2004年5月2日 |
アルバムにも貼らず、菓子箱に詰め込んだままにしていた古い写真の中から、懐かしい一枚を見つけ出した。右がそれである。裏に鉛筆書きされた日付を見ると、昭和三十四年一月。五年生の冬である。撮られた記憶はある。それを後でもらった記憶もある。しかし、ずいぶん長くお目にかかったことのなかった写真であった。 この写真から様々なことが思い出される。 撮ったのは、私の家のすぐ前のブリキ職人だ。ブリキ屋のあるじではなく、雇われている若い衆の一人である。私たちは、何人かでチャンバラごっこに興じていた。その途中の中休みとでもいった瞬間に撮られたのがこれである。ちゃんとカメラ目線になっている。明らかにカメラを意識している。事実、撮られているその瞬間の記憶が今もはっきり残っているのが不思議である。 後ろの小さな女の子と、路地の奥に向かってボールを投げ返している青年は、私たちの遊び相手ではない。世代が違う。 竹棒を持って歩いているのは二人だが、前方にはまだ何人かいる。目の前をすぎていくわれわれを職人は次々にカメラにおさめていたのだ。給金を貯めてようやく買ったカメラである。喜びのあまり、被写体を選ばず、目の前にやってきたものすべてにシャッターを切った、そんな様子が目に浮かぶ。 巧まずして昭和の下町がリアルに切り取られている。写真を仔細に見てみよう。 場所は私の家のまん前。正面に写っている薄暗い店は、私の家と一続きになった二軒長屋の西側である。私の家はその右側、東隣にあたるのだが、ちょうど二軒の境界線のあたりで写真が切れているため、写っていない。 私の家の真向かい、ちょうどカメラが位置しているあたりにブリキ屋がある。職人はブリキ屋の前から私たちを撮ったのだ。そこはブリキ屋の裏口にあたる。表口はその反対側にあって、電車通りに面している。 ブリキ屋のあった家並みと、ここに写っている道路とは、今はもうない。数年前に電車通りが拡張されたとき、ブリキ屋の筋はすべて取り払われ、私の家は電車通りに剥き出しになってしまったのだ。上一万から道後に向かう電車通りである。そればかりか、私の住んでいたこの長屋も今はない。取り壊されてのっぺらぼうの駐車場と化している。周囲を囲んでいた路地も、あるのやらないのやら、見境もなくなってしまった。その姿が残されているのは、古い写真と私の記憶の中のみである。 申し遅れました。竹の棒を横に向けてすまし顔でいるのが私です。その後ろで棒をあごのあたりに当てているのは、私より三つばかり年上の大工の子。その頃すでに中学生になっていたはずだが、依然として私たちのグループでガキ大将を続けていた。 男の子のグループでは、ニホンザルの群れと同じく、必ず総大将ができ、その総大将を中心に若者頭的なものが何人かできる。総大将は、ある年齢になると自然に子供仲間から離れていき、若者頭のうちから自然に後を継ぐ大将が生まれてくる。こうして、グループの伝統としての遊び文化を引き継ぎつつ、争いもなくごく自然に世代交代がなされていくのである。 総大将には、どちらかといえば遊び好きで、勉強からは遠い子供がなることが多かった。子供の遊びから早く足を洗う子は、若者頭的な存在のうちからすでに、遊びに加わる回数を徐々に減らしていくのだ。 そこには何らの決まりも約束もあるわけではないのだが、自覚と目覚めの早い子から順々に、遊びグループを抜けてゆくのが通例であった。 「……ちゃん、あそぼ」 とみなが呼びに来ても、三回に一回は 「今日は遊べんのよ」 と外に出てこない。そういう子が小学五、六年生になると徐々に増えてきた。いま思うと私も、この写真に写っている五年生の冬が遊びに熱中した最後であった。六年生になると、精神発達のどこかに質の変化が生じたようで、埋没していた遊びの世界からわずかずつ足を引き抜くようになっていった。集めていたパッチンを年下の子供たちに分け与えたのは、その象徴的な現象であった。 さて、写真に戻ろう。正面の薄暗い食料品店。