終わりに
旅行中、話にはいろいろと聞いたが、実際には、どうしても嫌だ、ということを強いられた記憶がそれほどなかったのが不思議かつ、快い思い出となっている。モロッコの人は、個人の意志は尊重するのだろう。
また、なぜ通りを普通に歩いているだけで、やたらといろいろな人が話し掛けてくるのかといえば、旅行者には、さびしいだろうと思って、声をかけるのだそうである。特に慣れない異国の土地では不便なこともいろいろと生じる。この地域では強い者が弱い者を助けるのが当然という感覚が行き渡っているので、街に到着直後の右も左も分からないときには、手助けを申し出てくれる。しかし当面の問題が解決されたとなると、もともと余裕があって物見遊山に来ている観光客と、現地の生活者とでは、強弱関係の立場が逆転する。そうなると、逆に、対価を支払ってもらおうという気が起きるのではないか。そこで絨毯屋なり、土産物屋なりに連れていってしまうらしい。すべてのサービスないし援助には、代償がつく。対等な関係を貫こうとするバランス感覚を持ち続けるには、ストイックな自制心が要求される。さらに、いくら観光を目玉として打ち出しているとはいっても、特に旧市街などは、実際に人の住み、日々の生活が営まれている居住空間なのである。東京の下町を、見知らぬ人がカメラ片手に大勢でぞろぞろやってきて、じろじろ眺めてまわったら、不愉快に思わないことはないだろうか。恐らく、そこで観光客に愛想良く話し掛け、名所だけを案内し、一般市民の日常からは隔絶するように、それとなく追い払ってしまう役割を、ガイドの人達が担っている、という仕組みが無意識にでも作り上げられているのではないか、と思う。
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