亥の子と大黒舞
2008年6月9日
 最近,西成彦氏の『ラフカディオ・ハーンの耳』を読んでいて,意外な発見をした。亥の子と大黒舞のことだ。

 それを話す前に,私にとっての亥の子の思い出を語ることにする。

 昭和30年代の松山の下町。当時の子供たちにとって,亥の子は楽しい年中行事であり,同時に,夜寒と闇の神秘性に包まれた行事でもあった。家々から漏れ出るかすかな光が路地をいっそう濃い影の世界とし,ときには互いの顔さえ見分けがたい空間で子供たちは石を搗いた。

 11月の亥の日がその日であった。「一の亥の子」,「二の亥の子」などと呼ばれ,年によれば「三の亥の子」まであった。

 後の知識によると,亥の子は旧暦10月の行事とのこと。新暦の11月にぴったり重なっていたわけではないのかもしれない。

 亥の子の夜はなぜかいつも冷え込んだ。

 星が寒々と瞬き始める頃,どこからともなく子供たちが集まってくる。集まる家は決まっていて,大人たちが「地主さん」と呼んでいる家だった。私の家からは路地をはさんだ隣だ。かつては一帯の大地主だったらしく,母から何度も同じ話を聞かされた。

 「このあたりの土地は昔は全部地主さんのものでね,それはそれはお金持ちだったのよ。だけど今は,隣の家と,もう一軒,停留所の近くに屋敷があるだけになったそうよ」

 「昔」がいつのことで,「今」がいつからのことか,私には皆目見当もつかなかった。言われてみるとたしかに,隣の家と同じ姓の家が,学校の行き帰りに通る停留所の近くにあった。その家は,職人と商売人が軒を連ねる町にふさわしからぬ立派な門構えと広々とした庭をもち,子供心にも,どこか異質で威圧的な雰囲気を感じさせた。

 隣の家の方は私にはなじみが深く,同い年の女の子と幼い男の子がいた。おばあさんが格子窓から私たちによく声をかけてくれた。外の道で私たちが追いかけっこをして遊んでいると,「ちょっとおいで」とおばあさんが窓から手招きする。玄関を入ると,そこは裏庭まで続く土間で,座敷の端におばあさんが座っている。みんなに飴を一個ずつくれ, 「今日はオシロイバナがきれいだろう」とか「カンナの花が燃えているね」などと,奥の庭を指さす。

 たいていは「ふーん」とうなずくなり,飴を頬ばって外に駆け出すのだが,ときには裏庭まで土間を抜けて入ってみることもあった。庭には小さな池があり,亀と鯉がいた。その周囲にはたくさんの木が植えられ,隅に花壇がある。夏にはそこにオシロイバナが匂い,カンナが燃えていた。

 亥の子の宵は寒い。子供たちはセーターを着込み,身を縮まらせて集まってくる。おばあさんがいつも飴をくれる土間だ。天井から暖かな色の電灯がつり下がり,なぜか大工の棟梁が上がり框に腰掛けている。いつもと違う晴れがましさに子供たちはぴょんぴょん跳ねまわり,はしゃいでいる。

 頃合いを見て棟梁が,「じゃあ行くぞ」と立ち上がる。みながぞろぞろと外に出ていくと,地主の奥さんが玄関口で見送り,棟梁がそっと頭を下げる。

 子供たちは外の寒気にあらためて身を震わせ,亥の子の石にわれ先にとりつく。石は軽乗用車のタイヤを一回り小さくしたほどの大きさで,形もよく似ている。周囲にわら縄を巻きつける溝があり,ぐるっと巻きつけたその縄から,放射状に何本もの縄がタコの足のように外に向けて伸びている。それを子供たちが手に持ち,家の門々で亥の子の歌を歌いながらトントンと搗くのだ。

 縄を持つのは大きい子。小さい子はまわりで歌っている。町内の20軒ばかりの家を回るうちには体も火照り,セーターから湯気が立つほどになる。家々では駄菓子類を用意していて,子供たちが亥の子を搗き終えると,紙袋に入ったそれを渡してくれる。受け取り役は,縄をもつことのない少し大きめの女の子であった。

 さて,そこで歌われる亥の子の歌だが,『ラフカディオ・ハーンの耳』を読んでいて,意外な発見をした。ハーンが日本に来て間もない頃,被差別部落の人たちが演じる「大黒舞」を見たという。歌と舞は1時間以上も続く長いもの。庶民も上流階級も等しくそれを見て楽しんでいた。

 口承芸能だから文章化されておらず,ハーンは何とかしてそれを書き取り,英訳したいと熱望した。しかし,ハーンの日本語力ではとても聞き取ることはできず,人に頼んでテキスト化したのだが,その英訳は大変な労力の末に,結局は不成功に終わったという。

