鳩になったTさん
2001年7月12日

 中学1年生の1学期,まだ初夏とも呼べない時節だったと記憶する。幼いころから兄のように慕っていた3歳年上のTさんが世を去った。

 Tさんの家は私の家から3軒隣にあった。ともに大通りから一筋北側の狭い通りに面しており,その通りは職人さんの仕事場,行商人の商い道,そしてまた子供たちの遊び場でもあった。

 Tさんは生まれたときから体が弱く,激しい運動には耐えられない体であったらしい。私がそれを知ったのは,Tさんが亡くなった後である。葬儀の後で母が,虚弱体質という言葉を使った。直接の死因は赤痢だと聞いたが,そのとき母が「Tちゃんは虚弱体質でね,赤痢だけで死んだんではないのよ」と言ったのである。それ以来,虚弱体質という言葉が妙に耳を離れなくなった。

 Tさんは滅多に外に出て遊ばなかった。私たちの年代は俗にいう団塊の世代である。通りは子供であふれていた。毎日,学校を終えると,夕方暗くなるまで子供たちは外で遊び回った。しかしTさんは私たちの遊びにはほとんど加わらず,静かに家で過ごしていた。そういえば小学校も我々とは違っていた。我々はみな近くの市立小学校に通っていたのだが,Tさんだけは国立大学付属小学校の生徒であり,小学校を卒業すると引き続き付属中学校の生徒になった。Tさんの通学姿を私は一度も見た覚えがない。

 そんなTさんがときたまわれわれの遊びに加わることがあった。それはいつも夕方暗くなる寸前であった。私はTさんが現れると胸が高鳴り,Tさんのあとを追うようにして遊んだ。今にして思い当たるのだが,Tさんが遊びの輪に加わるのは,きまって我々がクチクと呼んでいた一種の戦争ごっこをしているときに限られていた。

 戦争ごっことはいっても,クチクはいたって平和的な遊びである。二組に分かれ,一人一人は帽子のツバを前か,横か,後ろ向きにして,物陰に隠れながら移動し,敵方の誰かに出会うと,前は横に,横は後ろに,後ろは前に勝つというのである。勝つ相手を見つけ出して捕まえれば,捕虜として自分たちの陣地に連れてくることができる。だから,出会った敵方が自分よりも強い相手だと,捕まらないように逃げねばならない。こうして,先に敵方を全員捕獲した方が勝ちである。帽子の向きを変えるには,一度自分の陣地に帰らねばならない。そのルールは紳士協定で厳正に守られていた。

 戦場は,狭い路地が迷路のように入り組んだ町内全体である。しかも,子供たちが移動するのは路地伝いだけとは限らない。塀をよじ登って家に侵入し,その庭先を駆け抜けるなどというのも,至極当たり前の行軍コースなのである。

 我々はこのクチクが大好きで,季節ごとの楽しい遊びが尽きたころには,必ずクチクをやった。Tさんもおそらくクチクが好きで,クチクの遊び声が聞こえると,いてもたってもいられず出てきたものと思われる。ただ,体がひ弱なものだから,親から外に出て遊ぶことを禁じられており,時たま体調のいいときにのみ許されて出てきたのではないかと,今にして思う。

 Tさんは他の遊び仲間に比べると,知性の輝きという点で,明らかに抜きんでていた。Tさんと同年齢の子供も我々の中には何人もいたが,私の目には明らかに違って映った。知性の輝きなどというといかにも大人の目による印象のようだが,そうではない。子供心に私はTさんにはっきりそれを感じていた。言葉遣い,行動,そして何よりもTさんの頭に浮かぶアイデア,これらはわれわれ遊び仲間の到達圏をはるかに凌駕していた。Tさんが考え出すことはいつでも,子どもの域を超えた「本物」の輝きをもっていた。

 私はどうしようもなくTさんにあこがれた。クチクではいつもTさんにくっついて移動し,Tさんも私を弟のようにかわいがってくれた。二人が帽子の向きを違えておけば,どういう敵が現れても大丈夫だと,Tさんは私に教えてくれた。しかし,二人が帽子を前と横にしていたとして,そこに帽子を前にした相手が現れると,そのときには相手を倒すことはできないから,前の方が防いでおいて,その間に横が逃げるんだ,などとことこまかに教えてくれた。幼いわたしたちの誰一人として,そこまで知恵の回るものはいなかった。私はそれを聞いただけで,Tさんの思考の世界のまばゆいばかりの光沢に圧倒される思いがした。

 Tさんが遊びに出てくるのはどういうわけかいつも夕方遅くなってからだった。そのため,せっかくTさんにくっついて遊んでも,その喜びはいつも日没に邪魔されて終わった。でも,Tさんの背中を追って路地裏を徘徊したわずかな時間に,私がTさんから吸収したものは少なくなかった。

