2018年6月19日
 全身性アミロイドーシスという、血液のガンの一種とされる不治の病を宣告されて2年あまり。この間、幸運に恵まれた一部の先例を見ては、長生きできるかもと楽観したり、ひっそりと亡くなっているはずの多くの患者のことを思っては悲観したりと、気持ちの揺れは日々激しい。

 だが、近ごろ、生と死に関して達観できる境地になってきた。いま私は70歳を迎えたばかり。若い人から見れば十分な老人だが、真の老人から見ればまだまだ若い。中途半端な団塊の世代だ。

 世の中には私の年齢にも達しないで亡くなった人のなんと多いことか。信長は49歳、秀吉は62歳、家康はやや長生きして75歳だが、福沢諭吉は66歳、西郷隆盛は49歳、伊藤博文は68歳、リンカーンは56歳、正岡子規は35歳、夏目漱石は49歳、芥川龍之介は35歳、太宰治は38歳、寺山修司は47歳、坂本九は43歳。最近では西城秀樹の63歳。

 そんな偉人ばかりを列挙して、私のような凡人中の凡人といったい何の関係があるのかと、まあそんなつれないことは言わないことにして、要は、いつ死んでも悔いのない覚悟がようやくできたということなのだ。

 偉人であろうが、凡人であろうが、いつかは死ぬとわかったわけだ。永遠に生きる人などいはしない。どこかで必ず死という究極点を迎えるのだ。恐れる必要などさらさらない。誰もが通った道なのだ。

 卑弥呼が今の時代まで生きていたとしたら、それこそ地獄だ。彼女も死んだのだ。それが人生なのだ。

 この歳になって、それが厳然と見えてきた。わが覚悟として受け入れられる気分になってきた。死を受け入れる。なんとつらいことだ。だが、もしそのときが明日来ても、今の私なら受け入れられるだろう。

 若いころには自分の死が見えなかった。未来は永遠に続く道でしかありえなかった。10年後、20年後、30年後、そんな言葉を平気で使っていた。それははるかに遠い未来、そして永遠にありつづける未来であった。人生に滝つぼが待ち受けている現実など、想像することもできなかった。

 50歳で潰瘍性大腸炎と敗血症の合併症に苦しめられて死の淵に立たされた私だが、なんとか回復した日の日記を読んでみても、人生ようやく半ばを迎えたとの気楽な感想があるのみだ。百まで生きる道の折り返し点にすぎないと、先はまだまだ茫漠としていた。

 不治の病に冒されて、一年後、二年後の「生」がはたしてあるかという土壇場に立たされた今、生きている喜びが今ほど楽しく充実していることは、いまだかつてなかった気がする。

 どれだけの日数が残されているか知れない人生で、やるべきこと、やりたいことを悔いなくやり終えておこうという強い意欲と喜びが、かつてない勢いで湧き上がっている。

 私にとって、人生の楽しみは、文章を書くこと、絵を描くこと、本を読むこと、散歩をすること、そしてそれらを通して、自然と人生をしみじみと味わうこと。そんなところか。

 残された時間がロウソクの火のように刻一刻と短くなっているのを実感する今、楽しみは文章を書くことにもっぱら集中したくなっている。

 いま熱心に書いているのは、父と母の青春記とも呼びうるものだ。15年前、91歳と86歳で死んだ父と母だが、彼らの青年時代、つまり戦争さなかの青年時代を、なんとか子供の私の手で書き残しておきたい。そんな気持ちになっているのだ。

 戦後生まれの私には、戦前、戦中を生きた彼らの生の姿を見ることはできない。それだけに苦しい仕事ではある。だが、集められるかぎりの資料を集め、遠い昔、彼らから聞かされた話を精いっぱい思い起こし、フィクションではない実在物として、彼らの青春時代を語ってみたいと思っている。

 それがいま一番の楽しみである。

 それが終われば、というより、ほとんど同時進行で、自分のことも書いている。こちらは過去の日記と「坊っちゃんだより」をたたき台にした自分の体験だから、はるかに書きやすいし、楽な仕事だ。

 どちらもとりあえずまとまれば、本として出版したいと考えている。はたしてそこまでこぎつけられるかどうか。まあ、人生の夢、かなわぬ夢というやつだ。



 先日、車で30分ばかりの白糸の滝まで行ってきた。120年あまり前、28歳の漱石が、当時はまだ平井駅までしかついていなかった汽車に乗り、あとはてくてくと、途中一泊して登った滝だ。恥ずかしながら、私は登ったことがなかった。28歳の漱石なら楽な山でも、70歳の私と妻にはなかなかきつい山道だった。久しぶりに森林浴を楽しんだ。途中にみごとな菖蒲園もあった。

2018年6月3日
 血液のガンという、死にいたる厄介者でありながら、それまで他人ごとにすぎなかった病気が、まさか我が身に降りかかるとは。青天の霹靂だった。主治医に病名を告げられたのが2016年5月25日。2年前だ。

 はじめのうちは、ベルケイドという抗がん剤を週に一度ずつ皮下注射することを4週続けては、1週休むというサイクルをくり返した。これが1年あまり続いた。去年の夏には、異様に高かった病気の指標が半分の値にまで下がった。そこでいよいよ秋、造血幹細胞の自家移植という、決定的治療に踏み切ったのだった。そのとき私は69歳。移植のできるぎりぎりの年齢だった。
 結果、指標値は正常値の範囲内まで下がった。寛解期に入ったとの診断だった。

