いつもは重信川の河床を水が流れたりはしない。豪雨のあとだけ、一過性の水が流れる。その一過性の流れの勢いで上流から岩や小石が押し出されてくる。水が引くとそれらは河床にたまり、堆積する。重信水域は、中央構造線上の活発な地滑り地帯にあり、崩れて流れ出す岩や小石の量は大変なものである。上流域はそのために、砂利採取・運搬業者の巣窟になっている。 普段は水が流れないものだから、いったんたまった岩や小石は次のよほどの洪水でもがない限り、もはや動かない。こうしたことが地質年代を通じて繰り返された結果、重信川の河床はずんずん上がり、ますます水は表面から姿を消していった。伏流水として地下を流れているのだ。 悪循環である。水が流れないから岩や小石がたまり、岩や小石がたまれば河床が上がる。上がればますます水は流れなくなる。 重信川はかつて「暴れ川」として名を馳せた。台風や豪雨のたびに氾濫した。河床が高いからあふれると一気に周辺の田畑、人家を飲み尽くす。全長30数キロという短い川ながら、川幅と周辺の景観が大河の様相を示すのは、この繰り返された氾濫による。 江戸初期、足立重信が川を改修し治水に努めたため、以後「重信川」と呼ばれることになった。それ以前の名を私は知らない。 重信川の土手はここ20年あまり、私のジョギングコースである。松山市に隣接する砥部町に住んだ10年間は中流域を、そして今の家に引っ越してからの10余年はやや上流域を、暑い日も寒い日も走った。四季折々の川の姿を堪能しつつ走った。 先日、台風から数日を経た重信川に読書に出かけた。曇り空で日差しが弱く、読書に最適の光量である。川を見下ろす土手に腰を下ろし、約2時間、時を忘れてトーマス・マンの「魔の山」に没頭した。川は珍しく水を流し、広々とした河原のあちこちに網の目のように水流を巡らしている。どの水流も一つ一つは幅数メートルから10メートル程度。うねりうねってクモの巣のようにはびこり、河原は至るところ中州である。 台風の名残で水は濁り、滔々と勢いよく流れている。その川音を楽しみながら読書に耽る。 絶えることのない川音。聞いているとまるでオーケストラだ。リズムがあり、メロディーがある。 まず底流をなすのは、あちこちのたくさんの川音が入り乱れ渾然一体となった「サワサワ」、「ゴーゴー」。バックグラウンドの水音である。これは絶えることなく、しかも方向によるムラもなく、まるで宇宙の背景放射のように河床一帯を包み、耳の底に響いてくる。一つ一つの水音を一個の恒星の光にたとえれば、バックグラウンドの水音は天の川の乳の色ともいえる。個々の光、個々の音がその境界を失って、乳色に融和し、個を昇華させた姿である。 うっかりするとこのバックグラウンド音しか聞こえてこないのだが、耳を澄ますと、実に様々な音がその中でリズムを刻み、メロディーを奏でている。ピチャピチャ、ドボン、ピリュ、ゴボッ、チュリュ、パチッ、トポトポ、と実に様々である。これらは比較的近く、眼下の水流から発せられる水音に違いない。夜空に恒星として見分けられる光にたとえられる。背景にとけ込まないで個を主張している。いじらしくも愛らしい音たち。 それぞれがランダムのようでもあり、それぞれなりの周期を保っているようでもあり、微妙な混沌と規律が私の耳に迫る。芸術家の手では作り出し得ない、不思議なリズムとメロディーだ。聞くともなしに聞いているうちに、うっとりと天に昇る心地がしてくる。魅せられ、捕らわれ、抜け出せなくなる。たしかに一つの世界、音空間がそこには広がっていて、私を虜にしてしまったようだ。 虜になっているのは私だけではない。虫たちもそうだ。トンボが水に捕らえられている。彼らは群をなし、時には単独行動をして、川面を飛ぶ。よく見ると、川の流れとまったく同じスピードで彼らは川面を下る。ゆっくりと、ヘリコプターのように。そしてあるところまで下ると反転し、猛スピードでもとの場所まで舞い戻る。そして再びゆっくりと川のスピードにあわせて川面を下る。これを飽きることなく繰り返している。おそらくその飛行範囲が一匹の、あるいは一つがいのテリトリーなのであろう。 彼らは彼らなりに川のリズムを感じ取っているのだ。そしてその中に意識せずして身を沈め、自然の一現象として暮らしているのだ。現象としてはバックグラウンドに溶け、テリトリーを持つ身として個を主張している。 