学芸会
2004年3月20日
 松山市立東雲小学校、これが私の通った小学校だ。北隣には御幸中学校があり、両者は校区を同じくするペアの学校だった。御幸中学は、年に一度の学芸会の際、その講堂を会場として貸してもらっていた。

 学芸会で歌ったり踊ったりというのは、気恥ずかしくて私には好きになれなかった。しかし、地域の人達が大勢集まってきて、薄暗い会場が「ハレ」の雰囲気に満たされること、それが私にとっては何ともいえない嬉しさだった。演ずる喜びではない、それを見る喜びでもない、演ずる人と見る人とが一体となって醸すハレの雰囲気を私は楽しんでいた。

 外の明かりが漏れ入るところにはすべて暗幕がかけられ、講堂の中は天井の薄明かりと舞台の照明だけ。それだけでも、子供の私にはドキッとするような演出効果である。その上、親や祖父母、それに小さい弟や妹で、講堂の中は蒸せ返るよう。わくわくするような緊張感が漂っていた。

 そうそう、学芸会のことを当時はもっと別の名前で呼んでいたように思う。それがいっこうに思い出せない。記憶の出口のすぐそこまで出かかっている気がするのに、あと一歩が出てこない。思い出すたび、いつもそうだ。子供の私を魅了する名前がついていたように思うのだが、…。あるいはまったくの記憶違いかもしれない。そんな名前はなかったのかもしれない。

 「東」と「西」という言葉も使われていた。東雲小学校を中心にして、南北に線を引き、それより東の地域を「東」、西の地域を「西」と呼んでいたのだ。私は「東」に属していた。

 この「東」と「西」も、私にはなんだか幻惑的な言葉だった。使われるのは学芸会と運動会のときだけである。クラスや学年の別とともに、もう一つの区分けとして、東と西があった。東と西との対抗戦の形をとっていたのかもしれない。

 四年生のときクラスの算数委員をやらされた。そのとき一緒に算数委員になった女の子が「西」に属していた。かわいくて頭がよく、ほっぺがいつも赤かった。ひそかにあこがれていた。その子が西に属しているだけで、私は「西」という言葉が想起させるイメージを「東」のそれよりも魅惑的に感じていた。

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 学芸会の演目には、「歌」、「踊り」、「劇」の三つがあった。どれに入るかは、子供の希望というより、先生の指名であったように思われる。私は六年間を通して一度も劇をやったことがない。私に劇ができないことは、さすがにどの先生も見抜いていたのだろう。

 たいていは「歌」だった。これが「その他大勢」組の常席なのだ。笛の演奏をしたこともある。そして一度だけ踊りをやった。

 たしか三年生のとき。クラスを横断してメンバーが選ばれていた。「東」の三年生の踊りは「チンネンさん」だった。父が油揚げ屋を始めたとき、原料になる大豆の袋を積み上げた山で一緒に遊んだ、私にとって一番古い幼なじみ四人のうち三人が、その踊りに入っていた。ひと月ほどかけて放課後練習させられた。

 レコードに合わせて踊るのだ。

 チンネン、チンネン、チンネンさん。
 チンネンさんは、どこの子。
 山のお寺のかわいいお小僧さん、お小僧さん。

 そんな歌だった。曲はもちろんのこと、その振りまでいまだに覚えている。

 縦に五列ほどになって踊り、各列は四人ほどである。私は中央の列の一番後ろだった。つまり観客からは一番目につきにくい位置である。

 チンネンさんの衣装は各人の親がそろえることになった。白い着物に黒い袴。学校からそのデザインを書いた紙をもらって帰り、母に見せた。近所の幼なじみの親とも相談して、皆で一緒に黒い布を買い、それを裁断したのを母が夜なべに縫った。

 大変な労力だが、出番はせいぜい1、2分。それも最も目につかない最後尾。学芸会にはめったに来たことのない母も、そのときだけは来ていた。

 本番で踊っている場面もはっきり記憶に残っている。観客席は薄暗くて何も見えなかった。舞台を照らす照明がいくつか目に入り、その周辺だけ霧がかかったようにぼんやり輝いていた。私はすぐ前のチンネンさんの背中を見ながら踊った。

