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 ワーズワースの妹ドロシーの日記や手紙は、湖水地方での彼らの生活ぶりを知る貴重な資料です。残された量は膨大で,私はとてもそのすべてを読んだりしていませんが,私が読んだ中から印象に残ったいくつかを紹介します。200 年前のイギリスにおける知的青年の生活ぶりが伝わってきます。

●ダブ・コテージに関する記事
ワーズワースの娘が描いたダブ・コテージ
 まずは、ワーズワースの詩作の主舞台となったダブ・コテージ (Dove Cottage) に関するもの。
 ワーズワース兄妹がダブ・コテージに移り住んだのは1799年の年の暮れ(12月20日)です。コールリッジとともに湖水地方を散策しているとき、グラスミア湖畔に手頃な空き家を発見し、借りることにしたのでした。それがダブ・コテージです。
 ダブ・コテージが建てられたのは1600年代前半だと言われています。最初は民家だったはずですが、1700年代前半には Dove and Olive と呼ばれる旅籠(inn)になっていました。その旅籠が1790年頃廃業となり、ワーズワース兄妹がその前を通りかかったときは,"To Let" と貼り紙のされた借り手待ちの空き家でした。すでに築後200年ほどの家だったわけです。
 彼らはこの家を「ダブ・コテージ」と名づけ,さまざまに手を加えて住み心地のよいものに変えていきました。そうした様子が、1800年9月の手紙に記されています。

 We have a boat upon the lake, and a small orchard, and a smaller garden; which, as it is the work of our own hands, we regard with pride and partiality. This garden we enclosed from the road, and pulled down a fence which formerly divided it from the orchard. The orchard is very small ; but then it is a delightful one from its retirement and the excessive beauty of the prospect from it.
 Our cottage is quite large enough for us, though very small. We have made it neat and comfortable within doors, and it looks very nice on the outside, for though the roses and honeysuckles which we have planted against it are only of this year's growth, yet it is covered all over with green leaves and scarlet flowers; for we have trained scarlet beans upon threads, which are not only exceedingly beautiful, but very useful, as their produce is immense.
 The only objection we have to our house is that it is rather too near the road ; and from its smallness, and the manner in which it is built, noises pass from one part of the house to the other ; so that, if we had any visitors, a sick person could not be in quietness.
 We have made a lodging room of the parlor below stairs, which has a stone floor. Therefore we have covered it all over with matting. The bed, though only a camp bed, is large enough for two people to sleep in.
 We sit in a room above stairs, and we have one lodging room with two single beds, a sort of lumber-room, and a small low unceiled room which I have papered with newspapers, and in which we have put a small bed without curtains.

 難解なワーズワースの詩と格闘していると,ドロシーの平易な文章にほっとした安らぎを感じます。一応訳しておきましょう。

 湖(グラスミア湖)には自分たちのボートがあります。小さな果樹園と庭もあって,手入れは自分たちでやっています。誇らしくて,とっても気に入っている庭です。
 庭は道路から隔てるために石垣で囲みました。そして,庭と果樹園を仕切っていた垣根は取り払いました。果樹園は奥まったところにあって,眺望がよく,とても気持ちのいいところです。
 家(ダブ・コテージ)は小さいのですが,私たち2人が住むには十分な広さです。家の中はきちんと整理して住み心地のよいものにしました。
 外観も素敵なものになりました。というのは,外壁にバラとスイカズラを這わせていたのがようやく咲いて,緑の葉っぱと真っ赤な花が壁面をびっしりおおったのです。また,糸を張って深紅の実のなる豆も這わせました。これは見た目にも美しく,しかもたくさん実をつけるので実益にもなっています。
 この家の唯一の難点は道路に少々近すぎることです。しかも家が狭く,物音が端から端に突き抜ける構造になっているため,来客があると病人は静かに休むことができません。
 一階には客間と寝室があります。石の床なので,部屋いっぱいにマットを敷き詰めました。寝室には二人がゆったり寝られるほどのキャンプ用簡易ベッドを置いています。
 二階には私たちの居間があります。また,シングルベッドが2台ある寝室,がらくた部屋,それと低くて天井のない小部屋もあります。小部屋には壁紙代わりに新聞を貼り,カーテンのない小さなベッドを置きました。

