2018年4月15日
 前回のブログが2016年2月25日。2年あまり前だ。あれから思わぬことがいろいろ起こり、ブログは休止状態になっていた。

 一つは、中学時代からずっと私の囲碁の師匠でありつづけた母方の叔父が、前回のブログのわずか2日後、96歳で大往生を遂げたこと。そのこと自体は、十分に生き尽くした後の往生だから、別に大きなショックではなかった。しいて言えば、人というのは相応の歳が来れば、やはりおのずと死を迎えるものなのかと、人間の人間たるゆえん、生けるものの生けるものたるゆえんを実感させられたことくらい。つまり「哀れ」を実感したわけだ。これは、人生の局面局面における個別の哀れを言っているのではない。人間という存在に付随する哀れ、普遍的哀れ、逃れることのできない摂理としての哀れとでもいうもの、それを実感させられたということだ。

 そんなことがあった数日後、今度は犬が死んだ。ひところわが家には4匹の犬がいたが、私が定年になったのち、一匹死に、二匹死に、三匹死にして、ついに最後の一匹になっていた。死んだ犬はどれも長年飼ってきた家族同然の犬だった。毎日彼らと散歩し、ときにはジョギングの供ともなってきた犬たちだった。ずいぶんな歳で、どれも言ってみれば老衰死だった。最後に残っていた四匹目が、叔父の死から数日後、予兆もなく、突然あっけなく死んだのだった。この犬だけは、老衰というには早すぎた。人間でいえば50歳といったところ。

 実は、その犬を連れてよく叔父さんの家を訪ねていた。叔父さんになついていたのだ。どうもそこに何かがあるのではないかと、私も妻も、どうしても考えざるをえないような死に様だった。叔父さんが呼んだのか、それとも犬の方が叔父さんのもとに駆け出したのか。そうなんだ、犬は死ぬ前、妻に抱かれたまま、パタパタと、いかにも駈けているかのごとく何度も足を動かしたのだった。その後に、ふっと遠くに飛び去ったかのように、静かに息をしなくなって死んでしまった。死に顔は平穏だった。

 死因は心臓発作ではないかと、死にいたる数分の様子を獣医師である娘に電話で話すと、娘は言ったのだったが……。

 でもきっと何か、目には見えぬ力が働いたのだと、私はやはり考えてしまう。

 しかしまあ、この二つの死は、これ以上は語らないでおこう。考えても何もわかりはしない。

 三つ目は、私の身に起こったことだ。犬が死んでひと月あまりしたころ、たまたま受けた検査で、ある数値が異常に高いと診断され、なんと、思いもよらない血液腫瘍内科というところに回されてしまった。

 ただちに精密検査が始まった。何日も何日もかけて、ときには検査入院までして、血液のみならず、全身のあらゆる臓器が、レントゲンだ、エコーだ、CTだ、生検だと、隅から隅まで調べ上げられた。もうこれ以上の検査はないというまでに調べ尽くされた結果、主治医から告げられたのは、全身性アミロイドーシスという、およそ聞き覚えのない病名だった。

 さりげなく、ほんとうに風のようにさりげなく、「血液のガンの一種です」とも告げられた。「症例はきわめて少なく、研究が十分に進んでいない難病です」とも。

 心に備えのなかった私には、何を言われても、言葉はただ耳をかすめて吹きすぎるだけ。自分の身が語られているとは、不思議にも私は、まったく想像することができなかった。ぼんやりと他人事のように聞いていた。そう、まさしくすべてが他人事だった。他人事として、主治医が紙に書きながら説明してくれる病気の概要を、まるで大学で講義を受けてでもいるように、淡々と聞いていたのだった。

 帰宅してネットで病名を検索してみた。愕然とした。ぞっとするようなおどろおどろしい言葉が並んでいた。「平均余命は1年半」、「2年生存率は50%にも満たない」、「治療をしても予後不良」、……。

 一人机に向かい、2年後の世界に自分はもういないのかと想像してみたとき、涙がいきなりポロポロとあふれ出し、止まらなくなってしまった。悲しいというより、悔しかった。いや、怖かったのだ。怖くて怖くてしかたなかった。

 難病ではあるが、いや難病であるからこそ、研究は世界的に急速に進んでいるようだ。ぞっとするような言葉やデータは一昔前のものだろう、半昔前かもしれないけれどと、自分で自分に勝手に言い聞かせることにした。

 今は、比較的安定した寛解状態にもっていく治療法が確立しつつあるらしい。実際、私もそれを受けた。「造血幹細胞の自家移植」という処置だ。

 最初にまず自分の造血幹細胞(あらゆる種類の血液細胞に分化する能力を持つ細胞)を採取し、その後に、大量の抗がん剤によって、血液中のある種の細胞を、ガン化しているものもいないものも、皆殺しにしてしまう。そうした後に、採取しておいた自分の造血幹細胞を体内に移植して、血液をゼロから新しく作り直す。とまあ、図式化して言えばこういう処置だ。人間というのはよくもまあこんなことを思いつくものよと、そら恐ろしくなるような、なんともすさまじい処置ではあった。大量の抗がん剤を使うので、手足がピリピリするほどしびれて痛み、下痢や高熱やけだるさにも、必死の思いで耐えないといけない。

 それでも結果はまあ成功だった。その後は、別段どこといって悪くなることもなく、「2年後にはこの世界にいないかもしれない」と考えたその2年も、間もなく過ぎようとしている。いまだに元気に生きているから、不思議なことだ。ありがたいことだ。