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 私に劇ができないことは、先生が見抜く以前に、自分が一番よく知っていた。何かの役を演じる、ということが私にはにできなかった。私はいつでも自分であることしかできなかった。

 小学校1、2年生のころ、近所に空き家ができた。持ち主が引っ越し、次の住人が来るまでしばらくそこは空き家になった。子供たちにとっては、これ以上はない遊び場ができたわけだ。毎日のようにその家の中に入り込んで遊んだ。

 鬼ごっこやかくれんぼで走り回った。チャンバラごっこも楽しみだった。空っぽになった押入があった。ふすまをはずして子供たちはこれを舞台にした。押入の上の段に上がり、そのときだけは映画俳優か歌舞伎役者にでもなったつもりで、見得を切るのだ。

 わたしはチャンバラは好きで、竹の棒を振り回し、斬り合い、走り回った。しかし、見得を切ることがどうしてもできなかった。いつでも下から眺めていた。

 あるとき、誰が思いついたのか、「鞍馬天狗だ」と見得を切って一声叫んで飛び降りる遊びを始めた。次々に段に上がって、みんなはそれをやる。とうとう私の番が来た。「きよしちゃん、やれやれ」とみんなは囃し立てるのだが、私にはどうしてもそれができない。

 とうとう尻を押されて、上がるだけは上がった。舞台に立つ。だけどやっぱりできない。「鞍馬天狗だ」と叫ぶことができない。声が出ない。突っ立ったきり、どうしようかと思い悩んでいた。悲しくなった。泣きたいがそれもできない。仕方がないので、刀を振り上げるだけは振り上げて、無言のまま飛び降りた。

 そんな子に、チンネンさんがよく踊れたものだと、今になると思う。

 私にとって思い出多いあの御幸中学の講堂は、その後、五年生のときだったろうか、火事で焼けてしまった。夜中、母に起こされて二階の窓から眺めた巨大な火炎は、いまだに目の裏に焼きついて離れない。直線距離にするとわずか五、六百メートル。夜空を焦がし、ごうごうと天に立ち上る悪魔のような炎だった。

パッチン(メンコ)
2004年3月23日
 関東では「メンコ」(面子)と呼ばれているようだが、私たちはそれを「パッチン」と呼んでいた。子供の手のひらほどの大きさの長方形の紙である。薄いのから厚いのまでいろいろある。なかには丸い形のものもあった。

 表にはカラフルな絵が描かれている。戦後すぐのものには、占領軍の影響を受けてディズニー漫画のキャラクタや西部劇のスター、大リーグの選手などが描かれていた。紙は、柔らかくて粘りのある上質のものが使われていた。

 私たちの世代がパッチンで遊ぶようになったころには、そのような上質の紙にアメリカ風の上品な絵が描かれたパッチンはすでに骨董品であった。私は兄から譲られたものを十枚ほどもっていたが、ときおり取り出しては眺めるだけで、すぐまた引き出しにしまっておくのだった。質が違うことは子供の目にも明らかだった。

 私たちのころのパッチンには紙に粘りがなかった。手触りにも安物の堅さが感じられた。描かれている絵は概して派手で、映画俳優のブロマイド風のものか、鉄腕アトムや怪人二十面相の漫画だった。

 百科事典等で調べてみると、面子は江戸時代に始まり、最初は粘土を焼いて作ったものだったという。人の顔などをかたどっていた。だから「面子」と呼んだのである。明治になると薄い鉛の板になり、明治末頃から紙のものが作られるようになったという。こうしてみると、面子は、三、四百年にわたって引き継がれてきた、日本の子供たちの伝統的遊び道具であるわけだ。

