野良犬哀歌
2001年8月16日
 毎夕の犬の散歩が私の日課であることは,すでにお話ししたとおりです。しかも,我が家には大小3匹の犬がいて,一度には無理なので,面倒でも必ず2ラウンドします。

 大型犬のリョウのコースは,我が家よりも北。これが前回出てきた鴨と萩の池を通るコースです。中型犬のピーと小型犬のマルタは一緒で,これは我が家から南方向。あわせて約1時間というのが,春夏秋冬変わらぬ私の日課です。

 リョウの通るコースがなかなかのくせ者で,途中に何通りものバリエーションはあるのですが,どのバリエーションを選択しても必ず,野良犬のテリトリーを2個所横切るのです。

 野良犬の集団は2つ。どちらも今年の春先に生まれた兄弟とその親です。親犬は新来で,おそらく心ない誰かに捨てられたのでしょう。直線距離にすると数百メートルしか隔たっていない2地点で,ほぼ同時に彼らは生まれました。

 彼らの巣はどちらも民家からはやや離れた畑の隅です。古い機械類や空き箱が積み置かれていて,ちょうどうまく雨風がしのげるのです。

 乳離れした子犬が巣から出てきてぴょんぴょん跳ねながら遊び回るようになって,そこに野良犬の巣があることに気づきました。子犬は怖れを知らないものだから,リョウの近くまで走り寄ってきて,遊ぼう,遊ぼうと前足で手招きのような素振りをしたり,リョウの尻尾にちょっかいを出したりします。

 リョウは驚いてうなり声を上げますが,相手は小さい子犬だから,噛みつくわけでもなく,くんくん臭いをかぎながら警戒の身構えだけはしています。

 野良の親は心配そうに巣の入り口からこちらを見つめ,ときどき子犬に用心するようにとの吠え声を上げます。

 最初のうちはそんな調子でした。やがて夏になり,子犬が成長してくると,野良の一家はテリトリーをもつ悪党の集団と化してきました。畑の中だけでなく,家々やマンションの間をうろつくようになり,人間に対しては特に何もしないのですが,散歩の犬が来ると,縄張り荒らしを追い払う本能を露わにして,遠巻きに吠えるのです。

 こちらが移動すると,彼らも追いかけ,ますます距離を縮めてきます。ものを投げつける素振りをしたり,足蹴にする素振りをすると,一瞬は遠のくのですが,再び吠え声を倍加して迫ってきます。

 犬の習性や心理は十分知っているつもりだから,これが危険を帯びたものでないことはわかっているのですが,毎日,しかも2個所でこれをやられるものだから,うるさくてしようがありません。テリトリーを離れるまで,執拗に追いかけてくるのです。

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 私は基本的には,動物は人間の手を離れたところで自然に生活するのがいいと考えています。地球はあらゆる生物の共存の場であり,人間はその中の一種族として生かしてもらっているに過ぎないのだから,自然に生きる動物を毛嫌いしたり,押しのけたりする権利はどこにもないのです。

 にもかかわらず,散歩の犬とすれ違っただけで,顔を引きつらせたり,身をよじらせたりして,恐怖と嫌悪を露わにする人がときどきいます。アパルトヘイトのように,動物を完全に閉め出した世界を地球上に作らないと安心できないと,そういう人は考えているのでしょうか。悲しいことです。

 野良犬を嫌悪したり,怖がったりする気持ちは私にはないのですが,毎日吠えたてられるとさすがに私も辟易し,このまま放置はできないと考えるようになりました。

 ちょうどその頃,同じように考える人が増えてきたのでしょう,迫ってくる犬に棍棒を振り下ろしたり,小石を投げたり,野良犬に向かって逆に猛犬を突進させたりする姿を見かけるようになりました。

 困りものではあっても,これではかわいそうと,私の気持ちは複雑でした。そしてついに,重大事態となったのです。

 市の保健所に連絡が入ったのでしょう,保健所員によって餌を入れた罠が仕掛けられたのです。野良犬はただでさえ餌には不自由しており,一日中餌を探してうろついているのが現実ですから,この罠はてきめんでした。仕掛けられてから1週間もたつ頃には,あれだけ群れて吠えかかっていた彼らがいなくなってしまったのです。

 町に静けさが戻るとともに,何とかしないといけないと考えていた自分が恥ずかしくなりました。恥ずかしいと言うよりも,まるで自分が罪を犯したような,いたたまれない気持ちになりました。遠巻きにして吠えていた犬の一匹一匹の顔が目に浮かびます。その彼らが罠にかかって保健所に連れて行かれ,今頃は動物園のライオンの腹に治まっているのかもしれない,そう考えると,哀れでしようがありませんでした。

 彼らはいったい何のためにこの世に生まれてきたのだろう。行くところ,行くところで悪魔のように追い払われ,棒きれで打ちのめされ,小石をぶつけられ,空きっ腹をごまかすためにスーパーの裏口で残飯をあさり,そして挙げ句には,生まれて初めて目の前にごちそうが現れた瞬間,生きる自由を奪われてしまった彼ら。あのごちそうが幻覚だったらな,と保健所の薄暗い檻に入れられた彼らは考えなかっただろうか。