この写真では、中に並んでいる品物を識別しがたいが、私の記憶では隣は八百屋であった。土間に野菜や果物が並べられていた。しかし、それだけではなく、漬け物、みそ、塩、砂糖、醤油、マヨネーズ、小麦粉、缶詰、その他もろもろの食料品が売られていた。私の家で作っていた油揚げももちろん並んでいた。 油揚げが切れると、客を店に待たせておいて奥さんが我が家に買いに来た。一枚三円で買い、持って帰るとすぐさまそれを五円で売る。そうした様を何度も見て、子供ながらに「なんかおかしい」と、割り切れない気持ちになった。「わざわざ隣の八百屋に買いに行かずに、僕の家に来ればいいのに」、そうお客に言ってあげたい気分だった。実際、我が家では小売りはしていなかったが、ときおり「一枚ください」と買いに来るお客もあった。 「一枚ずつ買いに来るお客には、卸値というわけにはいかんでしょうねえ。店の小売値で売らんといかんでしょうかねえ。どうしますかねえ」 そう母が父に相談しているのを聞いた覚えもある。 写真を見ると、目につく位置にタワシがつり下げられている。左側の束はあきらかにタワシだが、右側のが何なのか、ちょっとわからない。多分これらは売れ筋の商品で、店の軒下を飾っていたのだろう。 店の奥には子供の菓子類もあった。だけど、子供相手の駄菓子屋とはちがい、子供が直接買いに来ることはめったになく、母親が子供のためにと買って帰るために置いていたのである。 子供にとっての駄菓子屋はこの町筋に二軒あった。一軒は、写真の左上隅に二階の屋根だけが小さく写っている新築の家、そしてもう一軒は、道路をはさんでそのさらに左隣にあった。新築のこぎれいな店には私たちはあまり寄りつかなかった。古くからあった薄暗い駄菓子屋によく通った。その店のおばあさんに我々はなついていた。 自転車が二台写っている。右は我が家の配達用自転車。左が八百屋の自転車である。今のように町に車があふれている時代ではない。仕事はすべて自転車であった。油揚げの卸し先へ男勝りのおばさんが自転車で何度も往復しながら配達していた。男物の前掛けをしてズボンをはいたおばさんだった。声も野太くて男のようだった。近所の時計屋の奥さんで、その時計屋は父と気の合う間柄だった。 私も中学二年生になると、配達を手伝わされた。まず朝、カバンと一緒に油揚げの入った包みをもたされ、通学路にある店に届ける。そして帰宅すると今度は、いなり寿司屋に配達した。時計屋のおばさんが帰ってしまったあとである。朝のはハンドルに下げられる程度の荷物だから大したことはないが、夕方のは、箱ふたつである。油揚げがぎっしり詰まった平たい箱を二個荷台にくくりつけ、ふらふらするのを何とか制御しながら道後方面に向かう。目的地は道後ではなく、そこを右に折れ、湯渡橋をわたり、さらに南東方向に斜めに通じている道に入る。片道20分はゆうにかかる距離だ。 配達そのものは私には何でもなかった。自転車をこぐのも爽快だった。ただ、届けたあと帰る間際に、「ありがとうございました」と店に声を掛けて出てくる、その一声がうまく言えなくて困った。緊張し、構えるものだから、普段ならすっと出てくるはずの言葉がつっかえるのだ。舌がもつれることもある。今日はうまく言えるかな、そう思うとよけいに緊張する。まあ、すらっと出ようが、つっかえようが、そんなことは店の主人にはどうでもいいことだったのだが私には冷や汗ものだった。 写真の後方でボールを投げている青年は大工の長男だ。竹の棒をあごに当てているわれらがガキ大将の兄である。キャッチボールをしているのは幅二、三メートルの路地で、これと同じ路地が私の家の東側にもある。両者はぐるっと回って後ろで手をつないでいる。西側の路地ではなぜか私たちはほとんど遊ばなかった。もっぱら東側の路地が我々の遊び場だった。西側の路地では、普段は女の子たちがよく遊んでいた。 道路は写真で見るとつるつるに舗装されている。たしかこの直前に舗装されたはずで、私の小学生時代のほとんどすべてにわたってこの道は穴ぼこだらけの砂利道だった。雨が降ると水たまりがあちこちにできた。