古代人に思いを寄せる
1997年12月10日
 近頃とみに古代人への思いが募る。地球温暖化、オゾンホールなど、人類の文明活動に端を発する地球環境の悪化が問題になるとき、古代人の見た空・海、山・川が、まるで自分の体験のような懐かしさと、人類史的な痛恨の思いとを伴って、思い起こされる。

 大峰ヶ台古墳跡から海を見た。この古墳は前期古墳時代の豪族の墓である。これを中腹に孕んだ大峰ヶ台の山頂からは、当時の人々の生活跡も発見されている。彼らは遠く見渡せる海を眺めて、毎日何を思って暮らしていたのだろう。

 海の見えるこの丘陵地帯には、この他にも多くの古代人の生活跡が見つかっている。それらを総合して、素人考えの想像を巡らせてみた。

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 縄文期から弥生期にかけて、まだ階層分化が未発達であった平和な時代、松山人は祝谷、文京町、上一万など平野と山との接点のあたりに多く住み、平野での稲作と山での狩猟・採集の両面で生活していた。上一万遺跡や文京町遺跡から当時の生活ぶりが想像できる。

 古墳時代になると、そうした平和な暮らしの中に強力な武装集団が進入してきた。おそらく彼らは海から上陸し、海の見える丘に住みつき、そこに砦をかねた住居を作って平野部の土着勢力と相対峙したのだろう。新勢力は大和文化とも交流をもち、鉄製刀剣などの武器を所有した強力な集団だった。

 古い勢力を駆逐しつつ、新勢力は松山平野を、重信川や小野川にそって遡行した。たとえば小野川上流域の葉佐池古墳などはそうした新勢力の残したものではなかろうか。

 彼らにとっての政の中心は、あくまで海の見える丘陵地だった。愛光学園の周辺である。このあたりの丘陵には実に多くの古い神社がある。それらの多くは海にまつわる伝承を残している。平和を脅かした強力な武力とともに、彼らは新しい文化の香りをもたらしたとも言える。

 以上は、素人の私の夢物語であります。

新生「坊ちゃんだより」
1997年12月16日
 桜の季節に「坊ちゃんだより」を綴り始めてから8ヶ月。気がつけば早くも1997年が過ぎ去ろうとしている。アクセス数を記録した7ヶ月間でみると、延べ3200人の方に訪問していただいたことになる。

 実は、店開きをしておきながら、「坊ちゃんだより」のメインメニューを何にするかという、根本問題がずっと未解決になっていた。ここ何日かの間に、やっと方針が定まってきたように思う。ホームページに模様替えをほどこしたのは、その表れである。

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 あと数ヶ月で50歳とはいえ、気力と体はまだまだ若者のつもりでいる私である。その分、一向に惑いから醒めず、心の落ち着きどころを得ることのできない私でもある。「50年間歩んできた私の道がこれです」と、人に示すことのできる何物をも手にしないまま、いたずらに歩き続けてきた人生であったようにも思う。

 普通ならそろそろ刈り入れの時と考える歳であろうが、私にはまだ収穫すべき実りが見えていない。まだまだ青年のように、惑いつつ学ぶ自分しか見ることができない。

 そのことを考えると焦りがつのり、惑いが増幅し、立つべき基盤が突き崩され、安寧の境地に入ることを拒まれ続ける宿命にある人間としての、破滅的サイクルに自分を追い込むのが常である。

 安住の地をいまだに見いだしていないという烈しい虚無の意識と喪失感は、ここ何年も私を責め続けてきた。どこかでボタンを掛け違えたに違いない。その原点を探す努力もしてみた。

 探ってハタと思い当たることもある。そのときには、無限の自己憎悪と、冷徹な時間の摂理とに、内蔵をかきむしられる思いがする。

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 そんな繰り返しの中で、精神的よりどころを得ようとして、今年の春、ホームページを始めたのであるが、始めてみると、あらぬ方向に気持ちが向かって当初の目的からはほど遠いものになっていた。

 このままなるにまかせておくよりは、そろそろ「坊ちゃんだより」の方向性をはっきりさせるべきときであろう。その方向性とは、「私の精神的歩みを記すこと」の一語に尽きる。漠としていた焦点を、「坊ちゃん日記」と文芸創作に絞り込み、一人の人間の生の証を立てるべく自らを鼓舞したい。

 私は高校生の頃から日記を書いている。その私だけの日記と重なりつつも独立に、精神的歩みをつづる「坊ちゃん日記」を始めたい。好きな文芸創作にも時間を割きたい。仕事に追われても、意識がマシン化することだけは絶対に許さない自分でありたい。

