イブン・マーリク、アラビア語で通称
ابن مالك として知られていた人物は、人名・地名事典の
المنجد によると、西暦1204年に今はスペインのアンダルス地方で生まれたと書いてあります。西暦1274年、ダマスクスにて没しました。著作には
الكافية الشافية があるそうです。私はこの書籍も読んでみたいと思っています。イブン・マーリクの息子も父親と同じく文法家、そしてイスラーム地域の当時の言語学者で、イブン・マーリクの記した文法詩に注釈を加えたのだそうです。この、注釈という書籍はいろいろな人が書いたものが出ています。私の持っている注釈書は
أشموني の書いた注釈書をさらに解説したものです。
現在においてもスペインからシリアまでは遠い距離がありますから、イブン・マーリクは一生の間に旅をして、研鑽したのではないかと思います。イブン・マーリクの生まれた地はアラビア語で
جيان 、アルファベットでは Jaén というところです。
当時のスペイン南部、アンダルス地方はカスティーリャ王国のレコンキスタ、つまりキリスト教徒の側からの国土回復運動が盛んに進められていった地域でした。イブン・マーリク
が子供の頃の
1210年のイベリア半島地図で
は Jaén
はムワッヒド朝の支配地域であり、アンダルス地方のちょうど真ん中辺り、コルドバの近くに位置しています。この後徐々にカスティーリャ王国が勢力を伸ばしていくのを間近に眺めな
がら、イブン・マーリクは故郷を離れて勉学を修めていきました。彼がイスラーム知識人として、レコンキスタをどう捉えていたかについては興味深いところで、ぜひ知ることができればと思います。また、
学問の修養だけでなく、戦火を逃れるためにイスラーム地域の東方へ旅をしていったのではないか、ということについても実際のところはどのような状況だった
のでしょうか。
イブン・マーリクが生まれ故郷の
جيان からとった
الجياني と呼ばれるのではなく、もっと大まかな地域の単位、アンダルス地方出身の人
الأندلسي と呼ばれていることから、アンダルス地方のそれぞれの地域がそれほど広く知られているわけではなかったことが分かります。それとも、土地の名前
جيان が言語によって異なる音表記がされており、アラビア語でも
خاين とも表記されるという複雑さのため、紛らわしくないようにアンダルス地方の人、と大まかに指して呼ばれるようになったのかもしれません。
الألفية がいつ作成されたのか、またイブン・マーリクがどこに滞在しているときに作られたのかはまだ分かっていません。