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 私たちの間にパッチンが大流行したのは五年生のころだったと思う。パッチンは駄菓子屋で売られていた。私がパッチンを買ったのは一度きりである。私の家から三軒西に、新しい駄菓子屋ができた。以前は掘っ立て小屋の「卑弥呼の館」があったところである。卑弥呼の館の住人が引っ越し、その跡地に新しい家が建てられたのだ。きれいな二階屋で、私にとっては、基礎固めから家ができあがるまでの一部始終を間近に見た最初の体験となった。

 新しい家には老夫婦が二人で住み始めた。定年退職し、その退職金で待望のマイホームを建てた、いま思うとそういう印象である。雇われることを習性としていたため、世慣れせず、自活能力の低い夫婦、そんな印象も子供心にかすかにあった。商売人と職人がほとんどを占めるこの町では、やや異質な存在であった。

 住み始めると間もなく、南に面した表の玄関先でおばあさんが駄菓子屋を始めた。何もかもがぴかぴか光っているこぎれいな店であった。おじいさんは朝夕犬の散歩で道後公園に出かける以外、昼間はずっと家に引っ込んでいた。

 実は駄菓子屋は、道路をはさんだそのすぐ西隣にもあったのだ。もとからある方の駄菓子屋は粗末な間に合わせの小屋で、薄汚れた狭い店と、三畳ほどの居間、それに奥の台所、それがすべてだった。おばあさんが一人で店番をしながら暮らしていた。

 駄菓子の品が切れると、店にたむろしている顔なじみの子供に頼んで問屋に電話してもらうのである。私も頼まれたことがある。電話代を預かって、二百メートルほど離れた上一万の公衆電話まで行く。自動交換ではなく、交換手に電話番号を告げてつないでもらう手動交換の電話であった。用を終えて帰ってくると、店の駄菓子を一つくれた。

 新しい店はぴかぴか光ってはいるが、私たちにはどうもなじめなかった。それでも目新しさで何人かの友達と一緒に入ってみた。その頃の私の小遣いは一日十円。それを半月ごとまとめてもらっていた。自分で管理してやりくりするのも勉強だと親が考えたものであろう。それを持って店に入った。

 すぐ目についたのがパッチンだった。色とりどりのパッチンが子供のベルトくらいの高さの陳列台に並んでいる。私は一番安いのを選んだ。切手のシートのように1枚の紙に、10枚ほどのパッチンがまとめて印刷されている。はさみで切り離して使うのである。

 紙質は、ミッキーマウスやベーブルースのものとは大違いだった。ぺらぺらと薄く、しかも一定の方向に反り返る癖があった。色もやたらけばけばしく、よく描けた絵とはお世辞にもいえない。でもそれは私が初めて買ったパッチンだった。はさみで切って10枚を重ねると、パッチンを持ったという気分にはなった。

 初めて買ったパッチンだが、それがパッチンを買う最後でもあった。それ以降私はパッチンを買うことはなかった。買う必要がなかったのだ。最初に買ったパッチンを元手に、私はどんどんパッチンを貯め始めた。パッチンの技術にはなぜか天性の才能があった。

 私たちのパッチンは、いわゆるメンコ遊びのあれではない。相手のパッチンをひっくり返すルールではないのである。それだと手間暇かけて勝っても、相手から一枚ずつしかもらえない。

 そうではなくて、当時どの家の前にもあったリンゴ箱のようなゴミ箱を使い、その上にたとえば一人十枚ずつパッチンを出す。これが言ってみれば所場代である。ゲームは二人でもできるが、たいていは四、五人でやった。箱に置いたパッチンを、順番にメンコ遊びの要領で自分のパッチンではたき落す。下に落ちたパッチンが、二枚表向いて重なれば勝ちである。勝った者が場に出されているパッチンを全部もらうことになる。私たちはこの遊びを「ニッチン」と呼んでいた。言葉の由来はわからない。

 一回のゲームで一人が場に出すパッチンの枚数は、互いの合意で決める。はじめはせいぜい五〜十枚程度である。ところが回が進むにつれてエスカレートし、やがては百枚ほどにもなることがある。負けた者が一気に取り返そうとして枚数を増やすのだ。ばくちの心理と同じである。