人間はいつ、どのようにしてバックグラウンドに溶けることをやめたのか。バックグラウンドからの遊離を文明と呼び、それを意識するようになったのはいつか。この文明過程は果たして成功に向かいつつあるのか。そんな思いもちらっと頭をかすめた。 土手から見る山々の重なりがすばらしい。曇り空で、霧がかかっている。山水画のよう、と言いたいのだがそういう形容は今は当たらない。視界があまりに広く、山の広がりも180度の広角である。遠くの山は霧に霞み、近づくにつれ稜線がくっきりしてくる。一つの山塊を構成する稜線はいくつもある。晴れ渡っているときには余りに明瞭なため稜線の遠近が隠され、ぼんやりと霞んだ日にもまたそれらは単色の一つの山容にとけ込む。 今、今日のようなときにだけ、すべての稜線が立体的に浮かび出る。遠くは霞み、近くは明瞭に、稜線の一つ一つがまるで立体めがねで見るように、奥行きのある空間に納まって見える。 これも、バックグラウンドに溶けていた個が、その存在を主張した瞬間だといえる。電磁波のスペクトルが織りなす自然のリズムとメロディー! 太古の昔からこうした光景は何度となく繰り返されてきたはずだ。しかし、それを味わい堪能する人間の知性と感性がなければ、それらはリズムとメロディーとして意味をもつことはない。地球上に生命が芽生えてから30数億年。気の遠くなるようなその長い期間のほとんどすべてにわたり、山々や川の流れは無為にリズムを、メロディーを刻んできた。誰に味わわれるでもなく、無為に。 人間が自然のバックグラウンドから遊離したことの大きな意味は、それら自然のリズムを独立した目で眺め味わうことにあったのかもしれない。自然が、それ自身を探求し、味わい、観察する存在をその内部に保有する意義と危険。人間はそのことを深く謙虚に考える時を迎えつつある。 |
奈良は熱く燃えた
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坊ちゃんは棋道部の生徒3人を引率して奈良に行って来ました。総合文化祭の囲碁部門が奈良市近郊の川西町で開催されたのです。川西町は予想以上の田舎町でしたが、そこに全国40都道府県から200名の代表選手と100名に近い引率教員が集まったのです。町長さんを筆頭に、町をあげての歓迎でした。 宿舎は奈良市内でした。市内は至るところ、全国から集まった高校生であふれかえり、公園の鹿もびっくりという感じ。 ちょうど台風が西日本を襲ったときでしたが、その影響は奈良には皆無。連日、力強くわき昇る積乱雲と真っ青な空、照りつける太陽、むっとする熱気(ちなみに坊ちゃんはこの熱気に生気を感じる)。それに会場内では生徒たちの熱戦。真夏のエキスに心も体もどっぷりと浸かりきった毎日でした。 坊ちゃんはその中で、幸運にも関西棋院の今村俊也九段の指導碁を受ける機会を得、ここ七、八年本腰を入れて碁を打つことがなかったため錆びついて方向感覚の狂っていた頭に、潤滑油を注入することができました。あとで並べ直して手直しまでしてもらい、何にも勝る碁の勉強になりました。 |
水彩画を始めました
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とはいえ、先生について習うようになったのは、二十歳代も後半になってからです。3人の先生に習いました。生まれて初めて裸婦なるものを描いたときの衝撃は今も鮮やかです。10人ほどのグループで描いたのですが、目の前の人がモデルさんだとはつゆ知らず、何の気なしに彼女と雑談していると、「では始めましょう」と先生の合図がかかり、話をしていたその人が突然ガウンを脱いだのです。すると眼前にいきなり一糸まとわぬ姿が…。私は面食らってしまい、絵筆が手につかなくなったのを覚えています。 そういううぶな時代を昔話として、近頃水彩を始めました。水彩は色の塗り方が油絵とはまったく違って難しく、その分、新鮮で楽しいものです。短時間で描けるのも魅力です。 近所の山の麓などにたくさんある古い神社を描いています。普段は見向きもせずに通り過ぎるだけだったり、鬱蒼とした木々に隠れていて通り過ぎても見えなかったりするそれらと、1,2時間向かい合います。するとその小さなお社が、私に何かを語りかけてくるのです。 時間の集約を感じます。この地上に、百年にも満たない一瞬間、住まわせてもらっている自分という存在を、彼らは声にならない声で感づかせてくれるのです。時間の力を絵にとどめたい、そんな大それた発想すら起こってきます。 |