 寛解期になると、治す治療から、現状を維持する維持療法に移行した。維持療法では、アルケランという抗がん剤を月に一度、4日連続して飲むサイクルをくり返す。4日連続でアルケランを飲むと、手足のしびれがひどく、体もけだるくなって、何をする気も起こらなくなる。しかし、せいぜい一週間ほどでそれは治まり、その後は次のアルケランを飲むまで、何ごともなく平穏に元気に生活できる。
 手足のしびれや体のだるさは、薬がガンと闘ってくれている証拠。そう思えば、なんということはない、堪えられる。

 先日、同種の病気を抱える人たちの「患者会」というのに参加した。
「移植からもう5年になるけど、ほれ、こんなに元気です」
「もう10年以上になります。毎日1時間の散歩を欠かさず、まだまだ長生きできそうです」
 出席していた10人あまりの人たちは、みな異口同音にこうした話をされるのだった。先行きが不安でならなかった私は、みんなこんなに長生きしているのかと、なんだかほっと安堵した。

 だが、帰ってから冷静に考えてみて、あれっ、なんかおかしいぞと気がついた。「5年生きました」、「10年生きてます」と言っている人たちは、途中で倒れていった多くの仲間たちを踏み台にして(とまでは言わないが)生き抜いた奇跡の人にすぎないのではないのか。途中で倒れた人たちは、そもそも患者会になど参加できるはずもなく、生き抜いた少数精鋭の人たちだけが患者会に出席しているのではないのか。

 これはちょうど、戦争帰還者の話を聞いているのと似ているなとも思った。彼らは戦場で次から次と危機的場面をくぐり抜けた奇跡のような話をされるけれども、実は彼らの背後には、奇跡に恵まれることなく倒れていった、何倍も、何十倍も、いや何百倍もの戦友たちがいるにちがいないのだ。

 今から戦場におもむこうとしている私が、生き残った人たちだけで作る戦友会に出席して、「なんだみんなこうして生き残れるのか。私も当然彼らのように生き残れるだろう」と安易に考えたとしたら、それはあまりに呑気すぎる話ということになる。生き残って戦友会に参加できる人は、せいぜい百人に一人いるかいないかだろうから。

 実際、全身性アミロイドーシスをネットで調べてみると、「治療をしても予後不良」、「平均余命は2,3年」などという、目の前が真っ暗になるようなおぞましい記述が次々に出てくる。これが偽らざる真実なのだろう。5年も10年も、あるいはそれ以上も、元気なまま生きつづけている人たちは、戦場で無数の弾丸をくぐり抜けた奇跡の人にすぎないのだろう。

 患者会から帰ってきた晩、それに気づいて、楽観が悲観へと一転した私だったが、そうは言っても、私の場合、病名を宣告されてからすでに2年が過ぎている。この間、悪化の兆しはまったくなかった。従前と変わらず元気だった。
 この調子なら、過去の2年間を、これから先の2年間にそのまま継続させることも不可能ではなかろう。それで4年が過ぎたなら、その4年をさらにその先の4年に継続させることもできるのではないか。これをくり返していけば、10年だって20年だって生きられる。20年生きればもう九十だ。九十での死なら受け入れてもよい。天命だ。
 考えるうち、ふたたび自信がよみがえってきた。
 なんと単純馬鹿な私だろう。

 散歩していると、初夏の兆しがきらきらとまぶしい。
 甘い香りを放っていたミカンの花はもう散った。芯の部分にぷちっと小さく実がふくらんでいる。
 ついこの間まで、田園はどこも麦がたわわに実り、黄金色の海が視界のかぎり広がっていた。麦秋だった。それが数日前、あれよあれよと刈り取りが始まり、刈り取られたと思ったら、すぐさま麦焼きとなった。切り株が焼け焦げる酸っぱいにおいがあたりを包み、空も山もかすんでしまった。

 それが済むと、一休みする間もなく、今度は田植えの準備。土を鋤きならす。真っ黄色な海だった田園が、たちまちにして、土色の真っ平らな大地に変わっていく。土色の大地は、なんだか太古に戻ったようで、私は好きだ。
 やがて大地に水が張られ、田植えが始まる。水が張られる時期は、地域により、集落により、まちまちだ。十日も二週間もちがいがある。これは稲の種類にもよろうが、水利権の問題もあるのだと思う。川から田に水を引く順番が決められているのだ。早いところでは、もう水を張り終え、田植えが始まっている。わが家の近辺は、まだまだ土色の真っ平らな大地のまま。




 季節の変化はまだまだある。タチアオイが背丈よりも高く伸び、みごとな花をつけはじめた。花の色は実にさまざま。深紅、赤、ピンク、黄色、淡い黄色、白……。微妙な色合いは、とても言葉で言い尽くせない。中には青いのもある。
 タチアオイは夏の花というより、初夏の花だ。七月中旬、夏が盛りを迎えるころには、元気をなくして、萎んでしまう。
 アヤメか花菖蒲かカキツバタか、見分けは私にはつかないが、初夏をいろどるその手の花も、しっとりとした色合いで咲き競っている。

 季節は晩春を置き捨てて、今やすっかり初夏模様だ。
 日が長くなった。夕陽のなんと美しいこと、あでやかなこと。大地をあたたかな空気で包みこみ、音も立てずに、あたりはいつしか暮れていく。

 生きていてよかったとつくづく思う。いつ悪化するかしれない肉体を抱え、生あるうちに為したいことを精いっぱい為そうと、日々机に向かう私だ。読みたいものを読み、書きたいものを書く。それが何よりの楽しみだ。
 夕方には3,40分の散歩。散歩から帰ると、柔軟体操、スクワット30回、つま先立ち30回。入院中のリハビリで学んだこうした軽い筋力トレーニングも楽しみの一つだ。


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