農 事 試 験 場


 上一万と道後の中間にある電停をかつて「南町停留所」といった。今それは「県民文化会館前」である。電停北側に「愛媛県県民文化会館」ができ、電停の名称も変わった。

 県民文化会館は、「西日本有数の規模と設備を誇る文化会館」とのふれこみで十年ばかり前に作られた。たしかに地方都市のこの種のホールとしては第一級のものであり、立派な外観が静かなたたずまいの町に威容を誇っている。

 これを白石前知事の業績の一つだと誇る人もいる。しかし、その裏で知事の懐に流れ込んだとされる多額の賄賂から、「賄賂の殿堂」と見る人が多いのも事実である。

 白石前知事は、保守王国愛媛を築き、そこに君臨した独裁君主であった。その「恵み」のお裾分けに預かった人、あるいは「保守」をまじめに信奉する人たちにとっては、これくらい度量が広くてありがたい君主はいなかった。しかし、反対者や批判者を抹殺する英知にも長けていて、結果として多くの人を泣かせ、敵を作った。

 彼への批判の一つが、「愛媛玉串料訴訟」であった。白石知事が靖国神社への玉串料として県費を支出した問題を取り上げ、政教分離の立場からこれに反対する人たちが訴訟を起こしたのだ。当初は巷の一訴訟に過ぎなかった。しかし問題の重大性が認識されるにつれ人々の関心は高まり、紆余曲折した裁判の後、ついに先日の最高裁で、玉串料への県費支出を違憲とする判決が出た。全国的に話題を呼んだ判決であった。白石前知事が永遠の眠りについた直後のことであった。彼は自らが被告になったこの裁判の判決を知らずに他界した幸せ者である。

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 話がそれた。県民文化会館が建っている場所はかつて県の農事試験場であった。農事試験場の西のはずれは私の家から50メートルも離れておらず、子供の頃の私にとって、農事試験場は格好の遊び場であった。市街地でありながら、すぐ近くに広々とした田畑やお花畑、樹木の茂り、空き地、牛馬の飼育場、小川の流れがある環境は、子供にとってこの上ないものであった。農事試験場の思い出は尽きない。少しエロチックなうっとりするような体験までした。それらは追々、自伝風エッセーの方で紹介してゆくことにしたい。

 今、農事試験場の施設はすべて取り壊されている。私の記憶の中にのみ存在を保っている農事試験場の全貌を、忘れないうちに記しておきたい。かつてはそんなものが町中の一角にデンと場所を占めていたのだということを、夢物語のように聞いていただいたのでよい。

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 広い敷地の南西隅、電車通りに面したところに二階建ての事務所があった。我々子供たちは窓からよくその中を覗き込んだ。タイプライターのあわただしい動きを初めて目にしたのもそこだった。右端まで動いては、ガチャッと左に戻って、再びパタパタと文字を打ち始める、その動きが面白く、時を忘れて食い入るように見とれていた。

 狭い陰気な通路を挟んだその東側には、化学実験棟があった。それも二階建て。こちらも窓からよく中をのぞき込んだ。細い管でつながれたフラスコから、ぽたぽたと長い時間をかけて液がしたたり落ちる様子などを、飽きずに眺めた。化学実験棟はその一部が妻帯者の寮になっていて、私の友人の一人が住んでいた。

 事務所と化学実験棟の間の狭い通路には、寒天の棒を大きくしたような御影石の石柱が何本も無造作に転がされていた。何かを建てたときに不要になったものか、あるいは何かを建てるために準備していたのか、それはわからない。石柱はずいぶんたくさんあった。今で言えば子供のアスレチック場のようで、子供たちはそれを使って遊んでいた。

 石柱のある通路の奥に、木造二階建ての大きな建物があった。二階は舞台を備えた講堂になっていた。そこで日本舞踊のおさらい会や、映写会などがときおり催され、私も何度か出かけたことがある。一階には守衛室、事務室、倉庫などがあった。

 その講堂の東の空き地には大きな桜の木があった。四月中旬、桜が吹雪になって散ると、子供たちはその花びらを拾い集めて空き缶などに入れ、すりつぶす。色のついた化粧水ができるのだ。男の子と女の子が一緒に遊ぶことなど滅多にないのだが、そのときだけは化粧水を使って、我々男の子も女の子と一緒に「女の子遊び」をした。