 そんなことを思いながらリョウを散歩させていたつい先日,やせ細って畑を横切っていく一匹の犬を見かけたのでした。アッと私は叫び,よくぞ生きてくれていたな,おまえ,と思わず抱きしめたい気持ちにさせられました。野良犬には野良犬の魂があるのだ。それを貫き通して骨と皮ばかりになっている一匹の犬がいたのだ。私は万感迫るものを覚えました。

 「武士は食わねど高楊枝」の精神を,人を通してではなく,犬によって,一匹の野良犬によって,私ははじめて目の前に見せつけられたのでした。夕日を背に眼光鋭く最後の闘いに挑む野武士,それが私の目に映った犬の姿でした。

鎮守の杜(もり)
2001年8月20日
 私がよく足を運ぶ場所に日吉神社という小さな社(やしろ)があります。ちょっと郊外に出ればどこにでもありそうなありふれた社ですが,訪れる人がほとんどおらず,しかも情趣に富むという点では,ちょっとどこにでもはない社とも言えます。

 日吉神社は松山市の東のはずれ,播磨塚と呼ばれる広い台地状の丘の南西斜面にあります。そもそも播磨塚という地名は,その昔(5世紀)播磨の国の国司であった小楯(おだて)という人に由来します。小楯は,清寧天皇が后も皇子もないまま亡くなり,その皇位継承者を探していたとき,履中天皇の孫に当たる二人の皇子(袁祁王=顕宗天皇,意祁王=仁賢天皇)を,播磨の豪族の新築祝いの宴の席で見つけだしたという,古事記の有名なくだりに出てくる人です。彼は現在のこの播磨塚あたりの出身で,年老いて故郷に帰って後は「播磨様」と呼ばれて崇拝されたということです。

 小楯も毎日目にしていたはずですが,この丘にはかつてたくさんの古墳があり(十数個あったといわれています),それ故に「播磨様」の「播磨」にさらに「塚」がついて「播磨塚」という地名ができたのだと考えられています。

 残念なことにこれらの古墳は,丘の大部分が陸軍駐屯地(今の自衛隊松山駐屯地)として接収されたとき破壊され,形をとどめているものはほとんどありません。古墳を構成していたであろうと思われる大きな石だけが,散歩していると,ところどころに放置されたままになっているのを目にします。

 ただ最近になって,接収をまぬがれて残っていたミカン畑を整地した際,その下から古墳が発見され,「播磨塚古墳」の名で話題を呼びました。鴨のいる池のすぐ裏手です。

 日吉神社には,拝殿の奥,一段高いところにひっそりと隠れたように鎮座する本殿があります。本殿の造作はすばらしいもので,みごとな彫刻が東西南北の板壁と破風に丹念に彫り込まれていて,市の文化財に指定されています。

 しかし,せっかくのみごとな本殿も,不気味なまでに鬱蒼と茂った小立に覆われ,しかも正面の拝殿からはその存在すら気づかれない位置にあるため,近所の人の他にはほとんど誰も参拝しない秘殿となっています。

 本殿の彫刻もさることながら,私は日吉神社の裏手一帯,播磨塚台地の斜面を占有する鎮守の杜(もり)が好きです。空を覆って昼なお暗い樹林。その中を,自衛隊の正門前に通じる細い小径が一本続いています。

 十数年前,はじめてこの樹間の小径に足を踏み入れたとき,私は懐かしいような,日本古来の森の小径の典型を見たような,様々な空想と思い出が瞬時にして吹き上がってくるような,不思議な感慨を覚えたものです。先人の魂が樹間に響きあって,今なおこだましているような,沸々としたエネルギーを感じました。

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 西ヨーロッパには,キリスト教が浸潤するよりも前,土着の大地母神を畏れあがめるケルト文化が広がっていたといわれます。ケルト文化は,そのさらに先住民であるストーンヘンジやストーンサークルを残した民を駆逐して広がった文化です。ケルト人は先住者の残した不可思議な巨石古墳の地下に大地母神の理想国を見,それがところによっては海の彼方とされたり,深い森の中とされたりしたようです。

 ところがローマ帝国の拡張とともにキリスト教がケルト文化を食い荒らしはじめると,大地母神は罪の象徴である魔女におとしめられ,大地母神の理想国は地獄あるいは煉獄として恐れられるようになったのでした。理想の楽園から地獄への大転落です。

 それとともに,理想の国に至る通路,あるいは理想の国そのものであった深い森が,限りない恐怖の対象となり,その根深い心情がグリム童話に見られるような「魔女の住む怖い森」のイメージを作り上げたのだと,私は想像します。

 日本における小楯の時代は,西ヨーロッパではケルト文化がローマ帝国によって席巻され,それへの怨念に近い抵抗の現れとしてイギリスやフランスにアーサー王伝説が作り上げられた時期に符合します。アーサーは,架空の闘いでローマ軍をうち破り,イギリス,フランスをローマから解放したのでした。このアーサー王伝説においては,森は怖れの対象ではなく,理想を求める冒険の場です。

 私は日吉神社の裏に開発の手が入らないまま残っている鎮守の杜を歩くたび,その薄暗さに一瞬は戦慄を覚えつつも,ここに人間と自然の深い交感のエネルギーが蓄えられていることを感じないではいられません。日本においてもヨーロッパにおいても変わらぬ人間の本質的な自然依存性と,その中での生命の連なりを私は感じます。

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