063 The Killing Fields



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キリングフィールド、プノンペン、カンボジア

かつてカンボジアを支配したポルポト政権による虐殺が行われたキリングフィールドの慰霊碑。並べられている骸骨は本物だ。ポルポト率いるクメールルージュは1975年からの数年間で少なく見積もっても100万人を超える人々を虐殺したと云われている。ベトナム戦争が泥沼化していた時代、カンボジアのシアヌーク殿下は中国や北ベトナムと反米で連携していた。ベトナム戦争への影響を危惧したアメリカはカンボジアを空爆し関与、1970年に親米のロンノル政権が樹立されシアヌーク殿下は北京に亡命する。しかし、1975年、ベトナム戦争で米国が敗戦撤退するとこの地域での形勢が逆転、中国の支援を受けたポルポト率いるクメールルージュが実権を掌握する。アメリカがいなくなり、シアヌーク殿下も帰国すりゃこれで戦争も終わりかと思いきや、現地ではとんでもないことが起きていた。毛沢東思想のポルポトはなんと原始共産制を標榜。階級制度を無くし、国民のほとんどを農民にして自給自足の生活をさせようとした。200万人近くいた首都プノンペンでは子供であろうが年寄りであろうが、病人であろうが、すべての住民に対し地方への徒歩での移動を強制。力尽きた者はその場に倒れ、道中は死体だらけになったという。同時に政権を批判する者はもちろん、原始共産制に不要な職業である教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者、ジャーナリストなどのインテリ層はもれなく強制収容所に送られ拷問ののち虐殺。やっていることが滅茶苦茶だが、中国の文化大革命における粛清や日本の連合赤軍が山岳アジトで行った総括と同様、理想社会の実現を信じカルト化した連中に罪の意識は無い。ベトナムに逃れた人々が証言をしたり、カンボジアを取材するために入国した海外のジャーナリストに行方不明が頻発したことなどから、徐々にカンボジアの様子がおかしいとの情報が国際社会に伝搬されていたが、1978年、ベトナム軍と共にカンボジアに侵攻したヘンサムリンがポルポト政権を打倒すると、国土のあちこちで死体が埋められた穴が見つかり虐殺の実態が明らかになる。ポルポト派は北部の山中に逃げ込み、ゲリラ戦はポルポトが死去する1998年まで続いた。



トゥールスレン虐殺博物館
(旧S21強制収容所)


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