 惑いつつ学ぶことが今では私の人間性そのものになっている。何歳になろうとも私の体の奥底は、鎮まることなくふつふつとあぶくを立てている。調和による安定など望むべくもない。この不安感を許し楽しむ気持ちもある。表を向いた顔に自信を持つことのできない自己嫌悪と惨めさに、破裂寸前になることもある。両面がいつも自分の背と腹を構成している。この再出発のホームページが私にとっての救いになることを期待したい。

愛光学園クリスマス祝会
1997年12月17日
 愛光学園は、昨日で2学期を終えた。期末試験最後のテストを1時間だけ実施した後、クリスマス祝会と終業式が行われた。

 クリスマス祝会での神父のメッセージは、地球環境問題から始まって、最後は「すべてを捧げる人になれ」ということ。マザー・テレサが残したとされる「自らに痛みを感じるまで、人にすべてを与え尽くしなさい」という言葉で締めくくられた。

 自己の満足や他からの賞賛を目的とした偽善的な奉仕は言うを待たず、自分のために最後の一物を温存した上で人生の余力で人に尽くすことが欺瞞であることを、マザー・テレサは言っているように思う。

 もはや何物をも自らの手に残さず、これ以上は耐えきれないという苦痛を味わうまで、人に与え尽くしなさいと言っているのである。

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 アシジの聖フランシスコが財産をすべて人に施した上で、着るものも捨て、ほとんど裸同然で、食べ物を托鉢で得ながら修道生活に入った姿を連想する。フランシスコにしろマザー・テレサにしろ、そうした苦痛を友とした生活の中に、何を希望として求めていたのだろうか。

 ただただ、自虐的な苦痛を味わうことを目的としていたはずはない。フランシスコの場合は、十字架上で手足に釘を打たれて血を流すキリストの苦痛をわが苦痛として追体験することを、究極の目的としていたようだ。それを通じて、人類の根元的苦痛を救う道をも探ろうとしたのである。

 彼には人がいた。つまり弟子が、そして彼を支援する貧しい大衆や、さらにはローマ法王すらが…。彼は清貧をモットーとする孤独の修道者であると同時に、組織の指導者であり、絶大な影響力を発揮するカリスマ的超能力者でもあった。

 彼の心はその意味では常に満たされていた。彼から見てもすでに千年を越える過去の出来事であったキリストの処刑の瞬間を、彼は自らの苦痛として体験しようと厳しい修行を自らに課したのであるが、その無限に細くとぎすまされた微妙な感性の向こうに、彼は揺るぎない自信で自らの住む地を確かめていたのである。

 捨て尽くしたのは、世俗の財産であり、家族の団欒であり、身を包む衣類であり、生をつなぐに不要な食物であった。他人から見ればそれは限界を超えた苦痛であったろう。しかし、フランシスコにおいては決してすべてを捨てたわけではない。代わりに、揺るがぬ精神的安寧を手に入れたのである。神によって保証された安寧を。

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 究極的に絶対存在たる神を信じるヨーロッパ人の場合と、それを持たぬ多くの日本人の場合とで、精神的不安定の解消方法は大きく食い違ってくる。与え尽くすことは、自己と他との関係である。その流れが最後には、自己と神との関係として終焉することで、人は究極の安寧を得る。

 私のような日本人は、すべてを自己の内で解消しようとする。神に向かわず、無に向かう。「社会に役立つ人になりたい」などという発想は、それはそれとして認めるが、所詮は子供のたわごととしか見えない。それはあくまで相対的関係で、相対的関係をいくら引き伸ばしても、絶対的根源に立ち向かうことはできない。絶対的な力は、人それぞれが原初の無にたち帰る以外に得る方法がないと、私には思える。

 キリストの苦痛を、私は宇宙の原初的無に見る。

 とまあ、そんなことを、神父のメッセージを耳にしながら、私は考えていた。

文系人間・理系人間
1997年12月18日
 これまで私は、Windows95 用ソフトを作るにはもっぱら Borland C++ を使ってきた。ところが数ヶ月前から、同じく Borland 製の C++Builder というのに乗り換えてみて、これが実に使いよいのを知った。

