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管弦楽フォーク

f55c704a.jpgいまどきこのジャケットデザインに反応するのはクルマ好きのオヤジだけかな? 私は音楽が好きで聴いている。この頃のフォークソングはこの曲のように生のストリングス(弦楽編曲)が使われていることが多い。ロックバンドに管弦楽という編成は音に清潔感があって爽快だ。これを知的な音などというとクラシックコンプレックスが丸出しになってしまうが、まあそんなところだ。戦後のポップス歌謡曲は進駐軍キャンプ周辺でジャズを演奏していた人々を中心に発展してきたので、伴奏は金管が主役のジャズのピッグバンドが当たり前だった。「原信夫とシャープス&フラッツ」「岡本章生とゲイスターズ」「ダン池田とニューブリード」とかね。ところが60年代の後半になるとビッグバンド編成でない歌謡曲が増えてくる。これはとりあえずビートルズの影響と言い切ってしまっていいだろう。ビートルズブームでポピュラーソング伴奏の主役の座が完全にジャズからロックに移っただけはなく、弦楽四重奏をバックにしたイエスタディなど、それまでに無かった楽器編成で次々にヒットを飛ばしたものだから、豪華なはずのピッグバンド伴奏がダサく聴こえるようになってしまった。ボブディランがロックバンドを従えて唄うようになったのもその頃だ。「ケン&メリー~愛と風のように~(BUZZ)1972」も歌自体はギター1本で唄うようなフォークソングだが、若き日の高橋幸宏によるアクセントの効いたドラムと大袈裟なスリングスによってソフトロックの名曲に変貌している。日本ではこのパターンのキーパーソンはきっと村井邦彦氏だろう。ヒューマンルネサンス「廃墟の鳩(タイガース)1968」、再評価が待たれる「愛の理由(トワ・エ・モワ)1969」に始まり、誰でも知ってる「翼をください(赤い鳥)1971」、隠れた名曲「憶えているかい(ガロ)1973」など、かなり早い段階で欧米で流行し始めた編曲手法を導入している。これにはマルチトラックレコーディングが可能になったという技術的な進歩も背景に含まれる。アメリカのA&Mレーヴェル、ヨーロッパ(フランス)ではポールモーリアが管弦楽器をパート録音し、それまでのレコードでは聴くことが出来なかった抜けの良いキラキラストリングスの音が世に溢れたのだ。70年代に入ると加藤和彦がすぐに反応し「あの素晴らしい愛をもう一度(加藤和彦と北山修)1971」を出せば、新人バンド、チューリップも青木望編曲の「夏色のおもいで(チューリップ)1973」や「青春の影(チューリップ)1974」などで大胆な管弦楽編曲を取り入れている。こうしたアレンジは60年代的の発想の集大成として70年代前半にほぼ手法が完成した。そういう意味ではプログレッシブロックと同根だと私は勝手に考えている。プログレが70年代中期に失速したのと同じように、この管弦楽フォークも「翳りゆく部屋(荒井由実)1976」あたりを最後に流行のメインストリームから離れていく。プログレが編み出したマルチキーボードシステムがオケの代用品となり、5人編成程度のロックバンドをバックに唄う歌謡歌手が増えてしまったのだから皮肉なものだ。その後の時代と云えば、村井邦彦氏のアルファレコードの最初のアルバム、厚見玲衣によるシンフォニックプログレバンド「ムーンダンサー(ムーンダンサー)1979」あたりが印象深いが、ディスコ全盛だった当時の流行からはかなり逸れた音だ。ほどなくアルファはYMOや戸川純で時代の寵児となるが、それは生弦が鳴るような音楽ではなかった。また、同じ時期で弦が美しい曲といえば「ローレライ(H2O)1980」がある。彼ら珠玉のデビュー曲。「想い出がいっぱい(H2O)1983」が大ヒットするが、弦が活躍するのはそのあたりまで。以後、彼らは当時の音楽的流行に翻弄されながらの苦闘する。彼らが60年代的なるものの日本での最期の音だったのかも知れない。

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