 もちろん完治はありえない病気である。今はおだやかな寛解期にあるとはいえ、いつまた悪くなるか、それは誰にもわかりはしない。今度悪くなったら、歳からいって再度の移植にはもう耐えられないだろう。半ば観念しつつ、しかし不安は気力で払拭しながら、とにもかくにも生きている毎日なのだ。

 あの犬が身代わりになって先に死んでくれたのかもしれないねと、妻がいつもよく言っている。

 ブログをまたぼちぼちと始めようかと思う。

2018年4月27日
 全身性アミロイドートスと告げられて、そろそろ丸2年だ。

 あのころぼくは、ひたすら元気だった。ほんとに懐かしいよ、あのころが。ほんとに、ほんとにね。知らぬが仏で、毎日、城山に登り、プールで泳ぎ、ウオーキングを楽しんでいたんだから。なんだか遠い昔に思えるな。

 病気だと知らされたのは、まったくもって偶然の賜物だった。そう、賜物なんだよ! 知らずにいたら、今ごろぼくは、もう命つきていたかもしれないんだから。アミロイドーシスというのは、実に危険でやっかいなやつだ。手遅れになれば、たちまちにして死を招く。早い段階で発見できたのは、ひとえに偶然の女神の気まぐれのおかげ。そう思って、ただ感謝、感謝だ。

 その偶然というのは、こういうわけだ。

 年に一度の健康診断を、在職中は職場でやっていた。退職すると、市が補助してくれる特定健康診断と呼ばれるもので受けることになった。ぼくはそれを毎年3月、S病院で受けてきた。ここ何年か、肝臓や腎臓に軽い異常があるらしく、「要精検」なる文字が記されるようになった。

 しかし、気にかけることもなく、「要精検」をぼくは事実上、無視し通した。

 そしていよいよ2年前の4月。持病の潰瘍性大腸炎を診てもらっているU病院で、大腸と胃の内視鏡検査をしてもらった際、なぜかふと「要精検」が頭に浮かんだのだった。それじゃまあついでにと、腹部エコーと、さらにはCTスキャンをしてもらった。

 結果、肝臓と腎臓に目立った異常はないけれども、胆のうに泥がたまっていると言われた。それ自体は放置しても問題はないものらしい。だが、ガン化したときなどに泥があると発見が難しいから、治すなら治した方がいい、その方法は胆のうの切除だと言われた。

 「どうしますか」と聞かれ、「じゃあ切除します」と答えると、「うちの病院ではできないので、県病院を紹介しましょう」となり、私の教え子であり、その分野の専門家でもあるH先生を紹介してもらった。

 さてそこで、舞台は県病院となる。卒業後もずっと親しくしてきたH先生は、検査結果を見るなり、「先生、今は胆のうどころの話じゃないですよ。腎臓ですよ、腎臓」。

 こうして腎臓内科に回された。再び検査。その結果、「これは腎臓の問題ではないですね。血液の問題のようです」。さらに血液腫瘍内科というところに回されたのだった。

 次から次へとたらい回し。だが、大事な大事なたらい回しだった。事の真相へと一歩一歩と近づいていくたらい回しだった。

 血液内科に行くと、いよいよ大がかりな検査が始まった。これでもかこれでもかと、徹底的に全身の全臓器が何日も何日もかけて調べ上げられ、挙げ句に告げられたのが、全身性アミロイドーシス。「血液のガンの一種です」と言われ、「症例の少ない難病です」とも言われた。

 家に戻ってネットで調べた。「治療をしても予後不良」、「余命はせいぜい1,2年」。こんな言葉が渦のように逆巻いている。目の前から光が消えた。一人机に向かって男泣きに泣いてしまった。

 その後、抗がん剤の投薬や、造血幹細胞の自家移植という治療を受けた結果、いまは比較的落ちついた寛解状態になっている。当座の命の危機は去ったわけだ。ありがたいことだ。

 それにもしろ、たまたまU病院で「要精検」を思い出したこと、エコー検査を受けたこと、「どうしますか」と聞かれて「切除します」と答えたこと、胆のう切除の紹介状を県病院に書いてもらったこと、H先生の適切な判断で直ちに腎臓内科に回されたこと、腎臓内科の判断ですぐさま血液内科に回されたこと、血液内科でいきなり大検査が始まったこと。これらはすべて、なるべくしてなった必然の流れと言えば言えるが、一つ一つは、やはり偶然だった。偶然の積み重ねだった。不思議な不思議な偶然の積み重ねだった。

 どの段階が抜け落ちても、全身性アミロイドーシスという病気は発見されなかっただろう。つまり、ぼくの肉体は、危険にさらされたまま、気づかぬうちにむしばまれ、とことん悪くなって初めて自覚症状に苦しみはじめ、そのときには時すでに遅く、今ごろはもうこの世とおさらばしていたかもしれないのだった。

 人は自分一人の力では生きられない。多くの人の力と、ときには偶然の手まで借用して、生かされて生きているのだ。そのことをつくづくと、しみじみと、ありがたく実感させられるのである。

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 今日は家の前のミカン畑から、まだ蕾なのに、花の香りが漂い始めた。すがすがしい初夏の香りだ。すーっと深呼吸すると、生きている喜びが体の芯まで染みこんでくる。

 ツツジは今を盛りと咲き誇っている。アヤメだろうかカキツバタだろうか、五月の花もあちらこちらで色づきはじめた。近くの神社の鎮守の森は、新緑が発するみずみずしい香りで、ああ、息がつまりそう。蚊柱が立っている池の土手では、ツバメが十数羽、チーチー鳴き交わしながら、喜々として飛び回っている。

 みんな生きているんだ。ぼくも生きているんだ。これが生きているってことなんだよな。

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