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箱の中の街

d74aab25.bmp地方での生活で最もグローバリズムを感じる場所、それはジャ※コだ。私の家はある地方都市の郊外にある。近くには江戸時代からある街道が通り、かつてそこには商店街があった。八百屋、肉屋、菓子屋、荒物屋、蕎麦屋、煙草屋、下駄屋、布団屋、風呂屋、床屋、桶屋、電気屋などが軒を並べ、やや離れたところには米屋、魚屋、寿司屋、書店、薬局、麩屋、写真屋、時計眼鏡店などもあった。各店は奉仕券なる共通のサービスチケットを発行し、それを集めると行ける温泉旅行が地域の人々の楽しみだった。そこに30年ほど前、県下初のジャ※コが進出した。するとほどなく商店街は壊滅した。今でも菓子屋、下駄屋など数軒が細々と残るが、マトモな商売をしているのは床屋くらいだ。旧商店街経営者の中には自殺者も出たという。そして今度はなんとそのジャ※コが消えるらしい。さらに郊外、高速道路のインターチェンジに近い場所に巨大なショッピングセンターとなって移転するとの情報がある。昨年から今年にかけて私は近県にあるその会社の巨大ショッピングモール2箇所(群馬県太田市と富山県高岡市)を実際に訪れてみたが、それは店というより巨大な箱の中に詰まった街だった。箱の中には120を超えるテナントが入り、さらにレストラン街やシネコンまでもがある。ジャ※コはその巨大なモールの中心となるキーテナントに過ぎない。無料駐車場の収容能力は4000台。毎日曜日この駐車場がいっぱいになるようなことになれば、今度は地域の商店街ではなく駅前の中心商店街も壊滅することになるだろう。経済原理主義の立場に立ち、地球規模での効率化、競争力強化を考えれば、とりあえずこの現象は「進歩」だ。事実、全国規模で展開するレストランやファストフード店のメニューはコストパフォーマンスは異常に高い。人件費も極端に節制されているようで、その価格展開たるやとても個人商店に真似できるものではない。貧乏人の私にとっては安いということはとりあえず有難いことではある。しかし、高速道路を使い200kmもクルマを飛ばして訪ねた大規模ショッピングモールではあったが、私の場合は特にそこで購入したいと思うようなモノは何ひとつ無かった。家人は家の近くでは売られてないブランドがあったと衣料を数点購入したようだが、私には何の魅力も無かった。結局、私は家人と一緒に昼飯を食っただけで、あとは同じ敷地内にある日帰り温泉施設で寝ていた。120もの店が並んでいるがとりたてて珍しいものがあるわけではない。要は広い意味での生活用品がごまんと置いてあるだけだ。観光施設ではないから地元名産品があるわけでもない。要するにこの手のショッピングセンターの中身はどこも同じなのだ。まさにグローバリズム。これがわが町に出来れば当然利用はするだろう。そこに行けば生活に必要な品は何でも手に入る。200円ほどのガソリン代はかかるもののとりあえず便利だ。しかし、このBLOGを見れば判るとおり、無駄なことをしたり無駄な時間を過ごすのが好きな私にとって、便利なだけが有り難い訳でもない。日本中何処に行っても同じ箱同じ店だなんてのはむしろツマラナイことだと言ってもいい。店によって様子が違っていたら時には隣町のショッピングセンターにも行きたくなるような気もするが、どこも同じならわざわざ行く気にもなれない。20年程前、何処の町の駅前もミニ東京化しツマラナクなったと云われた時期があった。それでも田舎の町には訳のワカラン怪しい店が表通り裏通りにあり、恐る恐るそれを利用するのが旅のスリルだった。その頃は自分の街と同じ店を見つけると親近感を覚え逆に喜んだりしたものだ。昨今そんな楽しみは消失した。地方都市の駅前はどこも衰退し、歩く気にもならない街になり、クルマで郊外に行ってみれば自分の住む町と同じ全国一律のチェーン店が並び、明らかに旅はつまらなくなってしまった。かつては文化的に近しい同じ県内でも他の町に行くと風情が変わり、その微妙な差が案外面白かったのに今はそんな感慨はほとんど皆無だ。一体これは進歩なのだろうかそれとも衰退なのだろうか。まあ、巨大ショッピングモールが出来て、首都東京にある商品が総て手に入るなら、ある意味それは「進歩」だろう。しかし、巨大ショッピングモールに実際に並ぶ商品を眺めていると、仮に我が町に巨大ショッピングモールが出来たところで、マニアアライクで珍しい商品が欲しければ、新幹線に乗ってTYOに行くしかないのは明白。その程度のもので地域文化や町並みが破壊されるなら、それは進歩でなく明らかに「後退」だ。日本中の地域コミニュティを破壊し尽した箱型商店街の創業者の息子がなんと野党第一党の党首として政権をめざしているんじゃ、この流れはそう簡単に変わるまい。淋しい国になったものだ。最近、グローカリズム(Glocalism)なる言葉が流行り始めている。これは"Globalism"と"Localism"の合成語のようだが、「地球的規模の発想で地域活動を行う」という考え方らしい。反グローバル主義とはやや趣が異なる。グローバルに考えることは重要だが地域性を失ってはいけないということかなとも思う。実際、グローバリズムが単に東京化米国化を意味するならそれは人類にとって巨大な文化的損失になるだろうことは私のような馬鹿でも判る。仮に各地域の多様な文化を吸い上げて優れたものだけを還元するのがグローバリズムだとしたらローカルの衰退はやがて世界の衰退を招くだろう。いくら優れていても均質化単純化された社会から生まれる文化など長い眼で見れば明らかに不毛だからだ。経済的には無駄と思えることも文化的には意味のあることはいくらでもある。私の街に出来る大規模ショッピングセンターも、せめて建物を仏閣型にするくらいの洒落は欲しいと思う。だから何だと云えばそれまでだが、その無駄が大切なのだ。そういう発想を誰もしなくなったところに今日の不毛がある。

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