ダンスホールは戦前からあったらしい。だが、戦前のことを私は知らない。終戦後、服も食べ物もろくにない焼け焦げた日本の都会で、人々が明るい希望を求めて集まってきたのは、ダンスホールか喫茶店であった。全国いたるところ、都市という都市には必ずダンスホールがあり、青年男女の社交の花が開いた。恋が芽生え、愛が語られた。ハイカラな老紳士、老婦人も出入りした。今ではちょっと想像できないことだが、ダンスホールは大衆社交のメッカであり、シンボルであった。

 ちょうど私が子供時代を過ごした松山の一角、上一万界隈にもダンスホールがあった。上一万はいわゆる繁華街ではない。下町のにおいのする庶民の暮らしの場である。八百屋があり、タバコ屋があり、町医者がおり、金物屋があり、駄菓子屋がある。私の父は油揚げを作り、その隣は貸本屋をかねた八百屋、右筋向かいはうどん屋、向かいはブリキ屋、左筋向かいは大工、その隣は左官。そんな町である。もちろんサラリーマンもいる。学校の先生もいる。

 私の家の裏手を二軒ほど入ったところには、ひっそりと静まった屋敷に芸妓の姉妹が住んでいた。私の目にはもう大人の女性だったが、今思うと16,7歳の可憐な姉妹である。毎夕、決まって迎えの人力車(私の時代に人力車なんてとお思いだろうが、本当に人力車だった)が来て、厚く化粧をした二人が出かけて行くのを、私たち近所の子供たちはまるで禁断の実か魔女でも見るように、こわごわと隠れて、しかし興味津々と見守っていた。

 こんな町の一角にダンスホールがあった。看板くらいは掛けてあったのだろうが、外目にはけばけばしい装飾は何もない。薄いブルーに塗った壁にドアが一つある。あっけらかんとしたアメリカ風の建物だった。私たち子供にはダンスなんて縁がなく、毎日登下校で通る道沿いにあるにもかかわらず、それは子供にとって最も存在感の薄い建物だった。それが何であり、その中で何が行われているのか、関心を持つことすらなかった

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 ある日、我々同年輩の子供たちの中の一人が、ドアの隙間から中を覗いてみようと言い出した。我々の中では少々異端児的で、大人のやることに異様に興味を示す子供であった。他の子供たちが見守る中、彼はドアのノブに手をかけ、隙間から中をのぞき込んだ。私はそのとき小学校4年生くらい。それまで、そこが「ダンスホール」と呼ばれる場所であることすら知らなかった。

 しばらく覗いていた彼は、再びそっとドアを閉めると我々の方を振り返り、子供の笑みではない笑みを浮かべた。その笑みを見て私はとっさに、その中に禁断の果実が隠されていることを悟った。芸妓の姉妹を見るときと同じ恐怖と興味をそそられた。私にはしかしドアを開ける勇気はなく、かといってそのまま立ち去るにも忍びないといった風で、勝ち誇ったようなその友人の大仰な自慢話を聞いていた。

 そのうち誰かが、ドアの上部に隙間があることを発見した。ドアを開けなくてもそこから見えるというのだ。肩車をして順番に見ようということになった。私の番がきた。こわごわと覗くと、たしかに中が見えた。だけど暗い。薄暗い中に所々青や赤の明かりがともっている。人の気配はあるのだが、肝心のホールはその手前のついたてに阻まれてごく一部が見えるだけである。それだけのことだ。ダンスに興じている男女が見えたのか、あるいは音楽が聞こえてきたのか、私の記憶に今はもうない。

 私の記憶を構成しているのは、薄暗い中にともっていた青や赤の明かりと、おませな友人の浮かべた卑わいな笑み、それだけである。

 現実には社交ダンスは卑猥でも何でもない。スポーツ性を持った芸術であり遊びであろう。そして何よりも社交の道具である。ヨーロッパの宮廷が発祥の原点だと思うが、日本でも鹿鳴館時代に盛んに行われた。ただ、男女ペアで踊ること、そして年頃の男女にとっては「つがい」探しの意味もあること、などがときに卑猥性を感じさせる遠因なのであろう。

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 私の子供時代、ダンスが大流行で、松山のあちこちにダンスホールができていたことを知ったのは、うんと後になってからである。私にとってのダンスホールはその垣間見がすべてであり、その一度の体験を除けば「ダンスホール」が私の頭を占めたことはない。

 ダンスホールは私にとって一過性の衝撃であったと同時に、時代の流れにおいても一過性であった。戦後の一時期、せいぜい10年あまりの現象であった。そののぞき見から一年たつかたたないかに、ダンスホールはつぶれ、そこは新聞の集配所になった。生活の苦しさを抱えながら仲間を求めて群れ集まる時代から、暮らしの歯車は一つコトリと回転したのだ。

 ちょうどダンスホールがつぶれた頃、皇太子と正田美智子嬢の結婚式があった。そして日本は高度成長の時代に突入していった。生活にゆとりができ、群れ集まるよりはマイホームで家族生活をエンジョイする暮らしに転換していったのだ。

 還暦を過ぎた人々にとっては、ダンスホールは消えることのない青春時代の思い出の一ページなのではなかろうか。


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愛媛県松山市在住 奥村清志
愛光学園勤務
メール : koko@mxw.mesh.ne.jp