その水たまりも私たちには格好の遊び場になった。小さな木ぎれの舟を浮かべたり、はだしになってじゃぶじゃぶ歩き回ったり、…。 そうそう、小さな女の子が立っている横の板塀、その根元の隙間から草が生え出しているのが見える。あの草も私たちの大事な遊び道具だった。そこには年中、さまざまな草が生えだしている。板塀の下にしゃがみ込んで草相撲をとるのだ。たしか草相撲と呼んでいた。草と草とを絡ませて引っ張り合い、切れた方が負けになる。どの草と戦っても勝つ強い草があると、それを横綱にした。 板塀が私たちのよじ登り術の練習台になっていたことは言うまでもない。 子供は何を見ても、それを遊び道具と化してしまうものである。懐かしい昭和の一コマである。 |
2004年5月22日 |
つい先日のこと、高三生を相手の数学の授業のさなか、授業がまだ終ってもないのに、というよりもまだ十五分ほども時間が残っているはずなのに、突然終了のチャイムが鳴り、腕時計を見るとたしかにまだ十五分はある。 チャイムの故障だろうと決め込んで、解かせていた問題をそのまま続行し、しばらく後にその解説をしようと黒板に数式を書き始めると、生徒たちがいきなりざわつき始めた。いつもなら私語などするはずのない真面目な生徒までが何やらぶつぶつ言っている。どうも様子が変だ。 「どうした」と聞くと、「先生、もう時間です」。何人もがそう言う。女子生徒は、「次、体育の時間です。早く終えてくれないと、着替える時間がありません」 「なに?」 時計を見るが、まだまだ時間はたっぷりある。さてはみなで申し合わせて、ドッキリごっこでもやっているのか、そんな思いまでがこみ上げてくる。 それにしても合点がいかず、ドアを開けて廊下を覗くと、たしかに隣の教室では授業は済んでいるようで、生徒が出入りしている。ますます頭が狂ってきた。これは一体どういうことだ。 いきなり時間の空白地帯に投げ出されたような不安が頭をよぎる。すべてが奇妙だ。夢だろうか。 ボケとはこういうことなのか。通い慣れた道なのに、突然自分が今どこにいるのかわからなくなって、自分がどこに行こうとしているのかさえわからなくなって、もうまるで夢遊病者のようにあてどなくさまよう、そんなことが老人性のボケにはあると聞く。いやこれは他人事ではなく、私自身、それに近い状態を二三度経験している。 今度の場合は、空間的なそれではなく、時間的な真空地帯に放り出されたのか。何度も何度も時計を確かめるが、やっぱり変だ。 それにしても生徒たちがあまりに騒ぐものだから、寄る辺のない虚無の感覚を引きずったまま、仕方なく授業を中断し、とりあえず職員室に戻った。居合わせた同僚に、 「今日は授業時間が変更になってたんですかねえ」 「いや、そんなことはないよ」 「今、まだ授業が終ってもない時間に戻ってきたんだけど、これはきっと生徒らに担がれたんだ。もういっぺん教室に戻ってやり直そうか」 「……?」 私は本当に戻りかけた。でも、職員室の雰囲気といい、校内全体の雰囲気といい、どこか変だ。すっかり頭が狂ってパニックになっているから、冷静にそれらを読み取ることもできない。 変なことだけはわかる。頭のどこかが狂っていることもわかる。時間の立地点を失っていることもわかる。 気持ちを落着かせようと、お茶を一杯飲むことにした。そして再び時計を見る。 「あれ?」 時間が進んでいないではないか。そうか、なんだそうだったのか。時計が止まっているんだ。 それで思い出した。さっき授業が始まる前にトイレに行き、大便所にしゃがんだ拍子に、腕にはめないで手に持ったままにしていた時計をタイルの上に落したのだ。コツンと落ちないで、ペチャッと落ちた。時計のおもて面がタイルの面に完全に平行になって落ちたため、ペチャッと、えらく大きな音となってトイレの個室に響いた。 しばらくはそのまま動いたようだが、授業の途中で止まってしまったというわけである。 そうだと知ったとたん、頭の狂いが元に戻った。事態のすべてが読み解けた。痴呆状態から解放された。