人はみな盗人ヤドカリ(その1)
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それが最近になって、水彩を始めてみようと思い立ったことで、眠っていた絵心に再び火がともされたのでした。 絵を描いていると私は、芭蕉の世界観を追体験します。「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」です。自然や、あるいは何百年の歴史を経た人工的建造物がかもす、時空間におけるどっしりした安定感に比べると、私という一人の人間のはかなさ、頼りなさはまるでかげろうです。もちろん人工的建造物もまた、長い年月の間には滅びるし、自然すらも地質年代的時間の中では水飴のように形を変えます。 そうした悠久の変転の中で、ほんの一瞬をこの地球上に住まわせてもらっているにすぎない私という存在は、いったい何を意味し、何を目的とし、何を意義としてもっているのか。考えると悲しいくらいに不透明な恐怖に襲われます。 「人はみな盗人ヤドカリ」、これがこうした思いの果てに浮かび出てくる一つの結論です。盗人が平然と所有者顔をし、やがてまた盗まれる。この連鎖の中でほんの一瞬、文化のキャリアーとなること、これが一個の人間の意義であり、目的でもある。そんな思いです。人類、あるいは生命の連綿とした連続性を考えるとき、このことは実は、何にも勝って価値ある輝きのはずです。だけど、にもかかわらず、こんなことで割り切られてしまうのは、あまりにも生物学的でナチュラルにすぎます。「個」の価値がへこみすぎています。 そうか、所詮はそれだけか。生きていることの意義はバトンを落とさないように運動場を一周するだけのことか。 むなしさがこみ上げてきます。生に加えて、多少の知恵を与えられてしまった人間という実在なるがゆえに味わう宿命的悲哀なのでしょうか。生きていることにいかなる意味をもたせようとも、いかにそれを飾り付けきらびやかに見せようとも、所詮は一個のリレーランナーにすぎないのか。声援を受け、晴れやかに駆け抜ける人もおれば、注目されることなくいつの間にやら影のように走り終えてしまう人もいるでしょう。 しかし、上のように考えるならば、走り終えた人はみな同等の役割を果たしたことになります。何という平等主義。人間性の理想の姿。万々歳です。 だけどやはり、これでは虚しすぎます。何かが不足しています。走っているときに受ける声援の度合い、あるいは走り終えたあとに受ける評価、それらがすべて平等の名の下に平らかになることによる虚しさか。どうやらそうではないようです。 自らの内側から燃え立つ充足感、それこそが大事で、それこそが生き甲斐、それこそがすべて。そう思います。他から受ける評価などは、それから見るとはるかに低位の価値しかもちません。 と考えるのは私だけではないでしょう。誰もがそう考えるはずです。しかし、実はその内面的な高位の充足感すらが、時間の融合作用のもとでは無に帰する宿命をもつのです。それが虚しいのです。たとえば百万年を単位とし、今から百万年後、二百万年後に、今現在個としての生命を保って生きている人の生の証し(生きた価値)が果たして記憶として、文書として、何らかの形をとどめたものとして残っているでしょうか。おそらく大海に浮かぶ一つの泡ほどにも形をなさず、きれいさっぱり痕跡はかき消されていることでしょう。 二足歩行や火をおこす技術のように、「誰が」ということがいっさい意味をもたない集合的な形で、今日の文明がかすかに跡をとどめる、それくらいのことはあるかもしれませんが…。 こう考えると、結局行き着く結論は、通りすがりの「盗人ヤドカリ」ということにならざるを得ません。あるいはリレーランナー、あるいは鎖のわっかです。スポットライトが当たり、時が「今」を告げているときだけ、起きあがって浮かれ踊り、やがてスポットライトが次を照らして、時が「過去」を告げると、パタンと闇の穴に倒れ込む。こうした連鎖が次々ととどまることなく繰り返される操り人形のドミノ倒しをイメージすることもできます。一人の人間の生は、人形の形をした一枚のドミノにすぎないのでしょうか。 生きているって、いったい何だろう。古い神社やおい茂った大木、川の流れなどを見つめながら、私は遠い過去とはるかな未来をまさぐる目でそれを思います。 いきなり唐突な抽象論になりました。(その2)で絵に結びついた具体的な話をします。 |