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 時がたち,Tさんはもうまったくわれわれと遊ぶことがなくなった。そんなある日,それはTさんが中学2年生,私が小学5年生の夏休みであった。ひょっこりTさんが私の家にやってきた。明日城山に昆虫採集に行こうと言う。弁当をもって,と。唐突な誘いだった。そんな風にTさんから誘いを受けるのはそれが初めてであり,結果的にはそれが最後となった。

 朝からずっとTさんと二人で昆虫採集ができる。私はそれを聞いただけで有頂天になった。城山は市の中心部にそびえる,高さ百数十メートルのお椀を伏せたような山である。頂上には美しい天守閣があり,その昔,家臣たちの登城によって踏み固められた道が,東と西と南から3本,山頂に向かっている。現在も,昔と変わらぬ土道である。

 翌朝,約束通りTさんがやってきた。二人は弁当と採集道具を手に,城山に向かった。私たちが住む町から城山の東登山口までは,歩いて15分ほどである。東登山口には神社があり,神社から下ってくる真っ白な石段が緩やかなカーブを切って,白馬岳の雪渓のように鮮やかな白さで麓までなだれ落ちている。子供たちにとっては我が家の庭だ。秋になるとドングリの実を拾いに毎日出かけ,袋がいっぱいになると,石段の急な縁石がスリル満点の滑り台になった。尻に大きな木の葉を敷き,猛スピードですべりおりる。度胸を競いあうように子供たちのスピードはエスカレートし,怖さに顔を引きつらせながら,時を忘れて遊んだ。

 Tさんは,私を連れて山の中腹まで登ると,そこで道をはずれた。城山は観光名所の一つである。ロープウエーもあって,登山者は多い。山頂からは市内を一望する絶景を楽しむことができる。遠く平野のはずれには瀬戸内海が光っている。

 私たちは人影の多いメインストリートの登山道をはずれ,きつい傾斜の藪に分け入った。腐葉土に足を取られながら斜面を降りると,私の知る城山はもはやそこにはなかった。鬱蒼とした木々が光を遮り,物音はすっかり途絶えてしまった。湿っぽく半ば腐ったような草いきれがあたりに満ちていた。別世界であった。ひょっとしたらここがTさんの安息の場なのだろうか。Tさんはいつもここにやってきては,一人で静かな時を過ごしているのだろうか。私はますますTさんに引きつけられた。近所の遊び仲間にはない神秘の輝きがTさんから立ちこめているのを感じた。

 Tさんは様子をうかがっていた。「ほら,蝶が」Tさんが叫ぶと,斜面の下方,上空がやや開けて光が射し込んでいるあたりに,色鮮やかな蝶が舞っているのが見えた。「ここにはいつも,あの蝶がいるんだ」Tさんは,愛おしむような調子でつぶやいた。Tさんは座ったまま眺めていて,採りに行こうとはしなかった。私もTさんのそばに腰を下ろして眺めていた。薄暗く閉ざされた空間の中で,その部分だけが光に満たされ華やいでいた。おそらく清水が湧きだしているのだろう,白や紫の野草がみずみずしく花弁を開かせていた。蝶はやわらかな光線を浴びて,蜜を吸い,いつまでもそこを離れなかった。

 しばらく桃源郷のひそやかな時を過ごしたのち,Tさんはなおも視線を蝶に向けながら,ゆっくりと腰を上げた。私もそれにあわせ,二人は柔らかい腐葉土にずぶずぶと足を踏み入れながら,もと来た斜面を這い上がった。頭上から徐々に人の話し声が届きはじめ,住み慣れた世界に戻ってきたのがわかった。やがて最後の一足を踏みしめると,空が開けてまぶしい光が飛び込み,見なれた世界が現れた。

 私たちは再びメインストリートの通行人となり,山頂近くまで登った。そこで再び本道をはずれ,天守閣の裏手に回った。見上げるような石垣の陰で,年中直射日光から遮られている場所だった。

 「さあ,ここで採ろう」Tさんは採集道具を取り出した。Tさんと私は,日陰に舞う蝶やトンボ,草陰のバッタ,木の幹を這うカブトムシなどを時のたつのを忘れて採った。バッタやカブトムシは虫かごに入れ,蝶とトンボは三角紙ではさみこんだ。三角紙というものを私はそのとき初めて見た。手慣れた手つきで三角紙を扱うTさんを,私は限りない憧憬の目で見つめていた。

