秋も深まり11月に入ると,われわれ子供たちは亥の子を心待ちにした。百科事典によると,亥の子の行事は中国に起こり,平安宮廷にもたらされたという。そんなに古い伝統をもつ行事だとは知らなかった。もとは,旧暦10月の亥の日に行われた。
今日,亥の子が全国的な行事として残っているのかどうか,それは知らない。少なくとも松山地方では,子供たちによって代々引き継がれ,今に至っている。私の知る限り,今では亥の子は新暦の11月だ。 11月の亥の日であったのだろう,私の記憶では,亥の子は11月に3度行われた。一の亥の子,二の亥の子,三の亥の子などと呼ばれていたように思う。干支の具合によっては2度しか行われない年もあるはずだ。日の暮れが釣瓶落としに早くなり,朝晩の寒さが身にしみるようになったころ,子供たちに,待ちに待った亥の子がやってくる。 日暮れ時,子供たちは,藁(わら)縄を周囲にたこの足のようにつけた石を下げて,一軒一軒を回り,家々の玄関先でその石を搗(つ)くのである。家を建てるときの地固めのような案配に搗く。石は角を丸く削った太鼓のような形に整形されていて,大きさは,直径30センチ,高さ15センチほどだったろうか。それを7,8人の子供が,歌を歌って拍子を取りながら搗く。縄を持つことのできない子供は,手拍子を打ったり,足を踏みならしたりしながら,一緒に歌う。 搗き終わると,その家の奥さんが子供たちにお菓子の入った袋をくれることになっている。こうして町内の家々を全部まわり終えると,もらったお菓子をみんなで分けあい,家路につくのである。 ほんの1時間ばかりで終わる他愛もない行事であるが,子供たちにはこれがこの時期の大きな楽しみだった。夜寒を感じる夕暮れ時に,近所の子供たちが大勢集まってくるだけで,昼間の遊びとはひと味違った,「晴れ」の気分を味わうことができたのだ。寒さに身を縮ませながらはしゃぎ回る,これだけで十分楽しいのである。 亥の子には独特の歌があった。その歌を歌いながら石を搗くのである。もう何十年も昔のことだから,歌詞は半分以上忘れている。思い出すままに記しておくと, 亥の子,亥の子,亥の子餅ついて,祝わんものは,お恵比寿さん(おえべっさん)にゆうてやろ。それ,一で一緒に歌いましょ(?),二でにっこり笑ろうて,三でさかずき…(?),四で…(?),五ついつものごとくなり,六つ昔のごとくなり(?),七つ何事ないように,八つ屋敷を建て広げ,九つ小倉を建て広げ(?),十でとうとう…(?)。…(まだ少し歌詞は続く)。 こんな歌であった。覚えている方があれば,教えて下さい。 百科事典によると,「中国では、この日の亥の刻に、ダイズ、アズキ、ササゲ、ゴマ、クリ、カキ、糖の7種を混ぜた7色の餅を食うと、無病だという俗信があって、それが平安時代の宮廷に取り入れられ、室町時代には、白、赤、黄、栗、胡麻の五色の餅をつくった。この餅は宮中や将軍に献上するものであったが、のちには同時に宮中や将軍から臣下に下賜され、あるいは貴族同士が互いに贈答しあうことにもなった。…。亥の子餅は,…,女官たちが搗く風習もあったし、宮中への餅は、天皇自ら搗くことが古くからの慣例であったらしい。」とある。 かつては,亥の子の日に本当に餅をついていたということのようだ。それがいつの頃からか,石で地面を搗く形に変容してきたのである。あるいは地域によっては,石ではなく,一人一人が藁束で地面をたたく(搗く)というところもある。それにしても,亥の子は長い伝統に支えられた,道教的色彩の濃い行事なのであった。 こうした行事が,民間で長く伝えられてきたというのは不思議である。松山で,市が音頭をとって一斉にやるというような,大がかりなものではない。本当に細々と地域の伝統として守り抜かれてきた行事なのだ。だから,町内によってはまったく亥の子と無縁なところもあるはずだ。 日陰の行事である亥の子が,千年を越えて生き残ってきた理由は何だろう。単純に平和,安泰を祈り,しかも子供が主役であるところから,政治的に利用されることもなかった,そんな素朴さが長続きの背景にあるのかもしれない。 |