木からスチールへ
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坊ちゃんは、数学の補習で昨日登校。高1編入クラスの1,2時限目。久しぶりに教壇に立つと、なまった体にカツが入るのがわかる。おかげで少々喉が嗄れてしまった。 愛光学園に勤めて20年あまり。その間ずっと使い続けてきた職員室の木の机を、スチール机に交換してもらった。夏休み前に頼んでおいたのだが、すっかり忘れていた私は、昨日登校して、スチール机が居座っているのに驚いた。これまでの木の机はどこへ行ったのか。愛着のあったあの机に惜別の思いを伝えることなく、いきなり冷ややかなスチール机を友とすることになった かつての木の机は体裁は悪いが丈夫だった。季節や天候に応じてぬくもりや固さが変わり、いつでも最高の感触で私を迎えてくれた。ただ古くなったからというだけで墓入りを命じたのはあまりに安直だった。 あの机は私が使いはじめではなかった。勤めるようになった初日、これを使って下さいと言い渡されたときには、すでに十分な中古であった。私と入れ違いに辞めていった誰かのお下がりだったのだ。長い歴史をもち、汗と涙の染みついた机。涙はともかく、汗はたっぷり吸い込んだ机だった。いや、涙もおそらく一滴くらいは染みついている。定年になるまで使って上げるべきだったと、姥捨てに狂った息子の慚愧の念を味わっている。 |
人はみな盗人ヤドカリ(その2)
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屋根のそりの見事な曲線、何層にも重ねられた複雑な瓦の構造、その意匠、屋根の先端にのった獅子瓦のすばらしい造形、破風の見事な彫り、横木にさりげなく彫り込まれた細工、壁板の微妙な並び、等々。木々に隠れてひっそりと忘れ去られたように鎮座する、小さな森の小さな鎮守の社にも、古い時代の宮大工の丹誠込めた工夫と創意が、生命を維持する血流のように脈打ち流れています。普段は、ときに参拝することがあっても、まったく気づくことのない造形美の躍動です。 日常の暮らしからは隔絶され、せいぜい正月を迎えるときと、秋祭りの時くらいしかその存在を意識されることのない小さな社ですが、それは樹木の茂りの奥で確実に生きているのです。土埃をかぶって荒れ放題になり、本殿の床板は破れたまま。それでも生きているのです。脈々と新生の息吹を保ったまま生きているのです。必死に刻んだ工匠の、無になった心がそのまま張りついているのです。 古ぼけた社殿を画用紙に写そうとして、あまりに複雑でかつ精妙な意匠と、枯れ果てたようなくすんだ色調とに、困惑の極みを味わっているとき、その社は私に何かを語りかけてきます。何かを感づかせます。 時間の集約です。命の伝承です。この場所で、この空間で、かつて血のにじむ努力と工夫を重ねた人がいたという事実です。この土も、このひっそりと静まった冷気も、この木々の葉擦れの音も、きらきらときらめく木漏れ日も…。この閉じた小空間に生起するありとあらゆる事象が、かつてなにがしかの人物の創造空間に属していたのだ、その人の創作意欲の所有物であったのだ、という事実です。この場所で、この壁に、何日も、何ヶ月も、あるいは何年も、張りついて精魂を傾けた人物がいたという事実です。 なんだか不思議な気がしてきます。私が第一発見者になったような、誇らしさと神秘感の入り交じった気分です。まるで美の王宮を発掘したような気分です。この社殿を造った宮大工が、評価されることも、認められることも期待せず、ただひたすら自らの美の技量をそこにぶつけ、外部からは見えない細部に至るまで美の意匠を凝らした創作物。おそらく、何百年か昔に作られて以来誰にも気づかれないまま、祭られた神とただひたすら対峙している工匠の技術が一つや二つはまだあるのでしょう。 宮大工の心がじかに伝わってくるこうした手の込んだ細工と対面しつつ、様々な思いに身をゆだねていると、時を超えてその人物と対話している気分になります。