上 一 万


 湯の里・道後から2キロばかり市の中心部に寄った大きな四つ辻が上一万 (カミイチマン)である。交通の要所である。上一万から西へは銀杏並木の美しい平和通りがまっすぐに伸びて、かつて松山の中心的繁華街であった本町、古町(コマチ)方面に続いている。南へは市電の走る勝山通りが。北は、松山のニューベッドタウンに変りつつある高台の伊台方面に続く。東は、道後方面に向かう電車道である。その四つ角の電停の名を上一万という。北西方向にも市電は走っているので、3本の市電の出会う地点でもある。実をいうと上一万というのは地名ではなく電停の名である。四つ辻を囲むようにして東一万、中一万、西一万の3つの町がある。

 このあたりは小説「坊ちゃん」の昔には、藩政時代の名残で「小唐人町」(コトウジンマチ)などと呼ぶ人もいたであろう。遠い遠い昔には、はるばると海を越えて連れてこられた唐人がこの地に住まわされていたという話もある。職人の町ででもあったのだろうか。坊ちゃん(漱石と読み替えてもよい)はおそらく、遊興がてら道後の湯に入りに行くことも多かったであろうから、その時にはこの四つ辻をそぞろ歩いたはずである。

 さて、私が真っ先にこの地に皆さんをお連れした理由は、ほかでもない。ここが私の育った町だからである。でも、個人的理由からではなく、この上一万界隈のここ何年かの変貌は、松山の変貌を象徴しているように私には思われる。

 その変貌ぶりの一端を今から少し紹介してみたい。私の子供時代(40年ばかりの昔)にも市電は現在とほとんど同じコースを走っていた。ただし、上一万から北西に向かう路線(城北線と呼んでいた)のコースは今とはわずかにずれていた。今は上一万停留所からすぐに平和通に出、平和通の中央分離帯の上を少し走った後、北西に進路を変えているが、かつては、平和通の南側に古風な駅舎があって、いったんそこを経由した後、平和通を斜めに横切って北西の日赤方面に向かっていた。

 今の停留所は、路面電車の乗降場としてはごくありきたりの屋根のない裸のプラットフォームである。機能性だけ、というやつである。ところがかつての上一万停留所は、小さいながらも完全な「駅」の形を保っていた。駅員もおり改札口もあった。建物もモダンな洋風で、単なる機能性だけでなく、屋根の形や壁の造りに芸術的風格が感じられた。生活の流れが今のように小刻みでない時代の産物である。それから見ると今の電停は、血肉を失った鶏のガラか。

 めまぐるしい変化への即応性が要求される今日では、機能に直結しない芸術性や重厚さは、フレキシビリティーに対する敵なのであろう。今も道後の駅舎にかつての上一万駅舎に似た趣きは残っているのだが、今の道後のは観光を意識しすぎているきらいがあって、やや鼻をつく。


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 最近、上一万から道後に向かう電車道の道幅がかなり広がった。人家の密集した町中の道をどうやって広げることができたのか。答えは簡単である。道路に沿う一区画の町筋がそっくり取り払われたのである。かつては平和通を古町方面から東に進むと、上一万交差点で見かけ上は行き止まりになっていた。道後方面にそのままストレートの直進を許さぬ形で、一区画の町筋が立ちはだかっていたのだ。東に向かって先細りになる細長いデルタ形の町筋で、東の端は本当に尖っていた。

 それが今そっくり取り払われて、平和通がそのまま直進で道後までつながったのである。車の流れはよくなり、それはそれでいいことだが、そこに住んでいた人々の暮らしはどうなったのか。実は昔、父が油揚げの製造をやっていた頃、私の家は、取り払われた町筋のすぐ北側の筋にあった。表の電車道との間に細いデルタ地帯の町筋が一本通っていたわけで、それがちょうど防護柵の役割を果たして、子どもたちにとってその裏筋は、日陰ながらも車や電車の通らぬ安全地帯であった。

 それが今や、庇護者のデルタが取り払われたものだから、裏筋がそのまま電車道に剥き出しになったのである。時折近くを通ってみて、あまりの変貌ぶりに唖然とする。まるで内臓を体外に引っぱり出されたような思いである。私の住んでいた家も今では取り壊されて駐車場になっている。私を形作った子供時代のゆったりした時の流れがいきなり濁流に呑み込まれ、押し流されてしまった感がある。手作りの畑が大農場のトラクターに押しつぶされた、スタインベックの「怒りの葡萄」を思い起こす。

 こうした、かなり無理を感じさせる道路の拡張や新設が今の松山の常態となっている。これをあながちいけないとは思わない。50年後、100年後をにらんだ都市計画であろうと思われる。すでに人が住んでいるところにはいっさい手をつけないというのでは、都市構造の近代化は果たせないであろう。最初は自然発達の原理で膨らみはじめた町の構造も、それがある限界を超えてなお発展する様相を示したときには、人為操作による新たな再構築も必要になる。今の松山はその時期を迎えているのかもしれない。

 そこに暮らしをもっていた人々に対する十分な補償や代替地の斡旋がある場合には、これはある程度まで許されることかもしれない。ただ、精神面で失ったものはいくらお金を積んでも償いきれるものではない。そのことに対する配慮を欠いたごり押しの交渉や取り壊しには賛成しかねる。実際、そういった悶着は各地で起きているようである。立ち退きに賛成した箇所から先に工事を始め、反対している家をぽつんと取り残してしまうという、精神的いじめも現実にある。

 上一万の場合には比較的スムーズにことは運んだのかもしれないが、人情を無視して紙の上にただ線を引くだけの計画を都市計画とは呼ばないことも理解してほしい。

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愛媛県松山市在住 奥村清志
愛光学園勤務
メール : koko@mxw.mesh.ne.jp