 その日Tさんはいつもにもまして輝いて見えた。瞳がきらきら光っていた。Tさんのこんなにも生き生きと活動的な姿を私はこれまで見たことがなかった。知性と優しさにあふれるTさんのわずかな所作や言葉をも,私はふるえる喜びで受け止め,そのすべてを眼裏に焼き付けながら,ひたすらTさんの後を追った。

 思い起こすと,その夏の一日は,時の流れから切り抜かれて胸の奥に大切にしまわれている,夢ともうつつともつかぬ一枚の絵である。子供時代の,土埃にまみれた遊びの日々にあって,それは,ほんのりと淡い彩りに浮かび上がった楼閣のよう,実在と虚像の狭間で夢幻のほの明かりが色彩を失うことはない。

 Tさんはその日を最後に,本当に私たちの目から消えてしまった。唐突に私を誘ったのは,近所の遊び仲間との決別の挨拶であったのかも知れない。いつも付き従っていた私を誘うことで,決別の儀式に具象の実感を与えたかったのであろう。Tさんにとってこの決別は,少年から青年への脱皮の意志表示であったはずである。しかし同時に,間もなく訪れる現世との決別をも,Tさんはほのかに予感するものがあったのではなかろうか。

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 それから1年あまりたち,私も同年齢の子供たちと別れて,一人遠方の私立中学に通うようになった。物心ついて以来はぐくんできた彼らとの友情は,それを境に,急速に疎遠なものになっていった。

 私が中学に入学した年,Tさんは県立高校に入学した。ところが,一日一日がまだ入学による新奇な彩りを失っていないころ,Tさんは突如入院してしまった。家の前に救急車が止まり,Tさんは担架でその中に運び込まれた。Tさんはうつぶせになって苦しんでいた。それを遠まきに眺めたのが,命あるTさんを見た最後となった。

 庭の草花が春を謳歌していたある日,学校から帰ると母が「Tちゃんが亡くなったよ」と,私にささやいた。私はすぐにはその意味が呑み込めなかった。Tさんとの間に,永久に会うことのできない冷徹な一線が引かれてしまったことに気づいたのは,夜も更けてからだった。その瞬間,「もう会えない」という思いがぐっと胸に迫り,私は生まれてはじめて悲痛の涙を流した。「どこに行ってしまったの,Tさんは」,私は虚しく宙を掻き,誰も答えてくれない問いを闇に吐きかけ続けて,泣いた。

 Tさんとのきらめくような思い出が,渦をなして脳裏を駆けめぐった。そこではTさんはなお,優しい目を私に向けて生き続けていた。にもかかわらず,もう会えない。永久に会うことができない。なぜ。

 永久に,という言葉は私の心を息苦しくさせた。もうこの世界のどこにもTさんはいない,一生涯Tさんに会うことはできない,この思いが噴水のように吹き出すと,私は大粒の涙を押さえることができなかった。

 葬儀の翌日である。学校から帰ってきた私に母が「Tちゃんの家に鳩が舞い降りてきてね,追っても逃げないそうよ」と言った。私はぴくっと体をふるわせて飛び出すと,次の瞬間にはTさんの庭先にいた。一羽の鳩が縁側にしゃがんでいた。近づいても逃げない。Tさんのお母さんが「今朝そこにいるのを見つけてね。寄っても逃げないのよ。餌をやったらおいしそうに食べて,こうして縁側でじっとしているの。これはきっとTね」と言う。

 私は鳩の目をじっと見つめた。鳩も私を見つめているようである。心の中で話しかけた。Tさん,帰ってきたんだね。死んだりしてないよね。こうして会えるんだから。鳩は,クックと鳴いて,羽を動かした。私は鳩と並んでいつまでも庭を見つめていた。人の死は命の断絶ではないことを,鳩は私に知らせていた。会えるよ,いつでも。心の中で,愛があればね。鳩はそう私に告げていた。目をつぶるとTさんが,きらきらした笑顔で私を見つめていた。

 鳩は1週間ほど居着いたのち,さっと飛び立つと,戻ってこなかった。

萩と鴨のノスタルジア
2001年7月31日

 一日一度は必ず歩く池の土手道があります。我が家の大型犬・リョウの散歩コースです。毎日歩いているのに,そのたびに何かが違っていて,四季折々の風情を飽きることなく楽しむことができます。今の季節,池をぐるりと巡る土手道のおおよそ半分が,人の背丈より高い萩の群生で埋まっています。両側から突き出されたアーチをくぐるようにして土手を歩く犬と私です。

 萩は冬になると完全に枯れつくし,あれだけ他を圧倒していた雄姿も,一片の痕跡すら残さず消え去ってしまいます。アジサイのように未練がましく枯れ枝だけを残しておくといったことはしません。根元からすっかり姿を消してしまいます。裸になってしまった冬の土手に立っていると,はたしてここに再びあの萩が芽を出してくるのだろうかと,心配になるくらいです。