 当時はまったくそういう意識はなかったけれど、いま思うと、ずいぶん危険な遊びであった。私はどんどんパッチンを増やし、家のタンスの大きな引き出しがパッチンで埋まってしまうまでになった。

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 私がパッチンに熱中していたのは、五年生の夏から半年ほどの間だったと思う。私だけではない。その当時、東雲小学校の校区全域でパッチン(つまりニッチン)が大流行していた。なかには学校にまで持ってきて休憩時間にやる者がいた。私もその一人だったと後になって言われることがあるが、私にはその記憶はない。

 学校で問題となり、ついには禁止令が出た。先生たちが町を巡回し始めた。私たちの町筋でも、ときおり先生が二人一組で回ってくるのを見かけるようになった。私たちにはしかし深い路地裏があった。路地の奥まで見回ることは絶対にないだろう。私たちは相変わらず学校から帰るとパッチンに明け暮れた。

 六年生になった。私は突然、「パッチンはやめよう」と、神の啓示に打たれでもしたように決意した。いま思い出しても理由が探し出せない、唐突なカタストロフィーであった。それまで毎日、その日の収穫を数えては、百枚ずつ束にしてタンスにしまうのが日課であった。その量がどんどん増え、種類ごとに整理し直しては悦に入っていた。

 そのタンスから私はパッチンを全部引き出した。タンスだけではない。大きな菓子箱にもしまっていた。それらも全部放り出した。畳の上に、半年間の収穫物がうずたかく積み上げられた。
 しばらくその山を眺めていた。そして、意が固まると、外に走り出て、近所の年下の子供たちを呼び集めた。五、六人の子供がやってきた。

 「もうやめたけん、全部やるわい。どれでも好きなん取って行けや」

 そう言うと、彼らはいぶかしげな顔を私に向けた後、手に抱えられるだけのパッチンを抱えて出て行った。それでも抱えきれずに残ったのを、彼らはさらに友達を集めて取りに来た。

 パッチンの山は目の前からあっという間に消えてしまった。私はもったいないとは思わなかった。いいことをしたという思いもなかった。悪夢から覚めて正気に戻った気分だった。これでよかったという、ほっとした安堵の思いがじわじわと湧き上がってきた。

 見ていた母が、「そんなことして、本当にいいの」と聞いた。「うん」とだけ答えた。それ以後私がパッチンをすることはもうなかった。

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 新しくできた駄菓子屋は一年もしないうちに廃業になった。子供たちは薄汚い店の方を好んだのだ。入り口には打ち水がしてあり、中に入るとコンクリートの土間にチリ一つなく、明るいガラス戸から太陽がさんさんと降ってくる。飾りつけも、色彩豊かでこざっぱりしている。そういうのを子供たちは素っ気ないと感じたのだ。親しめないと感じたのだ。

 薄暗くて、何がどこにあるのかわからない世界。駄菓子やおもちゃを一つ取り上げると、その下からまた何かが出てくる、そんな神秘の世界を子供たちは好んだのだ。店のおばあさんの貧しい暮らしに親しみを感じたということもある。自分たちに近いものをそのおばあさんに感じていた。

 年金暮らしの生活の足しにでもといった風の、上品なおばあさんの店には私たちは結局なじむことができなかった。

セキセイインコ
2004年3月30日
 ある日学校から帰ると、土間に「チッチッ」と耳慣れない声がし、見ると靴箱に鳥かごがおかれていた。中には小鳥が二羽いて、背と尾羽が青や緑や黄色の不思議な色合いに輝いていた。

 私は駆け寄ってのぞき込んだ。二羽は、葉っぱをつっついたり、小さな稗の粒を器用に殻をむきながら食べたり、水を呑んだり、止まり木に止まって羽を梳いたり、かたときもじっとしていることがない。ときにじっとしているかと思うと、首だけはくるくる動かしてあたりの様子をうかがっている。