周囲で起こっていることと自分とのつながりが再び明白になってきた。 病とはこの、周囲と自分との関連の遮断だと、そのとき悟った。自分の内なる規律と、外部世界の規律とが一体になって、我々は社会生活を営んでいる。その関連の糸が切れると、我々は寄る辺のない不安に突き落とされる。それが病なのだ。 そんなことがあって数日は、時計なしで過ごした。授業中に時計がないのも不便だから、ケイタイを時計代わりに使った。教室に行くと、まずケイタイを教卓の上におく。 生徒に言われた。 「先生、授業をしているときは、ときどき時計を見てください。授業が終っても知らん振りして授業を続けるのは先生だけですよ。他にそんな先生はいません」 ついに昨日、新しい時計を買った。 |
2004年5月23日 |
久しぶりの星空。梅雨空にかき消されて、夜空が晴れ渡ることのなかったここ一、二週間。今夜ははっと目が醒めるような三日月だ。正確には今日の月齢は四日。だが、まあ一応三日月としておこう。 そばには金星が輝いている。そして天頂には木星。日の落ちた直後の地平には彗星が尾をたなびかせているのかもしれないが、それはちょっと見ることができない。 空は澄んだまま静かに光を失っていく。 こういう日には鳥もねぐらに帰るのが遅れるらしい。夜空の美しさに見とれていたのか。ついつい見事な月を眺めているうちに辺りが暗くなるのに気づかなかったのか。夜も更けてから、数羽の鳥が羽ばたいて山に帰るのに出くわした。 夜空の鳥のはばたきは何とも形容しがたい。神秘といおうか。天翔るとはこういうことを言うのか。光のない空に、音もなく飄然と、まるで幻覚のように白いはばたきが空を行く。一羽が行くと、しばらくしてまた一羽、後を追って飄々と空を行く。 これはもはや現実ではない。月に帰るかぐや姫。一瞬私はそう思った。月を目指してはるかにはるかに、鳥たちは高みに昇り消えてゆく。 鳥の行く先に何があるのか。単なるねぐらではない。彼らにとっての無限の安息の場。限りない安らぎと、死のような眠りと、そしてはつらつとした蘇生の場。彼らは一日一日を死と蘇生の繰り返しの中に生きている。 私はもう息を殺して生きることに倦み疲れてきた。鳥のように自然に、生まれて死んで、そしてまた生まれ、限りない輪廻転生を自らのものにしたい。一つの生きを汲々と絞られるように生きることに疲れてきた。 夜の神秘のはばたきを見上げながら、幼い日の夢を思い出した。 天井に開いた穴を抜けると、そこは真っ暗な宇宙だった。空間だけが無限に広がり、何もない。手を伸ばし、もがき泳ぐが、身はただ宙に浮かんで取りすがるすべもない。はるかに遠く銀河のように光り輝く雲が見える。手を伸ばせば届くようでもあり、それは夢の中の夢、ただ幻覚として虚無の空に浮かぶ蜃気楼のようでもある。 鳥は空をいつもそのように見上げているのだろうか。 |
2004年5月27日 |
人の性格はいつ、どのようにして形づくられ、どの時点で固化するのか。人生の初期には流動性と変形可能性を持った時期があるのか、それとも可能性は幻想にすぎず、所詮は定められた道に従って固化してゆくものなのか。 固化した後も、強い外力が働けば可塑性を示すのか、それすらあり得ず強固に内面の力が原型復帰をうながすのか。 あるいはまた、環境という弱い力が長期にわたって働き続けることで、性格は変容してゆくものなのか、それもありえないのか。 こうした問いは、私にとって自ら答をはじき出すことのできない難問であることをじゅうじゅう知りつつも、何としばしば、いや常にと言うべきか、私は自分自身に向かってこの同じ問いを何と執拗に問いかけ続けてきたことか。 なぜこうも執拗に同じ問いをくり返す必要があったのか。このことについてだけは、かなり自信をもった正解を言い当てることができる。 自分にとってただ一つしかないこの人生を、これだけが自分の究極の所有物であるこの人生を、そして人生の深奥を真実知ることができるのは自分の人生を通してだけであるはずのその人生を、実験によって再試行することができない悲哀を、悔恨を、胸の内にたぎるように持っているから。