松山地方祭から農業祭へ


 10月7日の松山地方祭が終わった後も,子供たちにとっては祭りは終わらない。われわれ北小唐人の子供たちは,松山一大きな子供ミコシをかついだという誇りと興奮に酔いしれ,余韻が1週間あまりも尾を引くことになる。

 興奮の中心は樽ミコシである。もらってきた酒樽や醤油樽を胴体にし,その上に四角い丈夫な屋根を取りつける。さらに下側にも板を張り,その下に二本のかつぎ棒を打ち付ける。こうして骨格ができると,胴体のまわりを縄でぐるぐる巻きにする。

 縄の張り方にはいろいろな流儀があり,子供たちが「俺のやり方でやらせろ」と縄を奪い合って巻くのである。失敗しては何度も何度も巻き直し,ついには酒樽も屋根も隠れて見えなくなってしまうまでに縄が巻き付けられると完成である。その姿はいっぱしの喧嘩ミコシの風である。

 10月中旬は雨が多く,蕭々とした物寂しい空気が下町の路地を包み込むことがある。そんな日には,祭りの賑わいが忽然と過去の世界に追いやられたうら悲しさが思い出されて,子供たちは雨に濡れながら無口になってひたすらミコシを作る。誰もが抱いている寂しさを誰も口には出さない。

 丹誠込めてミコシを完成させると,それから約1週間,明けても暮れても我々はミコシにとりつかれ,勇壮なかけ声とともに町を隅々まで練り歩く。そして,隣町の樽ミコシに遭遇すると,決まって大人ミコシの見よう見まねで何度も鉢合わせをする。そのときの興奮は血が沸騰してほとばしり出そうなまでのすさまじさである。

 1週間もするうちには,度重なる鉢合わせによってミコシは修繕のしようがないほどにぼろぼろになる。さすがにそのころにはミコシ熱も冷めており,我々は次の楽しみを見つけださねばならない。

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
 といっても,我々にとってその楽しみはすでに眼前に見え隠れしている。農業祭だ。11月1日から3日まで,農事試験場で行われる。今は県民文化会館とその付属施設や駐車場になってしまい,農事試験場は跡形もないのだが,当時はたくさんの研究棟と広場,そして広大な田畑や花卉園があった。その近くに住む我々にとっては絶好の遊び場ともなっていた。

 農業祭の3日間,あたりは異様な賑わいを見せる。松山近郊,あるいは遠くは県内各地から,農家の人たちが最新技術や農機具の情報を得るため,やってくる。私の親戚も大部分が農家だから,叔父や歳の離れた従兄弟などが遠くから自転車でやって来ては,家の土間を自転車置き場にしていたのを思い出す。

 私たち近所の子供にとってもこの3日間は興奮の坩堝だった。いつもはがらんとしていて,我々が野球などに使うほかは人の気配のあまりない広場が,そのときだけはかき分けないと歩めないほどの人の波であふれ,まるで縁日のようになる。広場の中には,おびただしい数のテントが張られ,それらを巡る迷路のような巡回路が作られている。

 それぞれのテントでは,農機具の展示や実演が行われ,それらが発するエンジン音と排気ガスのにおいが会場に充満している。鼻をつく特有のにおいが何ともいえず,私にとって農業祭の思い出の大きな部分をその嗅覚の記憶が占めている。今思えば不健康きわまりないのだが,当時の私には農機具の排ガスは芳香そのものだった。

 私たちは農業祭の期間中,学校から帰ると毎日出かけた。そして,夕方までに何度も家と会場を往復するのである。私たちにとっての楽しみは,研究棟での展示模型を見ることと,チラシを集めることである。後者の方に比重がある。おびただしい数の催し物会場を次々と巡っては,チラシをもらってゆくのだ。一巡しないうちに早くも手で抱えきれないほどの枚数になる。すると家にいったん帰ってチラシを置き,また出かける。

 これを何度も繰り返す。もちろん友達どうし,誰が一番たくさんのチラシを集めたかを互いに暗黙のうちに競い合っている。学校の帰りが遅くなったときなど,まだ私が帰宅途中にあるとき,すでに手に一杯のチラシを抱えて家に飛んで帰る友達を見かけることもある。そんなときの焦りは尋常ではない。

 こうして集めたチラシを後でなにに使うのか。不思議なことに私たちにはチラシを使う目的が意識に上ったことはなかった。ただひたすら集めることだけが目的なのである。飛行機を折ったりもしたが,いくら折ってもきりがないほどチラシはあるのだから,それもすぐに飽きてしまう。結局は,集めて見せあいっこすれば,その後は親がいつの間にやら処分するのを待つだけとなる。

 こうして夢のような3日間が過ぎると,いよいよ秋は深まり,日の暮れは早まる。夕暮れ時の冷え込みが身にしみるようになる。次の楽しみは,「亥の子」である。

このページの先頭へ  私の城下町トップへ


愛媛県松山市在住 奥村清志
愛光学園勤務
メール : koko@mxw.mesh.ne.jp