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全国に名城と名のつく城は多いが、松山城はその中でも最上級の部類に属する城だと思う。松山の町のど真ん中にそびえる100メートルあまりの山の山頂にあって四囲を睥睨していること、山全体を城郭とする立体的かつ広大な規模の城であること、天守閣の姿が見事なこと、などがその理由である。
松山はこの城山を中心に開けた、典型的な城下町である。城山の麓の南側から西側にかけては、かつて上級・中級の武家町であった。子規は城の南側で生まれている。北側は職人町。今も城の北に、鉄砲町、木屋町などの地名が残っている。東側は下級武士と一般庶民の町であった。庶民の町であるこの東側一帯は、藩政時代には唐人町と呼ばれていた。実際、江戸初期かそれよりも昔、このあたりにはるばる唐人が連れてこられて住んでいたという話がある。 唐人町はさらに、大唐人(オオトウジン)、小唐人(コトウジン)の二地域に分けられていた。大唐人は、城の南東部の一帯である。城の東部から北東部にかけてが小唐人である。小唐人の中でさらに北側に位置するところを「北小唐人」といった。これが今の上一万のあたり、私が子供時代を過ごした場所である。 こうした地名は今では全く姿を消し、死語と化しつつある。「つつある」というのは正しくない。すでに完全に死語と化している。 私の子供時代にもすでに死語であった。だのに、私は子供の頃から、自分の住んでいる地域が「北小唐人」であることをよく知っていた。漢字で知っていたのではない。「キタコトウジン」という奇妙な響きの耳言葉として知っていた。この言葉を耳にするのは年に一度、秋祭りのときである。 松山の秋祭りは、10月初旬の3日間。各地域ごとに、代々受け継がれてきた御輿を繰り出す習わしである。面白いことに、御輿を繰り出す地域割りに、藩政時代の名残が色濃く跡をとどめているのである。この期間だけは、現在の町の区画や地名は雲散霧消し、かわりに藩政時代の地図があぶり絵のように浮かび上がってくるのだ。 私の住む町は「キタコトウジン」に属し、キタコトウジンの御輿を担ぐのである。この「キタコトウジン」という固い響きが、子供の私の耳には心地よかった。何か新鮮で、浮き立つ思いに駆り立てられるのであった。 キタコトウジンの御輿は北小唐人の地域を練り歩き、オオトウジンの御輿は大唐人の地域を練り歩く。その他の御輿もすべてそうである。従って、二つの御輿が練り歩く途中で鉢合わせすることはまずない。鉢合わせするのは、宮出しと宮入りのときである。鉢合わせで有名なのは、阿沼美(アヌミ)神社に納められている「四角さん」と「八角さん」の御輿である。鉢合わせの際に死者が出るほどの激しさである。 キタコトウジンとオオトウジンの御輿はどちらも道後の伊佐爾波(イサニワ)神社に納められており、宮出し、宮入りのときに鉢合わせする可能性がある。鉢合わせは少々危険を伴うものの勇壮で、秋祭りの楽しみの一つである。 ともあれ、死語である地名がそのときだけ復活するのは、秋祭りが非日常的行事である証拠であろう。いったん日常化し、日々の暮らしにとけ込んでしまうと、言葉であれ、物であれ、研磨の作用をまぬがれえない。すなわち、現実の変化に対応し、変化し、適応してゆかざるをえないのである。今ある人間関係や経済関係を度外視して、古い町の線引きや地名が復活することなど、日常化された現象において生じるはずがない。 「キタコトウジン」は死語であるが故に、私には永遠に懐かしい、郷愁に満ちた響きをもつ言葉である。 |