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やおおさの神々

800cyo大相撲が崖っぷち。八百長の決定的な証拠の出現は、近年続いた大相撲の深刻な不祥事よりさらに深刻だ。公益法人として致命的な失態といえよう。相撲協会が民間の一興行会社になるのは勝手だが、その場合、相撲自体は存続されても、現在のような巨大な組織を維持するのはきっと難しい。この事態は相撲文化自体の終焉を意味する。のだろうか? まあ、マトモに考えればそうなのかも知れない。しかし、大相撲自体が元々そんな公正なスポーツだったのだろうかと考えると何かとても複雑だ。詳しい歴史は知らないが、太古の昔、相撲は青年男子の力比べだったのだろう。その迫力、真剣さに驚嘆した人々はやがて相撲を神事として様式化していく。我家の近所にある神社にも土俵の跡が残っている。聞けば戦前までは定期的に村の相撲大会が行なわれたらしい。江戸時代、その全国津々浦々の神社で行なわれていた神事として行なわれていた相撲の強者を集めてプロとして興業化されたのが大相撲。テレビの情報番組で紹介されている通り、八百長という言葉そのものが江戸時代からある相撲用語なのだ。興行化するってのを判り易く言えば見世物にすること。見世物である以上、真剣勝負を装いつつ、営業上の様々な調整も必要になってくる。それは他の職業格闘技であるプロボクシングやプロレスリングなどを見れば明白だ。むろんそれがイコール八百長とは限らない。ボクシングの場合は興行上の成功を狙ってマッチメイクの相手や時期や順序が極限まで検討されている。プロレスリングの場合はもっと示唆的だ。力道山の時代、多くの国民はプロレスを真剣勝負と信じて手に汗を握っていた。現在はどうだろうか。私の見る限り、現在のプロレスはレスラーを偶像化したりその様式を楽しむファンのための興行と化してるように思える。大相撲も同じ。相撲の場合、様式が神道に準じているため、多くの国民がその神々しいヴェールの中はあまり探らずにその神技を楽しんできたに過ぎない。何ら科学的根拠がないのに新年になれば神社にお参りするのと同じ。あるいは信者でも檀家でもないのに、家族が亡くなると坊さんを呼んで葬式をやるのと同じ。信じれば救われると信じる。信じなければそれまで。野球賭博や八百長メールに関与した力士が拙い事をしたとすれば、その信仰心に水を注したこと。和尚が葬式に平服で現れたようなもので、それでいくらお経を詠んでもらっても有難味が無い。それでは厳粛な葬儀が台無しとなる。私が勤務する会社の近くにあるホテルの結婚式場の斎主はホテルの従業員。昼飯を食いにグリルに行けばふだんはウェイターをしている。それを知るとかなりシラケルが、きちんと神道上の資格を持ってやってることなのだろうから、そこはその気になって接しなければ意味がない。私は相撲を儀式と考える。その中に八百長なりな馴れ合いなりお約束があってもまったく構わないとは思うが、そこをカモフラージュするために様式であり儀式なのだ。見破られないようにやるのがプロの仕事。信じるのがファンの努め。だから朝青龍のように相撲を単なる格闘技スポーツと捉えているアスリートは相撲界から去って正しい。真実を暴き出すことは正義には違いないが、それで世の中が楽しくなるかは別問題。新聞、ラジオ、テレビ、インターネットと情報伝達の手段が豊富になるにつれ、誰もがあらゆる裏情報を手にするような時代になったために、既存の権威や組織がどんどん陳腐化している。今回の八百長騒動も携帯電話の削除メールに復活の呪文をかけたことで勃発した。大相撲は高度情報化社会に負けたのだ。この先どうする? 私見としては文部省所轄の公益法人はもうやめて、神社本庁に連なる宗教法人格となるのが正しい生き残り方なのではないかと考える。宗教ならば信じるか信じないかはそれぞれの自由。税制でも優遇がある。けだし名案だと思われるが如何だろう。

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