 春にはまず青草が芽を出します。萩の出る幕などないかのごとく,そこはすっかり青草の原となります。その頃には人間どもも,萩のことなど忘れてしまっているのです。

 たわわな黄金色が風に揺れる麦秋の五月,まだ青草が勢力を保っています。そして,田園が満々の水をたたえて田植えの準備が始まる六月,おもむろに青草を押しのけて萩が芽を吹き出すのです。

 萩は強靱です。青草はたちまち押しのけられて,見る間にあたりは萩の勢力圏となります。はじめは盆栽のツツジのように小さな枝をおそるおそる伸ばしているにすぎなかった幼い萩が,夏の光線とふんだんな水を栄養源に,日を追って力をつけ,つんつんと伸びる枝先にはみずみずしい薄緑の葉っぱが次から次と芽生えてきます。抑圧の末に解放された生命力の激しさでしょうか。

 葉っぱは花札の絵柄にあるあの形です。楕円形をした小さな葉っぱが無数に枝を埋めます。そして七月中旬からは,可憐な花が咲き始めます。紅紫色の小さな花です。

 萩が花をつけるようになると,本当はこれからが夏の盛りだというのに,私の目には秋の訪れが映るようになります。夏至を過ぎてもなおも後退していた日の入り時刻が,萩の開花を境に反転し,あとは日を追って夕刻の迫るのが早くなるのです。自然界は確実に秋の準備を始めています。初夏の青空を鋭く刺し貫いていたアザミはいつの間にやら土手の斜面から姿を消しています。

 萩の花の紅紫はどう見ても秋色です。萩の葉群(はむら)を透して燃える深紅の夕日の何と悲しいノスタルジア。過去・現在・未来を貫く人類不変のノスタルジアです。ユングの「集合的無意識」の実在を感じないわけにはいきません。

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 この池に春から,いや冬からというべきでしょう,越冬した鴨が二羽住みついています。一羽は茶色の羽の雌。もう一羽は光沢を帯びた青色首の雄。雄の方が羽の色も鮮やかです。図鑑を見るとどうやら「マガモ」という種らしい。ヒナができる様子もなく,おしどり夫婦ぶりを発揮して,つかず離れず泳いでいます。一般には雌より雄が大型らしいのですが,この夫婦は逆。ノミの夫婦です。

 ある夕方,珍しく雌だけが池の中央をゆっくり横断し,雄が見えません。雌は雄を探し求めるように「グェー,グェー」ともの悲しく何度も鳴き,あまりの哀調に,土手にいる私までもが悲痛な思いに誘われました。と同時にいやな予感が走り,池を見渡しますと,どこにも雄の姿がありません。しかもその日から何日も,いつ行っても雌だけが悲しげに泳いでいるのです。

 雄は死んでしまったのだろうか,いたずらな子どもにでも殺されたのではなかろうか。心配になりました。遠い地で生まれ育った二羽が,神の偶然の計らいによってこの池に舞い降り,ここを住みかと定めて毎日楽しく過ごしてきたのに,相手が突然目の前から消えてしまった悲しみには,鳥とはいえ容易に堪えることができるものではないでしょう。

 雄がどうなったかという心配よりも,雌の行く末の哀れに私はやり場のない悲しみを覚えました。彼女はこの先,愛するものがもはや帰らぬ地に去ったことを知ることなく,「グェー,グェー」と虚しく相手を呼び求め続けるのであろうか。

 雌鴨の哀れは,私自身の悲しみに重なりくる悲しみでした。もはや得られるはずのない何かを求めて,いたずらに爪を空に向け続ける私。そこでは,過去から未来に連なる悲しみのノスタルジアが永遠にはためき続けているのです。

 ひょっとして雄はどこかで雌が産んだ卵を抱いているのではなかろうか。それならいいのだが…。そんな気がしてふと百科事典を手に取ると,「鴨の雄が卵を抱くことはない」との冷然たる記述がある。雌は卵を抱くのに適した地味な羽色をしているが,雄のけばけばしさは危険なのだと。やっぱり死んだのだろうか。

 四,五日たったある夕暮れ,波のない静かな水面を何事もなかったように二羽が連れ立って泳いでいるのを見つけました。ほっと安心すると同時に,拍子抜けの気分をも味あわされたのでした。

 人間のような夫婦げんかや,愛想尽かしの家出とか,そういうことが鴨の世界にもあるのでしょうか。実はその後も同じようなことが二度ほどありました。その都度,数日後には元のさやに収まって仲良くしているのです。鴨の一般的習性なのか,このカップルに特異な事情なのか,それはわかりません。


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