 クラス・ライブラリーが充実している上に、よく使うクラスはコンポーネント化されていて、ドラッグ&ドロップで簡単に組み込めるようになっている。また、いわゆる 2Way システムで、ウインドウやフォーム、メニュー、ショートカットキーといった目に見える部分の設計は、基本的にはコーディングなしに仕上がってしまう。細部の手直しやプロパティーの動的変更だけをコーディングすればよい。C++ による原始的プログラミングになじんできた者には、画期的である。車で言えば、マニュアルからオートマチックに乗り換えたようなもの。

 もちろん目に見えない内部処理の部分はビジュアルでやれるわけはなく、これまで通り C++ で書くことになる。これは仕方ないし、その部分がプログラマーの腕の見せ所でもあるだろう。ともあれ、ユーザーインタフェースにかかわる、元来本質的でない部分の手続きが簡易化されたのがありがたい。

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 どうしてこんなことを書いたかというと、それが理系の人と文系の人との世の中のとらえ方の違いにかかわると思ったからである。

 文系の人は、科学技術はブラックボックスでいいという。理系の人間の目で見ればそれこそが本質であるところの内部処理には関心がなく、とにかく結果が出ればいいというのである。文系型の人間は、理系人間の創造物を既成の事実として借用し、ときには新たな使用価値を付加し、それによって理系人間そのものを使用し支配する立場にあると錯覚する。

 会社組織の中で、理系型の人間が働いている研究開発分野や製造分野は、文系型の人間から見ると、いわゆる「現場」であり、文系型の人間が働いている営業企画や人事部門はそれに対して「管理部門」とか「サポート部門」などと呼ばれて、一等級上に位置する感覚でいることがある。

 学校組織でも同様である。「教育現場=下位」、「非現場の管理部門=上位」という感覚で仕事をとらえる人間がいるものである。

 私などの理系型人間は、そうは考えない。現場を離れている人間は、現場の環境をよくするための、あるいは現場相互の意志疎通をはかるための、道具であってくれればいいのである。仕事の実質はあくまで現場にあるのである。

 プログラミングでいえば、ユーザーインタフェースにあたる部分が文系人間の仕事であり、それはプログラムの本来的内実には無関係であって、内実と外部との意志疎通のためのいいあんばいの踏み台になることだけがその任務なのである。

 文系型人間が威張っている組織は、何であれ、退廃と堕落の巣窟になる危険を孕む。現場が力を持つ組織にはそれがない。理系人間は真理にのみ価値を見いだすから。

わが川、重信川
1997年12月20日
 毎日少しずつ走っている。一日の距離はせいぜい5キロから7,8キロ。重信川の土手が定番だが、その他にも5種類くらいのコースがあって、その日の気分で走りわける。思い起こしてみると、重信の土手を走り始めてもう20年。何度走っても飽きることのない川である。

 季節による顔だけでなく、その日その日の顔が微妙に違う。水が滔々と流れていることもあり、枯れてしまっていることも、あるいは申しわけ程度の水が幾本かの細流となって流れていることも。

 周囲の山や空の色合いも、天候により、時間によりきわまることなく変化する。同じ姿を見せることは二度とない。そうした周囲の刻々の変化を川は忠実に反映し、水の色、草木の影、無数にころがる石ころの光、土手の雑草の輝き、それらすべてに千変万化の色調を帯びさせる。

 川はそれらすべての総体として、明るい豊かな包容力を見せることもあり、また、人を寄せつけない厳しい拒絶の姿勢をとることもある。

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 一昨日の愛媛新聞に、「南吉井村大字牛淵字井口付近の重信川堤防が約67間(120m)にわたって決壊、逆巻く濁流は牛淵より北野田方面に侵入しつつあり、前記個所より少し東手の堤防約20間(36m)も決壊せり」という、大正元年9月の愛媛新聞の記事を転載していた。

 この「南吉井村大字牛淵字井口付近の重信川堤防」というのが、私がいつも走る土手である。牛淵や北野田の地名も私にとっては親しい隣町で、犬の散歩でよく歩くところ。記事によると、昭和18年と20年にも同規模の決壊があったという。

 重信川が暴れ川であることは、何かの本で読んだし、老人から話に聞いてもいた。地理的状況を考えれば、当然とも言える現象である。そのへんの事情は一度、「川はオーケストラ」に書いたことがある。一昨日の新聞記事で、私の聞きかじりの知識に真実という大きな心棒がつけ加えられた思いがする。

 想像空間に一滴の真実が添加されると、その瞬間から、想像の翼はとどまるところなく広がり始めることがある。スコットが「ミドロジアンの心臓」を書いたきっかけもそんなだった。ある夫人から寄せられた手紙に、彼女が一人の気品あふれる老婆に出会ったことが記されていた。その手紙に書かれていた、ほんの短い出会いの話が、スコットの想像の翼に火を放ったのだ。「一滴の真実の添加」となったのである。