 私はランドセルを肩からはずすのも忘れて見入っていた。四年生のときだ。春から夏に移ろうとする季節だった。

 しばらくすると、奥の仕事場から母が出てきた。前掛けで手を拭きながら私のところまでやってきて、

 「かわいいでしょう。今日父ちゃんが買うてきたんよ。セキセイインコというの。世話はきよしちゃんがしてね。母ちゃんも手伝うから」

 私が帰るのを待ちかまえていた様子だった。

 母は世話の仕方を教えてくれた。葉っぱは毎日二、三枚、かごに取りつけた葉っぱ入れに差して与える。水も切らさないように。そして大事なのは主食の稗。四角い木の箱に入れてかごの中に置いておく。小鳥が食べるときに剥いた殻が表面に積もるから、ときどき取りだして、ふっと吹かないといけない。吹くと軽い殻だけが箱から飛び散る。

 「吹くのが強すぎると実が入ったものまで飛び散るから、上手に吹かないといけないのよ」

 と、母は口をすぼめて吹き方を実演してくれる。殻を吹き飛ばした後には、新しい稗を補充して、またかごに戻しておく。

 それだけではない。フンの始末がある。そのためにかごの底は引き出し式になっている。ときどき引き出してきれいに洗うのだ。母はそれもやって見せてくれた。明日からはこれらが全部私の仕事になる。

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 セキセイインコは、父が小鳥屋の前を通りかかったとき衝動買いしたもののようだ。上一万の交差点からやや東よりの、電車通りに面したところに小鳥屋はあった。家から歩いて二、三分のところだ。以後その小鳥屋は、私にとってもなじみの店になった。月に一度は、稗を買いに出かけたから。行くとおじさんが分量を量って紙袋に詰めてくれた。

 それを待つ間私は、店先を飾っている珍しい小鳥を眺めるのが楽しみだった。セキセイインコ、カナリヤ、オウムなどがいた。ときには、けばけばしい真っ赤な色をした熱帯産の鳥が売られていることもあった。

 毎朝私は、小鳥の世話をしてから学校に出かけた。帰ってくるとまた、水を換え、稗を吹き、フンの始末をした。鳥の存在が当たり前になってくると、さすがに、はじめのころのように鳥かごの前でじっと飽かず眺めている時間は少なくなってきたが、それでも、日課としての世話は毎日続けた。

 やがてセキセイインコが卵を産んだ。ワラを編んで作った巣の中に、直径一センチほどの卵が数個産みつけられていた。ヒナが孵るのを楽しみに、私は再びかごの前で長い時間を過ごすようになった。親鳥は卵の上に座り続けて温めている。通常は二週間あまりで孵るらしい。その日が近づくと、もう孵っているか、もう孵っているかと、毎朝私は起きるとすぐに、鳥かごの前に飛んでいった。

 しかし、孵る様子はなかった。結局は予定日が過ぎても孵らないままだった。親鳥は卵を温めることをしなくなった。仕方なく、卵を巣から取り出した。取り出しても親は怒る素振りもなかった。親に見捨てられた孵らぬままの卵を、私は土に埋めた。裏の仕事場の隅に穴を掘り、その中に埋葬した。

 秋が来た。セキセイインコは再び卵を産んだ。今度も私は期待して見守った。親鳥は毎日毎日卵を温め続けている。

 数日経ったころ、寝ていると、鳥がけたたましく騒ぎ始めた。聞いたこともないような激しい叫び声を上げている。父や母も一緒に飛び起きた。見ると、蛇がかごの隙間から頭を差し入れている。どうやらすでに卵を呑み込み、かごから頭を引き抜くところらしい。

 私は恐怖で声も出なかった。

 「どこから入ってきたんでしょうねえ。今まで家の中で蛇なんか見たこともなかったのに」

 母は声を震わせ、興奮気味に父に尋ねた。

 「心配いらんよ。アオダイショウじゃ。アオダイショウはどこにでもおるよ。人にかみついたりはせんから大丈夫」

 昔の農家なら縁の下や天井裏に必ずアオダイショウが居着いていたものだと、父はあえて私たちを落着かせるために、何でもないという風を装って言った。そしてころがっていた竹の棒で蛇を押さえつけると、おもての川に流し去った。