これがその答である。執拗に問いをくり返させるエネルギー源はそこにある。 自分の性格に絶対的な信頼と自信を持つ正常人はいい。私のように自分に自信を持てない人間は、何かことがあるたびに、力ない自分を情けなく思い、消え入りたい気分になり、かといって逃げることの許されない場に拘束されていることも多い中、しかたなく居直って自分を慰め励まし、所詮は変えようのない自分なんだとあきらめ、そして最後には、これが自分なんだ、これしかないんだと、他と融合できない自分を逆に、宇宙にただ一つの存在として合理化し、納得し、時には内心ひそかに自負することすらある、 こうして、不安定な自分の立場に内面の補償作用をもたらすことで、荒波にもまれる小舟のように、何とか水面下の平衡力で沈没を免れている。二十歳をすぎてからの、自立を意識して後の、これが私の人生行路であり続けたように思う。 力ある自信家になりたい、そう願ったこともないわけではない。周囲に威を誇って外連(けれん)味なく我が道を行く人を見ると、うらやましく思うこともある。同時にその内面の薄さを想像して、反吐を吐く思いをすることもある。「所詮それは自分の道ではない」、最後に到達するのは良くも悪くもその思いである。 世渡り上手に人の輪を広げてゆく人を見ると、またそれをうらやましく感じてしまうことがある。自分もそうありたいと、叶わぬ願いを抱くことすらある。劣等感にさいなまれるのはそういうときである。 しかしこれもまた所詮自分の道ではない。願っても自らそれを塞いでしまう何とも得体の知れない内面の魔物が私の中に住んでいる。結局は孤独を愛する人間なのであろう、私は。愛するなどと言うとどこか格好いいが、要はそれしかないのだ、私には。 これを性格と、やはり世間では呼ぶのだろう。これがいつから我がものとなったのか。いつから私の中に巣くい始めたのか。幼いころを振り返りつつ、常にその視点を私はぬぐうことができない。 飲んで騒いで憂さを忘れる、多くの人はそうなのだろう。私の場合、飲んで騒ぐと憂さがつのるばかりである。 腸の病を得てからは、少なくとも飲むことはなくなったから、それだけでも私にとって憂さの要因が減ったと喜んでいる。悲しい人間だ、この俺は。 |
2004年5月31日 |
暗がりを歩いていていきなり車のヘッドライトに照らされると目がくらむ。よくあることだ。人の場合、外界の刺激の大半は視覚を通して伝えられるものであろうから、目がくらむと、その瞬間外界との接点を失い、虚空を漂うような不安な頼りなさを覚えることがある。 私は数年前まで、毎日数キロのジョギングを欠かすことのない日々を続けていた。たいていは昼間走るのだが、何かの都合で日のあるうちに走れなかった日には、帰宅してから夜、走りに出ることもあった。 街灯のない夜道は怖いので、夜は自ずと車のよく走る国道に足が向かうことになる。国道の歩道だと一定間隔に街灯があり、また走り過ぎる車のライトで歩道はいつでも明るい。 走っていて一番危険なのは道路のへこみや突起物である。注意して走らないとつまずきや捻挫のもとになる。歩道は車道に比べると作りがいい加減で、へこみや地割れが意外に多いものである。 しかも夜だと、ライトや街灯に照らされているとはいえ、死角に当る箇所はいくらもあって、特に街路樹の影など、足元は暗いのである。しかもその暗さたるや、ほのかな暗さではなく、真に真っ黒なのだ。 ライトに照らされているところと影になった部分とのコントラストが苛烈なのだ。これが怖い。 すべてが暗ければそのうち目もなれてきて、暗がりの足元も見えるようになるだろう。明るい歩道では逆にそれが不可能なのだ。明るさと暗さとが、空間的にも時間的にも、さらには光の強度や色彩においても、走るにつれ刻々と変化するのである。 こうなるともう、目が慣れる暇がない。闇の方へか、光の方へか、どちらになじめばいいのか、それすらわからないのだ。 