 ボートのことは日記の中にもしばしば出てきます。散歩の行き帰りに使ったり,ボートこぎ自体を楽しんだりと,彼らにとってなくてはならない愛用品でした。
 果樹園(orchard)については,今回のイギリス旅行で認識を新たにしました。旅行中訪れた家には例外なく果樹園と庭があり,しかも,両者は必ず垣根で仕切られているのです。庭と果樹園をはっきり分ける習慣がイギリスには昔からあったようです。庭には,ようやく歩ける程度の細い小道を除いて一面びっしり花が植えられているのが普通だし,果樹園に植わっているのはほとんどがリンゴです。日本よりは小振りの,あまり赤くないリンゴです。ニュートンの家にもリンゴの植わった果樹園がもちろんありました。ダブ・コテージの果樹園もリンゴです。
 家の外壁には,ドロシーが植えたバラの子孫かどうかはわかりませんが,今もバラがからみつき鮮やかな彩りを添えています。

現在のダブ・コテージ
(壁面にバラがからみついている)
1階の客間

2階の居間 がらくた部屋

新聞紙を貼った部屋

 家が道路に近いのは,行ってみてなるほどと思いました。すぐ裏手に山があるので,しかたなくそういう配置になったのでしょう。
 ドロシーは家の狭さをしきりに強調しています。しかし,日本の標準的な家からすれば広い部類の家だと思いました。旅籠として使われていたくらいですから,狭いはずはないのです。
 食事や書き物など,日常的に最も頻繁に使われたのは一階の客間でした。ドロシーの手紙には出てきませんが,一階には他に台所,食物貯蔵室,仕事部屋(アイロンなどに使う)などもあります。一階の寝室は,最初はドロシーの寝室でしたが,ウィリアムが結婚してからはウィリアムとメアリー夫婦の寝室になりました。
 二階の寝室は,最初はウィリアムが使い,ウィリアムの結婚後はドロシーの寝室になりました。がらくた部屋と呼ばれている部屋は,コールリッジなどが訪問したときの寝室です。
 おもしろいのは天井のない小部屋です。壁紙に新聞を使ったと書かれていますが,今もその当時の新聞が貼られているのです(本当に当時のままなのか,当時の新聞をあとで貼り直したのか,それはわかりません)。子供が生まれてからは,子供部屋として使われたようです。

●日常の暮らし
 次に,同じ手紙から,日常の生活ぶりを記した部分を拾い出して紹介します。

 We are daily more and more delighted with Grasmere, and its neighborhood. Our walks are perpetually varied, and we are more fond of the mountains as our acquaintance with them increases.

 My brother John has been with us eight months, during which time we have had a good deal of company ; for instance, Mary Hutchinson for five weeks, Coleridge a month, and Mr. and Mrs. Coleridge and their little boy nearly a month.

 William's health is by no means strong. He has written a great deal since we first went to Alfoxden, namely during the years preceding our going into Germany, while we were there, and since our arrival in England; and he writes with so much feeling and agitation that it brings on a sense of pain.

 We have spent a week at Mr. Coleridge's since his arrival at Keswick. His home is most delightfully situated, and combines all possible advantages both for his wife and himself. She likes to be near a town, he in the country. It is only half or a quarter of a mile from Keswick, and commands a view of the whole vale.

 Our employments, though not very various, are irregular. We walk at all times of the day ; we row upon the water ; and, in the summer, sit a great part of our time under the apple trees of the orchard, or in a wood close by the lake side. William writes verses ; John goes fishing. We read the books we have, and such as we can procure. I read German, partly as preparatory to translating; but I am unfit for the task alone, and William is better employed, so I do not know when it will turn to much account. If William's name rises among the booksellers, we shall have no occasion for it.