 スコットランドの片田舎で生を送った一人の老婆の過去が、こうして波瀾万丈の長編小説として世に出ることになったのである。「ミドロジアンの心臓」は、わずか一通の手紙をもとに、詩人スコットがすばらしい想像力で無限のイメージ空間を創造した結果であった。

 私にとって、一昨日の新聞記事は、スコットにとっての一通の手紙に匹敵しそうな衝撃である。

伊藤整と小林多喜二
1997年12月21日
 伊藤整の「近代日本人の発想の諸形式」を読んだ。伊藤整は文体といい、彼自身の発想の形式といい、私の精神構造に非常に強く共鳴する作家である。

 高校時代に小説「氾濫」を読んだのが最初の出会いであった。次いで、彼が小説を書き始める前の詩人時代の詩集を読んだ。大人になってからだと、「詩人の肖像」が強く印象に残っている。ふるさと小樽で中学校をともにし、演劇を通じて知り合った小林多喜二との交友など、なかなか興味深い。

 「近代日本人の発想の諸形式」で、明治から第二次世界大戦に至るまでの日本の作家の発想の基本をいくつかのパターンに分類して見せている。が、その中に小林多喜二の名前は出てこない。プロレタリア作家を評論する中においてすらである。中野重治、宮本百合子、佐田稲子などが語られる中で、小林多喜二の名前がただの一度も登場しないのはあまりに不自然である。

 ただ、それとなく小林多喜二を暗示する個所はある。

 多喜二は伊藤整にとって少年時代の友人であり、ライバルでもあった。あまりに身近で、かつまたあまりに遠く隔たってしまった同業者でもあった。

 多喜二が思想を貫き通した末に、拷問によって死に至った事実を、伊藤整が冷静に受け止められなかったのは理解できる。

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 彼はこう語る。
資本主義社会を根本から否定するマルクシズムの理論を自分の中に育てた青年たちが、昭和の初年に文学の場に数多く現れた。…。青年たちにとっては、それらの思想は理論的に考えられた善と正義の規範であったから、思想弾圧は、彼らを多くの場合絶望的な反逆気分に押しやった。現実に検挙されて非人間的な取り調べや拷問を受けたものは、警官や判検事たちに対して強烈な憎悪感を抱いた。…。思想弾圧は、多くの若い文学者をしてある時は表面的にはその思想を放棄させ転向させるという擬装を強いたが、ある場合には、絶対の強制に対して絶望的に抵抗するという衝動をも目覚ませた。そして、死をもってもその行動を貫こうとする焦念を生かすこととなった。
 さらに次のように語る。
文学者の場合、実践生活が尊重されるという日本の文壇では、この絶望的な行為すらジャーナリズムを意識してされる危険がある。革命的行動は、ジャーナリズムの中では発表価値のある演技である。…。それを意識しながら思想運動に身を投ずるという例が昭和初年にいくつかあった。そのとき、文士の革命行動は演技化されているのである。それは強められ、演技的に闘われた後、同じように弾圧されて、悲惨な状況で終わる。
 ここまで語りながら、整はなおも多喜二の名前を出すことを躊躇している。「馬鹿な死に方をした」という思いが、幾重もの複雑な感慨に包まれた衣裳の裏に縫い込められているのがわかる。文面の第一印象である「軽薄な文士革命家」とのみ多喜二を見ていないのは言うまでもない。しかし、多喜二に「革命的演技者」の可能性を見ていたのも事実で、それは少年期をともに過ごした者にのみ許される直感であろう。

 豊かな才能をもった幼友達の悲惨でしかも英雄的な死が、多喜二を口に出して語ることを無意識に拒絶するまでの衝撃を整にもたらした。「近代日本人の発想の諸形式」で語る彼の革命文学への不透明な口調から、あまりにも痛烈な多喜二ショックを私は感じとってしまった。

犬とデータベースソフト
1997年12月23日
 リョウ(犬の名前)が賢くなったのに驚く。訓練士に来てもらうようになって一ヶ月ほど。やんちゃなラブラドールが急に言うことを聞くようになってきた。始めは訓練士の前でだけ行儀よくしていたのが、ここ数日、私に対しても聞き分けができてきた。

 リョウは生後9ヶ月。まだまだ子供だ。でも体重は30キロもあって、言うことを聞かないときには処置に困る。力が強く、家内ではとても散歩にもつれてゆけない。ぐんぐん引っ張ると女の力では支えきれないのだ。

