2019年10月7日 |
8月下旬、目の手術をした。まずは左目の白内障手術。これが失敗だった。挿入した人工水晶体(レンズの働きをしている)の度が合っておらず、近くにも遠くにも、どの距離にも焦点が合わないという、とんでもないことになった。目が回って頭がくらくらしそう。 1週間後に再手術。今度は手術中に出血した。左目が半ば失明状態に。目の前に手をかざしても、その手が見えない。泣きたくなる。光をまったく感じないというのではないが、深く淀んだ沼の中にいる感覚。 眼科の先生にとっては、こういう例は日常茶飯事らしく(本当はそれもおかしな話だが)、ちっともあわてず「2,3週間もすれば治ってきます」。 それを信じて待つうちに、たしかに1週間ほどで物がぼんやり見え始め、2週間もすると、濁りが消えて視界が明るくなってきた。3週間後にはもうすっかり透明に。 人工レンズの度も、希望通りに、デスクワークに適したものとなった。車を運転するときだけは近視用のメガネをかける。手術前に先生に伝えていた希望がこれだった。その通りになった。白内障が治った分、見え方もずいぶん明るくなった。 長い苦闘の末に、左目の手術は結果的には成功したのだった。 左目が成功すると、右目の手術。右目は白内障と黄斑変性症のダブル手術だ。今度は左目のようには失敗しなかった。出血はなく、人工レンズの度もまずまず。だが、黄斑変性症の手術が加わった分、治りが遅い。すでに手術から10日が経つが、黄斑変性症が前よりも強くなっている気さえしている。 黄斑変性症というのは、文字(だけではないが)がゆがんで見えたり、一部がかすんで見えたりする病気。そのため右目だけだと本が読みづらい。いくら度の合って入るメガネをかけても読みづらい。 今は手術前よりゆがみが強い。治したはずなのに、いっそう悪くなった。つらい話だ。先生の話だと、これも徐々に回復してくるという。本当だろうか。失敗したのではなかろうか。またも再手術が必要になるのではなかろうか。疑心暗鬼。 消費税が10%に引き上げられた。政府は、軽減税率の導入だの、キャッシュレス決済によるポイント還元だのと、庶民に与える衝撃をやわらげる手だては十分打ったと高言している。しかし、地方に住んでいる者にとっては、キャッシュレス決済など、遠い遠い別世界の話。 キャッシュレス決済を実施している小売店など近くにないし、あったとしてもキャッシュレスで買い物をする人がそもそもいない。軽減税率にしても、買い物をするときそれがどうなっているのか、実際のところ不透明。というより、いちいちそんなことに気を遣って買い物をしたりはしない。 はっきり実感できるのは、物の値段が上がったこと。8%が10%に上がったのなら、物の値段は110/108倍に上がるのが道理と思っていたら、そういうことではないらしい。たとえば300円が350円に上がる。これはどう見ても便乗値上げだ。 値上げができない店は、値段を据え置く。消費税のアップ分は自分でかぶる。実際そういう店もたくさんある。 消費者を困らせ、中小の小売店を困らせ、結果的に消費を冷えこませ、小さな店を廃業に追い込む。それが消費税引き上げの実質的効果ということになる。 消費税というのは、その本質から言って、弱者に苦痛をしわ寄せする宿命をもつ。万人に一律公平な税率というのは、必然的に弱者の生活を追い詰め、富裕者には楽をさせる結果を生むのだから。これは物事を少し本気で考えてみれば、誰にだってわかることだ。 弱者が日々汗水垂らしてわずかなお金を稼ぐ努力と、富裕者がなおいっそう富裕になるための努力・手段との違いを思えば、富裕者から今より多くの税を集めることに、不当性などあるはずがない。しかも富裕者には、富や収入を隠蔽して国に納める税金を少しでも低く抑えようとする衝動が、なぜか本質的につきまとう。衝動と言うより、これは現実だ。自分が仮に億万長者になったと想像してみると、そのような衝動が心理的に無理からぬものであることも納得できる。 富裕者がもつこの衝動(じゃなかった、現実だ)を木っ端微塵に打ち破ることが、国の財政を健全化するための最重要課題と言ってもよいと思うが、いかに法の網をかけようとも、富裕者が富を隠す知恵と手段は信じがたく狡猾なのだ。それによって失われている税収入は莫大なのだ。 大企業が膨大な富を、内部留保としてため込んでいるのも問題だ。なぜ何百兆円ものお金をため込むことができるのか。それは法人税率の低さと、非正規雇用という企業にとって実に都合のよい雇用制度に要因がある。大企業には、経費を抑えるための(収入を増やすための)国家ぐるみの構造的カラクリが用意されているのだ。 それらを野放しにしたままで、一律公平な消費税によって福祉の充実と財政の健全化を図るというのは、はっきり言って筋違いだろう。不足する税収入を負担すべきは、これまで優遇されてきた富裕者や大企業なのだ。企業を儲けさせれば、トリクルダウンによって庶民の暮らしもよくなるというアベノミクスの初期の主張が幻影だったことは、もうとっくに証明済み。「全国津々浦々まで繁栄の果実を届ける」という安倍の言葉の、なんと寒々しく虚空に響いていることか。 ならば、国の基である庶民の暮らしを本当によくするためには何をしないといけないのか。その根本の問題を、もう一度冷静な目で考え直す必要がある。 企業の繁栄が何よりも大事。それこそが、資本主義と自由主義の根幹であり理想なのだという、こういう発想は捨てないといけない。あるいは、企業がうまく回らなければ庶民の暮らしも回らないではないか。こういうありもしない幻覚的恐れも捨てないといけない。その幻覚にとらわれているかぎり、人間本来の幸福な暮らしは、底知れない沼に投げ捨てられて顧みられなくなる。 こうした幻覚を捨てることは安倍政権にはできないだろう。自民党政権にはできない。なぜなら自民党政権と大企業には、がっちりとタッグを組んだ運命共同体的利益相互関係が、容易には崩れない頑強さで存在しているのだから。 庶民の暮らしをよくするための方策は、新たな発想に立った新たな政権に期待するよりない。いつまでも弱者が泣き寝入りしていてはいけないのだ。立ち上がらないといけないのだ。新しい政権を庶民の力で作らないといけないのだ。 |