ラ ジ オ 屋


 調べてみると、ラジオ体操が日本で始まったのは1928年。すでに70年の歴史をもっている。ただ、今のように夏休みの早朝、子どもたちが体操カードを持って集まるといった習慣ができたのは、おそらく戦後のことだろう。ラジオ体操の始まり自体がアメリカの模倣だったというから、体操カードを持って集まるというシステムは、あるいはアメリカ進駐軍の発想だったのかもしれない。

 今は子供の数が減り、地域によってはラジオ体操の習慣がすたれつつあるところもある。私の子供の頃は、子供だけでなく大人までもが参加して、ずいぶんにぎやかにラジオ体操をやっていた。上一万界隈のその会場はなんと、空き地ではなく、上一万交差点だった。平和通が上一万にぶつかったところ、まさに路上、しかも交通の要所である四つ辻のど真ん中だ!

 6時半から始まるのだが、すでに6時には誘い合った子どもたちが三々五々集まりはじめる。大人も来る。老人も来る。朝早いし、今のように車の数が多くはなかったから、交差点のど真ん中で子供たちが群れ遊ぶことに何の抵抗もなかった。ひとしきり遊んで遊び疲れた頃に、やっとラジオのスイッチが入れられる。すると例の誰もがよく知っている前奏音楽と、それに続いてアナウンサー兼体操指導者の「おはようございます」の力強くて甲高い声が聞こえてくる。さらにはそのアナウンサーの声に応えて、公開会場に集まった子どもたちの「おはようございまーす」という叫びが、「わーっ」というけたたましい騒音となってこだまする。ラジオで臨場感をもたせるうまい演出である。

 上一万交差点の「ラジオ体操広場」に面してちょうど電器店があった。当時はそれを「ラジオ屋」といった。ラジオは電気製品の象徴であったのだ。今は取り払われてなくなったデルタ地帯の西の端である。そこにラジオ屋があるのもラジオ体操には都合がよかった。スピーカーがあり、対岸の上一万駅舎の近くにまで膨れ上がった参集者の全員に十分聞こえる音量を出すことができたのである。

 終ると子どもたちはカードにハンコを押してもらうために行列を作る。そしてまた三々五々帰ってゆく。遊びの約束などしながら…。牧歌的な光景である。

 その中に私もいた。小学生の私が。

 時間は刻々とやって来て、また刻々と消えてゆくものだと誰もが思うだろう。しかしそうではない。時間は刻まれてゆくのだ。彫り込まれてゆくのだ。その主要な部分は人間の記憶の中に、そしてわずかな部分が文字として、あるいは写真として…。瞬間瞬間の時は限りなく流れ行くものであり、そして「瞬間」に貼り付けられた個物は瞬間とともに消え去るものだとしても、消えたはずの過去は決してなくなりはしない。彫りつけられて過去は残るのだ。これは比喩ではない。事実として、現存在の中に、明白な形で残るのだ。

 上一万のデルタ地帯が消えた今、「瞬間」に従属していた個物が一つ姿を消したといえる。あのラジオ屋も、駅舎も、夏休みの朝の子供たちの喧騒も、すべては姿を消した。にもかかわらず、現実界から個物が一つ二つと消えてゆくのと歩調を取るように、私の脳裏では当時の暮らしぶりや息遣いがますます強く存在を主張しはじめている。不思議なことだ。

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愛媛県松山市在住 奥村清志
愛光学園勤務
メール : koko@mxw.mesh.ne.jp