その上、視線の向け方を誤ると、ヘッドライトをまともに浴びることになる。ヘッドライトの直射を浴びると、その瞬間、足元がまったく見えなくなる。何が待ち受けているのかわからない真っ暗闇の空間に足を投げ入れつつ走らなければならなくなる。その恐怖は走った人にしかわからない。少々大げさに聞こえるかもしれないが、まさに奈落に落ちる覚悟で走ることになる。 足裏に全神経を集中し、何か異常があれば即座に反応する心構えで走るのである。 そんなときには、周囲はもう見ようにも見えない。全身が足裏となっている。人がすぐ側を歩いていても気づかない。向うから自転車がやってきても気づかない。 そんなことが犬にもあることを今日知った。夕方、日が落ちかかったころ、いつものように犬を散歩させていた。コースはいくつもある。その日の気分で決める。今日のコースは途中数百メートルを川に沿っている。その川沿いの道に、最近建ったばかりの家があり、まだ塀のできていない庭に犬小屋がぽつんと置かれている。その小屋の犬は異様に敏感な柴犬で、私が犬を連れて歩いてくると、はや五十メートルほども手前から察して、ワンワンと吠え始める。いつもそうだ。 たまに吠えないことがあって、今日は小屋でおとなしく寝ているのだろうと思っていると、やはり十メートルも近づけば突如目ざめて小屋から飛び出し、猛然と吠え始める。 ところがである。今日は様子がすっかり違っていた。その犬、鼻がくらんでいたのだ。庭に小型の焼却炉が置かれ、家の主がゴミを焼いていた。主はすでにそこにはいず、ただ焼けこげた臭いと煙だけがあたりに立ちこめていた。人間の私ですら煙の臭いが鼻をつくほどだ。 犬にとってはまさにこの臭いはヘッドライトの照射に等しいもののようだ。人の目がくらむのと同じく、犬の鼻がくらみ、その犬は、私たちが近づいたことをまったく感知できないようだった。私にとってすら、臭いがあたりに立ちこめて息苦しいほどだから、犬にとってはたまらないだろう。もう耐えられませんとでもいうように、犬は小屋の前に立ちつくし、呆然としていた。 その彼の目の前を、私と二匹の犬とは平然と通り過ぎたのだ。いつもならさんざん吠えかかられるところである。 日が落ちかかったとはいえ、まだ漆黒の闇に塗り込められたわけではなかった。互いを見分けるには十分な明るさが残っていた。にもかかわらず、犬は鼻先を通過する我々に気づかなかった。気づく素振りも見せなかった。 犬はこうしてみると、やはり目でものを見ているのではないのだ。鼻で見ているのだ。外界との接点のほとんどは鼻にあるのだ。それを今日ほどまざまざと知ったことはなかった。鼻がくらむと、もはや目で見えるはずのものすら感知できなくなるのだ。 ほんの数メートル手前を、しかも犬の顔が向いているその正面を、我々はこともなく通り過ぎたのである。吠えかかられることを覚悟していた我が犬たちも、少々拍子抜けのようであった。「あれっ?」と不審な視線をちらっと犬小屋の方に向けながら、我が犬どもはその場を過ぎ去った。 鼻がくらむ。これがどういう感覚なのか、人が正しく追体験することは不可能だ。だけど、目がくらんだときのあの不安感と空虚感は我々にもわかる。鼻のくらんだ犬もまた、それと同様の不安と空虚感にさいなまれているのであろうと、想像することはできる。 認知世界の違いもまた理解できる。犬と我々とでは、同じ世界に住みながら、見ている世界はずいぶん違うものなのだ。ものの輪郭、仕切り線も、犬と我々とではまるで違っているのではなかろうか。我々には絶対に識別することのできない、臭いに基づくものの姿、形を犬は明らかに感じている。かと思えば、人為的な約束のもとに存在する家と家の境界線などは、犬にとってはあってなきがごときものであって、何の意味ももちはしない。 こうして考えると、はたして我々が理解する世界の姿を、世界の真の姿なのだとみなしてよいものかどうか、それすらがあやしくなって来るではないか。あの犬の呆然とした顔つきを見て、私は瞬時、そんな思いにとらえられていた。 |