彼の精神が、観念の世界を超えて、現実に今も生きているような錯覚にとらわれるのです。彼の鑿や槌の音が今にも聞こえてきそうです。 認められることを期待せず、ひたすら美に奉仕する姿は、自然の造形に通じます。それを通して何かを得ようとする意図が見え隠れする美にはどこか嫌みがあります。あからさまの嫌みが消されているようでも、発見されるべくそっとベールをかぶせた美などというのも、やはりその意図が分かってしまうと鼻につきます。 それにくらべて、ひっそりと森の中にたたずむ小さな社の社殿には、私は川の流れや山の姿に似た自然のおおらかな「美そのもの」を見ることができます。村人の素朴な信仰がそのまま宮大工の心意気に反映されているように思うのです。邪心がないのです。ひたむきなのです。 邪心のない創造の魂は、形をなして生み出されたあとも、その造形物の中に長く生き続けることができます。見る者、味わう者に、常に新たな生命力を吹き込む力を持っているのです。こうして建造以来何百年にわたり、この鎮守の社は、瞬間瞬間を生きる人たちに安らぎを与え、瞬間瞬間の人たちに瞬時の占有を許し続けてきたのです。 若い二人が人目を忍んで語る愛の、そして彼らの熱い抱擁と口づけとの舞台になったこともあったでしょう。戦火を逃れた人たちの仮住まいの場になったこともあったかしれません。秀吉の時代、あるいはもっと昔から、付近に戦火の記録はいくつもあるのです。あるいは、にぎやかな祭りが人出を誘った時代もあったでしょう。今は、境内の藪が少し切り払われて、はやりのゲートボール場になっているところもあります。 それぞれの時代を生きた人々が、これらの社をわが専有物だと信じて、それぞれに生活の場を築いてきたのです。親の時代、祖父の時代にも、また別のやりようでそれは彼らのものであったことを、瞬時を生きる人たちはいつも忘れています。これが「盗人ヤドカリ」の意です。 神社に限らず、この地球上すべてが、こうして瞬間瞬間の盗人ヤドカリに占拠され続けてきたのです。初恋のほろ苦い味を若者は、宇宙開闢以来この自分にして初めて体験された味ででもあるかのように、神秘の思いで受け止めるものですが、それは実は過去累々と積み重ねられた種の共通体験にすぎないわけです。それにもかかわらず、初恋の味は常に新鮮で、みずみずしく、若者に生命を与え続けます。まるで宮大工の魂が社殿にひっそりと生き続けて、意を注ぐ人に永遠の生命を感づかせるように。 土も空気も水も、すべてがそうです。これらは、延々と続く生命種のそのときどきの生存個体に、彼らが踊る舞台を提供します。だけど、それぞれの個体にとっては、その舞台は気づいたときにはすでに被投されている場であって、その過去を体験から知るすべはもたないわけです。従って何事もすべて初体験であり、生まれたときから周辺の環境は彼の所有物だと言えなくもないのです。望まぬうちに舞台に投げ出されてしまっている人間にとって、盗人ヤドカリの道をおいて、生きる道は考えられないのです。 |
夏の終焉
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人間界の夏の終焉をよそに、自然界は依然、真夏の暑気を保っている。入道雲はなお力を誇示し、戸外に出たときのあのむっとくる熱気に衰えはない。だがそれでも、夏はやはり確実に終焉に向かっている。 いつの間にか夕立が降らなくなった。夏の極み(8月初頭)からの1,2週間が夕立のシーズン。それを過ぎると夕立はぱたりとやみ、秋風が立つ、と坊ちゃんの季節感は告げる。真昼の熱気を透過して小止みなく吹く風、カーテンをひるがえす風、その清涼感がたまらない。 明け方の涼しさ、寒さは誰もが体験しているところ。日暮れの早さも。 まだある。たとえば、夕焼けの寂寥感。紅に燃えた太陽が家々の壁を深紅の照りで射抜いた夏の日の力感はすでに過去。西空の雲は今、刻々と変化する神秘の光で静かに染め上げられている。永遠を象徴する寂寥感を伴って。 この夏、卒業生を大勢家に迎えた。すでに社会人になった卒業生から、卒業したばかりの人たちまで。かつて、教室で生徒と教師の関係であったものが、今は、夢をバラ色に膨らませた可能性の存在と、夢を失う一方の非可能性の存在との関係に変貌している。それを痛感させられることも、衰えから身を守る手段の一つかと、自らに言い聞かせている悲哀の底の私である。 |