愚陀仏庵 <子規と漱石>


 漱石は明治28年4月、松山中学に英語教師として赴任した。愚陀仏庵は漱石の下宿先の名である。当時それは松山の中心部に位置し、松山中学まで歩いて数分の距離であった。愚陀仏庵は漱石の下宿というにとどまらず、日本の近代俳句の生育の場である。専門的研究書はいくつもあろうが、素人の私の知る限りで、そこのころを少しお話ししたい。

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 愚陀仏庵は昭和20年の松山空襲で消失した。しかし、その後綿密な調査によって復元されている。復元された建物の全容は、萬翠荘(バンスイソウ)で見ることができる。萬翠荘というのは、松山城最後の城主・久松勝成(定謨)氏が建てた豪華な洋風建築であり、城山の南面を利用した広大な敷地をもっている。今は県立美術館別館である。その萬翠荘の建物の裏手、城山南面の鬱蒼とした木立の間に愚陀仏庵が復元されている。

 庵と言うにふさわしいこじんまりした二階屋で、おそらくもとは母屋の離れであったのであろう。道後の子規記念博物館の中にも、愚陀仏庵の一階部分だけが作られている。子規について詳しく知りたい方は、この記念博物館に行かれるとよい。

 この愚陀仏庵が有名になったのは、子規と漱石の親交による。明治28年夏、体調を崩していた子規は漱石の勧めもあって、松山に静養をかねて帰省した。子規の母と妹はすでに子規とともに東京に移転していたので、帰省した子規は漱石の下宿・愚陀仏庵に居候することになった。約2ヶ月間、二人はそこで寝起きをともにしたのである。

 愚陀仏庵は連日、句会の場となった。松山松風会と呼ばれる子規の起こした俳句結社の若者たちが、毎日やってきて子規の指導を受け、ちょうど夏の休暇中であった漱石もその輪の中に加わった。子規にとっては、病気静養のはずがまったくその逆に大忙しの日々となった。

 愚陀仏庵に日参した中に柳原極堂もいた。彼は後に(明治30年)俳誌「ほととぎす」を創刊した。「ほととぎす」は極堂からさらに、同じく松山出身の高浜虚子に引き継がれてゆく。

 愚陀仏庵に集まった松風会のメンバーによって「吟行」がしばしば行われた。俳句を作るためのこの吟行は、それまでにも行われていたのだろうが、本格的にメンバーが連れ立って出かけるというのは、この愚陀仏庵時代が日本で最初のもののようである。子規にはややもすると病気がちのイメージがつきまとうのだが、元来彼は野外派であり、こうした遠足の類は特に好きだった。学生時代、野球に興じた話も有名である。「ベースボール」を「野球」と訳したのは子規である。

 こうして郷里でたっぷりと次代を担う若者を指導した子規は、2ヶ月後に東京に向けて旅立った。旅の途中、奈良・法隆寺で詠んだ「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」は有名である。この句は実は、その直前に漱石が作り、子規の推挙で海南新聞に載せられた「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」という句をもとにしている。言ってみれば盗作である。

 両者を比べるとき子規の方に軍配が上がるのは、やはり力量の違いであろうか。柿の赤と夕日の赤がマッチして、秋空に吸い込まれるようなイメージの広がりが子規の句にはある。しかもその視覚的な空間に、鐘の音が静かに染みわたってゆく。それに対して漱石の句は逆に、鐘の音が銀杏のはらはら散るさまに向けて集約されてゆく感じである。

 ついでに言っておくと、子規は柿が大好物だった。やがて病におかされて「病床六尺」の身になってからも、しきりに柿を食いたがった。四六時中襲う体の痛みを、柿を食うときだけは忘れることができたのであろうか。

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 漱石が小説の処女作の舞台として選んだ松山の地は、このような子規との思い出の地でもあった。二人が愚陀仏庵で語り明かした文学への熱い思いが、漱石においては、小説「坊ちゃん」として結実したのである。


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愛媛県松山市在住 奥村清志
愛光学園勤務
メール : koko@mxw.mesh.ne.jp