 ところが、とたんに変わったのは昨日から。散歩の時には私の左側にぴたりとついて、先へ先へと引っ張るようなことをしなくなった。地面をくんくん嗅ぎながら歩くのもやめた。散歩の犬に出会っても、以前のように興奮して吠え立てたりしない。一言叱ればすぐに治まる。何だかあっけないくらいに大人になった。

 言葉がわかる。完全に理解しているのは「オスワリ」と「マテ」程度だが、今はそれで十分だ。言葉に対する反応だけではない。人の気持ちを察しようとする意志が伝わってくる。盲導犬や介助犬に向いている犬だということが、今になって初めてよくわかってきた。

 とにかく賢い。ラブラドールというのは人間の中で飼われるように生まれついているらしい。周囲に気を配ることを知っている。障害をもつ私の次女にとって、この先ずいぶん助けになってくれそうな予感がしてきた。

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 「知識データベース」と仮に名づけているソフトウエアがほぼできあがった。以前にもよく似たものを作っていて、すでに私にとって大いに役立っていたのだが、今回のは機能も性能も倍加した。2週間ほどで作った。C++Builder のお陰といえる。

 これまでに書きためてきた日記その他の文書類と、写真等の画像データとを、すべて一括処理するソフトで、全文検索方式の高速検索が生命である。50歳近くなると、物忘れがひどく、どこかで読んだなとか、書いたなとか、記憶のわずかな断片は思い出せても、それがどの本のどこにあったのかということになると、もはや探り出すのは不可能になる。

 そんなとき、このソフトが絶大の効果を発揮するはずである。ある単語を含む文書とその位置がすべてすぐにわかるというのが、ありがたい。

 自分で書いた文章は、ここ10年分くらい、すべてコンピューター処理のできる形で保存しているから問題ない。読んだ本については、それをすべて自力で入力するのは不可能である。抜き書きしたい部分だけ、メモ代わりに入力しておくことになる。そのためには、「タイピスト」というソフトがあって、これも役立つ。活字印刷されたものだと、正解率95〜98%程度で正確に読みとってくれる。キーボードから入力するのとの労力差は計り知れない。

 私の精神生活を支えるソフトがほぼ出そろったようだ。

ディレッタントの悲哀
1997年12月24日
 風が強い。寒さは別に驚くほどではないが、犬を連れて土手を走っていると、向かい風に立ちすくみそうになる。

 そういえば、去年だったか、同じような真冬の空っ風の日、土手をジョギングしていて力の差を見せつけられたことがあった。往路は追い風でさっそうと走ったのだが、帰り道、正面から風を受けることになった。体を精一杯前方に傾けていないと後ろに吹き飛ばされそうな強風である。とても走るなどと表現できる状況ではない。全身を風に打ちのめされ、皮膚はヒリヒリし、体が芯から冷えてくる。

 泣きたい思いで、とにかく帰り着くことだけをひたすら祈ってあえぎながら走っていた。そのときである。不意に後ろから視野の端に赤いウインドブレーカーが現れた。あれっと思ったときにはそれは体のそばをすり抜けており、たちまち前方に出、あっという間に遠のいて行った。夢のような一瞬の出来事だった。

 本格的な長距離選手であろう。フォームが違う、勢いが違う、スピードが全然違う。向かい風の中に苦もなく突き進んでいった。ついて走ることなどとてもできない。

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 プロとアマの違いとでも言おうか。碁においてもそういう場面に遭遇することはよくある。プロに指導碁を打ってもらっているときなど、特にそうだ。どうしてここまでヨミの深さが違うのかと、あきれかえってしまう。一手一手のヨミがことごとくはずされ、「これでよし」と思って打った手が、一瞬のちには馬鹿げた方向違いの石になってしまう。

 どの世界でも同じことだろう。素人が物知り顔に得意がっても、その道のプロから見れば児戯にすぎない。素人側からその差に気づくことは少ない。あるいはわずかかもしれない。だけど、素人目にわずかの差でも、両者は深い断崖で隔てられた異空間に属する。届くことは不可能なのだ。

 所詮はディレッタント。これが私の行きつく結論。人生の悲哀の源泉である。

いわさきちひろの絵
1997年12月27日
 書斎の壁にいわさきちひろの絵が6枚並んでいる。。何年前だったか、カレンダーから切り抜いたものを、押しピンで止めていったのだ。2ヶ月で1枚の絵だったから、この6枚がすべて。用済みになったものから貼りつけて、1年がかりで貼り終えた。

