モスクワ 1994.10.17
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1時間遅れでモスクワのシェレメチェウ空港に到着する。日本時間とモスクワの誤差は6時間。都合、10時間も座席に座っていたことになる。現地時間は18:30。乗り換えは翌朝になるので、トランジットホテルに泊まる。空港内は、薄暗く、長いこと使われていないようにさびれている。灯りすらも、ついていない。ロビーはすぐにぐるっと一回りできてしまう。同じくモロッコが目的地だという人達と一緒になる。デザイナーで休業中のYさんと、多目的ホールで働いているHさん。二人とも、社会人である。空港内の喫茶店でコーヒーを飲んで、自己紹介し合う。トランジットの手続きの仕方が分からなくて、三人揃って、空港内のロビーをうろちょろとさまよう。事務室らしきところで聞いたのと、後は矢印の札が下がっていたのでその示す方向に行ってみると、同じく夜を明かす人達で混み合っていた。階段の後ろで、こっそりと荷物の鍵を確かめる。といっても、クリップを挟んだだけの、簡素な代物。どれくらいもつか。しばらくして、トランジット・ホテルに向かう人達が呼び出される。空港の外に出て、バスに乗る、というので、躊躇するが、戻れなくなったら、そのときはそのとき、と半ば覚悟を決めて乗り込む。走っているバスの窓からは、コンクリート造りの殺風景な高層の公団住宅が立ち並んでいるのが見える。出発前に他の人に薦められて見たがタイトルを忘れてしまった映画にそっくりの風景が広がる。モスクワ市街をロケにしているから、似たような景色が見えるのは当然かも知れない。
とっぷりと暮れた頃に着いたのは、ソユーズという名前のホテル。まだ宿泊のいろはも分からないので、皆の後ろについていく。フロントで、各人の航空券をチェックした後、部屋の鍵を渡される。私の分の航空券がチェックされていないとのことで、もめるが、それでも宿泊可能ということにして手続きしてくれた。確かにトランジットは予約していったのだから、ひと安心する。鍵と部屋の階の関係がわからなくなって、またフロントに戻って聞き直す。もたもたしていると、フランス人のひとが部屋まで連れていってくれた。格式がありそうで、それなりにシックに見えるホテルではあるのだが、部屋の扉を開けて電灯のスイッチをつけると、咄嗟に、作り付けの化粧ダンスの中を、ぞろぞろと甲虫が何匹も這い回っているのが目に飛び込んできた。げ。慌てて閉める。荷物をテーブルの上に置いて、夕食を取りに階下へ降りていく。モスクワはヨーロッパ方面に向かう人々の中継地点で、日本人が多かった。ミラノに帰るという女の人二人、フィヨルド近くの別荘の管理を友人から頼まれてノルウェーに向かうという男の人、それから、先ほどのフランス人、そして、私達三人。他に宿泊客はいない。夕食は、黒パンとチーズと魚の焼きもの。かなり荒っぽく、お世辞にも豪華とは言えないが、食料難でもあるだろうし、そんなものだろうな、と思いつつ、食べる。途中で、いきなり、花束を幾つも抱えた女の人が現れ、「おひとついかが」とやってくる。皆、丁寧に退けている。よく聞くと、もらったら支払わなければならないそうである。それから部屋に引き取る。でも、でも。甲虫の這いずり回っているのをこの目で見てしまった以上、どうしても南京虫の聞いた話が耳にこびりついて、ベッドに横になることができない。悩んだ末に、荷物を置いたテーブルの上に、私も丸くなって眠ることにした。
寝つきが悪く、次の日はもうろうとして起きる。エレベーター近くのガラス窓から、遠くを眺めると、昨日と同じく殺風景で近代的な高層ビルと、何やら船が湖面を走っているのが見える。しばらくして気がついた。集合時刻に遅れる!一階のロビーに慌てて飛び降りて行くと、フロントの人が、「おはようございます」と挨拶してくる。私も丁寧に答えると、にこやかに笑う。それから、朝食に、と缶ジュースやら、オレンジやら、スナックやらの入ったビニール袋を手渡される。万事大雑把である。他の人は、ベッドでぐっすり快適に休んだそうで、もしかしたら気をもむことはなかったかも、ともったいない気持ちになる。ホテルの外には、犬が数匹じゃれていた。バスは他のホテルにも途中で寄り、同行の人達を乗せていく。聞けば、夕食は出なかったとのこと。朝食に類するものも一切もらっていないという。皆で少しづつ分け合う。やはり、トランジット・ホテルには運・不運があるという噂は本当だったのか。
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