 その大黒舞。同じ『ラフカディオ・ハーンの耳』の付録に,正月に門付けをして回るのが大黒舞だとあって,その歌詞が載っていた。もちろん地域によっていろいろ違いはあろうが,そこに載っている大黒舞の歌は,まさに私の子供時代の亥の子の歌そのものであった。

 大黒舞は正月の縁起もの,亥の子は農作業が一段落したあとの子供の行事。出自や由来は違っていると思われるのだが,ぴたりと重なっているのを見ると,その同根の由来を知りたい気にもなる。

 『ラフカディオ・ハーンの耳』から抜き書きすると,次の通りである。
御座った御座った福の神を先に立て,大黒殿の能には,
一に俵ふまへて,
二ににっこり笑って,
三に酒を造って,
四つ世の中ようして,
五ついつもの如くに,
六つ無病息災に,
七つ何事なうして,
八つ屋敷をひろめて,
九つ小蔵をぶっ立て,
十でとうど納まった。大黒舞を見さいな。
 私たちが子供の頃歌っていた歌を記憶のままに書き記すと,次のようになる。
亥の子,亥の子,亥の子もちついて
祝わん者はおえべっさんに言うてやろ
それ,一で俵をふうまえて
二でにっこりわろて
三でさかずき飲み干して
四つ世の中よいように
五ついつものごとくなり
六つむびょうそくさいに
七つ何事ないように
八つやしきをたてひろげ
九つこくらをたてならべ
十でとうとうおさめた
この家繁盛せい,この家繁盛せい
 まさしく子供から子供への口承芸能だった。数え歌の部分はほとんど同じ。

 だからどうなんだ,と言われても,それ以上の言葉は私にはない。不思議なことがあるものだと思った次第である。

遊びの普遍性
2008年6月18日
 子供のころよくやった「クチク」という遊びのことを,「鳩になったTさん」にかつて書いた。小学生時代,それも3年生から5年生の頃,仲間うちでずいぶん流行った遊びである。誰かが「クチクをしよう」と言い出すと,それまでは三々五々道ばたに散って遊んでいた子供たちが,突然吸引器に吸い込まれるように集まってきて,町は突如としてクチクの子供たちの占拠場となった。彼らは路地という路地を縦横無尽に徘徊し,時も場所もすべて忘れて遊びに熱中するのであった。

 路地は袋小路になっているところが多く,大人の約束事では路地裏に連絡路などはなかった。しかし,子供たちから見ると板塀やブロック塀は冒険心をくすぐるアスレチックの障害物にすぎず,彼らは平然と塀に飛びつき,よじ登り,飛び降り,向こうはたいていは家の庭だから,おばさんの目を盗んで走り抜け,裏の通りに抜けていってしまうのであった。ニュートリノが易々と地球を通過していく姿に似ていた。

 それはそうとして,この「クチク」。妙な響きの言葉だなとは,子供心にいつも思っていた。しかし,その意味を考えてみようなどとは子供の私がするはずもなく,ひょっとしたらあれは駆逐艦の「クチク」だったのでは?そう勘づいたのは,大人になってからのことである。そして,想像が的中していたことを確信したのは,それからさらに幾星霜すぎた今日である。

 しかも,あの遊びに普遍性があったことをすら,今日私は知った。昨日までの私は,あの遊びは私の住んでいた町の,私たちの仲間うちだけの特殊な遊び,そう疑うことなく信じていた。

 今井和也氏の『中学生の満州敗戦日記』を読んでいて,偶然,このクチクのことを知ったのだ。こうある。

当時,学校ではやっていたのは「海軍遊戯」である。二組に分かれて,帽子のかぶり方で戦艦,駆逐艦,潜水艦などの役割を決めて校庭を走り回る,集団鬼ごっこである。

 名称は「海軍遊戯」となっている。「クチク」ではない。だけど,遊びの内容は疑いなく,私たちがやっていた「クチク」そのもの。「帽子のかぶり方で戦艦,駆逐艦,潜水艦などの役割を決めていた」とある。

 『中学生の満州敗戦日記』における,この遊びに関する記述はわずかこれだけなのだが,「帽子のつばが前を向いている人は横を向いている人に勝ち,横を向いている人は後ろを向いている人に勝ち,後ろを向いている人は前を向いている人に勝つ」という,私たちがやっていた遊びの規則は,「戦艦は駆逐艦に勝ち,駆逐艦は潜水艦に勝ち,潜水艦は戦艦に勝つ」という,軍国少年にとっての常識を下敷きにしたものであったことがこれでわかる。

 「クチク」がこのような三すくみの力関係を背景とした遊びであったことを私は今日まで知らなかった。

 今井和也氏が「当時,学校で」と言っているのは,ハルビンの日本人学校のことである。満州には日本各地から人が押し寄せていたから,これが元々どの地方から持ち込まれた遊びであったのかは,この記述だけではわからない。

