」「はい、そのつもりですが」「そう」市場の写真を撮ろうとしたら、止められてしまった。部屋に戻ると、4時から旧市街を案内してくれる、とのことで、それまで時間が空く。先生の息子の一人が牛乳を買いに行くというので、なぜか付き合って家のそばの小売店まで買いに行く。テトラパックの容器だった。多分、殺菌されていても私達は飲まないほうがいいのだろう。

4時になり、旧市街に繰り出すことになった。市内バスに乗る。その時点でなんかおかしいような気もしたのだけれど、窓から外に見える景色を説明されるたびに、日本語に訳して二人に伝える。通訳なんぞをしていると、言葉を移し替えるだけで頭が空っぽになって自分のことは考えなくなる。これがそもそも判断を鈍らせるもとだったのではないかと思う。アラビア語の辞書か本をくれると言っているのを、考える余裕もなくそのまま納得してしまう。旧市街の端に到着して、坂の細い道を登り下りして連れ回される。みかんを一袋その先生は買い取って、一つづつくれる。むきながら、皮は捨ててもいいんだよ、と言うので、その通りにしたが、なんとなく違和感があってなじめない。油で揚げたドーナツのようなものも屋台からもらってきてくれるので、頂いてしまった。時折、すれ違う人に「やぁ!」と声をかけあっていく。「知り合いが多いんだよ」と言う。急いで歩く速さに合わせて坂を上がったり、下ったりしながら歩き回っているうちに、方角も現在位置も分からなくなってしまった。しかし、最初に行きたいと皆で相談していたモスクや名所には、なかなかたどり着かない。そのうち、ファクトリーに行く、というので、どこかと思えば、絨毯の卸屋であった。広く天井の高い部屋に、巻き固めた絨毯がいくつも立てかけてある。吹き抜けの両側に張り巡らされている2階に案内してくれた。5〜6歳くらいの女の子達が木の台に一列に7、8人ほど座って、機織り機に手早く左右から糸をくぐらせている。私達を見ると、口々に手を差し伸べて、「ラハジャン!ラハジャン!(お金頂戴)」と言う。持っていた飴の残りを取り出して渡そうとすると、「そんなものいらない」と言う。そのときは胸が苦しくなった。屋上に上ると、夜の闇に夕焼けの明るさがかすかに残っている。遠くにはモスクの塔も見えるのに。階下に降りると、絨毯屋のマネージャと紹介された人が、ミントティーを振る舞ってくれる。しきたり通りに飲んでいるのだけれど、そのうち、巻いてあった絨毯をいくつか床に転がして広げて見せる。1枚5万円くらい(日本円)するそうだ。冗談ではない。担いでどうやって歩き回るのか?送る金なぞ持ち合わせていないし。学生ですので無理ですぅ〜と言ってお茶を飲んだだけで終わりにして帰ることにした。出しなにその先生が「ここはまだ紳士的なところですよ」と言うので、さらに怪しさと不信感は募る。帰ろうというのに、「いいからいいから。奇麗な服が工場の直売所で買えるところに行きましょう」次に案内されたのは、今度は革の鞄やジュラバの店だった。階上にマァマルがある、と言う。すると、さきほどのファクトリーと同じく手作業で働かされている人達がいるのか?やだなぁ。それでも、何かしら買わないと帰れないような高圧的な雰囲気になってきた。学生の二人と顔を見合わせる。そもそも、今いるのが旧市街のどこかも分からないのである。しかももう夜に入っているし、女三人いても帰れなければ危険なことこの上ない。多分誰かしらがある程度のものを引き換えにすればなんとかなるのだろう。群れているだけではまとめてペースに乗せられてしまうということをようやく悟る。一瞬躊躇した末に、覚悟を決めて、行動に出ることにした。この時点で私の人格は変わってしまう。「ここは私が出すから」と日本語でこっそり二人に伝える。陳列してあるジュラバを手に取って、店の人に、これは?などと話しかけてみると、店の人はにこにこしながら、様々な蛍光色に近い鮮やかな色彩のジュラバを取り出してくる。合わせて試着してみた。着物のようで、胸から下は寸胴でゆったりしており、ふくらはぎ辺りから軽くスリットが入っている。胸元は上に飾り紐の施されたジッパーで留める。後ろには申し訳程度のフードがついている。赤も青もオレンジも紫も似合わないので、真緑の光沢のある布地のものが一番しっくりくるようだったし、勧められたので、それに決めることにした。商談に入る。3万円?え。うそでしょ。「旅行しているならクレジットカードもってないの?だめじゃないか」って言われても、ねぇ。「もっていませんよ、そんなもの。そもそも、旅費でぎりぎりなんですけど」手持ちの金額を数えて、「ちょっと待って、手持ちがない〜」と言うと、「日本語になってるなってる、それじゃ分からないよ」と言われる。相当パニックに陥っていたのだろう。「トラベラーズ・チェックなら何とか、でもそんなに高いのぉ、え〜!」「じゃ、いくらなら出す?」300DHと答えようとしたが、そんなに低く値切っていいのだろうか?(後でそのくらいでも十分過ぎるくらいだったことが分かった)結局、1万円程度で値切った。約半額。でも相当ふっかけられたのは間違いない。店の人は、「シルク、シルク」「国外で買うともっとするよ」と慰めにならないようなことを言ってくれた。買物の取り引きが済んで、商品を黒ビニールに包んでもらう。店の入り口近くで待っていた学生二人に先生が「次はどこへ行く?」そこでとうとう二人ともキレて、「もうやだ〜!帰るぅ〜!」「じゃ、帰ろうか」ともう十分だという調子でムハンマド氏が言う。「タクシーで20DHで帰れるよ」その店を出て、旧市街の入り組んだ暗い坂道を上がって行きながら、さらに頓着なく、「日本に帰ったら液晶テレビ送ってくれない?幾らくらいするの?」そこで、「7万円」と答えてやると、「た、高い...」学生二人とは日本語で、「本当は3万くらいでも買えるとかって」「そんなこと言う必要ないよ。ふっかけとけふっかけとけ」「ね。このまま街の出口まで行ったら、歩いて帰らない?」「でも、帰り道分からないよ、暗いし」街路の入り組んで折り重なった土壁の上には、暗闇に月が顔をのぞかせていた。最初に旧市街に入った広場を横切り、車道に出ると、申し合わせたかのようにタクシーがいる。ムハンマド氏は「明日はハマームに行って、ヘンナを描いて」誰がんなもんつけるんじゃぁ!「いや、もう結構です」と言うと、「お母さんが悲しがるよ、僕が怒られる」私が無言でいると、それ以上は引き止めずにあっさり「ばいばい!」と手を振って離れていった。タクシーはその先生と関係があるかも分からないけれど、これ以上変なところに連れて行かれでもされても困るので、乗り込みながら、にっこり笑って、「さっきの人によろしく」と愛想をふる。タクシーは元のホテルに連れ戻してくれた。降りるときには、学生二人が料金を出してくれた。部屋に戻ってから清算する。

次の日には、早速その宿は引き払うことにした。荷物をまとめて宿を出てから、学生二人が、少し私のほうを見て、二人で何か見合わせる様子だった。別々に行動した方がいいだろうと思って、出来る限り明るく手を振って別れる。



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