 桜の木の植わる空き地のさらに東側にニワトリ研究所がある。子供にとっては楽しい場所であって、ときどき中に入れてもらった。赤色の熱い光(赤外線)を当てて孵化させる装置などもあった。生まれたばかりの小さいひよこから、大きくなったニワトリまで、様々なニワトリが飼われている。ときには職員が我々にひよこをくれることもあった。

 ニワトリ研究所の南側(化学実験棟の東)は、早苗を作る苗代になっていた。水が張られる頃になると、ミズスマシがすいすい泳ぐ。オタマジャクシやドジョウもいる。コンクリートの仕切で碁盤目のように小さく区切られているので、仕切の上を歩けば、小さな生き物を間近にすることができる。水生生物の格好の観察場所であった。

 講堂やニワトリ研究所の北側は独身寮である。数十人の研究者や作業員が住んでいた。そのうちの何人かとは知り合いになり、部屋に入れてもらうこともあった。ギターやハーモニカを弾いてもらったり、ガムをもらったり、出身地の話を興味津々に聞かせてもらったりした。

 独身寮のさらに北側には、テニスコートがあった。ここは普段は我々子供の遊び場である。ネットがはずされてポールだけが立っているテニスコートで、子供たちは野球をやった。子供の野球にちょうどよい広さだった。

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 以上述べた部分全体が、農事試験場の南西の一ブロックを構成している。そのブロックの東側には、もっともっと広い南北二つのブロックがある。南側、電車道路に面したブロックは、花および樹木の研究農場である。季節季節の花や樹木が植わっている。ここはいつも清楚に整っていて、入ると目に鮮やかで気持ちいい。だけど、不思議に子供たちには敬遠されていた。あまりにきれいに整いすぎていて、子供が土足で入って遊び回るにはばつの悪い雰囲気があったのだ。それでもときには入ってみた。小道までもが他とは違って白っぽく上品で、いかにも入ると叱られそうな厳粛な雰囲気があった。

 その北側のブロックには、大きな広場を取り囲むようにして研究棟がいくつも並んでいる。研究棟のそばには樅や樫などの大木が茂っていた。開けた花畑と白い小道だけの南側の世界と違い、北側のブロックには光を遮る緑陰とその下の湿った雑草の世界があった。これが子供たちに親近感を覚えさせた。

 研究棟の北に広がる中央広場も子供たちの遊び場であった。ただそれは広すぎて、野球には向かなかった。外野を抜けたボールを拾いにゆくのが大変なのだ。中央広場の北西一帯に、牛や馬が飼われていた。農耕用である。鼻を突くにおいを我慢しながら近づき、餌を食んでいる彼らを飽きず眺めることも多かった。

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 この中央広場は、毎年11月1日から3日まで開かれる愛媛農業祭のメイン会場になる。県内各地から農家の人が集まってきて、出品されている農機具その他を見て回るのだ。子供にとっても楽しみで、3日間毎日、学校から帰るとすぐにカバンを放り出して会場に出かけ、何度も何度もくまなく歩いて見て回る。研究棟の内部に展示されている模型などを見るのも楽しいのだが、何よりも最大の楽しみは、チラシを集めることであった。

 農機具などの宣伝のチラシが出店ごとに積み上げられている。それを少しずつもらって歩くと、そのうち抱えきれないくらいになる。家にもって帰って、また出かける。どんどんたまるのが嬉しくてたまらない。集めたチラシは後でたっぷりと紙飛行機の材料になった。

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 今まで述べたブロックのすべては、農事試験場全体の南半分に当たる。北半分は、稲、麦等の本格的な農場である。ここも子供たちの遊び場であった。といっても、稲の植わっている夏場に田んぼに入ることはできない。その間は、もっぱら小川が遊び場となる。田の畦に沿って小さな流れが幾筋も通っている。そこで虫を捕ったり、魚を追いかけたり、草舟を浮かべたりして遊ぶのだ。

 刈り取りのすんだ秋から冬にかけては、田んぼ全体が遊び場と化す。追いかけっこや凧上げ。いくらでも遊べる。麦が大きくなると、かくれんぼにちょうどよくなる。

 こうして、農事試験場は我々子供の暮らしの中心であった。町の中のオアシスであった

 今、それらはすべて夢のようにかき消されてしまった。そこに出現したのは、県民文化会館の巨大な建物と、その周辺の駐車場・広場、それと県民文化会館裏手の身体障害者センターである。


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愛媛県松山市在住 奥村清志
愛光学園勤務
メール : koko@mxw.mesh.ne.jp