 そこで,Web上で調べてみた。「くちく水雷」という遊びを発見した。遊び方は次の通りである。

2チームに別れ、各チーム「艦長」を一人きめ,ほかの人は「くちく」役「水雷」役に分かれる。

 各チームの陣地をきめ,「くちく」役は「くちく」と言いながら「水雷」を追いかけ,「水雷」役は「水雷」と言いながら「艦長」を追いかけ,「艦長」はだまって「くちく」を追いかける。

 「くちく」は「水雷」を追いかけ捕まえることができるが,「水雷」は「くちく」を追いかけることはできず,「艦長」は「水雷」を追いかけることはできない。

 捕まえられた人は敵陣につれて行かれ,一列になって味方が助けにきてくれるのを待つ。味方が助けにきて,切ったところから逃げ,陣地に戻ることができるが,見張り番にタッチされたときはまた捕まったことになる。

 「艦長」がつかまったり,「艦長」を捕まえる役の「水雷」が全員捕まってしまったチームは負けとなる。

 これは私たちがやっていた「クチク」に非常に近い。口で「くちく」とか「水雷」とか言い続ける代わりに,帽子のつばを前にしたり横にしたりしておくのである。捕まえたり,切って逃げたりするところも,まったく同じである。実は,捕虜の列を途中から切ることができる規則は,くちく水雷の上の説明を見るまで私の記憶から抜け落ちていた。そういえばたしかにそうだったと,いま思い出したところである。

 私たちの「クチク」が「くちく水雷」と大きく違っていたのは,開放的な運動場を走り回る鬼ごっこ的な遊びではなく,入り組んだ路地裏を遊び場とした一種の冒険旅行的・行軍的な遊びだった点である。大規模なかくれんぼという要素もあった。敵に遭遇したとき,そのときにだけ,帽子のつばの向きがものをいって,鬼ごっこに変身する。

 「くちく水雷」の場合には,遊びの時間は10分程度,とも説明されている。だが,私たちの「クチク」はとてもそんな時間では終わらなかった。日が沈むまで延々と続き,「暗くなったからもうやめよう」と言って散って帰るのが常であった。

 「くちく水雷」にしろ「海軍遊戯」にしろ「クチク」にしろ,海軍に駆逐艦が登場してから後の遊びであることは言うを待たない。日本で駆逐艦が作られたのは日露戦争の頃だという。戦艦が水雷に苦しめられるようになり,水雷を退治する必要性から,機動性の高い小型の駆逐艦が開発された。

 したがって,「くちく水雷遊び」が始まった最も古い可能性は明治末期ということになる。ただし,個人的な感触を言えば,昭和になって日本の軍国化が顕著になってから後の遊びという気がする。この点については,機会があればさらに詳しく調べてみたい気もしている。

 少なくとも言えるのは,この遊びが子供たちの中から自然発生的に生まれたものではないということである。もしそうなら,全国各地でほぼ同一時期に同一ルールの遊びが自然発生したことになり,それはどう考えても不自然である。ある地域で生まれた遊びが全国に広まったと考えるのも困難である。伝搬に要した時間が短すぎる上に,ルールの細部までが正確に伝わっているのはやはり不自然である。

 となると,考えられる可能性はわずかである。学校教育の一環として,遊戯とか体育の時間に子供たちに教えられた遊び,というのが一つ。あるいはそこまでの組織性はなかったかもしれないが,小学校の教師用ガイドブックのようなものがあって,その中で紹介されていた遊びの一つがこれだった,ということも考えられる。教育の一環であれ,ガイドブックであれ,国が全国の学校に発した指令の一つであったわけで(まさか強制力まではなかろうが),日本に軍国色が強くなって以後の話でしかありえないと,私には思える。

 上のように仮定すれば,四国の松山と,満州のハルビンでほぼ同じ遊びが子供たちを熱中させていたことに納得がいくのである。

 なお,戦後は,少なくとも学校でこの遊びが教えられることはなかったであろう。しかし,子供から子供への遊びの伝搬を通じて,戦後においても,次の世代の子供たちに引き継がれていったのであろう。私の町でこの遊びが路地裏伝いの行軍ごっこのような形に変形したのは,身近に運動場ほどの広い空間がなかったことと,路地裏を抜ける楽しさとの相乗効果から,それこそ自然発生的に変形していった結果であろう。遊びが環境によって変わる一例である。

 ともあれ,自分たちの仲間うちだけに伝えられてきた遊びだと信じ込んでいた「クチク」が,このような全国的広がりをもつ遊びだったと知ったのは,私にとって大きな驚きであった。

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