 インコはまだしばらく興奮気味だったが、やがておさまって眠りに落ちていった。

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 冬になった。二学期の終業式の日、私は大きな風呂敷を持って学校に出かけた。式が終り、通知表をもらってみんなが帰り始めたとき、先生が私の側に来て、

 「じゃあお願いね。一緒にこっちに来て」

 と、私を連れて校庭に出た。顔がふっくらとし、いつもニコニコ笑っている女の先生だった。先生に手を引かれて、気恥ずかしさに耐えながらしばらく歩くと、鳥小屋に着いた。気づいた友達が何人もまわりを取り囲んでいた。鳥小屋は縦・横・高さとも3メートルほどはある大きなものである。

 鳥小屋を管理している理科の先生が先に来ていた。私が着くと、中に入ってセキセイインコを二羽つかまえ、用意されていたかごに入れた。

 「さあ、これだ。大事に飼ってあげるんだぞ。頼んだよ」

 実は私は課外活動で、動物飼育クラブに入っていた。家でインコを飼うようになったのがきっかけであった。当番の日には、いつもより早く家を出て、学校の鳥やウサギに餌をやるのが仕事であった。

 「この冬休み、先生は用事があって学校に来ることができません。だから、飼育クラブの何人かに鳥やウサギを家に持って帰ってもらい、冬休みの間飼ってもらいたいと思います。おうちの人に話をして、飼ってもいいと言われた人は言いに来てください」

 そう言われて、私は心を躍らせながら家に帰り、帰るとすぐに母に話をした。

 「学校の鳥? 大丈夫? ちゃんと飼えるの? でも、いつもやっていることだから、やれるでしょうね。」

 母はOKを出してくれた。

 こうして私は、鳥を興奮させないために鳥かごを風呂敷で覆い、それを胸の前に大事に抱えて校門を出た。いつも一緒に帰る四、五人の友達が一緒だった。

 「ちょっと見せてくれや」

 彼らは何度も何度も風呂敷をめくり、鳥を覗こうとする。その都度私は、

 「馬鹿なことするな。鳥がびっくりするじゃろうが」

 そう言って彼らの手を振りのけようとするが、その瞬間、かごに加わる急速な加速度のために、鳥はかえって興奮してしまう。普段なら10分もかからない帰路が、倍にも三倍にも感じられた。

 それでも何とか鳥たちは無事家に着いた。靴箱の上に鳥かごが2個並んだ。最初、双方のかごの鳥たちは、見なれない鳥が横に来て興奮気味であった。互いに警戒したり威嚇したりと、落ち着かない様子であった。しかしその興奮状態も長くは続かず、やがては相手を許す穏やかな表情に変化していった。

 その冬休み、私は大事なものを預かる責任感で、なんだか自分が大きくなったような、不思議な気持ちですごした。

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 子供時代の何気ない暮らしぶりをこうして思い起こしていると、子供が体験した小さな出来事や、そのとき脳裏をかすめた一瞬の心理が、後々の自分の精神構造や性格を形づくっていく上で、いかに大きな働きをなしたかということに気づき、厳粛な気持ちになります。

 鳥を飼うこと、鳥の習性に注視すること、鳥を飼うことを通して生き物への親しみと愛情を感じること、さらにはまた、鳥の飼育を通して親との愛情交換があったこと、学校生活へのわずかながらも積極姿勢を生み出したこと、責任を果たす意味を知ったこと、などなど。これらの貴重な体験の出発点が、父が衝動的に鳥を買ってきたことにあったことを思うとき、父に感謝すると同時に、その偶然を必然の力で導いてくださったある何者かの大きな計らいがあったことを思います。感謝します。

 もう一度言います。大人の目からすると単なる通過点の一つに過ぎない、忘れ去られるべき小さな体験が、子供にとっては、一人の人間の人生を決定づけるような大きな意味を持ちうるものだということを、当時を振り返りつつ、つくづく思わされました。

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