 私たちは毎日グラスミア周辺の散策を楽しんでいます。散策のコースはいろいろあるのですが,中でも好きなのは山です。親しめば親しむほどますます山が好きになってきました。

 弟のジョンがここ8ヶ月一緒にいます。その間にさまざまな友人がやってきました。たとえば,メアリー・ハッチンソンが5週間,コールリッジが1ヶ月,そしてまたコールリッジ夫妻と小さな男の子が約1ヶ月,といった具合に。

 ウィリアムの健康がすぐれません。彼はアルフォックスデン時代からあまりにも多くの詩を書きすぎました。アルフォックスデンはドイツに行く前に1,2年住んでいたところですが,そこで多くの詩を書き,イギリスに戻ってからもまた多くの詩を書きました。彼は感性をこき使い,ほとんど興奮状態で詩を書くので,それが精神にもたらす苦痛は大変なものなのです。

 コールリッジがケジックにやってきたので,1週間彼の家で過ごしました。彼の家はすごくいい場所にあって,奥さんと彼のどちらの都合をも満たしているのです。というのは,奥さんは町の近くがよく,彼は田園がいいのですが,家はケジックから半マイルか4分の1マイルしか離れていないにもかかわらず,谷全体を見渡すことのできる位置にあるのですから。

 私たちがやっていることはいつもほとんど変わりません。でもこれは普通の人の目には少々異常に映ることのはずです。一日ずっと,あちこち歩き回ったり湖でボートをこいだりして過ごしているのですから。夏は,果樹園のリンゴの木の下や湖畔の森に長くいます。そこでウィリアムは詩を書き,ジョンは釣りをします。また,自分たちの本や人から借りることのできた本を読みます。私は今,翻訳したい気持ちもあって,ドイツ語の本を読んでいます。でも翻訳の仕事は私一人には荷が重すぎ,かといってウィリアムは忙しいし。結局のところ,いつになったら実現できるのかわかりません。もしウィリアムが出版界で有名になってしまったら,実現できずじまいになるかもしれません。

 こういった内容です。私の知る範囲で,少し解説を加えておきます。

 ジョンはドロシーのすぐ下の弟です。東インド会社の船乗りで,滅多に陸に上がることはないのですが、上がるとこのように長い休暇を楽しむこともできたようです。ジョンがウィリアムとドロシーの家で過ごしたのはこの8ヶ月間が唯一で、その間にさまざまな思い出を作りました。彼はやがて船長になり,この手紙の5年後,船の難破によって命を落とすことになります。
 メアリー・ハッチンソンは,ドロシーやウィリアムの幼なじみです。この手紙の2年後,ウィリアムと結婚することになります。
 コールリッジはワーズワースを語るとき,欠かすことのできない人物です。コールリッジから見てもワーズワース兄妹は大切であり,ワーズワース兄妹にとってもコールリッジは大切な親友です。コールリッジは次のように書いています。
 "We were three persons, it was but one soul."
 "We" とはもちろんドロシーも加えた3人です。
 彼らが初めて会ったのはウィリアムとドロシーがイギリス南西部を旅した1795年でした。ウィリアムとドロシーはその後1797年,コールリッジが住んでいたネザー・ストーイ(Nether Stowey)という町からわずか5,6キロ離れたホルフォード(Holford)という町に家を借りて移り住みました。それが Alfoxden House と呼ばれる家です。ブリストル海峡南岸のクオントック丘陵(Quantock Hills)にホルフォードの町はあります。
Alfoxden House
(ワーズワース兄妹が住んだ家)

 彼らの散歩狂は湖水地方に始まったわけではなく,クオントック丘陵においてもすでに,昼であろうが夜であろうが一日中歩き回っていました。付近の人からはフランスのスパイではないかとすら思われ,変人扱いされていました。
 "Our employments, though not very various, are irregular."
という表現の中には,Alfoxden 時代に受けた周囲の視線が思い出としてこめられているように思います。ともあれそうした有閑青年の暮らしを通して彼らは膨大な詩を書き,結実したのがワーズワースとコールリッジの共著である『抒情詩集』(Lyrical Ballads)でした。
 ところが詩集が世に出るか出ないうちに,1798年,ワーズワース兄妹もコールリッジも,それぞれ独立にドイツに旅立ってしまいます。あえて詩集の評判からは目をつむる,といった印象ですらあります。
 ドイツ旅行から帰ると,ワーズワース兄妹は湖水地方に定住の地を求め,1799年ダブ・コテージに引っ越しました。それから1年も経たないうちに,今度はコールリッジが湖水地方北部の町ケジックにやってきます。ダブ・コテージとコールリッジの家は20キロあまりも離れているのですが,彼らはそんな距離はものともせず,しょっちゅう徒歩で行き来しました。

ドロシーの日記・手紙(2)