 毎日眺めても厭きない絵である。コンピューターと向かい合って仕事をすることの多い私だが、ディスプレーの先の正面に、赤い洋服を着て横座りになった女の子がいる。右手は体重を受けてまっすぐに床をつき、左手は折り曲げられて胸の前で黄色い落ち葉をつまんでいる。親指、人差し指、中指の先がそっと落ち葉の葉柄をつまんだ形は、くるっと丸まった円になり、小指はその円から飛び出してまっすぐ前方に伸びている。

 落ち葉をつぶさないよう、おそるおそるつまんだ微妙な力の入れ具合が、この絵にふるえるような不安感と緊張感をもたらし、同時にそれが少女期の揺れ動く気持ちの象徴ともなって、愛らしさを高めているように思う。

 体重は床についた右手の手のひらの付け根に集中している。その力の余波で、右手の指先は行き場のない窮屈なラインに折れている。そのあどけない指のたわみがいかにも自然で、美しい。

 耳の横にリボンで結んだ2本の髪が垂れている。顔全体はやや左にかしぎ、ちひろの絵の特徴なのだが、くりっとした黒目はやや下方を見据え、鼻と口はあるかないかの微かなタッチで描かれている。

 きゅっと結んだ薄い唇と伏し目がちの黒目の視線とが立体的な仮想光線を前方に放射し、それがちょうど私の座っているあたりに焦点を結んでいる。

 微笑んでいるのか、憂鬱げな視線を投げかけているのか、自然の中に一体となってしまった少女の不思議な熱線を、私はもうここ何年も浴び続けてきた。

 いい作品は永遠の命をもつ。この絵もそれを証明している。

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 ちょうど1年前、女性彫刻家であるカミーユ・クローデルの作品展を見に行った。そこで「フードをかぶった少女」という作品に魅せられた。敬虔なカトリック信者らしい少女が、深い祈りの世界に埋没している。かぶったフードの深さが祈りの奥深さを象徴している。

 その作品に私は、慎ましく百年の時を生き続けてきた命を感じた。彫像に仕上げられた生命は、時を超えて永遠に、若さと瞬時の眼差しと、そしてそれを通して制作者の美的感性とを、まるでブルーの氷に詰め込んだように、固化してしまう。

 百年前の制作現場の息遣いを生々しく感じて、私はしばらく恐怖に立ちすくみ、時の経つのを忘れてしまった記憶がある。

 造形芸術は、美的に構成された生命の永劫回帰なのか、それとも無に帰することを拒絶された腐臭きわだつ屍なのか。芸術は生命の冒涜ともなりうる危険な賽の目である。

棋道部OB会
1997年12月29日
 12月28日、第1回棋道部OB会。

 夏の終わり、33期の鹿児島在住H君から「やりましょう」と話があり、それを受けて、松山在住33期のY君が幹事となって準備してきた。棋道部の歴史は14年。最初の棋道部員がいま29歳になっている。

 これまでにも、卒業した棋道部員が三々五々連れ立って私の家を訪れることは年に2,3度のペースであった。だけど、今回のように大勢に呼びかけてOB会を開いたのは初めてである。
棋道部OB会

 初めてのことで、連絡先も十分にはつかめない状態だったため、昨日集まったのは私を含めて11名。やや少ない感じもないわけではない。でも、これを第1回目として、回を重ねてゆけば、盛大なOB会が開かれるときが来るだろう。

 普段はそれぞれの場で活躍している教え子がこうやって集まってくれるのは、教師冥利に尽きる。最年長の29期生J君は、九大医学部を卒業して、この春から地元松山の赤十字病院で働いている。29歳。立派になったものだ。

 あとは、東大工学部を出てNECでLSIを開発しているH君、京大工学部を出て伊予銀に勤めているY君(彼が幹事をしてくれた)、愛大工学部を出て通信関係の四国通建に勤めているS君、広大医学部をあと数ヶ月で卒業するI君、東北大医学部のT君、京大経済学部のY君、一橋大のN君、B君、それと東大工学部のS君。以上が出席者全員のプロフィル。

 2次会は碁会所で碁を打った。私はNECのH君と熱戦を展開した。H君と碁を打つのは彼の高校時代以来だから7,8年振りということになる。高校時代から長考派で粘っこい碁を打ったが、いまも相変わらず。何だか時の隔たりが一気に失せてしまったような錯覚に陥った。

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