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Olimpus Maitani - 1

d1ac496b.jpgPEN、OM、XAなどの開発者、元オリンパス光学工業常務の米谷美久さんが7月30日に逝去された。このところブログの更新をサボっていたが、前回のエントリーで米谷さんのことに触れたばかりだった。本当に残念で淋しい。特に優れたカメラでなくとも写真は写るし、カメラ如きに拘るのはそちらのプロかマニアの世界といえばそれまでかも知れない。PENが何のことだが知らない一般国民の皆様にはそれほど関心が持てない分野ではあろう。しかし、米谷さんの設計思想、商品開発姿勢には、ホンダの本田宗一郎さんやソニーの井深大さんのような魅力があったことを、米谷さんの存在を知らなかった方々にも知って欲しいと思う。1959年、カメラが高級品だった時代に米谷さんは、庶民にも手が届く価格6000円でPENを世に送り出した。12枚撮りのフィルムで24枚撮れるハーフサイズ、撮った写真を大きく引き伸ばすのは辛いが、庶民がサービス判程度の写真を残す程度ならば十分だ。十分どころかレンズの描写力は当時のプロカメラマンがサブカメラとして使用するほどの良さ。これには業界も、家族の写真を残したいお父さんもぶっとんで大ヒット。その勢いで、シャッター速度や焦点を固定し、シャッターを押すだけで誰でも写真が撮れるPEN(EE)、固定範囲をやや広げてより多様な条件でも誰もが写真を撮れるようにしたPEN(EES)などを発売、撮影者の立場にたった機能を安価に実現するアイディアが抜群でさらなる大ヒットを記録した。もちろん、お金を積めば、もっと優れたカメラは当時もたくさん存在した。一眼レフならばニコンF、レンジファインダー式ならばライカMなど、でもそれはとても庶民に普通に買える価格ではなかったのだ。ところが1970年代になり、所得倍増政策の成果で庶民の金廻りがやや良くなってくると、12枚撮りで24枚撮れるハーフが貧乏臭く感じるようになってしまう。カラーフィルムも普通に使われるようになると、お父さんたちは大きさは我慢してローソクの光でも撮れる(笑)フルサイズのヤシカエレクトロ35などに浮気をする。もっとお金のあるお父さんは、新聞社のカメラマンが持つような一眼レフカメラを自慢げに肩から提げ始め、オリンパスの路線はやや時代遅れになっていた。そんな状況下、他社に遅れて1972年、米谷さんが設計、発表されたオリンパスの一眼レフOM-1(発売当時はM-1)に、業界は再びぶっとんだ。他社よりも一回り小さいボディ、レンズ、シャッター音。エベレスト登山隊が携行カメラに選ぶほどの、重量と機械的な信頼度が高さ。小型で愛着の湧く一眼レフカメラでオリンパスは復活する。さらに2年後の1975年に発表されたOM-2でまたまた業界はぶっ飛んだ。フィルム面に反射した光を測光して明るさを割り出すTTLダイレクト測光。これが凄い。ストロボをいくつ使ってても露出優先フルオートで撮れるカメラなんて当時は無かった。「宇宙からバクテリアまで」というのがOMの宣伝文句だったが、リングストロボというレンズの廻りを囲むように光るストロボを装着し、マクロレンズで花の花弁をアップで撮影しても、オートで撮れる。これは一眼レフの敷居を下げるだけなくマクロ撮影を業とするプロカメラマンの撮影をも容易にもした画期的な機能だった。また、レンズだけでなく、フォーカシング・スクリーンやアイカップ、ワインダー、モータードライブ、ストロボやデータバックがすべてOMシステムとして完全に共通部品化されていたのも親切だった。経済的に庶民の味方でかつ小型高性能、これはPEN同様のスピリッツだ。当時の2大カメラブランドはAE化のためにレンズマウントを変更したり、レンズに変な部品を付けてたりして対応していたのだから痛快だ。小型化は他社にも甚大な影響を与えた。某社などはOMより小さくすることに熱心なあまり、標準レンズの直径がボディの底面をハミ出すサイズになるようなカメラを主力機で売っていたりもしていた。小さきゃ良いってものでもないのに。(笑) そしてカメラが高級品でなくなり、お父さんだけでなく、お姉さんも扱え、世界最速のシャッタータイムラグを誇る冨士フィルムの名機「写ルンです」が一世を風靡した1980年代、米谷さんが発表したのが、XA。ボディを横に広げるとレンズが顔を出す。昨今のコンパクトデジカメではよく見かけるスタイルだが、その元祖がXAだ。ボディを閉じればそのまま持ち歩ける。デザインもグッドデザイン賞を受けるほどカッコイイ。で、写りはというと同サイズ、同クラスのカメラを凌駕する質。しくみはともかく、カメラをカメラケースに入れず持ち歩くことを前提とした、現在のコンパクトデジカメに連なるある種のデザインの始まりがXAにあったように思う。これだけ書いても、カメラに関心のない方には理解されそうにないので、そろそろやめるが、どうでもいいような機能の優位性を打ち出しては技術開発のための技術で研鑽を積み、時にガラパゴス化するようなとんでもないお化け製品を開発することもあるのが、日本の工業界の強みでありイノベーションを支える原動力ではあるのだが、世界を驚かす画期的な商品が生まれる背景には、技術者とは別の発想が付きものだ。本田宗一郎さんの向こう見ずな覇気とか、大賀典雄さんの芸術感覚とか、松下幸之助さんの商道徳感等々、例はいろいろある。ところが米谷さんは、自身でその両方を持ち合わせた技術者だった。ヴァイオリニストがヴァイオリンを作れたら。野球選手がバットを作れたら。そりゃ良いに越したことはないのが、それは実際には難しい。ところが米谷さんはそれを実現した稀有な例なのだ。日本には科学技術の発展に寄与した研究者、技術者は星の数ほどとは云わないがたくさんいる。しかし、商品開発の分野で、これだけスマートに個人のセンスが業界をリードした例はあまりない。ユーザーからサインを求められる技術者もそうはいない。昭和の国宝級技術者がまたひとり世を去った。ひとりのファンとして心からご冥福をお祈りしたい。

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